このところ来客や外出が多く、電話やメールの機会も増えました。私には世間にふれる有難い機会ですがブログを書く時間がとれず、また、小さな菜園は紋白蝶の大養殖場となってしまいました。 この間に色んなコメントをいただき、ブログのあり方も再考させられました。情報広場を標榜する私としては、このあたりでひと言、率直な感想を記述しようと思います。
これまで誹謗、中傷を採否の尺度とし、投稿されたコメントのほとんどを掲載してきました(約300件のうち削除したものは4件で「掲載率」は約99%)。数あるコメントの中には私の考えと相反する意見や表現があるのは当然ですが、それらもそのまま掲載してきました(関係者の心中を想像して重い気持ちで掲載ボタンをクリックすることもあるのです)。
ところが今回は削除コメントが一挙に5件あり、高い掲載率を少し押し下げることになってしまいました。ここで削除の理由にふれておきます。
削除コメントその1(過激な表現)
来年度予算に関する投稿に対する質問コメントをいただきました。「補正予算を予定せざるを得ない当初予算の編成はおかしい。補正が不可避ならばその財源もあるはずだ。越市長の目的は選挙前の見せかけの歳出削減ではないか。」という指摘までは問題なかったのですが、続けて越市長に関する不穏当な形容詞があり、掲載を見合わせました。単語一つで全文削除です(もったいない)。
前にも申し上げたとおり私がコメントを編集することは不可能ですし、たとえ可能であっても許されないことです。なお、この方のご意見については私もまったく同感です。
削除コメントその2(実名入り)
越市長の出馬意向を受けた政党などの動きに関する報道をもとに意見をのべておられるコメントがありました。またそれに関連して、ある国会議員の言動について元県会議員が語ったという情報を紹介しておられました。議員および元県議の実名が出されており、公的な議員活動ではない部分への言及であったこと、当事者の了解を得ていると思われなかったことから削除しました。
削除コメントその3(選挙がらみ)
市長選挙の候補者の選定経過などに関する大変興味深いコメントがありました。誹謗、中傷には該当しないのですが推測が含まれているうえ、候補者の活動に何らかの影響を及ぼす可能性があると考えて削除しました。
削除コメントその4(選挙がらみ)
市長選候補者の氏名を挙げてその方に寸評を加えた上、私(茂呂)に対し、越市長と比較してどう評価するか見解を述べて欲しいとのコメントがありました。削除した理由は上に同じです。
すなわちコメントに記されていた寸評が、候補者の活動に何らかの影響を及ぼす可能性があると考えたことによります。
また、このブログは私がよく知り、責任をもって発言もできる大津市政(特に越市長の市政運営)をテーマとしていますが、他の候補者についてはここまで深くは知りません。
従って、いずれにしてもきちんとした比較検討になりえないと思います。
候補者に関して自由に意見を述べることは、選挙妨害でない限り私にも投稿者にも許されることだと考えます。
しかし、私はこのブログで「いま、現に行われている市政の問題点」を広く知って頂くことに力を入れています。
一方、候補者の政策や約束は未来に関する話です。候補者の主張はとても重要であり私も深い関心を持っています。それでも私には「今の重苦しい現実」と「未来の可能性の話」を同じ土俵で論評する気持ちにはなれません。
削除コメントその5(混乱の回避)
公文書消滅事件(庁内メールにて配信された部局長意見集が昨年6月に一斉消滅し、消滅寸前に印刷した分は回収されたという出来事)について、刑事告発すべきであるというご意見を同一人物と思われる方から2、3回にわたり頂きました。
刑法258条や刑事訴訟法を援用して個人の見解が理路整然と述べられており、誹謗、中傷に該当するものではありませんでした。
しかし、「これは人為的な操作によるものでシステム上からも痕跡が消されている」との前提に立った見解であり、内容の詳細をそのまま掲載することは混乱を招くと考えて削除しました。
この方は、掲載されないと分かると修正して再三コメントされたのですが、私の判断で最終的なコメント(10月28日投稿分)のみ掲載しました。
このなかで「何度か投稿したが承認されなかった」と書いておられるので、読まれた方は、茂呂がこっそり意見を握りつぶしているのかと思われたかもしれません。こうした経過説明を兼ねてここで記述しておきます。
ここで公文書消滅事件に関連して越直美市長に再度申し上げます。
私の姿勢は「確証がないため静観」ですが、越市長も「静観」では困ります。
「消滅」にしても「消去」にしても、コンプライアンス上重大な問題です。職員の声に耳を傾けると発言された市長の責任にも関わる出来事です。
不祥事や不明事を調査し、厳しく処分し、速やかに公表することは、越市長の基本スタンスでしょう。この件に限って頬かむりすることは、誰よりもまず越市長ご自身が許せない筈です。
説明責任は越市長にあります。越市長もこれを自らの宿題であると考えておられる筈です。
もし次の選挙で信を問うならば、宿題を片付けることが先決だと多くの市民は思われるのではないでしょうか。物は消せても記憶は消せません。
その他掲載したコメントに関して。
職員を名乗る方から、補正前提の当初予算編成への疑問を呈するコメントがありました。実は同様の話を他からも聞いています。財政状況が厳しいことは百も承知ですし、関係職員はいかに削るかに腐心しているでしょう。
しかし、平成28年度当初予算を無理を承知で小さくしておき、予め分かっていた不足分を年度途中の補正で補うことがもしあるとすれば、行政への信頼に背く行為であると思います。さらに事務的なロスや職員のモチベーションの低下に直結します。あってはならないことです。
とは言えまだ予算編成の途中であり、「一時的な観測結果」であると受け止めたいと思います。
実際にはどのようになっていくのでしょうか。
以上、最近の所感を述べました。削除コメントの投稿者の方々には、こうした次第をご理解いただき、引き続き情報広場にご協力くださいますようお願い申し上げます。
次回から市大津市政に話をもどしていきたいと思います。
大津のまちの歩みをざっと振り返った上で、市政の懸案事項などを考えたいと思います。
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2015/10/31
2015/10/26
47) 二元代表制への期待
ここまで越市長が組織の長にふさわしいか、大津市長に適任かという問題意識からいろいろ記述し関係資料も掲載してきました。これに対して多数のご意見(本日現在298件)を頂きましたが、そのほとんどが越市政への疑問や懸念を表明するものです。
しかし、越市長に問題ありと考える人々が多くても、越市長が選挙で選ばれた正当な代表者であるという事実は変わりません。
一方の市民代表が大津市議会です。
これら二つの代表の並立とバランスにより民意の反映が図られていますが、今回は二元代表制への期待について記述します。
折も折、越市長が複数の会派に推薦依頼をされたとの報道がありました。私が会派の動向について申し上げることはありません。1月の選挙において、真に大津のためになる選択がなされるものと思っています。
大津市政 23 (二元代表制への期待)
しかし、越市長に問題ありと考える人々が多くても、越市長が選挙で選ばれた正当な代表者であるという事実は変わりません。
一方の市民代表が大津市議会です。
これら二つの代表の並立とバランスにより民意の反映が図られていますが、今回は二元代表制への期待について記述します。
折も折、越市長が複数の会派に推薦依頼をされたとの報道がありました。私が会派の動向について申し上げることはありません。1月の選挙において、真に大津のためになる選択がなされるものと思っています。
大津市政 23 (二元代表制への期待)
大津市政 23 ~二元代表制への期待~
市長と議会がそれぞれ行政権と立法権を分担して相互抑制と均衡を図りながら自治体を運営する二元代表制は、衆愚政治におちいる危険をもつ民主政治の安全装置でもあるでしょう。
そして市長が一人であるのに対し、集合体である議会は、多様性をもつ議員相互の活発な議論を通して高められた「集団の知」をもって一人の市長に対峙しますが、この点に制度の妙味があると思います。
大津市議会で会派横断的に設置されている政策検討会議はこうした趣旨を踏まえたものであり、そこから政治倫理条例、いじめ防止条例、議会業務継続計画、議会基本条例など注目すべき成果が生まれました。
これまで大津市議会は、二元代表の一翼として越市長と向き合ってきましたが、相互の信頼関係(個別の見解の相違を超えた相互尊重の念)は、越市長就任後4年ちかくたつ今も十分といえない状況です。
これは、越市長が、意見対立の打開策として「丁寧な対話や議論」よりも「対立構図のアピール」を選ぼうとすること(さきに指摘した劇場型スタイル)や、執行部内で強引な組織運営を行っていることに対し、議会が警戒や不信の念を抱いていることに大きな原因があると考えます。
一方、議会では、越市長の政治姿勢や政策に関する多くの質問が出され、本会議や委員会において越市政に関する議論が活発に行われてきました。時には、私の在任中の見聞のかぎりですが、大局を見ず細部にこだわった質問が出されたり、本質をはずれた議論に終始するなどといったケースもなきにしもあらずでした。
こうした中、平成25年8月と9月の2回にわたって、実に30年ぶりに総務・教育厚生連合審査会が開催されました。これは、いじめ事件の第三者委員会の報告書を受けて教育委員会と中学校が作成した検討結果報告書が同年7月25日に越市長に提出されたのですが、それを越市長が事前に外部の利害関係者に渡していたことは漏洩の疑いがありコンプライアンス上問題があるのではないかとして開催されたものです。
審査会では、報告書の提出日をめぐって市長と教育長の間で見解が異なっていたことや、連携が図られていないことが追及され、最後に審査会委員長は、「市長は地方自治体を代表する立場を再認識され、各執行機関との連携を密にした市政運営に当たられたい」と市長の姿勢をただされました。
これは異例ともいえる重大な指摘であったはずですが、越市長の今日までの言動を拝見する限り、この指摘が身に沁みたとはとても言えない状況です。
その後も、本会議において度々、越市長のコンプライアンス等について重要な質疑・質問が出されており、その回数は歴代市長に比べずっと多いことからも議会の問題意識は明確であると考えます。
一方で、それに向き合う越市長の対応は、とても真摯なものであるとは思えません。
答弁もたいてい棒読み調で、言葉に心と力がこもっていません。「政治は言葉だ」と言いますが、これが議員の背後にいる多数の市民を見つめての答弁であろうかと疑問に感じるところです。
政治家として、質問の趣旨に正確に対応した丁寧な答弁に心掛けるべきだと考えるのは私だけでしょうか。
同時に、これを質す議員の言葉の力も問われていると思います。偉そうな言い方でまことに恐縮なのですが、現場を退いてもっぱら市民の立場になった今、国、県、市の議会中継を見て痛感するのは言論の府における言葉の力の重要性です。
さて、越市長の任期の3年9か月が過ぎました。
この間、越市長は精力的に務められたと思いますが、一人で仕事はできません。
多くの職員に支えられ、議会からの監視、注意、牽制、激励、協力を受け、市民や事業者の多大なる貢献にあずかり、関係機関から支援を受け、災害時には近隣市町の協力も受けながら、ここまでやってこられました。
そしていま、市民は(特に市政に関わるの深い人々は)、越市長がどのような市長であるか、今後どのようになっていくのかについて、しっかりと見極めるべき時期を迎えたとのではないでしょうか。
大津市民の代表である大津市議会は「2013マニフェスト大賞 議会グランプリ」を皮切りに3年連続で優秀賞や特別賞に輝いている地方自治の専門家集団です。
大津市政の重要な局面にさしかかった今、議会の役割である監視機能や政策立案機能が十二分に発揮されること、また、議員各位におかれても市民に向けた市政の情報提供などがしっかり行われることを信じており、祈りもしたい気持ちです。
より多くの市民がより正しく知り、考えていくことが大津のまちを良くすることに繋がります。
そのためにも大津の二元代表制が機能してより良いまちづくりが進むことを多くの市民が期待していると思います。
そして市長が一人であるのに対し、集合体である議会は、多様性をもつ議員相互の活発な議論を通して高められた「集団の知」をもって一人の市長に対峙しますが、この点に制度の妙味があると思います。
大津市議会で会派横断的に設置されている政策検討会議はこうした趣旨を踏まえたものであり、そこから政治倫理条例、いじめ防止条例、議会業務継続計画、議会基本条例など注目すべき成果が生まれました。
これまで大津市議会は、二元代表の一翼として越市長と向き合ってきましたが、相互の信頼関係(個別の見解の相違を超えた相互尊重の念)は、越市長就任後4年ちかくたつ今も十分といえない状況です。
これは、越市長が、意見対立の打開策として「丁寧な対話や議論」よりも「対立構図のアピール」を選ぼうとすること(さきに指摘した劇場型スタイル)や、執行部内で強引な組織運営を行っていることに対し、議会が警戒や不信の念を抱いていることに大きな原因があると考えます。
一方、議会では、越市長の政治姿勢や政策に関する多くの質問が出され、本会議や委員会において越市政に関する議論が活発に行われてきました。時には、私の在任中の見聞のかぎりですが、大局を見ず細部にこだわった質問が出されたり、本質をはずれた議論に終始するなどといったケースもなきにしもあらずでした。
こうした中、平成25年8月と9月の2回にわたって、実に30年ぶりに総務・教育厚生連合審査会が開催されました。これは、いじめ事件の第三者委員会の報告書を受けて教育委員会と中学校が作成した検討結果報告書が同年7月25日に越市長に提出されたのですが、それを越市長が事前に外部の利害関係者に渡していたことは漏洩の疑いがありコンプライアンス上問題があるのではないかとして開催されたものです。
審査会では、報告書の提出日をめぐって市長と教育長の間で見解が異なっていたことや、連携が図られていないことが追及され、最後に審査会委員長は、「市長は地方自治体を代表する立場を再認識され、各執行機関との連携を密にした市政運営に当たられたい」と市長の姿勢をただされました。
これは異例ともいえる重大な指摘であったはずですが、越市長の今日までの言動を拝見する限り、この指摘が身に沁みたとはとても言えない状況です。
その後も、本会議において度々、越市長のコンプライアンス等について重要な質疑・質問が出されており、その回数は歴代市長に比べずっと多いことからも議会の問題意識は明確であると考えます。
一方で、それに向き合う越市長の対応は、とても真摯なものであるとは思えません。
答弁もたいてい棒読み調で、言葉に心と力がこもっていません。「政治は言葉だ」と言いますが、これが議員の背後にいる多数の市民を見つめての答弁であろうかと疑問に感じるところです。
政治家として、質問の趣旨に正確に対応した丁寧な答弁に心掛けるべきだと考えるのは私だけでしょうか。
同時に、これを質す議員の言葉の力も問われていると思います。偉そうな言い方でまことに恐縮なのですが、現場を退いてもっぱら市民の立場になった今、国、県、市の議会中継を見て痛感するのは言論の府における言葉の力の重要性です。
さて、越市長の任期の3年9か月が過ぎました。
この間、越市長は精力的に務められたと思いますが、一人で仕事はできません。
多くの職員に支えられ、議会からの監視、注意、牽制、激励、協力を受け、市民や事業者の多大なる貢献にあずかり、関係機関から支援を受け、災害時には近隣市町の協力も受けながら、ここまでやってこられました。
そしていま、市民は(特に市政に関わるの深い人々は)、越市長がどのような市長であるか、今後どのようになっていくのかについて、しっかりと見極めるべき時期を迎えたとのではないでしょうか。
大津市民の代表である大津市議会は「2013マニフェスト大賞 議会グランプリ」を皮切りに3年連続で優秀賞や特別賞に輝いている地方自治の専門家集団です。
大津市政の重要な局面にさしかかった今、議会の役割である監視機能や政策立案機能が十二分に発揮されること、また、議員各位におかれても市民に向けた市政の情報提供などがしっかり行われることを信じており、祈りもしたい気持ちです。
より多くの市民がより正しく知り、考えていくことが大津のまちを良くすることに繋がります。
そのためにも大津の二元代表制が機能してより良いまちづくりが進むことを多くの市民が期待していると思います。
2015/10/25
46) 越市長は今後どうなるのか
前回、つまるところ越市長はどんな市長か?というテーマについて私見を述べました。そして「新自由主義的な考えを持つポピュリストであり、自らの発信力を生かした劇場型戦略で政治目的を達成しようとしているところの資質等に問題を抱えた首長」であると指摘しました。
ご本人がご覧になったら「見当違いもはなはだしい」と思われるでしょうか、「だからどうした?人物鑑定より実績判定をしてほしい」と思われるでしょうか。
幾つかコメントをいただきました。
その中に「人気投票」という言葉がありました。確かに、多数の人が限られた情報と時間で一人もしくは少数者を選ぶという選挙の実態と、ポピュリズムや劇場政治の登場には、因果関係があると思います。選ぶ側の眼や報道のあり方も問われていると思います。
「ポピュリズムや劇場型云々より資質の話ではないか」と私の問題意識をただすご意見もありました。政治手法より施策の中身を問うべきであるとの問題提起にも思えます。
私は、政治手法と施策の中身は無縁ではないと思いますし、同様に施策決定のプロセスは施策の中身を左右すると考えています。それはそれとして、投稿者は諸般の根底に資質の問題があると見ておられるようで、私も深く同感するところです。
「市民の二極化」という指摘がありました。近年指摘される「中流層の減少」が背景にあり、大津では子育て世代の転入が多いことも関係があるのでしょう。この方は公的サービスや公の施設の行く末を憂慮しておられます。
繰り返して恐縮ですが、既存の(有形無形の)資産が有する計量しにくい価値を適切に評価する上で独断、拙速は禁物だと思います。
なお、投稿の中で市長選挙に関連して市議会会派や前知事の動向にふれた箇所がありました。勿論これらの方々の心中は私を含めた第三者に知るよしもありません。新聞報道の範囲内であったため掲載しました。それにつけても今後、越市長はどのようになっていかれるのでしょうか。
前回の記事の補足として越市長の今後について検討したいと思います。
大津市政 22 越市長は今後どうなるのか
ご本人がご覧になったら「見当違いもはなはだしい」と思われるでしょうか、「だからどうした?人物鑑定より実績判定をしてほしい」と思われるでしょうか。
幾つかコメントをいただきました。
その中に「人気投票」という言葉がありました。確かに、多数の人が限られた情報と時間で一人もしくは少数者を選ぶという選挙の実態と、ポピュリズムや劇場政治の登場には、因果関係があると思います。選ぶ側の眼や報道のあり方も問われていると思います。
「ポピュリズムや劇場型云々より資質の話ではないか」と私の問題意識をただすご意見もありました。政治手法より施策の中身を問うべきであるとの問題提起にも思えます。
私は、政治手法と施策の中身は無縁ではないと思いますし、同様に施策決定のプロセスは施策の中身を左右すると考えています。それはそれとして、投稿者は諸般の根底に資質の問題があると見ておられるようで、私も深く同感するところです。
「市民の二極化」という指摘がありました。近年指摘される「中流層の減少」が背景にあり、大津では子育て世代の転入が多いことも関係があるのでしょう。この方は公的サービスや公の施設の行く末を憂慮しておられます。
繰り返して恐縮ですが、既存の(有形無形の)資産が有する計量しにくい価値を適切に評価する上で独断、拙速は禁物だと思います。
なお、投稿の中で市長選挙に関連して市議会会派や前知事の動向にふれた箇所がありました。勿論これらの方々の心中は私を含めた第三者に知るよしもありません。新聞報道の範囲内であったため掲載しました。それにつけても今後、越市長はどのようになっていかれるのでしょうか。
前回の記事の補足として越市長の今後について検討したいと思います。
大津市政 22 越市長は今後どうなるのか
大津市政 22 ~越市長は今後どうなるのか~
越市長は、今後、新自由主義的な考えを持つポピュリストとしての傾向を強めていかれるだろうと
私は思います。
その理由は、まず、越市長がこの政治手法でうまく行っていると認識しておられるであろうこと。
いじめ対策、英語教育、待機児童対策、中学校給食の実施方針など市民の興味を引くテーマに絞って専門家の意見を聞きつつスピーディーに進めていく姿勢は確かに分かりやすく、支持を得やすいものではあります。
いじめ対策は世間の注目を集め越市長の看板施策になったうえ、大津の出来事を契機として国でも教育委員会制度の見直しが進められました。英語教育も待機児童対策も長期評価は別として、ともかく現状が動いたわけです。
これらの陰には、施策の重点化に伴うシワ寄せ、現場の混乱、議論不足による内容不備といった見逃せない課題があるのですが、外から分かりにくく、越市長ご自身も気に留めておられるように見えません。
二つ目の理由として、失礼ながら越市長の「耳を傾けない」という資質を挙げさせていただきます。自分が正しいと信じ、かつ、他人の言うことに耳を貸さなければ、路線は変わりようがありません。越市長は、ご自身の市政運営をより良いものにする機会を日々逃しておられる気がして残念でなりません。一方で越市長はご自分なりの努力をされるわけですから、上記の傾向は強まらざるを得ないと思うのです。
このブログでは越市政の様々な側面に光を当て、いくつもの出来事を振り返りました。それに対して実に多くのご意見をいただきました。私はこれらを見直して、多くの事実や意見をつなぐ一本の糸があるように感じます。
今後、越市政の特徴は、良くも悪くもますます顕著なものになると考えています。
「結局は資質の問題ですね」
越市長を知る多くの人々と話す機会がよくあるのですが、たいてい会話の最後に、誰かがため息まじりに口にするのがこの言葉です。
思考パターンや政治的思想などの問題も重要ですが、最も重要なのは「人としての資質」であると実に多くの人が考えています。
最後に、民主主義とは何かを自問し続けている作家高橋源一郎の言葉をご紹介します。
いわく、民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも「ありがとう」ということのできるシステムである。
これは、民主主義の核心を平易に述べた名言であるばかりでなく、対立する利害の調整を誠実に丁寧に行うべき行政の心構えを表す言葉でもあると思います。
そして越直美氏は、残念ながらこの言葉とは縁の遠い市長であると私は考えています。
私は思います。
その理由は、まず、越市長がこの政治手法でうまく行っていると認識しておられるであろうこと。
いじめ対策、英語教育、待機児童対策、中学校給食の実施方針など市民の興味を引くテーマに絞って専門家の意見を聞きつつスピーディーに進めていく姿勢は確かに分かりやすく、支持を得やすいものではあります。
いじめ対策は世間の注目を集め越市長の看板施策になったうえ、大津の出来事を契機として国でも教育委員会制度の見直しが進められました。英語教育も待機児童対策も長期評価は別として、ともかく現状が動いたわけです。
これらの陰には、施策の重点化に伴うシワ寄せ、現場の混乱、議論不足による内容不備といった見逃せない課題があるのですが、外から分かりにくく、越市長ご自身も気に留めておられるように見えません。
二つ目の理由として、失礼ながら越市長の「耳を傾けない」という資質を挙げさせていただきます。自分が正しいと信じ、かつ、他人の言うことに耳を貸さなければ、路線は変わりようがありません。越市長は、ご自身の市政運営をより良いものにする機会を日々逃しておられる気がして残念でなりません。一方で越市長はご自分なりの努力をされるわけですから、上記の傾向は強まらざるを得ないと思うのです。
このブログでは越市政の様々な側面に光を当て、いくつもの出来事を振り返りました。それに対して実に多くのご意見をいただきました。私はこれらを見直して、多くの事実や意見をつなぐ一本の糸があるように感じます。
今後、越市政の特徴は、良くも悪くもますます顕著なものになると考えています。
「結局は資質の問題ですね」
越市長を知る多くの人々と話す機会がよくあるのですが、たいてい会話の最後に、誰かがため息まじりに口にするのがこの言葉です。
思考パターンや政治的思想などの問題も重要ですが、最も重要なのは「人としての資質」であると実に多くの人が考えています。
最後に、民主主義とは何かを自問し続けている作家高橋源一郎の言葉をご紹介します。
いわく、民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも「ありがとう」ということのできるシステムである。
これは、民主主義の核心を平易に述べた名言であるばかりでなく、対立する利害の調整を誠実に丁寧に行うべき行政の心構えを表す言葉でもあると思います。
そして越直美氏は、残念ながらこの言葉とは縁の遠い市長であると私は考えています。
2015/10/24
45)つまるところ越氏はどのような市長か
これまで大津市政の現状報告の中で幾つかの観点から越市長の評価を試みてきました。多くの方からコメントを頂いたおかげで議論が深まった気がします。さて、つまるところ越直美氏とはどのような市長なのでしょうか。
