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2015/08/25

関係資料 2 (2014年5月 副市長退任式ご挨拶)※クリックしてください

ホームの記事「(9)副市長退任のいきさつ」に関する資料です。
昨年(2014年)5月30日、退任式でのご挨拶の原稿です。(職員の方々にはお読み頂くまでもありません)



私は、平成24年6月、市長のご要請を受け、全ての議員の皆さまのご承認をいただいて副市長に就任して以来、同僚、後輩の温かい声援を背中に受けて努めてまいりましたが、このたび一身上の都合により5月31日をもって退任させていただくこととなりました。
   これは、市長と協議した結果の適切な選択であったと考えておりますが、一方で、多くの方々のご期待に十分にお応え出来なかった私の力不足によるものであり、2年の任期を残しての退任を心からお詫び申し上げます。どうぞお許しいただきたいと存じます。
本日は貴重なお時間をいただき、経過の概要をご報告すること併せ、仲間である職員の皆さんに対し、いささかの年長者として最後のご挨拶をしたいと存じます。
さて私は、職員とのパイプ役となることを市長から期待され、そのことを肝に銘じて取り組んでまいりましたが、実際には、その役割を果たすことに、困難を覚えることも少なからずありました。
   そうした中、本年3月、私は副市長として2回目となる当初予算編成と人事異動を見届けたわけですが、それらの重要な作業の過程においても、職員の中に蓄積された良質の情報を十分に活かすことが出来たか、現場の声をしっかりと市長に聞いていただくことができたかという点において、私自身、深く反省するところがありました。
   お断りするまでもありませんが、予算は議会の慎重審議の結果、承認をいただき、人事についても新体制が円滑に動いて新年度が順調にスタートしており、何ら問題はございません。
私は、あくまで、内部の意思決定のプロセスにおける私自身の働きについて申し上げているものであります。
また、時期を同じくして3月、職員の分限に関する条例の適用を求めて1900名にのぼる職員から嘆願書が提出されましたが、これに対し本市は責任に基づく慎重な判断の結果、条例の不適用を決定しました。
この決定と別に、私はこの時、多数の職員の意思表示に対して真っ向から向き合えたか、それに対し確かなメッセージを返すことができたかを自問いたしました。
即ち、また一つ重要な場面に立ち会ってパイプ役の本来的な機能を果たすことができたかどうか、このことについても私は、残念ながら不十分な対応しかなし得なかったと思っています。
こうしたことから、副市長として既に2年分の結果責任を負うところの私が、今後も職務を続ける上で一つの大きな分かれ道にさしかかったと感じたのが3月のことでありました。
   これは一つに副市長としての私の力量の問題であり、一つに市長とその片腕である私との相互関係の問題であります。
そこで、このことを率直に市長に申し上げ、しっかり市長のお役に立てないならば、もはや辞職しかないとの気持ちをお伝えしたところ、市長も真剣に耳を傾けてくださり私の進退にかかる協議が始まりました。
ところが丁度その時、富田教育長の辞職という大変残念な出来事がありました。
  富田氏は、技術者としての合理的精神と教育への情熱を併せ持った方で、子どもの立場
からの教育改革に努められましたが、就任以来、市長部局との連携のあり方について苦慮しておられました。
   私と富田氏とは互いに信頼をおく関係でしたが、同氏は、26年度予算の編成過程において教育委員会の意見の反映が難しいことに心を痛めておられました。こうした事情がご本人の重大な決断に結びついたものと私は認識しています。
もちろん、一時、健康を損なわれ、それを理由に辞職された事実を否定するものではありませんが、これもまた、市長部局と教育委員会との連携調整という私の役目に関わることとしてお話しています。やがて年度末となったことから、まずは26年度当初の事業推進を最優先に取り組むこととして、春季事業ヒアリングや部局長意見の聴取など一連の仕事を進めて新年度をスタートさせつつ、市長との協議を再開いたしました。
   なお、いま申し上げた部局長の意見は私の責任で取りまとめ市長に提出しましたが、今後の市政推進に向けた協議、検討を行う際の有用な一つの素材として是非、活用いただきたく存じます。
さて、私の尊敬する先輩であり大きな目標でもあった佐藤賢氏、井上俊生氏のお二人の副市長は、時の市長の厚い信任を受けて優れた行政手腕を発揮されましたが、私としては、なかなか同様の働きをすることが叶わず、また、パイプ役としても十分な働きをなし得ていなかったことについては、先ほど述べたとおりです。
一方、市長は、就任3年目を迎えて内外の事情にも通じてこられたことから、私も当初の案内役としての仕事は一定、完了しておりました。また、ごみ焼却施設について、3か所体制から2か所体制への方針転換が図れたことも一つの到達であり、市長として、ひと山越えた状況でもありました。そして、私に容易ではなかった職員とのパイプ役については、今後、市長ご自身がパイプとなるよう努められるとすれば、むしろその方が望ましい形ではないか。
本市内部の現状を踏まえつつこうした協議を重ねた結果、円滑な組織運営と市政推進のためには、私の退任が十分にありうる選択肢であるとのご判断をいただき、私は、市長から、一身上の都合により退職することを認めていただきました。
以上が概略のご説明であり、皆様にはどうぞよろしくご理解を頂きたいと存じます。
次は、私の在任中の忘れがたい出来事を3つだけ、主に内部の視点からお話したいと
思います。
   まず、一昨年に全国的な社会問題と化したいじめ事件を避けて通ることは出来ません。私たちは、尊い犠牲の上に重要な課題認識と貴重な教訓を得たわけですが、それらを踏まえて、教育委員会および学校現場において真摯な取組が着実に進められていることを、ここでお伝えしておきたいと思います。付言すると、その取組の第一歩を記されたのが澤村元教育長でありました。
同氏は、かけがえのない一つの命が失われたことを重く受け止めつつ、また一方で、いじめを行った少年たち、さらには行わなかった多くの同級生が、いまだ未完成で保護を必要とする存在でもあるという認識のもと、この体験が、避けがたく彼らの心の傷となって残るであろうということについて、教育者として深く憂慮し、行動しようとされていたことが強く印象に残っています。
2つ目は災害です。
   本市は2年続きで大きな災害に見舞われました。市民の皆さまには、大変なご苦労を頂きましたし、本市も、常に市長が陣頭指揮に立たれ、消防、危機防、建設をはじめ