一口に言うと越市長は、「新自由主義的な考えを持つポピュリストであり、自らの発信力を生かした劇場型戦略で政治目的を達成しようとしているところの資質等に問題を抱えた首長」であると思います。
1期目の終わりに近づき、越市長は従来の路線の一部修正(予定していなかった施策の実施検討、民間導入の決定先送り、地域へのこまめな顔出し、遠ざけてきた人との面会など)に努めておられると風の噂に聞きます。
ここで指摘するのはこうした短期的な態度ではなく、越市長の本質と私が見なしているものです。
詳しくは下記ページをご覧ください。
大津市政の現状21(つまるところ越氏はどのような市長か)
一口に言うと越市長は、「新自由主義的な考えを持つポピュリストであり、自らの発信力を生かした劇場型戦略で政治目的を達成しようとしているところの資質等に問題を抱えた首長」であると思います。
1期目の終わりに近づき、越市長は従来の路線の一部修正(予定していなかった施策の実施検討、民間導入の決定先送り、地域へのこまめな顔出し、遠ざけてきた人との面会など)に努めておられると風の噂に聞きます。
ここで指摘するのはこうした短期的な態度ではなく、越市長の本質と私が見なしているものです。
詳しくは下記ページをご覧ください。
大津市政の現状21(つまるところ越氏はどのような市長か)
大津市政 21 ~つまるところ越氏はどのような市長か~
越市長は一言で言うと「新自由主義的な考えを持つポピュリストであり、自らの発信力を生かした劇場型戦略で政治目的を達成しようとしているところの資質等に大きな問題を抱えた首長」であると私は見ています。
これが本質とすれば、たとえ心を入れ替えるとの表明があっても容易に変化しないでしょう。
それどころか1期目を無事に終えつつあるという自己認識のもとで、今後、こうした傾向はさらに強まっていくものと予測します。
こうした批評には解釈の幅があり用語も多義的ですから、蛇足を承知で少し補足いたします。
「新自由主義」は、経済的自由競争による市場(マーケット)至上主義に基づいて小さな政府を目ざす立場であり、自由競争の足かせとなる規制緩和を進めつつ、福祉や教育など公が担ってきた部門を民間へ移すことによって効率やサービスの向上が図れるという考え方です。
越市長が新自由主義者であると自認されているかどうか知りませんが、「官から民へ」を志向した公共部門の縮小化、富の再配分である社会保障に対する冷淡さ、自由競争の戦士と見なされるグローバル人材の重視など、越市長の考え方は非常に新自由主義的だと言わざるを得ません。
私は「官が民に優越する」と思っていませんし、新自由主義が一定の合理性を含んでいることも否定しません。また、国家と基礎自治体では、新自由主義の適用に際して多少事情が違うかもしれません。
一方専門家の中には、「新自由主義は、共同体存立の根本に関わる自然環境、社会インフラ、制度資本(教育、医療など)を根本から否定するものである」との指摘(宇沢弘文氏)もあります。
その見方に立つなら、越市長が力を入れる教育改革や市民病院・図書館・公民館などの改革の行く末が気になるところです。
また、新自由主義は構造的に強者と弱者の二極化を進めるとされていますが、このことと、社会的弱者としての高齢者や低所得者への温かな眼差しを感じさせない越市長の政治姿勢とを重ねて考えざるを得ません。
「ポピュリズム」は政治学上の原義から離れて大衆迎合主義とか衆愚政治と訳されているようですが、ここでは次のような意味で使っています。
ポピュリズムとは「普通の人々とエリート、善玉と悪玉、味方と敵の二元論を前提として、リーダーが普通の人の一員であることを強調すると同時に、普通の人々の側に立って彼らをリードして敵に向かって戦いを挑むヒーローの役割を演じて見せる劇場型政治スタイルである。それは社会運動を組織するのでなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法の一つである」(大嶽秀夫氏の定義)。
また、「劇場型政治スタイル」は、「本来、政治は人々の利害や価値(思想)の調整をするものであるにも関わらず、一般の人々にとって分かりやすく劇的に見せる政治手法を用いて、自分の政治目的を実現しようとするもの」(有馬晋作氏の定義)と説明されています。
従って、ポピュリストとは、上記のような思考法を持ち、政治手法を採用する人物ということになります。
ついでながらポピュリストについては、北海道大学時代の越市長の恩師である山口二郎氏が次のように述べています。
「大衆民主政治の病理を批判するときのポピュリズムという言葉は、最近日本語にも定着している。中身はないが大衆受けする政治家に対してポピュリストという悪罵を投げつけたくなるという気分が、この言葉に関する最大公約数であろう。」
このブログは学問的な分析・分類や、悪意のレッテル貼りとはまったく無関係ですが、最近の政治、行政の分野で用いられる概念が越市政を読み解く助けになると考え、丁寧な議論を積み重ねるよりテレビ、新聞を使って手っ取り早く広く世間に流布する方を選ぶ越市長のメディア戦略と絡め、ポピュリストという言葉を使いました。
現実には越市長は「普通の人々」というより「エリート」ですが、この二項対立は越市長の心情においては、普通の人々が「自分を含む一般市民」であり、一方のエリートは「民間では考えられない非効率で進歩のない仕事をしている公務員」や、「既得権益にどっぷりと浸かっている市民団体」であり、ことによると「議会」も含まれるかも知れません。
一般市民のリーダーである越市長が、単身市役所に乗り込んで、自らの知名度と外部専門家の知見を武器に従来のシステムにメスを入れ、矢継ぎ早に改革を進めていく姿を市民に見せるための劇場。やや戯画的かも知れませんが越市政をこのように見立てることは十分に可能です。
そしてこの二項対立の構図は、早くも越市長就任一年目に提示されました。
いじめ事件が全国的な問題となった際、大津市役所という一つの組織が「何も知らなかった越市長という善玉」と「ずさんな教育委員会という悪玉」というステレオタイプに二分され、全国的な非難が教育委員会のみに集中しました。それを追い風とした越市長は、教育委員会批判を加速させていかれました。
このブログで教育委員会の独立性の尊重を訴えてきましたが、越市長のお言葉どおり「予算権は市長にあります」。また、裁判は市長を相手どって行われていました。このように大津市行政の唯一の代表としての統括代表権は市長が有しています。
その市長が、傘下の機関である教育委員会を対外的に一方的に非難するというのは、権限の面からも組織論からも妥当性を欠きます(市長の1回目の記者会見の後、私はご注意申し上げようと市長室に入りました。会話はごく短いものでしたが、私は市長のお言葉に深く失望しました)。
いずれにしても、自らの政治生命に関わる大きな危機をこうした形で(メディアを活用した劇場型手法によって)乗り越えた越市長の姿勢は、ポピュリストと呼ぶにふさわしいものと感じられます。
この体験が、越市長のその後の路線を決定づけたように思います。
このいじめ事件は既に教育の項目でも記述したとおり大津市行政にとって極めて重大な事件であったので誤解のないよう重ねて付言します。
ここで私は教育委員会及び学校を擁護しようとするものではありません。両者の責任と反省はそれぞれに行われた総括にも明らかですし、当然ながら今も再発防止の努力が続けられていると聞いています。
しかし、統括代表権者である市長が自らの発言力の大きさを生かして同じ行政機関の一翼を非難することにより、自らは世間のごうごうたる非難を免れ得た(あるいは教育委員会と比べて無いに等しいくらい軽減された)という不可解な構図に、私は、越市長に差すポピュリズムや劇場型政治の濃い影を見ないわけにいきません。
当初、行政組織のトップとして越市長の姿勢を疑問視する声も一部にありましたが、教育委員会への批判の嵐にかき消される形となりました。
またこれを契機に、越市長は、市長と教育長の権限と責任の分担が曖昧だとして制度論にまで踏み込んでいかれました。
それどころか、文部科学省の会議やテレビ番組などにおいて持論を唱える機会を得た越市長は、教育委員会改革に一家言をもつ首長として知名度を高めることとなったようです。その一方で、良心的で優れた教育者が教育行政から退くこととなりました。
ついでながら、いまこの出来事を振り返って、越市長の劇場型政治に大きな役割を果たすこととなった報道機関は、いまどのように当時をふりかえっているのでしょうか。
間接民主制におけるマスメディアの役割は本当に重要です。新聞、テレビに関わる人々が大きな使命感を抱き、昼夜を問わず一生懸命働いておられることもよく知っています。
しかし、良し悪しは別として報道も市場の論理と無関係ではありません。
新聞、テレビには、事実の報道という原点に加え、権力のチェック役、多様な価値観の共存を目ざす民主主義の後押し役、多角的な視点を提示する議論の喚起役など、重要な機能が求められると考えます。いま、一連のいじめ事件報道をふり返って関係の方々がどのような自己評価をしておられるか関心のあるところです。
なお、この記事で多くの引用をしています。私は事実に基づく自分の見解をいかに客観的に整理して冷静に人に伝えられるかに腐心してきました。そこで研究者の言葉も遠慮なく拝借しました。
結果的に目にわずらわしい文面となりましたが、私の見解や懸念をかなりお伝えできたと思います。
これが本質とすれば、たとえ心を入れ替えるとの表明があっても容易に変化しないでしょう。
それどころか1期目を無事に終えつつあるという自己認識のもとで、今後、こうした傾向はさらに強まっていくものと予測します。
こうした批評には解釈の幅があり用語も多義的ですから、蛇足を承知で少し補足いたします。
「新自由主義」は、経済的自由競争による市場(マーケット)至上主義に基づいて小さな政府を目ざす立場であり、自由競争の足かせとなる規制緩和を進めつつ、福祉や教育など公が担ってきた部門を民間へ移すことによって効率やサービスの向上が図れるという考え方です。
越市長が新自由主義者であると自認されているかどうか知りませんが、「官から民へ」を志向した公共部門の縮小化、富の再配分である社会保障に対する冷淡さ、自由競争の戦士と見なされるグローバル人材の重視など、越市長の考え方は非常に新自由主義的だと言わざるを得ません。
私は「官が民に優越する」と思っていませんし、新自由主義が一定の合理性を含んでいることも否定しません。また、国家と基礎自治体では、新自由主義の適用に際して多少事情が違うかもしれません。
一方専門家の中には、「新自由主義は、共同体存立の根本に関わる自然環境、社会インフラ、制度資本(教育、医療など)を根本から否定するものである」との指摘(宇沢弘文氏)もあります。
その見方に立つなら、越市長が力を入れる教育改革や市民病院・図書館・公民館などの改革の行く末が気になるところです。
また、新自由主義は構造的に強者と弱者の二極化を進めるとされていますが、このことと、社会的弱者としての高齢者や低所得者への温かな眼差しを感じさせない越市長の政治姿勢とを重ねて考えざるを得ません。
「ポピュリズム」は政治学上の原義から離れて大衆迎合主義とか衆愚政治と訳されているようですが、ここでは次のような意味で使っています。
ポピュリズムとは「普通の人々とエリート、善玉と悪玉、味方と敵の二元論を前提として、リーダーが普通の人の一員であることを強調すると同時に、普通の人々の側に立って彼らをリードして敵に向かって戦いを挑むヒーローの役割を演じて見せる劇場型政治スタイルである。それは社会運動を組織するのでなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法の一つである」(大嶽秀夫氏の定義)。
また、「劇場型政治スタイル」は、「本来、政治は人々の利害や価値(思想)の調整をするものであるにも関わらず、一般の人々にとって分かりやすく劇的に見せる政治手法を用いて、自分の政治目的を実現しようとするもの」(有馬晋作氏の定義)と説明されています。
従って、ポピュリストとは、上記のような思考法を持ち、政治手法を採用する人物ということになります。
ついでながらポピュリストについては、北海道大学時代の越市長の恩師である山口二郎氏が次のように述べています。
「大衆民主政治の病理を批判するときのポピュリズムという言葉は、最近日本語にも定着している。中身はないが大衆受けする政治家に対してポピュリストという悪罵を投げつけたくなるという気分が、この言葉に関する最大公約数であろう。」
このブログは学問的な分析・分類や、悪意のレッテル貼りとはまったく無関係ですが、最近の政治、行政の分野で用いられる概念が越市政を読み解く助けになると考え、丁寧な議論を積み重ねるよりテレビ、新聞を使って手っ取り早く広く世間に流布する方を選ぶ越市長のメディア戦略と絡め、ポピュリストという言葉を使いました。
現実には越市長は「普通の人々」というより「エリート」ですが、この二項対立は越市長の心情においては、普通の人々が「自分を含む一般市民」であり、一方のエリートは「民間では考えられない非効率で進歩のない仕事をしている公務員」や、「既得権益にどっぷりと浸かっている市民団体」であり、ことによると「議会」も含まれるかも知れません。
一般市民のリーダーである越市長が、単身市役所に乗り込んで、自らの知名度と外部専門家の知見を武器に従来のシステムにメスを入れ、矢継ぎ早に改革を進めていく姿を市民に見せるための劇場。やや戯画的かも知れませんが越市政をこのように見立てることは十分に可能です。
そしてこの二項対立の構図は、早くも越市長就任一年目に提示されました。
いじめ事件が全国的な問題となった際、大津市役所という一つの組織が「何も知らなかった越市長という善玉」と「ずさんな教育委員会という悪玉」というステレオタイプに二分され、全国的な非難が教育委員会のみに集中しました。それを追い風とした越市長は、教育委員会批判を加速させていかれました。
このブログで教育委員会の独立性の尊重を訴えてきましたが、越市長のお言葉どおり「予算権は市長にあります」。また、裁判は市長を相手どって行われていました。このように大津市行政の唯一の代表としての統括代表権は市長が有しています。
その市長が、傘下の機関である教育委員会を対外的に一方的に非難するというのは、権限の面からも組織論からも妥当性を欠きます(市長の1回目の記者会見の後、私はご注意申し上げようと市長室に入りました。会話はごく短いものでしたが、私は市長のお言葉に深く失望しました)。
いずれにしても、自らの政治生命に関わる大きな危機をこうした形で(メディアを活用した劇場型手法によって)乗り越えた越市長の姿勢は、ポピュリストと呼ぶにふさわしいものと感じられます。
この体験が、越市長のその後の路線を決定づけたように思います。
このいじめ事件は既に教育の項目でも記述したとおり大津市行政にとって極めて重大な事件であったので誤解のないよう重ねて付言します。
ここで私は教育委員会及び学校を擁護しようとするものではありません。両者の責任と反省はそれぞれに行われた総括にも明らかですし、当然ながら今も再発防止の努力が続けられていると聞いています。
しかし、統括代表権者である市長が自らの発言力の大きさを生かして同じ行政機関の一翼を非難することにより、自らは世間のごうごうたる非難を免れ得た(あるいは教育委員会と比べて無いに等しいくらい軽減された)という不可解な構図に、私は、越市長に差すポピュリズムや劇場型政治の濃い影を見ないわけにいきません。
当初、行政組織のトップとして越市長の姿勢を疑問視する声も一部にありましたが、教育委員会への批判の嵐にかき消される形となりました。
またこれを契機に、越市長は、市長と教育長の権限と責任の分担が曖昧だとして制度論にまで踏み込んでいかれました。
それどころか、文部科学省の会議やテレビ番組などにおいて持論を唱える機会を得た越市長は、教育委員会改革に一家言をもつ首長として知名度を高めることとなったようです。その一方で、良心的で優れた教育者が教育行政から退くこととなりました。
ついでながら、いまこの出来事を振り返って、越市長の劇場型政治に大きな役割を果たすこととなった報道機関は、いまどのように当時をふりかえっているのでしょうか。
間接民主制におけるマスメディアの役割は本当に重要です。新聞、テレビに関わる人々が大きな使命感を抱き、昼夜を問わず一生懸命働いておられることもよく知っています。
しかし、良し悪しは別として報道も市場の論理と無関係ではありません。
新聞、テレビには、事実の報道という原点に加え、権力のチェック役、多様な価値観の共存を目ざす民主主義の後押し役、多角的な視点を提示する議論の喚起役など、重要な機能が求められると考えます。いま、一連のいじめ事件報道をふり返って関係の方々がどのような自己評価をしておられるか関心のあるところです。
なお、この記事で多くの引用をしています。私は事実に基づく自分の見解をいかに客観的に整理して冷静に人に伝えられるかに腐心してきました。そこで研究者の言葉も遠慮なく拝借しました。
結果的に目にわずらわしい文面となりましたが、私の見解や懸念をかなりお伝えできたと思います。
2015/10/23
44) 友きたる
昨夜、いきなり旧友が訪ねて来て「やっぱり大津はええわ茂呂君」と言うのです。彼は高校の同窓生。東京の大企業で活躍し海外の仕事も多かったので、長い年月をはさんでの再会でした。
最近大津にもどって忙しげに第二の人生をスタートさせた男です。私の家は祖父の代まで下小唐崎町(大津事件の石碑のあたり)にありましたが、彼の実家も大津まつりの曳山巡行のエリア内と分かり、大津の水や文化の話に花が咲きました。
このブログで、内部の視点、外部の視点ということが一つのテーマになりました。もともと注意深い観察者であり、その経歴により二つの視点に磨きをかけた彼の話は、まちの魅力に関する住民と来訪者の認識の違いや、組織の内部評価・外部評価を考える上で示唆に富んでいました。
もう一つ興味深かったのは、米国企業のエリート社員の仕事ぶりに関する彼の見聞です。
エリート社員が抜擢されあるポストに就くと、まず前任者の業績を全否定するところから始めるというのです。そして自分流をアピールし、徹底したコストカットを進めて2~3年で別のポストに移っていく。そのポストに就任している短期間に独自カラーを出し業績を残すためには、そんなやり方しかない、ということです。
しかし、後任者も同じことをするわけだから会社が困るだろうと私が聞くと、彼ら(米国のエリート社員)は自分の利益しか頭にない、と友人は言います。
これはあくまで彼の見聞の範囲であり、米国企業がすべて同じかどうかは知りません。
これは市場変化の極めて早い業種において、企業経営者が短期的利益を得ることを第一と考える場合には妥当性をもつ手法(発想)かも知れません。
しかし、この発想を行政運営に持ち込むことは不可能であると思いますし、もし適用を試みる人がいたとすれば自治体運営と一部の企業の経営の混同ではないか、と言わざるを得ません。
このアメリカンスタイル(?)は「改革」の一手法であるという見方ができます。
私は先に、人口減少社会における新たな改革の哲学の模索が必要であるという意味のことを書きました。これは確かな考えがあるわけではなく思いつきのレベルで恐縮ですが、およそ次のような次第です。
明治以降、わが国はさまざまな改革を行い社会を進歩発展させてきましたが、それと並行して「改革」という言葉の威光の前に人々が思考停止する傾向が強まってきたのではないかと思います。
改革を行う場合、何のためのどのような改革か、そのことで利益と不利益をこうむるのは誰か、短期的と長期的にはどうかなどをきちんと説明して理解を得て進めるべきですが、改革の文字がつくと何となくフリーパスになってしまうのです。
また一つの改革は、たいてい複数の手段を経て目的に到達しますが、手近かな手段が目的にすり替わってしまうことがままあります。
さらに、これまでの改革は数値評価しやすいものが多かったのですが、そうでない改革も今後重要性を増すと思うのです。
人口減少という未体験ゾーンにおける改革は、これまでとは一味違うはずだと予想します。
もう一つ、「継続」も重要な要素です。端的には文化がそうだと思います。
文化における維持・継続はそれ自体が確固たる価値であり、それがあってこそ新しい文化が胚胎するのだという気がします。したがって改革と継続は、実は相反する方向性ではないとも思うのです。「改革派首長」が伝統文化を軽視しがちですが、これも改革をめぐる一つの思考停止であり未熟さの現れだと思います。
話は変わって、大津市長選挙の選択肢に関わって見解を示せとのコメントがありました。
コメントに一々お答えしない、その代わりコメントを受け止めて今後の記事を書く、という方針でこれまでやってきました。選挙も近づいてA候補かB候補かというような雰囲気になってきました。
しかし、このブログの目的は、大津市のまちづくりを考える情報広場の構築(正確には一時的な現出)です。暴露云々の話もありましたが、私の意図は一貫して現状をお伝えし議論を喚起することにあります。そこから先は、有権者ご自身がお考えになることだと思います。
したがって、選択肢に関わる見解を示すことはいたしません。投稿者には「あなたご自身でお考えください」とお答えいたします。
友人の来訪をうけて(楽しいひと時でしたが)脱線してしまいました。
次回は、つまるところ越市長とはどんな市長か?という点を考えたいと思います。
しかし、この発想を行政運営に持ち込むことは不可能であると思いますし、もし適用を試みる人がいたとすれば自治体運営と一部の企業の経営の混同ではないか、と言わざるを得ません。
このアメリカンスタイル(?)は「改革」の一手法であるという見方ができます。
私は先に、人口減少社会における新たな改革の哲学の模索が必要であるという意味のことを書きました。これは確かな考えがあるわけではなく思いつきのレベルで恐縮ですが、およそ次のような次第です。
明治以降、わが国はさまざまな改革を行い社会を進歩発展させてきましたが、それと並行して「改革」という言葉の威光の前に人々が思考停止する傾向が強まってきたのではないかと思います。
改革を行う場合、何のためのどのような改革か、そのことで利益と不利益をこうむるのは誰か、短期的と長期的にはどうかなどをきちんと説明して理解を得て進めるべきですが、改革の文字がつくと何となくフリーパスになってしまうのです。
また一つの改革は、たいてい複数の手段を経て目的に到達しますが、手近かな手段が目的にすり替わってしまうことがままあります。
さらに、これまでの改革は数値評価しやすいものが多かったのですが、そうでない改革も今後重要性を増すと思うのです。
人口減少という未体験ゾーンにおける改革は、これまでとは一味違うはずだと予想します。
もう一つ、「継続」も重要な要素です。端的には文化がそうだと思います。
文化における維持・継続はそれ自体が確固たる価値であり、それがあってこそ新しい文化が胚胎するのだという気がします。したがって改革と継続は、実は相反する方向性ではないとも思うのです。「改革派首長」が伝統文化を軽視しがちですが、これも改革をめぐる一つの思考停止であり未熟さの現れだと思います。
話は変わって、大津市長選挙の選択肢に関わって見解を示せとのコメントがありました。
コメントに一々お答えしない、その代わりコメントを受け止めて今後の記事を書く、という方針でこれまでやってきました。選挙も近づいてA候補かB候補かというような雰囲気になってきました。
しかし、このブログの目的は、大津市のまちづくりを考える情報広場の構築(正確には一時的な現出)です。暴露云々の話もありましたが、私の意図は一貫して現状をお伝えし議論を喚起することにあります。そこから先は、有権者ご自身がお考えになることだと思います。
したがって、選択肢に関わる見解を示すことはいたしません。投稿者には「あなたご自身でお考えください」とお答えいたします。
友人の来訪をうけて(楽しいひと時でしたが)脱線してしまいました。
次回は、つまるところ越市長とはどんな市長か?という点を考えたいと思います。
2015/10/21
43)大津市の現状 20 (越市長の優れている点)
前回は3人の市長の簡単な比較をさせていただきました。「ふるさと都市」は私にも懐かしいスローガンです。大都市集中の潮流の中で、歴史・文化・自然という大津の強みを念頭においた地方自治宣言でもあったなあと思い返されます。
さて、このブログにおいて越市長に関する論評の多くが否定的な内容ですが、ここでは越市長の長所、人並み優れた点を記載します。
大津市政 20 ~越市長の優れている点~
この資料は、冒頭に記したとおり、越市政の現状を明らかにすることが目的ですから、越市長の問題点ばかりでなく良い所についても触れるべきだと考えます。
なお、前回の項目(大津市政19・歴代市長との比較)はこのページではなくホームの記事として記載しました。したがってここでは「大津市政18」のあとにいきなり「20」が来ますが脱落ではありません(19についてはホームを参照してください)。
さて、越市長の長所、美点です。
越直美市長は、心身ともに大変タフであり、強い意志をもって粘り強く事に当たられますが、これは政治家として優れた資質と言えるでしょう。
さらに輝かしい経歴が示すとおり極めて高い知的能力の持ち主です(私ごときが言うのもおこがましい限りです)。
しかも強い自信と丈夫な神経を持ち合わせておられます。
そして自分の目的を遂げるために何をすればよいのか、どのような働きかけをし、演出をすればよいのかという戦略にたけ、それを大胆に実行に移すことが出来ます。この相手にはこの対応で行こうという緻密な作戦を立て、数手先までの見通しをお持ちであると思います(この辺りが計算によるものか直観によるものか正確にはわかりません)。
さらに、身に備わった資質とは関係ありませんが、マスコミの注目度が大変に高いことも多数に訴える必要のある政治家としては有利な点です。
もちろん越市長はこのことを十分にご存じで、マスコミをフル活用してご自分のPRに努めておられます。
一言でいうと、越市長は大変パワフルで発信力の強いリーダーです。
しかし、と続けざるを得ないのですが、こうした長所や強みを有する越市長は、既に述べたとおり数々の問題点を併せ持っておられます。
そして大変残念ながら、これらの「長所」と「短所」は、お互いに差し引きして補い合える性質のものではないと私は考えています。
それどころか、「短所」がもたらす市政運営上の問題点を、「長所」が後押ししてさらに拡大してしまう可能性すらあるという気がします。その実例を私は多く見聞してきたと思っていますが、ここで一例をあげるなら、越市長と教育委員会との連携のあり方、協議の持ち方です(議会でも大きな問題となり、教育長の辞任にもつながった経緯です)。
それにつけても冒頭に記したように、市長として備えるべき資質や姿勢は、本当に重要なものであると思わずにはいられません。
そういうお前はなんぼのもんじゃ?というお叱りの言葉が、早速あちこちから飛んできそうです。
それに対しては、済みませんお見かけ通りただのおっさんです、としか答えようがないのが正直なところです。
私は長年、自治体職員として私利私欲なく働いたつもりですが、そんな人はいくらでもいます。
このような私を何か特殊な者にしている要素があるとすれば、
①越市長の市政運営をお手伝いしそれが大きな問題をはらんでいるとの認識に至ったこと、
②私なりの是正の手段として副市長退任の道を選んだこと、
③その後の様子を見るにつけ何とか手を打たなければならないと考えたこと、
④そこでブログを始めネット上の情報広場の実現を目ざしたこと、の4点に集約されると思います。
そして様々なことを書き連ねてきましたが、掲載した手紙、挨拶、記事などをふりかえり、時期はバラバラであっても、私としては終始一貫して同じことを訴えていることを再確認しました。
越市長も一人の人間ですから長所も短所もあって当たり前です。全体で見て市長としてどう評価できるかという一点が大津市民にとって重要です。どう考えても越市政は大きな問題を抱えているという私の考えに変わりはありません。
なお、前回の項目(大津市政19・歴代市長との比較)はこのページではなくホームの記事として記載しました。したがってここでは「大津市政18」のあとにいきなり「20」が来ますが脱落ではありません(19についてはホームを参照してください)。
さて、越市長の長所、美点です。
越直美市長は、心身ともに大変タフであり、強い意志をもって粘り強く事に当たられますが、これは政治家として優れた資質と言えるでしょう。
さらに輝かしい経歴が示すとおり極めて高い知的能力の持ち主です(私ごときが言うのもおこがましい限りです)。
しかも強い自信と丈夫な神経を持ち合わせておられます。
そして自分の目的を遂げるために何をすればよいのか、どのような働きかけをし、演出をすればよいのかという戦略にたけ、それを大胆に実行に移すことが出来ます。この相手にはこの対応で行こうという緻密な作戦を立て、数手先までの見通しをお持ちであると思います(この辺りが計算によるものか直観によるものか正確にはわかりません)。
さらに、身に備わった資質とは関係ありませんが、マスコミの注目度が大変に高いことも多数に訴える必要のある政治家としては有利な点です。
もちろん越市長はこのことを十分にご存じで、マスコミをフル活用してご自分のPRに努めておられます。
一言でいうと、越市長は大変パワフルで発信力の強いリーダーです。
しかし、と続けざるを得ないのですが、こうした長所や強みを有する越市長は、既に述べたとおり数々の問題点を併せ持っておられます。
そして大変残念ながら、これらの「長所」と「短所」は、お互いに差し引きして補い合える性質のものではないと私は考えています。
それどころか、「短所」がもたらす市政運営上の問題点を、「長所」が後押ししてさらに拡大してしまう可能性すらあるという気がします。その実例を私は多く見聞してきたと思っていますが、ここで一例をあげるなら、越市長と教育委員会との連携のあり方、協議の持ち方です(議会でも大きな問題となり、教育長の辞任にもつながった経緯です)。
それにつけても冒頭に記したように、市長として備えるべき資質や姿勢は、本当に重要なものであると思わずにはいられません。
そういうお前はなんぼのもんじゃ?というお叱りの言葉が、早速あちこちから飛んできそうです。
それに対しては、済みませんお見かけ通りただのおっさんです、としか答えようがないのが正直なところです。
私は長年、自治体職員として私利私欲なく働いたつもりですが、そんな人はいくらでもいます。
このような私を何か特殊な者にしている要素があるとすれば、
①越市長の市政運営をお手伝いしそれが大きな問題をはらんでいるとの認識に至ったこと、
②私なりの是正の手段として副市長退任の道を選んだこと、
③その後の様子を見るにつけ何とか手を打たなければならないと考えたこと、
④そこでブログを始めネット上の情報広場の実現を目ざしたこと、の4点に集約されると思います。
そして様々なことを書き連ねてきましたが、掲載した手紙、挨拶、記事などをふりかえり、時期はバラバラであっても、私としては終始一貫して同じことを訴えていることを再確認しました。
越市長も一人の人間ですから長所も短所もあって当たり前です。全体で見て市長としてどう評価できるかという一点が大津市民にとって重要です。どう考えても越市政は大きな問題を抱えているという私の考えに変わりはありません。
2015/10/20
42)大津市の現状 19 (歴代市長との比較)
職員の受け止め方をご紹介しましたが、この項目と関連するので歴代市長との比較をしたいと思います。本来は政策や時代背景をふまえた考察をすべきですが今はそこまで出来ません。私個人の感想、寸評としてお読みください。
山田豊三郎氏は、昭和55年から平成15年まで23年余の長きにわたって大津市長を務められました。「伝統と文化、自然にはぐくまれた心かよう幸せなまち、ふるさと都市大津」の実現をめざして調整型の市政運営を行い、都市基盤の整備に大きく貢献されました。
職員から助役を経て市長になられ、しかも長期政権であったので、小さな道路、ごみの収集、地域の人材等々、大津のことを本当によくご存知で、また深い愛着を持っておられました。
職員から畏れられていましたが、同時に親しみやすい大先輩でもあり、一言でいうと広く敬愛の念を集めた市長であったと思います。
スト直前の体勢にあった労働組合委員長を市長室に迎え入れ膝詰め談判したり、自ら行う職員の処分に涙を流されたという逸話があります。
目片信氏は、平成16年から24年までの2期8年、大津市長を務められました。当時は「平成の大合併」が進められる中で夕張市の財政破綻という衝撃的な出来事もあり、地方自治の一つの転換期であったと思います。
目片市長は、「変革の時代において、市民と行政の協働により自立した都市経営を行い、魅力と活力あふれる都市を築く」という方針のもとに総合計画を策定され、市民・事業者・行政の三者協働を積極的に進められました。
生まれも育ちも大津の方ですが、県議、代議士を経て就任されたことから、市役所が久しぶりにお迎えする「外部」の市長でした。しかし、飾らない人柄と率直な物言いで職員の心をつかみ優れたリーダーシップを発揮されました。
敬愛された点は山田市長と同じですが、豊かな経験に裏付けられた政治的センスを有しておられ、国県との交渉や市議会とのやりとりにそれが発揮されました。庁舎3階の議会フロアにもよく足を運ばれ議員と談笑しておられた様子を記憶しています。たとえ意見の相違はあっても各会派から人間的な信頼を得ておられたのもうなずける話です。
このお二人をふり返って「人間味」という共通点に注目したいと思います。
少しあいまいな言い方ながら山田氏と目片氏には「人の情け」があり、それが、時に非情な決断を強いられる市長に対する職員の信頼や共感の母胎になっていたという気がします。
これと関連して、お二人が大津に暮らす家庭人あるいは地域住民としての実感を保持し、そこから市政全般に視野を広げていく確かな「生活感覚」を持っておられたと私は思っています。
もう一つは親分肌というべきか「後はお前に任せる、責任は俺がとる」的な態度を示されました。それは、経験にもとづく組織運営の知恵であったかも知れませんが、そのような計算を超えたスケールの大きさを感じさせるところが山田市長、目片市長にはありました。
越市長は、平成24年1月に全国最年少の女性市長として颯爽と登場し、はやくも1期目の最終段階を迎えられました。そして「大津をもう一度活気ある町にしたい、笑顔あふれる大津にしたい。この4年間で大津を変えたい」という宣言どおり、精力的な市政運営に着手されました。
しかし就任6か月後に「いじめ事件」が全国的な社会問題となって、その対応が市政の緊急課題となりました。このことにより越市長の行政哲学も何らかの影響を受けたことと拝察します。
事件にかかる協議、調査、説明、対策立案などを最優先事項としつつ、一方で市政全般に取り組まなければならないという事態は、越市長にとって試練であったと思います。
さて、越市長の特色は、ご自身が有する「外部の視点」を維持していこうとする志であると思います。越市長にとっては初心を忘れないことにもつながります。
先ごろ「市役所の常識は民間の非常識である」とのコメントに反論した私ですが、外部の視点はとても大切であり、職員は襟を正して外部の視点と向き合うべきだと考えています。
しかし、それだけでは不十分で、組織の長は組織内部の視点と部内責任をも併せ持つべきだと思うのですが、ここでは書きません。
もう一つ、越市長の特筆すべき点は、マスコミへの鋭い感覚です。
山田市長も目片市長も市民に訴える手段としてのマスコミの意義を熟知しておられた筈ですが、ご自分が報道されること(報道されないこと)に対してとても鷹揚であったと思います。
これと比べて、越市長は鏡を見るごとくマスコミが報道するご自身の姿を意識されているように思います。学校の視察、災害現場の視察などにもカメラを同行させようとされます。新聞報道の内容について自ら報道機関に意見を述べるということも、前の市長の時代には考えられなかった事態です。
しかし、これらはマスコミの注目度の高さを踏まえたPR戦略として評価されるべきだとも考えます。同時に、マスコミ戦略は手段が目的にすり替わる危険が常にあります。これに関する私の意見は脱線になるので申し上げません。
職員にとって市長は最高権力者です。
越市長は若い女性であるゆえ何かと不利益をこうむっているとの意見が一部にありますが、それは市役所の内情を知らない人の推測です。市長の権威はきわめて大きく、それに対して職員は十分に敬意を払っています。むしろ越市長は職員から強くおそれられているといってもいいほどです。
しかし、職員の心の中で、大津市長と越直美市長という二つの記号がいまだに一人の人物像に収斂しないという実感があると私は感じており、この点が先のお二人の市長と異なる点であると思います。
これは年齢、性別の差に起因するものではなく、先に述べた視点の位置の問題に加えて、人間味を感じにくいという点が作用していると思います。
先のお二人は評価が確定しているといっていいと思います。
これに対して越市長は1期目の途中で現在進行中の取組みが多いこともあり、十分な比較にならなかったと自分でも思います。私の越市長に対する見方は随所に書いてきました。
最後にひとこと申し上げたいのですが、すべての市長は先行市長の遺産を相続しています。
目片市長は山田市長の達成を踏まえて三者協働のまちづくりを進められました。
越市長も大枠は同じです。目片市長の功績がスタートラインです。
こし直美後援会ニュースに書かれている成果の中には、以前に種がまかれたもの、あるいは刈り取り寸前だったものが幾つも含まれています。
例えば、病児・病後児保育の充実、こども医療費の拡充、発達相談センターの開設、小中学校や幼稚園のエアコン導入、在宅看取りのネットワーク整備、認知症サポーター増強、介護予防の各種取組み、グランドゴルフ広場の整備、膳所駅リニューアル、大津駅西・堅田駅西口整備、161号バイパス整備、道の駅等々です。中には越市長がブレーキを踏んだ事業も胸を張って並んでいます。
でもそれで差し支えないと私は思います。
そもそもまちづくりが4年で出来るわけがありません。先行世代の肩車にのって今の世代が進むのです。多段ロケットです。もちろん負の遺産もあるでしょう。正負の遺産を引き継いでいかざるを得ないから、残すものと捨てるものの見極めに集団の英知がいるのです。
実力があり、ある時は「こわもて」でもあった山田市長、目片市長は、とても謙虚な方でもありました。だからこそ長年にわたる先人の営為を感謝の念をもってふりかえり、上首尾に遺産相続をされたと思うのです。この点でも越市長と対照的であったと思います。
また脱線したかもしれませんが、書き直さずアップします。
次あたりで越市長の優れておられる点を記述する予定です。
山田豊三郎氏は、昭和55年から平成15年まで23年余の長きにわたって大津市長を務められました。「伝統と文化、自然にはぐくまれた心かよう幸せなまち、ふるさと都市大津」の実現をめざして調整型の市政運営を行い、都市基盤の整備に大きく貢献されました。
職員から助役を経て市長になられ、しかも長期政権であったので、小さな道路、ごみの収集、地域の人材等々、大津のことを本当によくご存知で、また深い愛着を持っておられました。
職員から畏れられていましたが、同時に親しみやすい大先輩でもあり、一言でいうと広く敬愛の念を集めた市長であったと思います。
スト直前の体勢にあった労働組合委員長を市長室に迎え入れ膝詰め談判したり、自ら行う職員の処分に涙を流されたという逸話があります。
目片信氏は、平成16年から24年までの2期8年、大津市長を務められました。当時は「平成の大合併」が進められる中で夕張市の財政破綻という衝撃的な出来事もあり、地方自治の一つの転換期であったと思います。
目片市長は、「変革の時代において、市民と行政の協働により自立した都市経営を行い、魅力と活力あふれる都市を築く」という方針のもとに総合計画を策定され、市民・事業者・行政の三者協働を積極的に進められました。
生まれも育ちも大津の方ですが、県議、代議士を経て就任されたことから、市役所が久しぶりにお迎えする「外部」の市長でした。しかし、飾らない人柄と率直な物言いで職員の心をつかみ優れたリーダーシップを発揮されました。
敬愛された点は山田市長と同じですが、豊かな経験に裏付けられた政治的センスを有しておられ、国県との交渉や市議会とのやりとりにそれが発揮されました。庁舎3階の議会フロアにもよく足を運ばれ議員と談笑しておられた様子を記憶しています。たとえ意見の相違はあっても各会派から人間的な信頼を得ておられたのもうなずける話です。
このお二人をふり返って「人間味」という共通点に注目したいと思います。
少しあいまいな言い方ながら山田氏と目片氏には「人の情け」があり、それが、時に非情な決断を強いられる市長に対する職員の信頼や共感の母胎になっていたという気がします。
これと関連して、お二人が大津に暮らす家庭人あるいは地域住民としての実感を保持し、そこから市政全般に視野を広げていく確かな「生活感覚」を持っておられたと私は思っています。
もう一つは親分肌というべきか「後はお前に任せる、責任は俺がとる」的な態度を示されました。それは、経験にもとづく組織運営の知恵であったかも知れませんが、そのような計算を超えたスケールの大きさを感じさせるところが山田市長、目片市長にはありました。
越市長は、平成24年1月に全国最年少の女性市長として颯爽と登場し、はやくも1期目の最終段階を迎えられました。そして「大津をもう一度活気ある町にしたい、笑顔あふれる大津にしたい。この4年間で大津を変えたい」という宣言どおり、精力的な市政運営に着手されました。
しかし就任6か月後に「いじめ事件」が全国的な社会問題となって、その対応が市政の緊急課題となりました。このことにより越市長の行政哲学も何らかの影響を受けたことと拝察します。
事件にかかる協議、調査、説明、対策立案などを最優先事項としつつ、一方で市政全般に取り組まなければならないという事態は、越市長にとって試練であったと思います。
さて、越市長の特色は、ご自身が有する「外部の視点」を維持していこうとする志であると思います。越市長にとっては初心を忘れないことにもつながります。
先ごろ「市役所の常識は民間の非常識である」とのコメントに反論した私ですが、外部の視点はとても大切であり、職員は襟を正して外部の視点と向き合うべきだと考えています。
しかし、それだけでは不十分で、組織の長は組織内部の視点と部内責任をも併せ持つべきだと思うのですが、ここでは書きません。
もう一つ、越市長の特筆すべき点は、マスコミへの鋭い感覚です。
山田市長も目片市長も市民に訴える手段としてのマスコミの意義を熟知しておられた筈ですが、ご自分が報道されること(報道されないこと)に対してとても鷹揚であったと思います。
これと比べて、越市長は鏡を見るごとくマスコミが報道するご自身の姿を意識されているように思います。学校の視察、災害現場の視察などにもカメラを同行させようとされます。新聞報道の内容について自ら報道機関に意見を述べるということも、前の市長の時代には考えられなかった事態です。
しかし、これらはマスコミの注目度の高さを踏まえたPR戦略として評価されるべきだとも考えます。同時に、マスコミ戦略は手段が目的にすり替わる危険が常にあります。これに関する私の意見は脱線になるので申し上げません。
職員にとって市長は最高権力者です。
越市長は若い女性であるゆえ何かと不利益をこうむっているとの意見が一部にありますが、それは市役所の内情を知らない人の推測です。市長の権威はきわめて大きく、それに対して職員は十分に敬意を払っています。むしろ越市長は職員から強くおそれられているといってもいいほどです。
しかし、職員の心の中で、大津市長と越直美市長という二つの記号がいまだに一人の人物像に収斂しないという実感があると私は感じており、この点が先のお二人の市長と異なる点であると思います。
これは年齢、性別の差に起因するものではなく、先に述べた視点の位置の問題に加えて、人間味を感じにくいという点が作用していると思います。
先のお二人は評価が確定しているといっていいと思います。
これに対して越市長は1期目の途中で現在進行中の取組みが多いこともあり、十分な比較にならなかったと自分でも思います。私の越市長に対する見方は随所に書いてきました。
最後にひとこと申し上げたいのですが、すべての市長は先行市長の遺産を相続しています。
目片市長は山田市長の達成を踏まえて三者協働のまちづくりを進められました。
越市長も大枠は同じです。目片市長の功績がスタートラインです。
こし直美後援会ニュースに書かれている成果の中には、以前に種がまかれたもの、あるいは刈り取り寸前だったものが幾つも含まれています。
例えば、病児・病後児保育の充実、こども医療費の拡充、発達相談センターの開設、小中学校や幼稚園のエアコン導入、在宅看取りのネットワーク整備、認知症サポーター増強、介護予防の各種取組み、グランドゴルフ広場の整備、膳所駅リニューアル、大津駅西・堅田駅西口整備、161号バイパス整備、道の駅等々です。中には越市長がブレーキを踏んだ事業も胸を張って並んでいます。
でもそれで差し支えないと私は思います。
そもそもまちづくりが4年で出来るわけがありません。先行世代の肩車にのって今の世代が進むのです。多段ロケットです。もちろん負の遺産もあるでしょう。正負の遺産を引き継いでいかざるを得ないから、残すものと捨てるものの見極めに集団の英知がいるのです。
実力があり、ある時は「こわもて」でもあった山田市長、目片市長は、とても謙虚な方でもありました。だからこそ長年にわたる先人の営為を感謝の念をもってふりかえり、上首尾に遺産相続をされたと思うのです。この点でも越市長と対照的であったと思います。
また脱線したかもしれませんが、書き直さずアップします。
次あたりで越市長の優れておられる点を記述する予定です。
2015/10/19
41) 大津市政の現状 18(職員の受け止め方・辞めていく職員)
前回は職員が協議等で越市長にどのように向き合っているかを見ましたが、今回は職員の退職にふれます。このところ定年や任期を待たず中途退職する職員が目立ちます。理由は様々でしょうが、志と能力のある人が所期の目的を達することなく辞めていくケースがあるなら残念な話です。 ここでは私が知っている2人の方に絞って記述します。
大津市政の現状18(職員の受け止め方・辞めていく職員)
大津市政の現状18(職員の受け止め方・辞めていく職員)
大津市政 18 ~職員の受け止め方~ 辞めていく職員
平成26年3月末、越市長のたっての願いで就任した教育長が「体調不良」により僅か1年で辞任されるというたいへん残念な事態が起こりました。
実際に当時、教育長は不整脈で10日の入院を余儀なくされましたが、もっと重篤な傷病を抱えながら職に留まっている特別職の事例は昔も今もいくらでもあります。
辞任の要因は、選挙で選ばれた首長の意思は市民の意思であると主張して教育行政に深く関わろうとされる越市長と、法に基づき教育の政治的中立性や継続性を守ろうとされる教育長との深刻な意見の対立にありました。
特に、平成26年度予算の編成に際して、越市長が教育委員会の自主性、自立性を無視するかのように教育委員会予算の内容に事細かく踏み込んで指示を行い、ついには、越権に抗議する教育委員会を押し切られたことが事態を決定づけました(予算編成の項目にも書いています)。
教育長としては、予算権を振りかざして一歩も引かない越市長に対し、最終的には同意せざるを得なかったのですが、このことにより越市長への失望と不信を深め、また、他の教育委員や学校現場、職員等に対する責任を痛感されることとなりました。
これに加えて一時的とはいえストレスが昂じて体調をくずされたことから、任期3年を残して異例の退任となりました(日経ビジネス平成26年月6月2日号に関連記事が掲載されています)。
この方は、技術者としての合理的精神と教育への情熱を併せ持った教育者であり、就任以来、子どもの立場からの教育改革を進めるために市長部局との連携に心を砕いてこられました。
その辞任は大津市の教育にとって大きな損失であったと思います。
その後に、私が副市長を辞任することとなりましたが、この経過はすでに記しました。
特別職の相次ぐ辞任として議会でも問題視されましたが、越市長は、教育長は健康上の理由、副市長は一身上の都合であるとの認識を示されただけに終わりました。
平成27年3月には、越市長の子ども施策等を問題視する一人の管理職が中途退職し、越市政を正すとして4月の市議会議員選挙に立候補する事態となりました。
元職員の市会議員への転身は過去にも例がありますが、市長を批判し中途退職しての立候補はやはり極めて異例のことです。
その主張は、保育現場の声に耳を貸さず、保育の質を吟味することなく待機児童ゼロを強引に押し進める越市長は、大津の子どもより自分のマニフェストを優先しているとしか考えられない。そうした行政の進め方に一石を投じたい、という趣旨のものでした。
結果は落選でしたが、節税選挙を訴えるためポスターを貼らず、運動員も選挙カーもなし、ハガキとブログだけの選挙戦で1,529票を獲得しました(立候補者50人中43位。38位までが当選)。
この得票が多いか少ないか見方は分かれるでしょうが、立候補に備えて市外から大津に転入した経緯から明らかなとおり地盤を持たない新人が、タスキもマイクもなしで1,529人の期待の受け皿になり得たという事実は変わりません。
その期待とは、一議員として越市長の市政運営を正して欲しいという願いであり、それは、立候補の動機表明および短期間にブログに寄せられた多くのコメントから明らかに読みことができると私は思います。
当時ネット上に公開されていたコメントのコピーを関係資料として掲載します。
なお、このブログは選挙終了と共に閉鎖されました。
関係資料6 市議会議員候補者のブログに寄せられたコメント
実際に当時、教育長は不整脈で10日の入院を余儀なくされましたが、もっと重篤な傷病を抱えながら職に留まっている特別職の事例は昔も今もいくらでもあります。
辞任の要因は、選挙で選ばれた首長の意思は市民の意思であると主張して教育行政に深く関わろうとされる越市長と、法に基づき教育の政治的中立性や継続性を守ろうとされる教育長との深刻な意見の対立にありました。
特に、平成26年度予算の編成に際して、越市長が教育委員会の自主性、自立性を無視するかのように教育委員会予算の内容に事細かく踏み込んで指示を行い、ついには、越権に抗議する教育委員会を押し切られたことが事態を決定づけました(予算編成の項目にも書いています)。
教育長としては、予算権を振りかざして一歩も引かない越市長に対し、最終的には同意せざるを得なかったのですが、このことにより越市長への失望と不信を深め、また、他の教育委員や学校現場、職員等に対する責任を痛感されることとなりました。
これに加えて一時的とはいえストレスが昂じて体調をくずされたことから、任期3年を残して異例の退任となりました(日経ビジネス平成26年月6月2日号に関連記事が掲載されています)。
この方は、技術者としての合理的精神と教育への情熱を併せ持った教育者であり、就任以来、子どもの立場からの教育改革を進めるために市長部局との連携に心を砕いてこられました。
その辞任は大津市の教育にとって大きな損失であったと思います。
その後に、私が副市長を辞任することとなりましたが、この経過はすでに記しました。
特別職の相次ぐ辞任として議会でも問題視されましたが、越市長は、教育長は健康上の理由、副市長は一身上の都合であるとの認識を示されただけに終わりました。
平成27年3月には、越市長の子ども施策等を問題視する一人の管理職が中途退職し、越市政を正すとして4月の市議会議員選挙に立候補する事態となりました。
元職員の市会議員への転身は過去にも例がありますが、市長を批判し中途退職しての立候補はやはり極めて異例のことです。
その主張は、保育現場の声に耳を貸さず、保育の質を吟味することなく待機児童ゼロを強引に押し進める越市長は、大津の子どもより自分のマニフェストを優先しているとしか考えられない。そうした行政の進め方に一石を投じたい、という趣旨のものでした。
結果は落選でしたが、節税選挙を訴えるためポスターを貼らず、運動員も選挙カーもなし、ハガキとブログだけの選挙戦で1,529票を獲得しました(立候補者50人中43位。38位までが当選)。
この得票が多いか少ないか見方は分かれるでしょうが、立候補に備えて市外から大津に転入した経緯から明らかなとおり地盤を持たない新人が、タスキもマイクもなしで1,529人の期待の受け皿になり得たという事実は変わりません。
その期待とは、一議員として越市長の市政運営を正して欲しいという願いであり、それは、立候補の動機表明および短期間にブログに寄せられた多くのコメントから明らかに読みことができると私は思います。
当時ネット上に公開されていたコメントのコピーを関係資料として掲載します。
なお、このブログは選挙終了と共に閉鎖されました。
関係資料6 市議会議員候補者のブログに寄せられたコメント
40)教育行政(ひとこと追加を)
教育行政は済んだのですが、大変参考になるコメントを頂いたので少し追記します。
「図書館を考える大津市民の会」の学習会に参加された方のコメントを見て、私もすとんと胸に落ちました。教育という文言自体に「上から目線」を感じる人もおられることと想像します。
しかし本来、教育は、社会を維持するための公益的プログラムである(従ってその利益は構成員すべてが受ける)と思いますし、紹介された講義において、それが具体的に語られていました。
そこから、社会教育を税で賄うことの意義、地域や文化の問題、首長と教委のあるべき関係などもはっきり見えてくると思います。どうも有難うございました。
「図書館を考える大津市民の会」の学習会に参加された方のコメントを見て、私もすとんと胸に落ちました。教育という文言自体に「上から目線」を感じる人もおられることと想像します。
しかし本来、教育は、社会を維持するための公益的プログラムである(従ってその利益は構成員すべてが受ける)と思いますし、紹介された講義において、それが具体的に語られていました。
そこから、社会教育を税で賄うことの意義、地域や文化の問題、首長と教委のあるべき関係などもはっきり見えてくると思います。どうも有難うございました。
幼稚園のあり方について言及を、とのコメントがありました。
公立幼稚園は、越市長から見れば定員割れでもったいない、教委から見ても教育面から一定の人数規模は確保したい、というところで整理統合が検討されているのでしょうが、3年保育など保護者のニーズに十分に応えた上であり方を考えるのが本来だと思います。
大切な問題なのですが、この件について私が直接に記事にする予定は今のところありません。
ただ、次回、市議選に挑戦した元職員のブログに寄せられた保護者等のコメントについて記述する予定であり、幼稚園のあり方に関する議論のきっかけになればと思います。
公文書に関するご意見がありました。
私が記した出来事(データ消滅現象)は、人為的なものか、プログラムの不具合か、思いも及ばぬ偶然か、今のところは明らかではありません(私なりに得た情報をここでは書きません)。
もし万一、故意によるものであった場合には「規程違反」レベルの事案ではないでしょう。
もし万一、故意によるものであった場合には「規程違反」レベルの事案ではないでしょう。
しかし、部局長意見集は昨年5月30日に越市長にお渡ししてあるうえ、同6月18日の市長あて意見具申にも盛り込んでありますから、もし越市長にそのお気持ちがあるならば、より良い市政運営のために活用していただくことは十分に可能です。
この意味においては、私は最後の仕事を「なんとかかんとか」全うできたと考えます。
また、私は公益に資すると信じてブログを始めましたが、警鐘の音は安寧を妨げもします。
私の意図に反して市民の皆さまには驚きや疑念を、職員の方々には不安や当惑を与えているとすれば心苦しい限りです。それらを「はた迷惑」に終わらせないためにも、私は、よりよい大津のまちづくりの「情報広場」を目ざしブログの安全運転に努めなければなりません。
その際、つなぐ言葉が重要であり、妥当性を欠いた厳しい処分を求める安易な処罰感情は抑えるべきだと自戒しています(不正から目をそむけるべしという意味ではありません)。
こうしたことから、この出来事について今のところは静観しようと考えています。
また、私は公益に資すると信じてブログを始めましたが、警鐘の音は安寧を妨げもします。
私の意図に反して市民の皆さまには驚きや疑念を、職員の方々には不安や当惑を与えているとすれば心苦しい限りです。それらを「はた迷惑」に終わらせないためにも、私は、よりよい大津のまちづくりの「情報広場」を目ざしブログの安全運転に努めなければなりません。
その際、つなぐ言葉が重要であり、妥当性を欠いた厳しい処分を求める安易な処罰感情は抑えるべきだと自戒しています(不正から目をそむけるべしという意味ではありません)。
こうしたことから、この出来事について今のところは静観しようと考えています。
2015/10/18
39)大津市政の現状 17 (職員の受け止め方)
ここまでブログを読まれた方の中には、「もし越市政に問題があるなら意見をいうのが部下の務めだろう。市長を支える職員は一体何をしているのか?」と疑問を感じられた向きもあるかも知れません。職員はトップである越市長をどのように考え、どのように接しているのでしょうか。
ここでは越市長と職員の関係について記述します。
大津市政の現状 17 (職員の受け止め方・物申す職員)
ここでは越市長と職員の関係について記述します。
大津市政の現状 17 (職員の受け止め方・物申す職員)
大津市政 17 ~職員の受け止め方~ 物申す職員
自治法上、職員は長の補助機関と定められ、市役所という組織の中で市長の指示のもと市長を補助するために働いており、そのことによって市民福祉の向上を図ることが本務です。
ですから必要であれば市長に意見を述べなければなりませんし、現に職員はそのように努めています。
職員が越市長に対し、協議やヒアリングなど様々な機会において自ら正しいと信じる意見を述べることや、客観的データを示して再考を求めることは日常的にありますし、面と向かって苦言を呈する職員も当然ながらいるのです。これは各種の協議録からも明らかです。
しかし、市長の権限は大変大きいものですし、さらに既に述べたような資質、姿勢などの問題があって、そうした職員の発言がまともな議論に発展し実を結ぶことは残念ながら多くないのです。
そればかりか、越市長の考えに疑問を呈し方針に待ったをかけると、協議の延長や持ち越し、度重なる資料提出指示、それらに伴う部内協議の反復などに結びつきかねません。
予算や人事の例に見るように組織の意思決定が遅れることもあり、それによる事務の増大が多くの部局に及ぶという「多忙化基調」の中にあって、職員の徒労感が増幅するだけという結果は回避したいところです。
最近では、越市長に何を申し上げても無駄であるとの諦めムードが支配的となり、表立った「抵抗」が減りつつあると聞きますが、もし本当にそうなら組織の劣化をもたらします(そうでないことを信じたいと思います)。
さて、ここでは、職員が越市長を諌める構図を説明しましたが、多数ある市の事業のうちには越市長と部局、現場の職員の意見の一致する場合も当然ながらあるわけで、そこで議論の遅滞が生じるものではありません。時には、にこやかに終了する協議もあるでしょう。
そもそも職員は大きな権限をもつ市長に逆らうことなく円滑に協議を終え、さっさと仕事を進めたいと願っているものです。市長に物申すのはよくよくの場合であり、その時に協議の真価とリーダーの器が問われることを越市長は認識される必要があると考えるものです。
さて、職員が市長をどのように見ているかについては「部局長意見集」にもよく表れています。
この意見集は、平成26年度当初にあたり各部局長が主要事業や市政運営に関して真摯かつ率直に意見を述べたもので、取り纏めを行ったのは当時、副市長であった私です。
私はこれを自分の最後の重要な仕事であると考え、意見集を越市長にお渡しして今後の庁内協議の素材として頂くようお願いしました。
その後、(平成26年5月31日朝)、この意見集を各部局長にも共有してもらうため、それぞれに庁内メールで送信しました。
6月2日(月曜)朝、登庁した部局長が各自の端末を開いて私のメールに気づき、中にはすぐに印刷した人もあったようですが、大半はざっと目を通して10時からの議会に出席しました。
その後にどういうわけか庁内ネットワーク上からこのメールが一斉に消えてしまい、プリントアウトした部局長にはそれを封筒に入れて提出するよう指示が出されたといいます。
この出来事(公文書の電磁記録の消滅現象)は私の退任後のことであり、複数の人からの伝聞情報です。メールを読んだかという私の質問に対し正直に答えざるを得なかった彼らの、いかにも気の毒そうな表情が記憶に残っています。
ちなみにブログ開始当初、閲覧が出来ないとのコメントが寄せられました。ことの真偽はいまだに不明ですが、当時私は、不思議な偶然が重なるものだと思いました。
消えてしまったものは仕方ないと諦め、私は、昨年6月18日、越市長あてに文書による意見具申を行いました。この具申書は、「提言1」と「提言2」からなっています。「提言2」は私が取りまとめたけれども消えてしまった「部局長意見集」を再録したもの、「提言1」は、広い分野にわたる「部局長意見集」のうち市政運営の在り方に関する意見だけをピックアップし、それに深く同感することから「私自身の意見」と位置づけなおして記述したものです。
このブログでは、「提言1」を関係資料として掲載しますが、これにより、平成26年当時の部局長が越市長をどのように見て、どのようにお支えしようとしたかが伺えると思います。
関係資料5(大津市政に関する意見具申)
ですから必要であれば市長に意見を述べなければなりませんし、現に職員はそのように努めています。
職員が越市長に対し、協議やヒアリングなど様々な機会において自ら正しいと信じる意見を述べることや、客観的データを示して再考を求めることは日常的にありますし、面と向かって苦言を呈する職員も当然ながらいるのです。これは各種の協議録からも明らかです。
しかし、市長の権限は大変大きいものですし、さらに既に述べたような資質、姿勢などの問題があって、そうした職員の発言がまともな議論に発展し実を結ぶことは残念ながら多くないのです。
そればかりか、越市長の考えに疑問を呈し方針に待ったをかけると、協議の延長や持ち越し、度重なる資料提出指示、それらに伴う部内協議の反復などに結びつきかねません。
予算や人事の例に見るように組織の意思決定が遅れることもあり、それによる事務の増大が多くの部局に及ぶという「多忙化基調」の中にあって、職員の徒労感が増幅するだけという結果は回避したいところです。
最近では、越市長に何を申し上げても無駄であるとの諦めムードが支配的となり、表立った「抵抗」が減りつつあると聞きますが、もし本当にそうなら組織の劣化をもたらします(そうでないことを信じたいと思います)。
さて、ここでは、職員が越市長を諌める構図を説明しましたが、多数ある市の事業のうちには越市長と部局、現場の職員の意見の一致する場合も当然ながらあるわけで、そこで議論の遅滞が生じるものではありません。時には、にこやかに終了する協議もあるでしょう。
そもそも職員は大きな権限をもつ市長に逆らうことなく円滑に協議を終え、さっさと仕事を進めたいと願っているものです。市長に物申すのはよくよくの場合であり、その時に協議の真価とリーダーの器が問われることを越市長は認識される必要があると考えるものです。
さて、職員が市長をどのように見ているかについては「部局長意見集」にもよく表れています。
この意見集は、平成26年度当初にあたり各部局長が主要事業や市政運営に関して真摯かつ率直に意見を述べたもので、取り纏めを行ったのは当時、副市長であった私です。
私はこれを自分の最後の重要な仕事であると考え、意見集を越市長にお渡しして今後の庁内協議の素材として頂くようお願いしました。
その後、(平成26年5月31日朝)、この意見集を各部局長にも共有してもらうため、それぞれに庁内メールで送信しました。
6月2日(月曜)朝、登庁した部局長が各自の端末を開いて私のメールに気づき、中にはすぐに印刷した人もあったようですが、大半はざっと目を通して10時からの議会に出席しました。
その後にどういうわけか庁内ネットワーク上からこのメールが一斉に消えてしまい、プリントアウトした部局長にはそれを封筒に入れて提出するよう指示が出されたといいます。
この出来事(公文書の電磁記録の消滅現象)は私の退任後のことであり、複数の人からの伝聞情報です。メールを読んだかという私の質問に対し正直に答えざるを得なかった彼らの、いかにも気の毒そうな表情が記憶に残っています。
ちなみにブログ開始当初、閲覧が出来ないとのコメントが寄せられました。ことの真偽はいまだに不明ですが、当時私は、不思議な偶然が重なるものだと思いました。
消えてしまったものは仕方ないと諦め、私は、昨年6月18日、越市長あてに文書による意見具申を行いました。この具申書は、「提言1」と「提言2」からなっています。「提言2」は私が取りまとめたけれども消えてしまった「部局長意見集」を再録したもの、「提言1」は、広い分野にわたる「部局長意見集」のうち市政運営の在り方に関する意見だけをピックアップし、それに深く同感することから「私自身の意見」と位置づけなおして記述したものです。
このブログでは、「提言1」を関係資料として掲載しますが、これにより、平成26年当時の部局長が越市長をどのように見て、どのようにお支えしようとしたかが伺えると思います。
関係資料5(大津市政に関する意見具申)
関係資料5 大津市政に関する意見具申
平成26年6月18日
大津市長 越 直美 様
茂 呂 治
大津市政に関する意見具申
平素は大津市政の推進にご尽力いただき敬意を表します。
私は、現在大津市民ではありませんが大津のまちを愛し市勢の発展を願う者の一人として、また、
元大津市職員として、下記の通り市長に対し市政運営に関する意見を申し上げます。
この意見書は提言1と提言2からなります。
提言1は、私が副市長であった2年間、部局長をはじめ多数の職員から市政運営等に関する真摯かつ率直な意見を聴取したことの集大成であり、同時に、職務を通じて有するに至った私自身の意見でもあります(提言2の一部と内容が重複しています)。
提言2は、私が本年4月10日に行った各部局長への市政運営等に関する意見照会の結果です。
これは照会文書からも明らかなように、部局長が各自の意見を全員で共有することにより市民サービスの向上を目ざすことを趣旨としており、これからの市政運営等に関する協議の素材ともなる重要な資料です。
そこで、部局長意見の照会と取りまとめを行い文責を有している私として、市長に対しこれを提出し庁内(部長会など)での共有化を図っていただこうとするものです。
この部局長意見は、すでに去る5月30日、私から市長に提出済みですが、職員の真摯な声に対して市長室で恩恵的に耳を傾けられるだけでは不十分であると考え、改めて提出させていただく意味もあります。
私は去る5月31日、庁内ネットワークを利用して部局長等にこの資料(すなわち提言2)を送信し所期の目的のとおり共有化を図ろうとしたのですが、6月2日、印刷した資料の回収が指示され、同時に送信メールがネットワーク上から削除されたと知りました。
誤解のないように申しますが、退職した職員が在職中の話を蒸し返すのではありません。
冒頭に記したとおり、今後の市政運営に関して意見を申し上げることが一つ、在職中に果たし得なかった最後の重要な仕事を完結させることが一つ、これだけであります。
なお、提言1と提言2の一部とは、結果的に内容が重複していますが趣旨が異なるのであえてそのまま記しています。提言2は当然ながら本年4月現在の内容です。
ご多用のところ恐縮ですが、これらの提言を市政運営に生かしていただきますようお願い申しあげます。
記
<提言1>
○市政の安定的な推進について
・市長、副市長が市政運営についての基本的な方針を共有し、部局長がこれをしっかりと受け止め、部局長の管理の下で関係所属が計画的に事業を推進していくという形で職員が仕事に邁進できる安定した市政運営を切に希望する。
・副市長をもっと生かしてはどうかと感じることが多い。市長が最高責任者で最高権力者であるのは自明のことであるが側近をいかに活用するかが大切ではないか。そのために副市長を任命されたのに現状ではもったいない気がする。
○組織の意思決定について
・市政の重要案件については最高意思決定機関である二役会議で決定することが庁議規定で定めら
れているが、ほとんど開催されておらず、課題によっては意思決定過程が不明確になったり遅延
することがある。二役会議を適切に開催する必要がある。
・本市は、行政課題の方向性を協議していく中で審議会という付属機関を活用し、外部意見や専門
的意見を聴取してきた。ところが最近の事業ヒアリングにおいては、市の方針決定は内部で決めればよいことで、必要に応じ専門家によるアドバイザー会議を適宜開催して意見を貰えばよいという見解が示される(公共施設のあり方、中学校給食のあり方、教育施設などの適正規模のあり方等々)
・市で方針を決めても次には対象地域にそれをもって説明に出向くわけであり、丁寧に手順を踏まないと、地元や対象者にとっては、いつ誰がそんなことを決めたのか、なぜ勝手に決めたのかという反発ばかりが先にたってしまう。すべてを付属機関で審議をというわけではないが、大きな施策、方針転換については慎重に審議すべきであり、拙速な判断を避けるためにも付属機関の設置については原課意見にも耳を傾けるべきだと思う
・教育委員会制度改革の要点は、首長権限の強化、教育内容への関与の強化だと考えるが、現時点ですでに本市はこれを先取りするような形になっており、首長が教育委員会の教育内容に過剰な関与を行っていると指摘されかねない状況である。理念や理想は別として現行法の趣旨を逸脱することのないような行政運営が重要である。
・教育委員と市長との協議は持たれているが、あるテーマについて議題としたこと、意見交換したこと、認識を共有したこと、合意したこと、方針決定されたことなどが個別に丁寧に仕分けをされずに、すべて合意済みの協議結果として情報発信されてしまうケースがある。
教育委員は、課題認識を市長と共有した場合でも、教育に関することは教育委員会が責任を持って審議し結論を出していくという姿勢で常々臨んでいる。
○指示、伝達の方法について
・市長から部局長(時には課長以下の職員)に対して、直接に特命という形で指示等をされる状況
が見受けられる。このことは迅速化、効率化の側面はあるものの、事業の決定や指示等に当たっ
ては、可能な限り二役で議論をした上で副市長から担当部局長(さらには課長)に指示する必要がある。逆の流れも含め、指示、報告、連絡、相談の流れを適切に行う必要がある。
・部局長どころか課長も知らないうちに、部下職員が市長室に呼ばれ、じきじきに事細かな指示を受ける状態が一般化している。市長がご自分の思いをダイレクトにすばやく伝えたいという意図は理解できるが、それが矢継ぎ早に繰り返されると組織にゆがみが出る。部下は上司に報告したり相談する暇もなく、上司の知らないうちに市長特命の事態が進んでしまい、部下は上司に対して後ろめたい気持ちになるし、市長の指示を実行に移すにあたって周囲の応援も助言も受けにくい。更に悪いことは、こうした指示が職務の押し付けになったりパワーハラスメントになりかねない。組織をもっとうまく使っていただきたい。
○職員の意欲の確保について
・職員は日ごろから真面目に仕事に向き合い取り組んでいると考えており、事業の推進や方針の転
換にあたっては、関係部局や所管課における事務事業のこれまでの経過を踏まえて議論を行い、部局長を中心に職員の納得の上で推進することが、職員の意欲を確保し、施策推進につながるものと考える。具体的な事業の推進にあたり実務的なことは所管部長に委ねて進める必要がある。
・人事異動、予算編成、残業手当縮減、補助金カットなど様々な事態を経験する中で、すべてトップの責任とは言わないがどれもマイナスの面を含んでおり、職員のモチベーションが下がっている。これを改善するのが部長の役割だが、部長の力だけではどうしようもないことが多く、部長としても限界を感じている。各部長は必死に踏みとどまっていると思うが、喜びをもって仕事に臨めないという声を聞く。
○行財政改革の推進について
・将来世代へのツケを減らし持続可能なまちづくりを進める上で行財政改革の推進は重要であり、公共施設やサービスの見直しを全庁的な視点で取り組んでいることは十分に理解している。
・しかし、大津市の特性、これまでの経過を踏まえると共に、地元や関係団体などの声を聞いて実態を踏まえ、十分な情報提供と説明責任を果たしながら進める必要がある。強引な改革はかえって目的達成の遠回りになる。
・本市はこれまでも他都市に先んじて十分に人員を削減し続けてきた。財政危機といいながらも毎年黒字決算が続いている状況の中で、人員をこれ以上削減し支出を抑制するだけが改革なのか疑問である。
・トップが力点を置かれる分野への重点配分は理解できるが、そのために他を削ってのしわ寄せではなく、人員増や予算増など前向きな改革を出来る状況に本市はあるのではないか。
・市長の民間活用の方向性はよく理解するし重要なことであるが、一つ一つの施設や事業の実態などを丁寧に診断して、社会的影響も考慮しながら検討、決定、推進を図るべきである。
こうした見極めもなく特定の施設について思いつきのように「民間譲渡」等という言葉を軽々しく外に向けて発信されないようにお願いしたい。
・公民館、文化会館、幼稚園、保育園、病院、ケアセンターなど各種施設のあり方が見直しの対象となっておりそのこと自体には問題がないが、すべて財政面だけからの判断であってはならない。
そもそも基本的に自治体の仕事は「いかに儲けるか」、ではなく「いかに使うか」である。
今の時代にあって儲けることも重視すべきだが税の再配分が基本であり、一つの事業の収支だけにとらわれたり、その施設のサービスを受けている市民の実態を軽視するようなことがあってはならない。
・仮に市民病院において「民間譲渡」の言葉が独り歩きをすれば、大学からの医師派遣に大きな影響がおき医療技術者に動揺が広がれば、慎重検討の結果として民間譲渡しかなかったとしても病院経営が成り立たなくなる惧れがある。またどのような形態が相応しいかはまさに議論を始めたところであり、市民生活に大きなかかわりがある医療について財政面だけからの評価による拙速な判断は避けるべきである
○職員定数の削減について
・職員定数については時間外勤務の縮減とあわせ、事務事業の見直し、定型的、専門的業務の民間委託の推進とあわせて総合的に検討すべきものであり、職員定数ありきで臨むべきでない
・特に26年度から再任用制度が始まり32名を雇用したことが定数に反映されている。こうした新たな状況も含めて職員定数のあり方そのものを検討する必要がある
・市長とっての市民に分かりやすい成果として職員削減や事業費削減という行革目標がある。実態を知らない市民の方に実態を十分に理解していただく努力をせず、単に何人減らした、何百万減らしたという数字だけを訴えていくことが本当に大津市のためになるのか十分に考えていただきたい。
○時間外勤務手当の縮減について
・今回の縮減手法は、これまで取り組んできた「仕事ダイエット運動」の本質は職員の健康管理より支出削減対策であったと職員に周知するようなものである。姑息な残業代稼ぎをしている職員がいるとしてもごく一部であり、職員の適切な業務対応には相応に応えてやりたい
・縮減は重要だが精神論でなく、事務事業の見直し、定型的、専門的業務の外部委託など業務量の削減、アウトソーシングとセットで裏づけをもって計画的に推進すべきである
・当初予算の枠内で管理し災害対応以外の例外を認めないとの通達は、職員の努力や業務実態に関わらず経費で管理するという誤ったメッセージを発信しモラルハザードを起しかねない懸念がある
・業務量が増える中で進めてきた職員削減や、個々の職員の努力を踏まえつつ、仕事についてのモチベーションを確保しながら、合理的に時間外削減の取組を進めるべきである
・特に福祉、介護等の分野は対象者が増加傾向にある中で制度改正や新たな計画策定が続き、慢性的な人手不足である。窓口や電話対応は丁寧さを要求され、早く済ませようと事務的に事を運ぶとトラブルになって労力が増すことも再三である。結果的に予算額を超える場合はサービス残業による労働基準法違反か管理職による対応しかない。
・市民要望の多様化、複雑化、職務内容の増大に比して職員数は削減の方向にあることにより、時間外勤務の増加が避けがたい傾向にある。殆どの職員は残業することを望んでおらず、組織の一員として市民の期待に応えるため職務を全うするため、職責を果たすためにやむを得ず時間外まで勤務していることを理解していただきたい。
・時間外縮減の取組みは必要であるが、明確な根拠と合意がなく20%の削減をトップの一存で強引に目標とするところに殆どの職員が納得していないと感じるし、このことにより仕事に対する士気や意欲に影響することを懸念する。副市長にもう少し頑張っていただき市長の考えを変えていただけるとよかったが残念である。二役会で議論されなかったならそれにも疑問が残る。
・重要なのは時間外勤務を減らすことで手当てを削ることではないはずである。誰も好き好んで家庭や健康を犠牲にして残業をしているのではない。なぜしなければならないか。各所属で工夫を、だけで済む話ではない。
・消防局職員は3分の2が24時間勤務の二交代制で、隔日勤務者は国民の休日については時間外対応として勤務している現状である。また、防火防災指導、救急救命訓練、地域消防訓練等について市民が直接依頼されて土日祝日関係なく日程調整せざるを得ないが、これらの対応中の災害を想定し、出来る限り非番(時間外)で対応している。これらは「義務的時間外」という性格のものであり、こうした事情について考慮いただきたい。
・「災害対応以外の時間外手当の補正は認めない」というのは、年度当初のスローガンとしては分かるし、我々もそれくらいの気持ちで臨むが、止むを得ない事情により現実的に枠内に収まりきれないことが明らかになった時にどうするのか。ただ働きさせるのか。ここは一つ冷静に9月補正のあたりに、その時の状況も踏まえて庁内で再協議することが適切ではないか。
○補助金の見直しについて
・統一基準を設け全庁的な見直しを行ったことの意義は各部局とも理解しているが、実際に2分の1に削減された軋みが現れ始めている。変革の過程の一時的現象で克服可能なものであるのか、団体の弱体化(まちづくり活動の衰退)につながることにならないかについて、確かな見極めが必要である。
・多くの補助金は、市民の代償を求めない自主的なまちづくり活動を呼び起こし促進する効果があり、市の直接事業と比較して費用対効果が高いことに注目すべきである。単に減らせばよいと言うものではない。
・事業によっては積極的に委託料的補助金に転換すべきである。
・「安全・安心」や青少年育成等を進めていく上で、自主防犯組織、防犯協会、交通安全協会、青少年育成市民会議、文化団体等は重要な協働のパートナーであり、協働による事業推進が不可欠である。過度な補助金カットにより担い手が育たず、担い手が不在となる。
・補助金は税金で弱いものを恩恵的に助けていると見るならば間違いである。補助金は、これからのまちづくりに欠かせない「市民協働」の重要なツールである。補助金をうまく使うことによってまちづくりが健全に進む。
○平成26年度予算査定について
・26年度当初予算の査定に際し、本市の財政運営を担っている総務部(財政課)の予算要求方針
を遵守して要求したが、多くの事業が小事業単位で保留となったうえ、市長査定において大きくカットされたものがあった。このことにより部局における真剣な議論が無駄なものに化す結果となった。特に協議を要する重要案件を除き、総務部(財政課)および各部局に任せていただきたい。
・時間がない中でトップが余りにも細かい指示を出されたため、それまでに部局で積み上げてきた多くの時間(努力と時間外手当)が無駄になり、議論は振り出しに戻り、余計に時間がなくなって大事なポイントの確認さえできずに予算が編成された。部局によっては要求もしていない予算を一方的につけていただく例もあった。次からは全員で改めていきたい。
・事業費の大きさは、まず第一に一般会計負担額、次に起債額、次に総事業費全体のボリュームで
判断するべきである。国庫負担まで算入された「見かけの事業費」の大きさだけで云々するのは
市として不適切である。市民の目が気になるなら、費用対効果をきちんと押さえ、市民に丁寧に説明をすべきである。
・斎場の施設改修は、事故が起きた場合の影響が大きいことに配慮すると共に長寿命化を目ざして
これまで限られた財源の中で必要最低限の整備を行ってきた。大津聖苑の制御盤および志賀聖苑
の火葬炉改修の当初予算がつかなかったが、これまでの計画が白紙に戻ると共に、心臓部である
制御盤の改修は絶対不可欠であり、ごみ焼却施設の二の舞にならないよう早急に対応する必要が
ある。
○平成27年度予算シーリングについて
・平成27年度当初予算額について25年度当初予算事業費ベースでシーリング設定するよう市長
から指示が出された。
・27年度当初予算は、市税収入の伸び等の歳入状況、義務的経費の増加、第3期実行計画の推進等の歳出状況を把握した上でプライマリーバランスとしてどのようなレベルが適切化を見極めて設定すべきものである。
・健全経営の結果、一定の事業費の伸びがあることは決して不適切なことではなく、市民サービスの提供として、市民への還元として必要であり、27年度当初予算の枠を最初から内外に示すことは適切ではない。
・シーリングの基準として平成25年度(2年前)の予算をベースとすることも不適切である
・シーリングはトップが独断で決定するものかと疑問に思う。色々な角度からの実態をふまえた検討や協議がないままに単にフィーリングで枠が決定され、部局に任せるので自由にやるようにと、もし言われたとしても、市民のためにいい仕事はできない。
○基盤整備への投資について
・大津が魅力ある都市となる政策の展開は政治家としての市長の手腕によるものである。
英語教育の充実も子育てやいじめ問題に関する様々な施策も市長の重要施策として推進されることに異存はない。
・一方で将来にわたる総合的な社会資本整備もまた重要である。道路や河川、公園などの整備は都市の魅力として、また市民生活の充実からも不可欠である。これまで本市は県内トップの位置を占めており下水道と公園は全国的にも高評価である。整備進捗を緩慢にし維持管理費予算を削ると「みすぼらしい町」になる。
・財政主導のこれまでのあり方を見直してでも、未来に向けた適正な投資には恐れず取り組むべきではないか。健全な自治体財政のために必ずしも起債残高ゼロを目指す必要はない。
・例えば、競輪場跡地は国体誘致の切り札として積極的展開が出来ないか。
大津駅も競輪場も本市の予算をかけないとの前提で、JRや県任せでは上質なものは出来ないし、主体性もなく、投資の決断と時期を誤ると街づくりの将来に禍根を残す。
・施設維持管理費と整備事業費への投資は、力を尽くすことで大津が輝く魅力の都市となる。本市
の未来は子育てからのアプローチも重要だが「器」としてのまちも大変重要である。
県都大津は様々な分野で都市間競争に勝ち続けトップランナーであるべきと考えている。このこ
とは職員のモチベーションの一つのより所でもある。
・市民要望は多様であり、特に本市におけるインフラ整備に対する要望は非常に根強くある。
国庫などの財源が確保できるものについては、実質公債費比率や将来負担比率を注視しながら、事業予算総額に縛られることなく必要性や事業実施を判断する必要がある。
・現状では、市長マニフェストの一部にしか光が当たっていないように見受ける。市民への約束事項はもっと広範であり、限られた財源であるがもう少しバランスよく進めるべきと考える。
・いじめ対策や子育て支援、観光振興、環境施策などについては予算面でも人的配置でも重点が置かれているが、これと比べインフラ整備を担っている部署への予算、人員配置は大いに見劣りがする。集中と選択の結果かもしれないが改めてバランスを確認することが重要である。
・国庫補助財源の活用が出来るものは、必要となる一般財源は事業費の概ね4.5%である。
特に道路は、社旗亜経済活動を支える最も基礎的かつ重要な社会基盤資本であり、また災害時の安全で安心な生活を確保するためにも必要である
○関係機関、団体等との関係について
・本市のまちづくりをそれぞれの立場から支えている警察・JA等の機関、自治連・防犯団体・文化スポーツ団体・日赤奉仕団等の団体との関係が以前に比べてたいへん疎遠になっている。市政のサポーターであるこれらの団体との関係改善を図るべきである
・関係改善には担当課による丁寧な対応と必要な予算の裏づけが必要であるが、トップが短時間でもよいので気軽に面会に応じることで雰囲気が大きく好転すると考える。お金も大事だが、気持ちの部分も重要である。
・当部では過去から将来にわたって安全で安定した廃棄物処理をすべての市民に約束する必要があり、そのための必要な仕組みは時間をかけて作られてきている。日常的に職員が地域の方々と課題の解決方法を見出すために協議を重ねており、こうした取組を通じ地域、特に代表の方々から信頼をいただいている。この信頼が、時に一部の感情的なご意見にも耐えて成果を出すためのエネルギーになっている。地域の信頼を損なうと仕事を進める術がなくなり、営々と積み上げてきた努力も無になる。
○トップの姿勢について
・大津市のこれまで歩んできた歴史と先人の努力を尊重する謙虚な姿勢が必要である。物事を短絡的にとらえないで多面的に分析することが大切。パフォーマンスが過ぎることが懸念される。
・本市は、県内市町の中ですべての分野でリーダー的存在であると認められてきたからこそ、市長会の中でも存在感を発揮し、一方で県市連携も円滑であった。今後もこうしたポジションを維持するためには、普段から本市の自覚的な行動が必要である。
・市民と市長、双方からの「信頼」をいただければ、大半の課題や苦労など楽しみながら仕事をこ
なすタフな職員がそろっている。
・重要な会議等への積極的な出席をお願いしたい。他都市との連携協力により取り組む広域的な事業は、道づくりから医療福祉まで大変に多い。要望活動なども共同で行ってこそ効果が上がる。
県内他市は、本市の牽引力に期待をしており、常に大津市長の出席、欠席が注目されている。
出席している他の首長から、なかば諦めの声、批判の声が出ており、市長を支える本市執行部に対しても市政が問われている
・市長の施策方針等に対する職員の声に耳を傾けていただきたい。意見や苦言を呈する職員を大切にしていただきたい。イエスマンは何も考えていないことに繋がる。また楽である。逆に言えば市長はそれだけ大きな権限を付与されているという事実に対し、市長自身が自らの権限を恐れる位の謙虚な気持ちで望んでいただきたい。
職員が一生懸命職務に取り組む故の苦言であると認識していただきたい。
・頑として自分の意見を曲げようとされない市長の姿勢はさまざまな弊害をもたらしている。
しばしば行われる「市長協議」は、結果的に市長意見の押し付けになっている場合が多い。
それは時間とエネルギーの浪費であり、職員に疲労感と徒労感を与えるばかりである。市民サービスに費やされるべき多くの努力が内向きの作業に取って代わられたら市民にとっては損失である。
・協議は議会向けへのアリバイつくりでは決してない。第一線で市民や団体とやり取りをしている職員の声に耳を傾けられ、十分に咀嚼した上で結論を導くべきである。そうでなく、全ては選挙で選ばれた市長が決定し、補助職員たる副市長以下は黙って従えばよいとのお考えであるなら、内外に対してそのことをはっきりと言明されるほうがよいと考える。それならそれで職員にとっても割り切りの仕方があるし、時間外勤務の縮減にも繋がると思う。
・職員数の削減や給料、手当の削減を重視しておられるが、十分に科学的な分析をなされた上でのことか、あるいは一つのトレンドとしてお考えなのであろうか。雇用者として職員の健康や生活のことを大切に考えられることはないのか。企業であれば業績不振にも繋がりかねないことだと考える。
・人事配置(人材登用)についても、職員を「消耗品」ではなく生身の人間として見ていただいているだろうか。現実問題として多くの職員の士気は低下しており、仮に一部の幹部が頑張ったとしても気力の薄れた組織には創造性も突破力も期待できない。傷ついた組織はトップが変わられたあともすぐには元に戻らない。丁寧に職員を扱っていただきたいと心から願う。
・時には職員を守るというメッセージを出していただきたい。職員は行革の対象ではなく、市長の補助機関であり市の財産である。市民目線ということは職員を敵として見ることではないはずだが、市長自身が職員を味方であると認識されていないのではないか。なんだか市長が悪い身内のことを外部に恥じているようにしか思えないことがある。不祥事が続いたし、このことは市民にたいへん申し訳なく、職員全体で乗り越えていくべきことだが、そのためにもトップの揺るぎない信念がほしい。
・副市長もふくめた職員に対する信頼感がまったく感じられない。何もかも市長が査定し判断され
ることは時間のロスであり無理があると感じる。一定の信頼感のもとで職員にもやる気を起させ
る配慮が必要であると感じる。現場や市民対応など職員が身をもって対応しているため職員の声
もしっかり聞いていただきたい。拙速に判断や結果を求めておられると感じる
・トップとしてなすべきことは他にあるのではないか。例えば市を代表して出席すべき市長会や自
治創造会議への出席、自治連合会、女性会、社会福祉協議会、防犯協会、交通安全協会、警察署さらには関係企業に対する丁寧な対応などを行っていただきたい。市長のご多忙は分かるが、出席のための時間を生み出す努力をされるべきと思う。副市長や部長では市長の替わりにならないことが多い。市長が出てこそ意味があることを理解していただきたい。
・消防協力団体である消防団、防火保安協会、女性防火クラブ連合会等に対しても、もう少し行事等に直接出席いただき、日ごろのお礼や意見交換を行っていただきたい。
・何はともあれ、会議や団体などとの約束の時間は絶対に守るべきである。多忙であっても少なくとも5分前には入室すべきと考える。重要な会議や式典に遅刻したり、間際にばたばた入場するようでは市の代表として残念である。
また、市長があまりにも多忙なのは適切な状態ではない。もう少し時間を確保することが重要であり、そのためには協議のあり方や意思決定の仕方などを見直していく必要があるのではないか。
現状では、ここぞという必要な時にじっくりした判断をすることが難しい状況である。さらに、市長が過労になられないような配慮が必要である。
・職員と対話するランチミーティングも過去にはなかった試みで良い事だと思うが、時々、社長が
社内を回るように庁舎内を歩いて見られてはいかがか。職員がどんな環境でどんな表情で働いて
いるかご覧いただくことは意味があるし、職員の励みにもなる。地下駐車場と執務室と会議室の往復だけでは勿体ないという気がする。
・職員は市民のために働いているが、そのためにまず市長のために働いている。
だから、本来、市長に尽くしたい、この人のためにいい仕事をしたいと思っている。この人が好きだ、この人に言われたら何でもやるという程の気持ちになれたら、職員は大きな喜びをもって働けるし、よりよい仕事ができる。市長が職員をうまく使って市民のためにいい仕事をされることを望む。他の部局長も自分の切実な問題として望んでいると思う。
※以下に提言2(部局長意見集)が続きますが、市の事業や課題に関する内部見解
などが含まれているため掲載しません。ここでは部局長意見を踏まえた私(茂呂)
の意見具申(提言1)のみ掲載しました。
38)教育行政はこれで終わります
教育行政と首長との関係に始まり給食や公民館にまで話が及んで長くなりました。後半部分で私は社会教育の重要性について書きましたが、例えば今の公民館のありかたについて言えば、これを全面的に良しとしているわけではありません。館によるバラツキがあり新たな運営を追求する姿勢に欠ける施設もあるようです。施設運営はとかく守りに入る傾向がありますが、公民館に限らず他の施設においても、アンテナを磨いて市民のニーズにしっかり応える努力を怠らないでほしいと思います(偉そうなことをいって済みません)。
一方で首長は教育の専門家である必要はないものの、学校教育、社会教育、より広くは文化政策等に関する哲学、見識のようなものが求められると思います。
また、この中で「いじめ対策」を一つの項目として取り上げませんでした。
その契機となり象徴ともなった大津市における無念かつ重大な事件を行政関係者は忘れてはならないし、現実に忘れることは到底不可能であろうと考えます。
しかしながら、
①関係者(ご家族はもちろん友人、同窓生など出来事を痛切に記憶している方々)の心の傷がまだ癒えるはずもないこと、
②いじめ対策は「事案の早期発見と発生後の速やかな対応」に劣らず「未然防止ための日常的な働きかけ(命を大切にする教育の充実など)」が重要です。前者に比べると後者が十分だと言えないことから総合的評価は少し待ちたいと思うこと、
③こうした事情にも関わらずマスコミが紋切り型の報道に走りがちであることなどを勘案し、あえてここでは触れませんでした。
子どもは大人を見て育ちますが、大人の世界においてもパワハラやセクハラなどが後を絶ちません。社会全体で次世代を守り育てる努力が求められていると思います。
さて、教育委員会と首長が互いの意見を述べ知恵を出し合う、互いの責任を果たすという関係性は戦後の教育委員会制度において大切にされてきた考え方だと思います。
それなのになぜ大津市においてはこれほどまでに両者の対立構造が露わとなるのか。
越市長のたっての要請で就任された教育長と市長の関係が悪化し、ついには教育長の退任にまで至るのか。
教育委員会もよりよい教育を目ざす努力を続けるべきですが、予算権や任命権を有する越市長におかれてもこのことを真摯に考えられるべきでしょう。制度改革論者であっても、今は今の制度に基づいて行動すべきであることはコンプライアンス以前の常識問題です。
また制度は、誰がそのポストに座ってもうまく行くよう設計されなければなりません。一方でそのポストにつく人には、制度の趣旨を忘れることなく自らの適格性を自問し続ける姿勢が求められると思います。
これでいったん教育シリーズを終わります。
次は越市長と職員の関係について記述します(歴代市長との比較についてもその中でふれることができればと思っています)。
一方で首長は教育の専門家である必要はないものの、学校教育、社会教育、より広くは文化政策等に関する哲学、見識のようなものが求められると思います。
また、この中で「いじめ対策」を一つの項目として取り上げませんでした。
その契機となり象徴ともなった大津市における無念かつ重大な事件を行政関係者は忘れてはならないし、現実に忘れることは到底不可能であろうと考えます。
しかしながら、
①関係者(ご家族はもちろん友人、同窓生など出来事を痛切に記憶している方々)の心の傷がまだ癒えるはずもないこと、
②いじめ対策は「事案の早期発見と発生後の速やかな対応」に劣らず「未然防止ための日常的な働きかけ(命を大切にする教育の充実など)」が重要です。前者に比べると後者が十分だと言えないことから総合的評価は少し待ちたいと思うこと、
③こうした事情にも関わらずマスコミが紋切り型の報道に走りがちであることなどを勘案し、あえてここでは触れませんでした。
子どもは大人を見て育ちますが、大人の世界においてもパワハラやセクハラなどが後を絶ちません。社会全体で次世代を守り育てる努力が求められていると思います。
さて、教育委員会と首長が互いの意見を述べ知恵を出し合う、互いの責任を果たすという関係性は戦後の教育委員会制度において大切にされてきた考え方だと思います。
それなのになぜ大津市においてはこれほどまでに両者の対立構造が露わとなるのか。
越市長のたっての要請で就任された教育長と市長の関係が悪化し、ついには教育長の退任にまで至るのか。
教育委員会もよりよい教育を目ざす努力を続けるべきですが、予算権や任命権を有する越市長におかれてもこのことを真摯に考えられるべきでしょう。制度改革論者であっても、今は今の制度に基づいて行動すべきであることはコンプライアンス以前の常識問題です。
また制度は、誰がそのポストに座ってもうまく行くよう設計されなければなりません。一方でそのポストにつく人には、制度の趣旨を忘れることなく自らの適格性を自問し続ける姿勢が求められると思います。
これでいったん教育シリーズを終わります。
次は越市長と職員の関係について記述します(歴代市長との比較についてもその中でふれることができればと思っています)。
2015/10/17
37)大津市政の現状16(教育行政・社会教育)
しばらく間があきましたが今回は社会教育(生涯教育)です。
「大津市政」のページで同じテーマにつき正確を期すため法文を引用して記述していますが,
ここでは平たく書きます。もっぱら一般行政事務に従事してきた者にとって教育行政はなかなか難しいです。もし不十分な箇所があれば詳しい方の補足コメントをお願いいたします。
ここでは平たく書きます。もっぱら一般行政事務に従事してきた者にとって教育行政はなかなか難しいです。もし不十分な箇所があれば詳しい方の補足コメントをお願いいたします。
全国民を対象として組織的に行われる教育活動のうち「学校教育」を除くすべてが「社会教育」です。幼児から高齢者までの生涯にわたっての学び(学習、趣味、文化、スポーツ等々の広範な分野における活動)を支援するわけですから守備範囲の広さには驚かされます。
主な関連施設としては公民館、図書館、博物館、体育館、プールなどがあり、取組みとしてはこうした施設を活用した講座、展示、体験提供などがあります。美術展や写真展も文化振興に寄与する社会教育の一環です(これらの例示はごく一部に過ぎません)。
主な関連施設としては公民館、図書館、博物館、体育館、プールなどがあり、取組みとしてはこうした施設を活用した講座、展示、体験提供などがあります。美術展や写真展も文化振興に寄与する社会教育の一環です(これらの例示はごく一部に過ぎません)。
社会教育は、古くは国民教化の手段とされましたが、今日では国民が生涯を通じた学びを通して心身共に豊かに生きるための環境整備として国や地方公共団体の任務が決められており、行政のたいへん重要な仕事の一つです。
専門家からはよく「社会教育はいくらやってもやり過ぎということはない」との指摘があり、現場スタッフからは「日々の仕事を通して重要性を実感している」という声を多く聞きます。そして市民からは、社会教育全般でなく個別の体験にもとづく評価として、肯定的なご意見がたいへん多いと思います。
しかし社会教育が重要であるといっても、稼いで食べるという日々の暮らしに直結せず(もっとも法によれば市町村教育委員会の事務には職業教育も含まれます)、カルチャーセンターやスポーツジムなど民間サービスは花盛りの今日、地方財政が厳しいなかで、ともすれば首長が手を抜きたいという誘惑にかられる行政分野かも知れません。
いま大津市では、公民館や図書館のあり方の見直しが進められています。
「学び」や「文化」などに関する施策の評価は、十人十色の個々人の知的満足度や「身についた感」を社会的・総量的に計測しようとする試みでもあり、誰もが納得する客観的指標の設定はなかなか困難であると思います。だからといって「無鑑査」で事業を進めていいはずがありません。
適正評価に向けた努力は継続しつつ、こうした施策の見直しにおいては、利用者の声、現場の声に十分に耳を傾け、法の趣旨を意識しつつ、十分な協議・検討をおこなうことが大切であると考えます。
大津市政の現状16(教育行政・社会教育)
専門家からはよく「社会教育はいくらやってもやり過ぎということはない」との指摘があり、現場スタッフからは「日々の仕事を通して重要性を実感している」という声を多く聞きます。そして市民からは、社会教育全般でなく個別の体験にもとづく評価として、肯定的なご意見がたいへん多いと思います。
しかし社会教育が重要であるといっても、稼いで食べるという日々の暮らしに直結せず(もっとも法によれば市町村教育委員会の事務には職業教育も含まれます)、カルチャーセンターやスポーツジムなど民間サービスは花盛りの今日、地方財政が厳しいなかで、ともすれば首長が手を抜きたいという誘惑にかられる行政分野かも知れません。
いま大津市では、公民館や図書館のあり方の見直しが進められています。
「学び」や「文化」などに関する施策の評価は、十人十色の個々人の知的満足度や「身についた感」を社会的・総量的に計測しようとする試みでもあり、誰もが納得する客観的指標の設定はなかなか困難であると思います。だからといって「無鑑査」で事業を進めていいはずがありません。
適正評価に向けた努力は継続しつつ、こうした施策の見直しにおいては、利用者の声、現場の声に十分に耳を傾け、法の趣旨を意識しつつ、十分な協議・検討をおこなうことが大切であると考えます。
大津市政の現状16(教育行政・社会教育)
大津市政16 ~教育行政~ 社会教育(生涯学習)
社会教育に関しては教育基本法の精神にのっとり、社会教育法において地方公共団体の責務、市町村の事務などが規定されています。
社会教育は、「学校教育法に基づく学校の教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行う組織的な教育活動」と定義されており、その奨励に必要な施設の設置・運営、集会の開催、資料作製・頒布等の方法によって、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して自ら生活に即する文化的教養を高めるような環境を醸成するよう努めなければならないとして、生涯学習の振興にも言及しています。
併せて地方公共団体は、社会教育が学校教育や家庭教育と密接に関連していることから、「学校教育との連携確保に努め家庭教育の向上に資することとなるような必要な配慮と、学校、家庭及び地域住民その他の関係者相互間の連携及び協力の促進に資するよう努めなければならない」とされています。
そしてこれに基づく市町村の事務として社会教育法第5条に19項目が掲げられています。
学校現場においてコミュニティスクールの導入がクローズアップされているように、学校教育と家庭、地域関係者等との連携は今日的な課題解決に向けての新たな方向性だと言えます。
しかし、少子高齢化、核家族化などによる社会関係の希薄化、子育て不安、児童虐待など家庭機能の弱体化が進む現代の社会では、社会教育を行う役割までが学校現場に求められています。
学校は第一に教科教育等を施して人格形成を行う場所であり、保護者、家庭、地域の役割をすべて補完できる場所ではありません。しかし今日では、個々の家庭の個別的な問題にまで教職員が深く関わらざるを得ない状況にあります。
こうした時代に社会教育が青少年及び成人に対しての組織的な教育活動という役割を果たすためにも、市は社会教育団体の育成や家庭教育の振興のために積極的な役割を果たすべきであり、「地域人材の学校」とも言うべき公民館等の社会教育施設の重要性は増しています。
こうした中、越市長は行革の一環として公民館の見直しに乗り出されました。
ここで越市長と教育委員会との協議経過を振り返っておきたいと思います。
平成24年度事務事業評価で越市長が公民館のあり方検討を指示されたことを受け、平成25年1月、教育委員会は社会教育委員会議へ「公民館のあり方」を諮問、同会議で5回の協議が持たれ、併行して公民館長による検討会議も開催されました。
同年10月に答申が出され、社会教育委員会議と教育委員との意見交換の後、3回の教育委員会協議会を経て、12月、「大津市の公民館のあり方について~地域の魅力が輝く大津の社会教育~」が議決され、市長との協議が行われました。
協議内容の詳細は省きますが、教育委員会で議決された「公民館のあり方」の中に「一学区一公民館の体制を維持していく」との記載があったことが問題になりました。
越市長は、支所の統廃合と合わせて公民館の整理も進める考えから、「支所をなくすことは人を置かないということであり、仮に公民館を残しても人を残すことはない」という主張をされました。
これに対し教育委員会からは、市長指示により検討を重ね議論を尽くして議決した経緯を踏まえ「これは公民館のあり方に関する教育委員会の考え方である。公共施設すべてのあり方に関する全体の方向性が決まれば当然それに従う。文言削除や修正の必要はない」との説明がありました。
ここでは双方の見解の紹介にとどめていますが最後は越市長が、「まずは行革の観点を考えている。公民館を残すか残さないかは最終的には予算の問題であり、予算権限は市長にある」と主張され、教育委員会の「あり方報告書」に市長意見を付記する形で決着することとなりました。
先日、ごみ処理施設に関する投稿コメントで「検討過程の中で越市長の強引な誘導や捻じ曲げはなかったか」とのお尋ねがあり、「その件に関してはそのようなことはなかった」と私はお答えしました。この問答を想起された方もあるかも知れません。
行革の項目で見たとおり越市長の改革は経費節減最優先で進められています。
確かにそれも大事ですが、すでに指摘したとおり行革には複数の重要な観点があります。
また同時に、大切な手順を省いてはならないと考えます。すなわち、現場の声、地域の声に耳を傾け、現状をどのように変えるのか(或いは変えないのか)について多数の知恵を集めて議論するという手順です。
地域の力の低下が懸念される今日、公民館は単体として重要な存在であることに加え、大津市では支所と共に市民センターを構成し、学区単位のまちづくりの拠点として機能してきた実績があります。変わりゆく時代の中で永久にこの形がいいとは言えませんが、より望ましい形を展望するにあたって、是非ともいま述べた手順を踏むことが必要ではないでしょうか。
社会教育に限っても図書館、博物館、芸能会館、少年自然の家等々、大切な施設は他にも多数あります。改革は力技(ちからわざ)の側面も必要ですが、いま現に存在する施設(資産)の見直しは丁寧に進めることが大切であると考えます。
社会教育は、「学校教育法に基づく学校の教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行う組織的な教育活動」と定義されており、その奨励に必要な施設の設置・運営、集会の開催、資料作製・頒布等の方法によって、すべての国民があらゆる機会、あらゆる場所を利用して自ら生活に即する文化的教養を高めるような環境を醸成するよう努めなければならないとして、生涯学習の振興にも言及しています。
併せて地方公共団体は、社会教育が学校教育や家庭教育と密接に関連していることから、「学校教育との連携確保に努め家庭教育の向上に資することとなるような必要な配慮と、学校、家庭及び地域住民その他の関係者相互間の連携及び協力の促進に資するよう努めなければならない」とされています。
そしてこれに基づく市町村の事務として社会教育法第5条に19項目が掲げられています。
学校現場においてコミュニティスクールの導入がクローズアップされているように、学校教育と家庭、地域関係者等との連携は今日的な課題解決に向けての新たな方向性だと言えます。
しかし、少子高齢化、核家族化などによる社会関係の希薄化、子育て不安、児童虐待など家庭機能の弱体化が進む現代の社会では、社会教育を行う役割までが学校現場に求められています。
学校は第一に教科教育等を施して人格形成を行う場所であり、保護者、家庭、地域の役割をすべて補完できる場所ではありません。しかし今日では、個々の家庭の個別的な問題にまで教職員が深く関わらざるを得ない状況にあります。
こうした時代に社会教育が青少年及び成人に対しての組織的な教育活動という役割を果たすためにも、市は社会教育団体の育成や家庭教育の振興のために積極的な役割を果たすべきであり、「地域人材の学校」とも言うべき公民館等の社会教育施設の重要性は増しています。
こうした中、越市長は行革の一環として公民館の見直しに乗り出されました。
ここで越市長と教育委員会との協議経過を振り返っておきたいと思います。
平成24年度事務事業評価で越市長が公民館のあり方検討を指示されたことを受け、平成25年1月、教育委員会は社会教育委員会議へ「公民館のあり方」を諮問、同会議で5回の協議が持たれ、併行して公民館長による検討会議も開催されました。
同年10月に答申が出され、社会教育委員会議と教育委員との意見交換の後、3回の教育委員会協議会を経て、12月、「大津市の公民館のあり方について~地域の魅力が輝く大津の社会教育~」が議決され、市長との協議が行われました。
協議内容の詳細は省きますが、教育委員会で議決された「公民館のあり方」の中に「一学区一公民館の体制を維持していく」との記載があったことが問題になりました。
越市長は、支所の統廃合と合わせて公民館の整理も進める考えから、「支所をなくすことは人を置かないということであり、仮に公民館を残しても人を残すことはない」という主張をされました。
これに対し教育委員会からは、市長指示により検討を重ね議論を尽くして議決した経緯を踏まえ「これは公民館のあり方に関する教育委員会の考え方である。公共施設すべてのあり方に関する全体の方向性が決まれば当然それに従う。文言削除や修正の必要はない」との説明がありました。
ここでは双方の見解の紹介にとどめていますが最後は越市長が、「まずは行革の観点を考えている。公民館を残すか残さないかは最終的には予算の問題であり、予算権限は市長にある」と主張され、教育委員会の「あり方報告書」に市長意見を付記する形で決着することとなりました。
先日、ごみ処理施設に関する投稿コメントで「検討過程の中で越市長の強引な誘導や捻じ曲げはなかったか」とのお尋ねがあり、「その件に関してはそのようなことはなかった」と私はお答えしました。この問答を想起された方もあるかも知れません。
行革の項目で見たとおり越市長の改革は経費節減最優先で進められています。
確かにそれも大事ですが、すでに指摘したとおり行革には複数の重要な観点があります。
また同時に、大切な手順を省いてはならないと考えます。すなわち、現場の声、地域の声に耳を傾け、現状をどのように変えるのか(或いは変えないのか)について多数の知恵を集めて議論するという手順です。
地域の力の低下が懸念される今日、公民館は単体として重要な存在であることに加え、大津市では支所と共に市民センターを構成し、学区単位のまちづくりの拠点として機能してきた実績があります。変わりゆく時代の中で永久にこの形がいいとは言えませんが、より望ましい形を展望するにあたって、是非ともいま述べた手順を踏むことが必要ではないでしょうか。
社会教育に限っても図書館、博物館、芸能会館、少年自然の家等々、大切な施設は他にも多数あります。改革は力技(ちからわざ)の側面も必要ですが、いま現に存在する施設(資産)の見直しは丁寧に進めることが大切であると考えます。
2015/10/14
36)アクセスが10万を超えました
8月半ばに「炎暑の夏、1本目のボトルを流します」と記してブログを始めてから2か月たちました。皆さまのお顔が見えず着地点も定かならぬ手探りのスタートでしたが、多くの閲覧と250件を超えるコメントを頂き、発信者として本当に有難いことと思っています。
「多けりゃいいというものではない」とのご指摘に深くうなずきつつ、多数のコメントが真面目な調子で書かれていることに私は安堵を覚えています。
当初ご説明したとおり、誹謗中傷や名誉棄損と思われるものは削除しましたがその数は3~4件どまり、それ以外は全て掲載しています。それらの内容をどう受け止めるかは私を含む読者に委ねられた問題だと考えます。
ブログ開始当初は市長選挙を明確に意識していませんでしたが、その後、投開票日が1月17日と決まり、先日は立候補を表明する方も現れるといった状況の進展をふまえ、選挙との関係でブログの終期を設定することもありか、と思うにいたりました。
というのは、ブログの主目的が「大津のまちづくりを考える情報広場とすること」である以上、市政運営に関する民意が示される市長選挙が大きな節目となるのが当然であること、もう一つは、私がひと通りの記述を終えるのがちょうど12月あたりになりそうだという事情によります。
正確な期日を決めた訳ではありませんが、あと2~3か月、皆さまのご参加をいただきながらこの場を運営していきたいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。
記事を書かない間にたくさんのコメントをいただきました。
例により個別の論及は致しませんが、二、三記します。
「市長が聞く耳を持たないのは職員の努力や情熱の不足である」とのご意見があり、もと職員(それも近くで働いていた幹部職員)として、たいへん耳が痛い思いで受け止めました。なぜならこの方は、しごく当然の常識的な考えをおっしゃっていると理解できるからです。
しかし、と続けざるを得ないのですが、越市長になかなか耳を傾けて頂けないことが組織運営に良からぬ影響を及ぼしていると私は考えていますし、他の多数の職員にも議員にも同様の見方があることは事実です(このことについては既に記事に書き、掲載した市長への手紙にもある通りです)。
誤解のないよう申し上げますが、市長にご自分の考えを捨てて職員の言う通りにして欲しい等と求めるものではありませんし、職員として行うべき努力(正しく分かりやすい提案を情熱をもって行う努力)を放棄してよいと主張するものでもありません。
外部の目と内部の目が同一である訳がありませんが、それにしてもその較差の大きさを改めて痛感させられるご意見でした。
「ごみ処理問題」について再三にわたり詳細なご指摘を頂いています。
少なくとも施設の比較検討書作成の過程においては、この方の憂慮されるような「越市長の強引な誘導や結果の捻じ曲げ」はなかったという私の認識を申し上げましたが、それ以外のご指摘についてデータを持たず十分なお話ができません。恐縮ですが直接お尋ねいただくなど別の方法もお考えいただきたいと存じます。
プラスチック系ごみの分別をやめるという話は私も知りませんでした。老朽化著しい炉は大丈夫か、環境保全面からは逆行ではないかという印象はもちますが、これらはまず第一に検討するはずの事項ですから、きちんとした見通しのもとに適切に進められるのであろうと思っています。
「山田市長や目片市長と比較して越市長はどうか」というお尋ねもありました。
3人の市長の市政運営の方法やまちづくりについての比較検討は興味深いテーマですが、なかなかの大仕事です。ひと通りの記述を終え余力があれば、その時代の総合計画やマニフェストなどと関連づけながら記述したいと(いまのところは)思っています。
今日はこれで終わって、次回にはぜひ教育シリーズに戻りたいと思います。
「多けりゃいいというものではない」とのご指摘に深くうなずきつつ、多数のコメントが真面目な調子で書かれていることに私は安堵を覚えています。
当初ご説明したとおり、誹謗中傷や名誉棄損と思われるものは削除しましたがその数は3~4件どまり、それ以外は全て掲載しています。それらの内容をどう受け止めるかは私を含む読者に委ねられた問題だと考えます。
ブログ開始当初は市長選挙を明確に意識していませんでしたが、その後、投開票日が1月17日と決まり、先日は立候補を表明する方も現れるといった状況の進展をふまえ、選挙との関係でブログの終期を設定することもありか、と思うにいたりました。
というのは、ブログの主目的が「大津のまちづくりを考える情報広場とすること」である以上、市政運営に関する民意が示される市長選挙が大きな節目となるのが当然であること、もう一つは、私がひと通りの記述を終えるのがちょうど12月あたりになりそうだという事情によります。
正確な期日を決めた訳ではありませんが、あと2~3か月、皆さまのご参加をいただきながらこの場を運営していきたいと考えております。どうぞよろしくお願いいたします。
記事を書かない間にたくさんのコメントをいただきました。
例により個別の論及は致しませんが、二、三記します。
「市長が聞く耳を持たないのは職員の努力や情熱の不足である」とのご意見があり、もと職員(それも近くで働いていた幹部職員)として、たいへん耳が痛い思いで受け止めました。なぜならこの方は、しごく当然の常識的な考えをおっしゃっていると理解できるからです。
しかし、と続けざるを得ないのですが、越市長になかなか耳を傾けて頂けないことが組織運営に良からぬ影響を及ぼしていると私は考えていますし、他の多数の職員にも議員にも同様の見方があることは事実です(このことについては既に記事に書き、掲載した市長への手紙にもある通りです)。
誤解のないよう申し上げますが、市長にご自分の考えを捨てて職員の言う通りにして欲しい等と求めるものではありませんし、職員として行うべき努力(正しく分かりやすい提案を情熱をもって行う努力)を放棄してよいと主張するものでもありません。
外部の目と内部の目が同一である訳がありませんが、それにしてもその較差の大きさを改めて痛感させられるご意見でした。
「ごみ処理問題」について再三にわたり詳細なご指摘を頂いています。
少なくとも施設の比較検討書作成の過程においては、この方の憂慮されるような「越市長の強引な誘導や結果の捻じ曲げ」はなかったという私の認識を申し上げましたが、それ以外のご指摘についてデータを持たず十分なお話ができません。恐縮ですが直接お尋ねいただくなど別の方法もお考えいただきたいと存じます。
プラスチック系ごみの分別をやめるという話は私も知りませんでした。老朽化著しい炉は大丈夫か、環境保全面からは逆行ではないかという印象はもちますが、これらはまず第一に検討するはずの事項ですから、きちんとした見通しのもとに適切に進められるのであろうと思っています。
「山田市長や目片市長と比較して越市長はどうか」というお尋ねもありました。
3人の市長の市政運営の方法やまちづくりについての比較検討は興味深いテーマですが、なかなかの大仕事です。ひと通りの記述を終え余力があれば、その時代の総合計画やマニフェストなどと関連づけながら記述したいと(いまのところは)思っています。
今日はこれで終わって、次回にはぜひ教育シリーズに戻りたいと思います。
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友人の撮影による秋景色です |
2015/10/11
35)時代に逆行?
晴耕雨読の身といいながら千客万来、友人知人の冠婚葬祭、小さな庭の毛虫退治、煙突掃除など結構多忙のうちに、在職時には思いもよらない新たな時間を過ごしています。その合間をぬってブログを進めようとしていたところ長文のコメントを頂いたのでお礼かたがた感想を記します。
投稿者が「時代に逆らってもがいている」とおっしゃるので、このところ晴耕モードに入っていた私としては、ついバケツの中の毛虫を連想してしまいました。私は退治する側なのですが、、、。
結論から言うと、一般論としては同感する部分もあるが具体論としては反対です。ご指摘にそって記述します。
<公務員の常識は民間人の非常識であることが多い>
公務員は日々地域住民の声を聞き、その反映に努めています。民間のことをよりよく知っているのはむしろ公務員の方かも知れません。そして民間人の声が公共的な見地から明らかにおかしいという場合だってあるのです。
しかし世間には「お役所仕事」という言葉があります。前例踏襲・縦割り・横並び・事なかれ主義的な傾向に対する批判です。こうした傾向は、平等・公平・均等・法令遵守などの公務員への要請に応えようとする動機に根差したものでもあり長期的には改善されつつある、というのが私の意見ですが、いずれにしても「お役所仕事」脱却は重要だと考えています。
公務員の常識と民間人の常識が背反する具体例を挙げていただくとさらに議論が深まるでしょうが、ここは投稿者の印象を反映した枕ことばとして受け取らせていただきます。
<本ブログでは過去の否定を進められている大津市長を非難する内容になっている>
越市長が本気で過去の否定をなさる考えなら、就任後すぐに「大津市基本構想」と「大津市総合計画」を全面改訂していなければなりません。しかしそもそも越市長のマニフェスト自体が大津市総合計画および国土利用計画をベース(参考書)としていることは余りに明らかです。
こし直美後援会ニュースで主な取組みの成果として報告されているものの多くは、目片市長から受け継がれたものです。
しかしそれで差し支えないと私は考えます。
先人の築いてきた有形無形の遺産の上に今の世代があります。
受け継ぐものと捨てるものを見極める際に集団の英知を活用されるよう、私は越市長に申し上げているだけです(関係資料「退任式の挨拶」でも申し上げました)。
投稿者が指摘される過去の否定とは、過去の行政運営手法の抜本的見直しが必要であるというより根本的な問いかけが含まれています。
大事なご指摘だと思いますが、その結果が「行政の縮小」だというご意見は、もっと詳しく伺わなければ何とも言いようがありません。
これに関する私見として、これまで日本が息せき切って追いかけてきた「改革」という思想そのものを、人口減少時代において問い直す必要があるという気がしています。感覚的に思うだけでまだまとまった考えではありませんが。
いずれにしても私は越市長の「改革の内容」の全部を否定しているものではないこと、「改革の手法」には大いに疑問を感じていることを申し上げたいと思います。すべてこのブログの中に書いているつもりです。
<日本全体が財政赤字で一市町村だけが財政的にマシでも継続可能ではない>
これはまったく同感です。
では一市町村の首長としてはどうするべきか。国の負担軽減のため地方交付税や国庫補助金を返上するのでしょうか?もし「過去の行政運営の否定」によって一市町村の財政がうまく行ったと仮定しても、それが直ちに全国共通の処方箋にはなり得ません。一人の首長として日本の財政赤字をどうすればいいのでしょうか?放置するとジリ貧です。私にも正解は分かりませんが二つのことは言えると思います。
まず、市域で行われる国の事業、国からの財政支援などはしっかりと頂いて市のために使う。それによって持続可能なまちづくりを目ざす。他都市と共存共栄が図れる取組みは当然ながら積極的に行う。
もう一つは、滋賀県市長会・全国市長会・滋賀県などとの連携、また地元選出議員の協力などを得ながら大きなグループにまとまり、地方財政ひいては国家財政の運営について国への具体的な提言を行う。
いずれもあまり見栄えがしませんが、一首長として国家財政に関与する手段はこのようなものでしょうか。
人口減少局面に入って「住民に選ばれる町」の競争がさらに激化するでしょう。まず「わが町」の
手当てが必要だと思います。
<現在は如何に自動車の数を減らし道路整備を不要にするかが重要なテーマである>
理念としてはよく分かるのですが、特に地方都市において電車やバスなどの公共交通機関が利用者減少にあえいでいます。自治体が税金を出して維持に努めても効果が薄く負のスパイラルに入っているところが多いのです。
少なくとも今後30~40年、ガソリン車がエコカー(電気や水素エネルギー)に置き換わるでしょうが乗用車の減少は人口減少に追随する程度、すなわちとても道路整備を不要にするまでは進まないと思います。高齢のドライバーもさらに増えるでしょう。
大津の幹線道路は、南北に細長い地形に合うよう湖岸寄りと山手寄りに二本の幹線道路を縦に走らせ、それを適当な箇所で横につなぐ、いわゆる「梯子型」の整備を進めてきました(国道、県道については促進する立場、市道については自ら進める立場で事業推進)。
道路整備は生活環境改善、温暖化対策、流通コスト低減などから重要ですが、特に近年は東海、東南海地震を想定した防災対策の面がクローズアップされています。
しかしながら山手幹線である伊香立浜大津線は未完成、堅田駅裏手から新しい住宅地を抜けて伊香立に向かう道路(琵琶湖大橋から京都へ抜ける渋滞道路に接続)は計画図面があるだけ、瀬田地域でも国道1号を横断して中心部と瀬田丘陵を結ぶ路線が手つかず、大津・山科間の道路整備は「長年の懸案」から一歩も動いていません。
こうした中、進捗した例としては、湖西バイパスの延伸、国道161号の浜大津交差点改良、疏水から北国町を通って東へ進む都市計画道路拡幅、近江大橋西詰から西武方面へ向かう湖岸道路の拡幅、石山駅から瀬田川方面に向かう通称天津通りの拡幅などがありますが、いずれも渋滞対策、通学児童の保護、地域環境の改善などに大きく役立っています。
これらは道路の新設・拡幅であり狭義の道路整備ですが、すこし広げて考えると、主要な橋の防災対策(崩壊や落橋防止)も欠かせませんし、住宅地の細い生活道路の側溝に蓋がけをして有効幅員を広げ消防車や救急車が通りやすくすることも切実な課題です。
人口減少社会において都市が活力を維持していくためには住みよい利便性の高いまちづくりが必要であり、特に大津のように自然・歴史・文化・大都市圏へのアクセスの4拍子がそろったまちで市内交通が改善されると流入人口と観光客の増加に大きく寄与すると考えます。
そしてそのために交通網(鉄道と道路)の整備およびそれを効率よく利用するコンパクトシティの都市計画が今後当分の間は有効である、というのが私の意見です。
そこで「道路整備はまちづくりの原点であると言っても過言ではありません」と書いたところ、自動車が普及しつつある時代の話であるとのご指摘をいただきました。
大津市政8~財政運営と予算編成~のページを読み直して頂きたいのですが、私は、「越市長の歳出バランスが悪い。扶助費がふくらむ中でも子ども厚遇、高齢者冷遇である。反面、維持補修費や道路整備費が少ない」という文脈の中で道路整備の意義を記述しました。そのフレーズを一
つだけ取り出して時代錯誤のようにおっしゃるのは如何なものでしょうか。
市道延長はおよそ1,500キロですが、今は既存道路の舗装修理(維持補修)だけでも思うようにできない状況です。補修が遅れると傷みは早まります。限られた予算の中で担当課が手を尽くしていますが、市道の穴が事故に直結した事例が後を絶ちません。
修繕すらこのような状況ですから道路整備が高度成長時代のように進められるわけがありません。多くの計画が無期延期あるいはお蔵入りです。
人口減少時代を迎え長期的にはそれでも良いと思います。しかし道路の修繕は毎年計画的にやるべきだし、新設は、あれも捨てこれも捨ててギリギリに絞り込んだ中ででも進めるべきであると思います。
限られた予算の中で、土木費、扶助費、衛生費などのバランスを考えながらまちづくりを進めることが重要であると考えます。
<時間外手当削減指示により各職員が勤務時間を減らせるよう工夫するのが社会人としての態度である>
一般論はその通りでしょう。
そもそも大津市は、人員削減を積極的に進めてきましたが、志賀町との合併や県からの権限移譲の際に算数上は増えるはずの定員を、歯を食いしばって逆に減らしたことがありました(人数までは記憶していません)。その分を非正規雇用や委託でなんとか補ってきた経緯があります。
また、常時、病休、産休、育休があります。一方で業務は年々、複雑になっています。
結果として、市民ニーズに応えるためには残業も当たり前という状況になっています(健全な姿ではありませんが)。
こうした綱渡り状態ですから、もし何か(インフルエンザの流行、プラントの故障、人身事故などの処理、会計検査等々)があれば、即、時間外勤務が増加します。また、市役所全体のスケジュールに合わせて作業をする幾つかの課(財政課や人事課など)は時間外勤務を予めおり込ん仕事をしています。
ところが越市長は災害を除いて一切の例外を認めず前年の8割程度の時間外勤務手当で打ち切るという方針を示されました(それが私の辞任の直前であったため、私は慎重に考えられるようう意見を申し上げただけで終わっています)。
確かに時間外勤務が増え続けるのは大きな課題であり、これまでしている工夫だけでは追いつかないので抜本的には仕事を減らすか人を増やすしかないと思われます。
越市長は仕事を減らすべしというお考えですが、市民と向き合う現場としては「これ以上やりません」と簡単に言うわけにはいきません。
この取組みがどうなったか年度末の状況を私は把握していませんが、持ち帰り仕事が増えていると複数の部署の話を聞いたのでそのとおり記述したわけです。
時間外勤務を減らす努力は継続しつつも、真にやむをえないケースについては時間外勤務を認め手当を支給することが社会人としての態度であると私は考えます。
<小学校時代には国語が英語よりも重要だと考えている人が大津市の教育委員や役所職員に多いのであれば、丁寧に英語教育の充実を訴えても進歩が得られない可能性が高いことは上記の文が証明しています>
上記の文とは、大津市政13~英語教育~の中の記述です。
投稿者は英語を長年習ったにもかかわらず英語が出来ない日本人が大半であるという状況を指摘してこのように主張しておられます。
確かに日本人の英語力は習った年数と比較して大変低いと指摘されています。語学は子どものうちからやる方が身につくともよく言われます。「英語教育は早く始めた方がいいいようだ」という意見は多くの人が持っていると思います。
しかし、「小学校時代には国語が英語よりも重要だと考えている人」は、大津市ばかりでなく日本中の教育委員や役所職員の圧倒的多数であると私は思います。
投稿者は、「小学校時代には国語より英語が大事だ」とお考えのように読めるのですが、私の誤読でしょうか。
このことに関する私の意見は既に「英語教育」の中で書いた通りですからここで繰り返しません。
<大津市長が企業経営と自治体運営を同一視した根拠が書かれていない>
これは、大津市政4~市長としての姿勢~の記述に関するご指摘です。
私としてはこの項目のそこら中に書いているつもりですが筆力不足であったようです。世間には二つの経営を同じように見立てる考え方がありますが、責任の有限性、無限性という違いが決定的であると思います。越市長が「文句があるなら私を選挙で落とせばよい」という趣旨の発言をされることが雄弁に物語っているように、越市長は自らの責任を限定的にしか考えておられません。
そして効率の追求を尺度とする企業的観点から公共サービスの改革を志しておられます。したがって企業経営と自治体運営を同一視していると記述しました。
これについてはこのブログのもっと後の方で別の角度から記述する予定です。
<最も重要な点は~中略~過去の否定をしていること。そして新しい状況への適応をしていることである>
投稿者はコメントの冒頭で「過去の否定を進めている大津市長」を支持するご意見ですから、ここで仰る「過去の否定」とは行政運営のことではなく、私の副市長としての職務のことであろうと推測します。
その上で言うと、私は副市長として力不足であったゆえ辞任した。辞任後1年半、大津市政の状況を見た上で「情報広場」とすべくブログを始めた。辞任からブログ開始にいたる一連の行動の動機は、大津のまちづくりに資することを目的とする、ということです。
「新しい状況への対応」とは意味がよく分かりませんが、分かったとしても私としては上記の説明を繰り返すのみです。
「アクセス数が増えたことを喜び、、」というご指摘もありました。
しかし、今回、この方のご意見を頂いたことで私もまた重ねて説明する機会を得ることが出来ました。投稿者が納得されたかどうか分かりませんが、少なくとも読者にとっては、外部の方から一般論を踏まえた問いかけがあり、もと内部の者である私が主として個別的な見地からお答えするという問答になりました。
私は冒頭に書いた通り、さまざまな情報や意見が行きかって、まちづくりを考える視点が重層的になればよいと考えています。
こうしたことの結果として増えたアクセスを喜んだとしても、罰は当たらないのではないでしょうか。もうすぐアクセスが10万に届きそうです。いましばらく皆さまの閲覧、コメントを頂きながら継続したいと思います。
教育シリーズは次回にいたします。
結論から言うと、一般論としては同感する部分もあるが具体論としては反対です。ご指摘にそって記述します。
<公務員の常識は民間人の非常識であることが多い>
公務員は日々地域住民の声を聞き、その反映に努めています。民間のことをよりよく知っているのはむしろ公務員の方かも知れません。そして民間人の声が公共的な見地から明らかにおかしいという場合だってあるのです。
しかし世間には「お役所仕事」という言葉があります。前例踏襲・縦割り・横並び・事なかれ主義的な傾向に対する批判です。こうした傾向は、平等・公平・均等・法令遵守などの公務員への要請に応えようとする動機に根差したものでもあり長期的には改善されつつある、というのが私の意見ですが、いずれにしても「お役所仕事」脱却は重要だと考えています。
公務員の常識と民間人の常識が背反する具体例を挙げていただくとさらに議論が深まるでしょうが、ここは投稿者の印象を反映した枕ことばとして受け取らせていただきます。
<本ブログでは過去の否定を進められている大津市長を非難する内容になっている>
越市長が本気で過去の否定をなさる考えなら、就任後すぐに「大津市基本構想」と「大津市総合計画」を全面改訂していなければなりません。しかしそもそも越市長のマニフェスト自体が大津市総合計画および国土利用計画をベース(参考書)としていることは余りに明らかです。
こし直美後援会ニュースで主な取組みの成果として報告されているものの多くは、目片市長から受け継がれたものです。
しかしそれで差し支えないと私は考えます。
先人の築いてきた有形無形の遺産の上に今の世代があります。
受け継ぐものと捨てるものを見極める際に集団の英知を活用されるよう、私は越市長に申し上げているだけです(関係資料「退任式の挨拶」でも申し上げました)。
投稿者が指摘される過去の否定とは、過去の行政運営手法の抜本的見直しが必要であるというより根本的な問いかけが含まれています。
大事なご指摘だと思いますが、その結果が「行政の縮小」だというご意見は、もっと詳しく伺わなければ何とも言いようがありません。
これに関する私見として、これまで日本が息せき切って追いかけてきた「改革」という思想そのものを、人口減少時代において問い直す必要があるという気がしています。感覚的に思うだけでまだまとまった考えではありませんが。
いずれにしても私は越市長の「改革の内容」の全部を否定しているものではないこと、「改革の手法」には大いに疑問を感じていることを申し上げたいと思います。すべてこのブログの中に書いているつもりです。
<日本全体が財政赤字で一市町村だけが財政的にマシでも継続可能ではない>
これはまったく同感です。
では一市町村の首長としてはどうするべきか。国の負担軽減のため地方交付税や国庫補助金を返上するのでしょうか?もし「過去の行政運営の否定」によって一市町村の財政がうまく行ったと仮定しても、それが直ちに全国共通の処方箋にはなり得ません。一人の首長として日本の財政赤字をどうすればいいのでしょうか?放置するとジリ貧です。私にも正解は分かりませんが二つのことは言えると思います。
まず、市域で行われる国の事業、国からの財政支援などはしっかりと頂いて市のために使う。それによって持続可能なまちづくりを目ざす。他都市と共存共栄が図れる取組みは当然ながら積極的に行う。
もう一つは、滋賀県市長会・全国市長会・滋賀県などとの連携、また地元選出議員の協力などを得ながら大きなグループにまとまり、地方財政ひいては国家財政の運営について国への具体的な提言を行う。
いずれもあまり見栄えがしませんが、一首長として国家財政に関与する手段はこのようなものでしょうか。
人口減少局面に入って「住民に選ばれる町」の競争がさらに激化するでしょう。まず「わが町」の
手当てが必要だと思います。
<現在は如何に自動車の数を減らし道路整備を不要にするかが重要なテーマである>
理念としてはよく分かるのですが、特に地方都市において電車やバスなどの公共交通機関が利用者減少にあえいでいます。自治体が税金を出して維持に努めても効果が薄く負のスパイラルに入っているところが多いのです。
少なくとも今後30~40年、ガソリン車がエコカー(電気や水素エネルギー)に置き換わるでしょうが乗用車の減少は人口減少に追随する程度、すなわちとても道路整備を不要にするまでは進まないと思います。高齢のドライバーもさらに増えるでしょう。
大津の幹線道路は、南北に細長い地形に合うよう湖岸寄りと山手寄りに二本の幹線道路を縦に走らせ、それを適当な箇所で横につなぐ、いわゆる「梯子型」の整備を進めてきました(国道、県道については促進する立場、市道については自ら進める立場で事業推進)。
道路整備は生活環境改善、温暖化対策、流通コスト低減などから重要ですが、特に近年は東海、東南海地震を想定した防災対策の面がクローズアップされています。
しかしながら山手幹線である伊香立浜大津線は未完成、堅田駅裏手から新しい住宅地を抜けて伊香立に向かう道路(琵琶湖大橋から京都へ抜ける渋滞道路に接続)は計画図面があるだけ、瀬田地域でも国道1号を横断して中心部と瀬田丘陵を結ぶ路線が手つかず、大津・山科間の道路整備は「長年の懸案」から一歩も動いていません。
こうした中、進捗した例としては、湖西バイパスの延伸、国道161号の浜大津交差点改良、疏水から北国町を通って東へ進む都市計画道路拡幅、近江大橋西詰から西武方面へ向かう湖岸道路の拡幅、石山駅から瀬田川方面に向かう通称天津通りの拡幅などがありますが、いずれも渋滞対策、通学児童の保護、地域環境の改善などに大きく役立っています。
これらは道路の新設・拡幅であり狭義の道路整備ですが、すこし広げて考えると、主要な橋の防災対策(崩壊や落橋防止)も欠かせませんし、住宅地の細い生活道路の側溝に蓋がけをして有効幅員を広げ消防車や救急車が通りやすくすることも切実な課題です。
人口減少社会において都市が活力を維持していくためには住みよい利便性の高いまちづくりが必要であり、特に大津のように自然・歴史・文化・大都市圏へのアクセスの4拍子がそろったまちで市内交通が改善されると流入人口と観光客の増加に大きく寄与すると考えます。
そしてそのために交通網(鉄道と道路)の整備およびそれを効率よく利用するコンパクトシティの都市計画が今後当分の間は有効である、というのが私の意見です。
そこで「道路整備はまちづくりの原点であると言っても過言ではありません」と書いたところ、自動車が普及しつつある時代の話であるとのご指摘をいただきました。
大津市政8~財政運営と予算編成~のページを読み直して頂きたいのですが、私は、「越市長の歳出バランスが悪い。扶助費がふくらむ中でも子ども厚遇、高齢者冷遇である。反面、維持補修費や道路整備費が少ない」という文脈の中で道路整備の意義を記述しました。そのフレーズを一
つだけ取り出して時代錯誤のようにおっしゃるのは如何なものでしょうか。
市道延長はおよそ1,500キロですが、今は既存道路の舗装修理(維持補修)だけでも思うようにできない状況です。補修が遅れると傷みは早まります。限られた予算の中で担当課が手を尽くしていますが、市道の穴が事故に直結した事例が後を絶ちません。
修繕すらこのような状況ですから道路整備が高度成長時代のように進められるわけがありません。多くの計画が無期延期あるいはお蔵入りです。
人口減少時代を迎え長期的にはそれでも良いと思います。しかし道路の修繕は毎年計画的にやるべきだし、新設は、あれも捨てこれも捨ててギリギリに絞り込んだ中ででも進めるべきであると思います。
限られた予算の中で、土木費、扶助費、衛生費などのバランスを考えながらまちづくりを進めることが重要であると考えます。
<時間外手当削減指示により各職員が勤務時間を減らせるよう工夫するのが社会人としての態度である>
一般論はその通りでしょう。
そもそも大津市は、人員削減を積極的に進めてきましたが、志賀町との合併や県からの権限移譲の際に算数上は増えるはずの定員を、歯を食いしばって逆に減らしたことがありました(人数までは記憶していません)。その分を非正規雇用や委託でなんとか補ってきた経緯があります。
また、常時、病休、産休、育休があります。一方で業務は年々、複雑になっています。
結果として、市民ニーズに応えるためには残業も当たり前という状況になっています(健全な姿ではありませんが)。
こうした綱渡り状態ですから、もし何か(インフルエンザの流行、プラントの故障、人身事故などの処理、会計検査等々)があれば、即、時間外勤務が増加します。また、市役所全体のスケジュールに合わせて作業をする幾つかの課(財政課や人事課など)は時間外勤務を予めおり込ん仕事をしています。
ところが越市長は災害を除いて一切の例外を認めず前年の8割程度の時間外勤務手当で打ち切るという方針を示されました(それが私の辞任の直前であったため、私は慎重に考えられるようう意見を申し上げただけで終わっています)。
確かに時間外勤務が増え続けるのは大きな課題であり、これまでしている工夫だけでは追いつかないので抜本的には仕事を減らすか人を増やすしかないと思われます。
越市長は仕事を減らすべしというお考えですが、市民と向き合う現場としては「これ以上やりません」と簡単に言うわけにはいきません。
この取組みがどうなったか年度末の状況を私は把握していませんが、持ち帰り仕事が増えていると複数の部署の話を聞いたのでそのとおり記述したわけです。
時間外勤務を減らす努力は継続しつつも、真にやむをえないケースについては時間外勤務を認め手当を支給することが社会人としての態度であると私は考えます。
<小学校時代には国語が英語よりも重要だと考えている人が大津市の教育委員や役所職員に多いのであれば、丁寧に英語教育の充実を訴えても進歩が得られない可能性が高いことは上記の文が証明しています>
上記の文とは、大津市政13~英語教育~の中の記述です。
投稿者は英語を長年習ったにもかかわらず英語が出来ない日本人が大半であるという状況を指摘してこのように主張しておられます。
確かに日本人の英語力は習った年数と比較して大変低いと指摘されています。語学は子どものうちからやる方が身につくともよく言われます。「英語教育は早く始めた方がいいいようだ」という意見は多くの人が持っていると思います。
しかし、「小学校時代には国語が英語よりも重要だと考えている人」は、大津市ばかりでなく日本中の教育委員や役所職員の圧倒的多数であると私は思います。
投稿者は、「小学校時代には国語より英語が大事だ」とお考えのように読めるのですが、私の誤読でしょうか。
このことに関する私の意見は既に「英語教育」の中で書いた通りですからここで繰り返しません。
<大津市長が企業経営と自治体運営を同一視した根拠が書かれていない>
これは、大津市政4~市長としての姿勢~の記述に関するご指摘です。
私としてはこの項目のそこら中に書いているつもりですが筆力不足であったようです。世間には二つの経営を同じように見立てる考え方がありますが、責任の有限性、無限性という違いが決定的であると思います。越市長が「文句があるなら私を選挙で落とせばよい」という趣旨の発言をされることが雄弁に物語っているように、越市長は自らの責任を限定的にしか考えておられません。
そして効率の追求を尺度とする企業的観点から公共サービスの改革を志しておられます。したがって企業経営と自治体運営を同一視していると記述しました。
これについてはこのブログのもっと後の方で別の角度から記述する予定です。
<最も重要な点は~中略~過去の否定をしていること。そして新しい状況への適応をしていることである>
投稿者はコメントの冒頭で「過去の否定を進めている大津市長」を支持するご意見ですから、ここで仰る「過去の否定」とは行政運営のことではなく、私の副市長としての職務のことであろうと推測します。
その上で言うと、私は副市長として力不足であったゆえ辞任した。辞任後1年半、大津市政の状況を見た上で「情報広場」とすべくブログを始めた。辞任からブログ開始にいたる一連の行動の動機は、大津のまちづくりに資することを目的とする、ということです。
「新しい状況への対応」とは意味がよく分かりませんが、分かったとしても私としては上記の説明を繰り返すのみです。
「アクセス数が増えたことを喜び、、」というご指摘もありました。
しかし、今回、この方のご意見を頂いたことで私もまた重ねて説明する機会を得ることが出来ました。投稿者が納得されたかどうか分かりませんが、少なくとも読者にとっては、外部の方から一般論を踏まえた問いかけがあり、もと内部の者である私が主として個別的な見地からお答えするという問答になりました。
私は冒頭に書いた通り、さまざまな情報や意見が行きかって、まちづくりを考える視点が重層的になればよいと考えています。
こうしたことの結果として増えたアクセスを喜んだとしても、罰は当たらないのではないでしょうか。もうすぐアクセスが10万に届きそうです。いましばらく皆さまの閲覧、コメントを頂きながら継続したいと思います。
教育シリーズは次回にいたします。
2015/10/08
34)トウモロコシ?!?
多数の閲覧とコメントを頂きどうもありがとうございます。私がご意見に逐一お答えすると「情報広場」ならぬ「対話」になってしまうので「ほどほど」が肝要と心得ますが、この辺りで少し思うところを記します。
(1)途中からご覧になっている方へ改めてブログの趣旨を一言
このブログはトウモロコシ(倒茂呂越)であると喝破(?)された方があります。めっそうもないと思いつつ、それにしても上手いことをおっしゃると感じ入りました。
冒頭にも書いた通り、私は、越市長の市政運営の実態を知る者として情報発信することが大津のためになると信じてブログを始めました。ただし人により様々な見方がありますから、頂いたご意見をすべて掲載して「情報広場」とし、大津のまちづくりに関する情報・意見交換の場となることを心から願う次第です。
先日、元副市長が「暴露」記事を書いているとの報道がありました(報道の内容は私のブログに沿ってきちんと書かれていました)。おそらく驚かれた市民から市役所にお怒りの電話の2、3本はかかったかも知れません。もし対応された職員がおられたら許してください。
「暴露」を広辞苑で引くと「さらけだすこと」とあります。さらけだすことが適切か不適切か、正しいか正しくないかは中身と目的によります。こうしてブログをするに至った事態については残念に思いますが、私は正しい事をしていると考えています。
どうせならもっとズバリと書けとのご意見もありましたが、事実とその解釈を淡々と記述するというスタイルを守りたいと思います。簡明な文を心がけていますがなかなか難しいものです。ある友人からブログよりコメントの方が面白いと言われて複雑な心境になりました。
トウモロコシは私の関知しない世界であり、有権者が判断されることであると思っています。
途中からの方は、お時間があれば最初からブログ各ページをご覧いただきたいと存じます。
(2)議会の対応について
越市長の市政運営のあり方は、これまでから議会で問われてきました。いま4年任期の終わりにさしかかり全体評価を行う時期ということで、議会の動向を注目する(或いは疑問視する)コメントがいくつかありました。私もまた2元制の一方の市民代表である議会への期待をもっていますが、それはページを改め後日きちんと書きたいと思っています。
(3)中学校給食について
多くのご意見がありましたが、ここでは内部協議のあり方について書きます。
従来行われていた給食の内部検討は、老朽化している東部調理場の建て替え計画に合わせ中学校給食(1万食分)を一緒に作るとすると用地は確保できるか?といったレベルのもので、実施を前提とした具体的検討に至っていなかったはずです。
今回実施を表明するにあたっては、土地確保の確かな見通し(議会承認なく先行取得できないのであくまで「見通し」ですが)、ざっとした財政見通し、主な課題と対応の整理、ニーズの予備調査くらいは必要であったと考えます。これらは市民説明のうえでも重要な事柄ですがスケジュール的に見て恐らく不十分であったと思われます。
細かい課題は事業を進めながら解決していけばいいのですが、スタート時の行政の意思決定に際して重要ポイントの熟議が無かったのではないか?越市長の「思いの強さ」ばかりで発表に突き進んだのではないか?と私は懸念しています。
本年8月1日に発行された「こし直美後援会NEWS」には、主な取組みとして「中学校給食実施へ(現在準備中)」と記載されています。
これが誠実な表記であるためには、行政がきちんとした協議・検討を行っていることと、その結果をしっかり市民に説明していることの2点が必要ですが実態は果たしてどうか。「空手形」を懸念するコメントもありますので、ぜひとも越市長のご説明を伺いたいと思います。
(4)ごみ焼却施設について
もと職員であったといわれる方から長文のコメントをいただきました。廃棄物処理に詳しい方で、越市長のごみ行政について深く憂慮しておられるお気持ちが伝わってきました。また、別の方から私の事情説明を促すお声もあったので少し記します。
ご存じのとおり、ごみ処理は「焼却」と「埋め立て」を2本柱です。
南部に大きな最終処分場(埋め立て処分場)があるため、大津のごみ処理体制が北部、中部をあわせた3箇所体制であることに変わりはありません。ただし目片市長の時代、関係者のご尽力によりようやく建設同意を頂いた南部の焼却施設(南部クリーンセンター)の計画を白紙撤回したわけですから、「焼却施設2か所体制」に大きく舵を切ったのは越市長ということになります。
投稿者は2か所体制にするなら北部と南部にすべきであったとのご意見ですが、ごみの発生源である住宅や事業所が中部に多く南部に少ないことから収集運搬のコストなどを考慮して、北部と中部の2か所にすることとなりました。これにより南部での用地購入が不要になりましたが、中部では敷地を生み出すため温水プールを移転させることとなりました。
このプールは設備面の老朽化が進んでおり、アクセスや土地利用の面からも移転が望ましいと考えていましたが、私の在任中は結論が出ていませんでした。その後、余熱利用について蓄熱物質を運搬するプランも検討されたことと思いますが詳細は私には分かりません。
2か所か3か所かという比較検討の過程において、越市長が強引に誘導したり検討結果を捻じ曲げたりされることはありませんでした。もしそんなことがあれば私が阻止しています。まったく別の案件の際、越市長が委託先と直接やりとりされたことがあったようですが、幸いごみ施設に関してはなかったと思います。
むしろ私が問題であると考えていたのは、地元の方々の信頼されるような市長としての姿勢です。この件で様々な協議を行った地元の方々が、為政者としての責任感や配慮の不足について大きな懸念を表明されました。環境部職員の努力もあり最終的にはご理解をえて事業が進みつつありますが、今後とも各種の地元協議が続きます。市長が誠実に丁寧に地域と向き合う姿勢が重要だと思います。
問題のもう一つは、市の職員(内部の技術者)に対する信頼が薄く、外部のコンサルタントばかり信頼される傾向が目立ったという点です。結果的に内部の試算と外部の試算が一致して市長が納得された訳ですが、このために多くの時間と職員の手間暇が浪費されました。
高度に専門的あるいは特殊なものは外注すればいいのですが、もっと職員を信頼し活用しなければ勿体ないかぎりです。越市長の職員不信は一貫しているように思います。
いまのごみ焼却施設はいずれも古くなっており、巨額の改修費を使いながら運転しています。
そのためにも早くスムーズに新たな施設を作ることが重要ですが、ここで指摘したような地元協議や内部検討に長い時間を要したことは出費にもつながる問題です。もちろんこれらはコストの比較検討の対象外です。
私の手元に関係資料がありませんので、具体数値を出していませんが取りあえず私の見解とさせていただきます。ご存知の方から補足していただくと助かります。
今回は教育シリーズまで手が回りませんでした。
(1)途中からご覧になっている方へ改めてブログの趣旨を一言
このブログはトウモロコシ(倒茂呂越)であると喝破(?)された方があります。めっそうもないと思いつつ、それにしても上手いことをおっしゃると感じ入りました。
冒頭にも書いた通り、私は、越市長の市政運営の実態を知る者として情報発信することが大津のためになると信じてブログを始めました。ただし人により様々な見方がありますから、頂いたご意見をすべて掲載して「情報広場」とし、大津のまちづくりに関する情報・意見交換の場となることを心から願う次第です。
先日、元副市長が「暴露」記事を書いているとの報道がありました(報道の内容は私のブログに沿ってきちんと書かれていました)。おそらく驚かれた市民から市役所にお怒りの電話の2、3本はかかったかも知れません。もし対応された職員がおられたら許してください。
「暴露」を広辞苑で引くと「さらけだすこと」とあります。さらけだすことが適切か不適切か、正しいか正しくないかは中身と目的によります。こうしてブログをするに至った事態については残念に思いますが、私は正しい事をしていると考えています。
どうせならもっとズバリと書けとのご意見もありましたが、事実とその解釈を淡々と記述するというスタイルを守りたいと思います。簡明な文を心がけていますがなかなか難しいものです。ある友人からブログよりコメントの方が面白いと言われて複雑な心境になりました。
トウモロコシは私の関知しない世界であり、有権者が判断されることであると思っています。
途中からの方は、お時間があれば最初からブログ各ページをご覧いただきたいと存じます。
(2)議会の対応について
越市長の市政運営のあり方は、これまでから議会で問われてきました。いま4年任期の終わりにさしかかり全体評価を行う時期ということで、議会の動向を注目する(或いは疑問視する)コメントがいくつかありました。私もまた2元制の一方の市民代表である議会への期待をもっていますが、それはページを改め後日きちんと書きたいと思っています。
(3)中学校給食について
多くのご意見がありましたが、ここでは内部協議のあり方について書きます。
従来行われていた給食の内部検討は、老朽化している東部調理場の建て替え計画に合わせ中学校給食(1万食分)を一緒に作るとすると用地は確保できるか?といったレベルのもので、実施を前提とした具体的検討に至っていなかったはずです。
今回実施を表明するにあたっては、土地確保の確かな見通し(議会承認なく先行取得できないのであくまで「見通し」ですが)、ざっとした財政見通し、主な課題と対応の整理、ニーズの予備調査くらいは必要であったと考えます。これらは市民説明のうえでも重要な事柄ですがスケジュール的に見て恐らく不十分であったと思われます。
細かい課題は事業を進めながら解決していけばいいのですが、スタート時の行政の意思決定に際して重要ポイントの熟議が無かったのではないか?越市長の「思いの強さ」ばかりで発表に突き進んだのではないか?と私は懸念しています。
本年8月1日に発行された「こし直美後援会NEWS」には、主な取組みとして「中学校給食実施へ(現在準備中)」と記載されています。
これが誠実な表記であるためには、行政がきちんとした協議・検討を行っていることと、その結果をしっかり市民に説明していることの2点が必要ですが実態は果たしてどうか。「空手形」を懸念するコメントもありますので、ぜひとも越市長のご説明を伺いたいと思います。
(4)ごみ焼却施設について
もと職員であったといわれる方から長文のコメントをいただきました。廃棄物処理に詳しい方で、越市長のごみ行政について深く憂慮しておられるお気持ちが伝わってきました。また、別の方から私の事情説明を促すお声もあったので少し記します。
ご存じのとおり、ごみ処理は「焼却」と「埋め立て」を2本柱です。
南部に大きな最終処分場(埋め立て処分場)があるため、大津のごみ処理体制が北部、中部をあわせた3箇所体制であることに変わりはありません。ただし目片市長の時代、関係者のご尽力によりようやく建設同意を頂いた南部の焼却施設(南部クリーンセンター)の計画を白紙撤回したわけですから、「焼却施設2か所体制」に大きく舵を切ったのは越市長ということになります。
投稿者は2か所体制にするなら北部と南部にすべきであったとのご意見ですが、ごみの発生源である住宅や事業所が中部に多く南部に少ないことから収集運搬のコストなどを考慮して、北部と中部の2か所にすることとなりました。これにより南部での用地購入が不要になりましたが、中部では敷地を生み出すため温水プールを移転させることとなりました。
このプールは設備面の老朽化が進んでおり、アクセスや土地利用の面からも移転が望ましいと考えていましたが、私の在任中は結論が出ていませんでした。その後、余熱利用について蓄熱物質を運搬するプランも検討されたことと思いますが詳細は私には分かりません。
2か所か3か所かという比較検討の過程において、越市長が強引に誘導したり検討結果を捻じ曲げたりされることはありませんでした。もしそんなことがあれば私が阻止しています。まったく別の案件の際、越市長が委託先と直接やりとりされたことがあったようですが、幸いごみ施設に関してはなかったと思います。
むしろ私が問題であると考えていたのは、地元の方々の信頼されるような市長としての姿勢です。この件で様々な協議を行った地元の方々が、為政者としての責任感や配慮の不足について大きな懸念を表明されました。環境部職員の努力もあり最終的にはご理解をえて事業が進みつつありますが、今後とも各種の地元協議が続きます。市長が誠実に丁寧に地域と向き合う姿勢が重要だと思います。
問題のもう一つは、市の職員(内部の技術者)に対する信頼が薄く、外部のコンサルタントばかり信頼される傾向が目立ったという点です。結果的に内部の試算と外部の試算が一致して市長が納得された訳ですが、このために多くの時間と職員の手間暇が浪費されました。
高度に専門的あるいは特殊なものは外注すればいいのですが、もっと職員を信頼し活用しなければ勿体ないかぎりです。越市長の職員不信は一貫しているように思います。
いまのごみ焼却施設はいずれも古くなっており、巨額の改修費を使いながら運転しています。
そのためにも早くスムーズに新たな施設を作ることが重要ですが、ここで指摘したような地元協議や内部検討に長い時間を要したことは出費にもつながる問題です。もちろんこれらはコストの比較検討の対象外です。
私の手元に関係資料がありませんので、具体数値を出していませんが取りあえず私の見解とさせていただきます。ご存知の方から補足していただくと助かります。
今回は教育シリーズまで手が回りませんでした。
2015/10/05
33)大津市政の現状15(教育行政・中学校給食)
今回取り上げる中学校給食は、学力調査や英語教育と同じく市民の関心が比較的高く、越市長の目配りもしっかりなされています。学校図書の充実や朝の読書活動なども同じく重要なのですが、特定項目への集中がこうした地道な分野にかけられるべき予算や時間を圧迫しないことを祈るものです。
中学校給食については既に導入方針が表明されており、私はその是非を論じるつもりはありません。ここでは、この重要な決定に際して十分な検討、議論が尽くされたか、市民説明は果たされたかの2点について検討したいと思います。
大津市政15 教育行政(中学校給食)について
中学校給食については既に導入方針が表明されており、私はその是非を論じるつもりはありません。ここでは、この重要な決定に際して十分な検討、議論が尽くされたか、市民説明は果たされたかの2点について検討したいと思います。
大津市政15 教育行政(中学校給食)について
大津市政15~教育行政~中学校給食
大津市は、食生活を通じた児童生徒の健全育成、さらには子育て支援、親の就業機会の確保などの理由から共同調理場方式による中学校の学校給食導入を決定しました。
今まで「愛情弁当論」による中学校昼食を堅持してきた教育委員会ですが、全国の自治体の多数が中学校給食を実施している中、これまで給食実施の内部検討を行ったこともあり、突然の方向転換というわけではありません。この項目は中学校給食導入の是非を云々するものではないことをあらかじめお断りしておきます。
学校給食は、子どもの栄養摂取や栄養教育、食に対する感謝の気持ちの醸成、食材を通じた地域産業への理解促進など「食育」の効果が期待される反面、基本は一律提供ですから個々の子どもの体格差や嗜好の違い等をどこまで適切にフォローすべきかが問題であり、また給食残飯(残滓)の大量発生が深刻な課題となっています。
さらに食物アレルギーへの対応や食材の安全性確保、食中毒のリスク管理など共同調理場方式による学校給食のあり方には数多くの懸案事項があるのも事実です。
これまで大津市が一部の中学校を除き学校給食を実施していなかったことに対し、PTAからの給食導入要望もありましたが、当の中学生の6割超は実は家庭弁当を望んでいる状況です。
また、越市長が導入されたスクールランチは利用率が大変低いものの、それを是非とも必要とする家庭にとっては保護者の負担軽減になっていると思われます。
こうした中、学校給食移行については、教育委員会自身が5年後を目途に実施する方針を決定したと聞きますが、前述した課題等について具体的な検討協議が十分になされたのかまったく不明です。しかも、調理場建設に必要な用地の確保など具体的な条件整備もないままに早々と市長から公表されたことにも違和感を覚えます。
そもそも弁当づくりは保護者にとってどれ位の負担なのか、保護者と生徒とのコミュニケーションツールとしての弁当の意義についてはどうか、食育を担うべき栄養職員の人数やその指導方針について議論したのか、一番の当事者である生徒の意見はどのように反映されたのか等々、課題や疑問は尽きません。
建設、運営に多額の税金を投入する給食導入は、市としての重要な政策決定です。ここで指摘したような数々の課題について本当に内部で熟議されたのでしょうか。これまでの越市長と教育委員会の協議の実情を知る私としては大きな疑念を抱かざるをえません。
これは政治日程をにらんだポイント稼ぎではないかと勘ぐる複数の声も聞きました。
合併特例債と同様に中学校給食の導入も明らかに説明不十分です。
越市長は市民への説明責任をしっかりと果たされるべきであると考えます。
今まで「愛情弁当論」による中学校昼食を堅持してきた教育委員会ですが、全国の自治体の多数が中学校給食を実施している中、これまで給食実施の内部検討を行ったこともあり、突然の方向転換というわけではありません。この項目は中学校給食導入の是非を云々するものではないことをあらかじめお断りしておきます。
学校給食は、子どもの栄養摂取や栄養教育、食に対する感謝の気持ちの醸成、食材を通じた地域産業への理解促進など「食育」の効果が期待される反面、基本は一律提供ですから個々の子どもの体格差や嗜好の違い等をどこまで適切にフォローすべきかが問題であり、また給食残飯(残滓)の大量発生が深刻な課題となっています。
さらに食物アレルギーへの対応や食材の安全性確保、食中毒のリスク管理など共同調理場方式による学校給食のあり方には数多くの懸案事項があるのも事実です。
これまで大津市が一部の中学校を除き学校給食を実施していなかったことに対し、PTAからの給食導入要望もありましたが、当の中学生の6割超は実は家庭弁当を望んでいる状況です。
また、越市長が導入されたスクールランチは利用率が大変低いものの、それを是非とも必要とする家庭にとっては保護者の負担軽減になっていると思われます。
こうした中、学校給食移行については、教育委員会自身が5年後を目途に実施する方針を決定したと聞きますが、前述した課題等について具体的な検討協議が十分になされたのかまったく不明です。しかも、調理場建設に必要な用地の確保など具体的な条件整備もないままに早々と市長から公表されたことにも違和感を覚えます。
そもそも弁当づくりは保護者にとってどれ位の負担なのか、保護者と生徒とのコミュニケーションツールとしての弁当の意義についてはどうか、食育を担うべき栄養職員の人数やその指導方針について議論したのか、一番の当事者である生徒の意見はどのように反映されたのか等々、課題や疑問は尽きません。
建設、運営に多額の税金を投入する給食導入は、市としての重要な政策決定です。ここで指摘したような数々の課題について本当に内部で熟議されたのでしょうか。これまでの越市長と教育委員会の協議の実情を知る私としては大きな疑念を抱かざるをえません。
これは政治日程をにらんだポイント稼ぎではないかと勘ぐる複数の声も聞きました。
合併特例債と同様に中学校給食の導入も明らかに説明不十分です。
越市長は市民への説明責任をしっかりと果たされるべきであると考えます。
2015/10/04
32)大津市政の現状14(教育行政・学力調査)
教育行政の3番目は全国学力・学習状況調査(学力テスト)です。これは中3と小6だけを対象とし、数学(算数)と国語に限って行われる「状況調査」であり、子どもの学力や学校のレベル(?)の正確な指標ではありません。しかし全国実施のためつい比較したくなるのが人情で、結果公表を求める世論が多数だと思います。逆に、この調査をよく知っている人は公表に慎重であるようです。
私自身、かつては「公表派」でしたが、現場の話を聞き実態を知るにつれ慎重論に傾きました。
現場の話はつぎのようなものです。
・子どもの成績や能力の正確なバロメーターであると解釈され、子どもたちを過剰な競争に巻き込むおそれがある
・各家庭の経済状況と学力調査の結果にはある程度の相関関係があると考えられる。塾などの教育にかける費用が捻出できる家庭は、結果的に子どもの基礎学力が高くなる傾向がある
・もう少し広げて見ると、家庭の経済状況による地域間の格差が顕在化する可能性がある。これは家庭にも地域にも責任のない統計学的な話であるが、結果として点数の高低が地域のイメージを左右する可能性がある
・学校間の成績の比較ではなく、学力調査により個々の子どもや家庭に対する教育の在り方を子ども本人、その保護者、教員が相互に理解しあうこと、その家庭だけで対応できない教育環境は学校と地域が連携して支えていくことを共通理解しあうことが大事である
・誰のための教育か、何のための学力状況調査なのか、学校教育の本旨は何か等の原点に戻って考えるべきである
これらは公表を望まない保護者等の意見であり、いずれもうなずける理由です。
文科省の方針変更もあり今後は公表が進むでしょうが、ここにおいても現場の声や少数の意見にも耳を傾けることが重要であると考えます(大津市は昨年からレーダーチャート方式で結果公表しています)。
大津市政の現状14(教育行政・学力調査)
私自身、かつては「公表派」でしたが、現場の話を聞き実態を知るにつれ慎重論に傾きました。
現場の話はつぎのようなものです。
・子どもの成績や能力の正確なバロメーターであると解釈され、子どもたちを過剰な競争に巻き込むおそれがある
・各家庭の経済状況と学力調査の結果にはある程度の相関関係があると考えられる。塾などの教育にかける費用が捻出できる家庭は、結果的に子どもの基礎学力が高くなる傾向がある
・もう少し広げて見ると、家庭の経済状況による地域間の格差が顕在化する可能性がある。これは家庭にも地域にも責任のない統計学的な話であるが、結果として点数の高低が地域のイメージを左右する可能性がある
・学校間の成績の比較ではなく、学力調査により個々の子どもや家庭に対する教育の在り方を子ども本人、その保護者、教員が相互に理解しあうこと、その家庭だけで対応できない教育環境は学校と地域が連携して支えていくことを共通理解しあうことが大事である
・誰のための教育か、何のための学力状況調査なのか、学校教育の本旨は何か等の原点に戻って考えるべきである
これらは公表を望まない保護者等の意見であり、いずれもうなずける理由です。
文科省の方針変更もあり今後は公表が進むでしょうが、ここにおいても現場の声や少数の意見にも耳を傾けることが重要であると考えます(大津市は昨年からレーダーチャート方式で結果公表しています)。
大津市政の現状14(教育行政・学力調査)
大津市政14 ~教育行政~学力調査
ここで「全国学力・学習状況調査」の結果公表に関して記述します。
この調査は一般に「学力テスト」と呼ばれていますが、これが誤解のもとかもしれません。ここでは「学力調査」と略記します。
学力調査は、全国的な児童生徒の学力や学習状況を把握・分析し、教育施策の成果と課題を検討し改善を図るとともに、学校における児童生徒への教育指導の充実や学習状況の改善等に役立て、教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立することを目的としています。
対象は小学校6年生と中学校3年生に限定され、教科は、算数(数学)と国語(※3年ごとに理科も実施)における知識の習熟度や知識・技術を活用する力を調査、分析するとともに、対象児童生徒と学校に対して、学習環境、生活習慣、指導方法の取組、教育条件の整備状況等についても調査されています。
ところが最近、この調査が児童生徒の「学力測定テスト」であり、結果は公表すべきとの見方が世間で多数を占めるようになり、中には、学校間比較の結果成績が低い校長の処罰問題にまで言及する首長が現れたかと思えば、高校入試の内申に学力調査の結果を取り入れるという自治体まで出てきました。学力調査の本来の趣旨から外れた首長の一方的な考えによる公表は、いたずらに児童生徒や保護者の不安感をあおる結果を招くだけです。
文部科学省では、こうした公表をめぐる事態に対処するため、平成27年度実施要領において、学力調査の実施、公表は教育委員会の職務権限であり、調査の実施、調査結果の活用や公表の取り扱いは、教委が主体性と責任をもって当たることとしました。
さて越市長も、就任後、学力調査の結果について、学校別の結果を公表すべきである、市民の税金によって運営されている公立学校に関して、その情報は公表し、市民に対する説明責任を果たすべきであると主張してこられました。
地域や市民に必要な情報を開示し、それにより学校と地域が一体となって開かれた学校運営をしていくことは重要です。しかし、学力調査に関しては、その調査目的を理解されるならば、学校ごとの結果公表をすべしとはならないと思います。学校ごとの公表は一面的な序列づけと過当競争を招き、その被害を受けるのは子どもたちであろうと考えます。
各学校は詳細に結果を分析し、今後の学校現場での指導方法だけでなく、児童生徒はもとより、家庭学習の重要性も考慮して保護者や学習支援地域ボランティアの方々等に対しても指導助言を行っています(各小中学校のホームページを見ていただければよくわかります)。
また、教育委員会は学校現場の状況を把握し、教育センターを中心に必要な施策を行っています。
学力向上は学校教育だけではなく、家庭での学習習慣等も大きく関わっています。いたずらに学校現場だけの批判をするのではなく、調査から見えた現状をしっかりと受け止め、学校教育はもとより家庭の教育力向上支援に向けた総合的な取り組みを市として考えていくべきではないのでしょうか。
文部科学省から改めて通知されるまでもなく、学校教育、家庭教育、社会教育等に関しては教育委員会が職務権限として責任をもって主体的に取り組んでいかなければなりません。
新しく設置された総合教育会議において、教育行政を主体的に展開する教育委員会と予算や人事の権限を持つ首長とが、未来を担う子どもたちの学力向上はもとより、一人ひとりが心豊かにたくましく生きる力を身につけられるよう、力を合わせて取り組みを進めていくことこそが改正された地教行法が求めているものであると考えます。
この調査は一般に「学力テスト」と呼ばれていますが、これが誤解のもとかもしれません。ここでは「学力調査」と略記します。
学力調査は、全国的な児童生徒の学力や学習状況を把握・分析し、教育施策の成果と課題を検討し改善を図るとともに、学校における児童生徒への教育指導の充実や学習状況の改善等に役立て、教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立することを目的としています。
対象は小学校6年生と中学校3年生に限定され、教科は、算数(数学)と国語(※3年ごとに理科も実施)における知識の習熟度や知識・技術を活用する力を調査、分析するとともに、対象児童生徒と学校に対して、学習環境、生活習慣、指導方法の取組、教育条件の整備状況等についても調査されています。
ところが最近、この調査が児童生徒の「学力測定テスト」であり、結果は公表すべきとの見方が世間で多数を占めるようになり、中には、学校間比較の結果成績が低い校長の処罰問題にまで言及する首長が現れたかと思えば、高校入試の内申に学力調査の結果を取り入れるという自治体まで出てきました。学力調査の本来の趣旨から外れた首長の一方的な考えによる公表は、いたずらに児童生徒や保護者の不安感をあおる結果を招くだけです。
文部科学省では、こうした公表をめぐる事態に対処するため、平成27年度実施要領において、学力調査の実施、公表は教育委員会の職務権限であり、調査の実施、調査結果の活用や公表の取り扱いは、教委が主体性と責任をもって当たることとしました。
さて越市長も、就任後、学力調査の結果について、学校別の結果を公表すべきである、市民の税金によって運営されている公立学校に関して、その情報は公表し、市民に対する説明責任を果たすべきであると主張してこられました。
地域や市民に必要な情報を開示し、それにより学校と地域が一体となって開かれた学校運営をしていくことは重要です。しかし、学力調査に関しては、その調査目的を理解されるならば、学校ごとの結果公表をすべしとはならないと思います。学校ごとの公表は一面的な序列づけと過当競争を招き、その被害を受けるのは子どもたちであろうと考えます。
各学校は詳細に結果を分析し、今後の学校現場での指導方法だけでなく、児童生徒はもとより、家庭学習の重要性も考慮して保護者や学習支援地域ボランティアの方々等に対しても指導助言を行っています(各小中学校のホームページを見ていただければよくわかります)。
また、教育委員会は学校現場の状況を把握し、教育センターを中心に必要な施策を行っています。
学力向上は学校教育だけではなく、家庭での学習習慣等も大きく関わっています。いたずらに学校現場だけの批判をするのではなく、調査から見えた現状をしっかりと受け止め、学校教育はもとより家庭の教育力向上支援に向けた総合的な取り組みを市として考えていくべきではないのでしょうか。
文部科学省から改めて通知されるまでもなく、学校教育、家庭教育、社会教育等に関しては教育委員会が職務権限として責任をもって主体的に取り組んでいかなければなりません。
新しく設置された総合教育会議において、教育行政を主体的に展開する教育委員会と予算や人事の権限を持つ首長とが、未来を担う子どもたちの学力向上はもとより、一人ひとりが心豊かにたくましく生きる力を身につけられるよう、力を合わせて取り組みを進めていくことこそが改正された地教行法が求めているものであると考えます。
2015/10/03
31)再開いたします
都合によりしばらく休んでいましたが本日から再開します。今後とも2~3日に一度は更新し12月頃には「大津市政の現状」に関してひと通りの記述を終える予定です。関係資料も適当に入れながら小さなレポートにまとめられたら、と考えています。もちろんブログですから頂いたコメントも踏まえ、考えつつ書き進めるつもりです。皆さまには引き続き「情報広場」の運営にご協力いただきますよう心からお願い申し上げます。
9月下旬に「越市長ブログ参入か?」で少し盛り上がりました。もしや越市長から何かお寄せ頂いたかと期待しつつ久しぶりにパソコンを開いたところ、音沙汰なし、でした。さもありなん。
しかし、越市長はこのブログの最も熱心な読者のお一人であると確信していますので、ご意見はいつでもお受けするつもりであることをここに記しておきます。
しばらく保留状態であったコメントはすべてアップしました。
その中で「長期的に見て市のためになるかどうかはさて置き、権限を有する市長の看板のために職員は働くものである」という意味の指摘があり、わが身につまされる思いでした。
私は、越市長があまりにも単純に「自分の意思イコール市民の意思」と見なしておられると考え、危惧を抱き、市長へも色々と意見を申し上げてきました。市長と教育委員会との協議の模様について、事情をよくご存知と思われる方からのコメントもありました。
しかし、完全に外部の視点で見るならば、これらはしょせん「内部事情」に過ぎません。問われるのはアウトプットである施策や事業であり、多数の目を引くのはテレビ、新聞の報道です。
「市民に選ばれた市長」、「市長の行う政策」、「法により市長の補助機関とされる職員」、「間接民主制におけるマスコミの意味」、「市民の利益」等の関係について再考を促すご意見であると私は受け止めました。これらの重要な問題について越市長も改めてじっくりとお考えになると本当に良いのにと今さらながら思います。
(個々の職員は、市長のため、市民のためにそれぞれの持ち場で努力していると思います。そうした職員と越市長の関係についてはいずれ記述する予定です)
コメントの中で特養の待機者についてご質問がありました。私は担当部長であったので分かる範囲で記します。待機者1,000人超というのは各施設の待機者数から併願者を差し引いた人数、すなわちダブルカウントなしの実人員です。数年前に1,100人前後であったと記憶していますが、今はもっと増えていると思います。
ただちに1,000人分の施設を作るのは困難ですが(介護保険料にも響く)、待機の方々の生活はご家族を含めて本当に大変です。在宅生活の環境整備と必要最小限の入居施設整備の両輪が必要です。
予算要求額を4年前に揃えるよう指示が出されたとのコメントがありました。私には真偽のほどが分かりませんが、事実なら4年の金額の推移をまず念頭においた指示なのでしょう(予算に関する私見はすでに記したとおりです)。
今日はこれで終わりますが、明日、教育行政の続きにもどります。
9月下旬に「越市長ブログ参入か?」で少し盛り上がりました。もしや越市長から何かお寄せ頂いたかと期待しつつ久しぶりにパソコンを開いたところ、音沙汰なし、でした。さもありなん。
しかし、越市長はこのブログの最も熱心な読者のお一人であると確信していますので、ご意見はいつでもお受けするつもりであることをここに記しておきます。
しばらく保留状態であったコメントはすべてアップしました。
その中で「長期的に見て市のためになるかどうかはさて置き、権限を有する市長の看板のために職員は働くものである」という意味の指摘があり、わが身につまされる思いでした。
私は、越市長があまりにも単純に「自分の意思イコール市民の意思」と見なしておられると考え、危惧を抱き、市長へも色々と意見を申し上げてきました。市長と教育委員会との協議の模様について、事情をよくご存知と思われる方からのコメントもありました。
しかし、完全に外部の視点で見るならば、これらはしょせん「内部事情」に過ぎません。問われるのはアウトプットである施策や事業であり、多数の目を引くのはテレビ、新聞の報道です。
「市民に選ばれた市長」、「市長の行う政策」、「法により市長の補助機関とされる職員」、「間接民主制におけるマスコミの意味」、「市民の利益」等の関係について再考を促すご意見であると私は受け止めました。これらの重要な問題について越市長も改めてじっくりとお考えになると本当に良いのにと今さらながら思います。
(個々の職員は、市長のため、市民のためにそれぞれの持ち場で努力していると思います。そうした職員と越市長の関係についてはいずれ記述する予定です)
コメントの中で特養の待機者についてご質問がありました。私は担当部長であったので分かる範囲で記します。待機者1,000人超というのは各施設の待機者数から併願者を差し引いた人数、すなわちダブルカウントなしの実人員です。数年前に1,100人前後であったと記憶していますが、今はもっと増えていると思います。
ただちに1,000人分の施設を作るのは困難ですが(介護保険料にも響く)、待機の方々の生活はご家族を含めて本当に大変です。在宅生活の環境整備と必要最小限の入居施設整備の両輪が必要です。
予算要求額を4年前に揃えるよう指示が出されたとのコメントがありました。私には真偽のほどが分かりませんが、事実なら4年の金額の推移をまず念頭においた指示なのでしょう(予算に関する私見はすでに記したとおりです)。
今日はこれで終わりますが、明日、教育行政の続きにもどります。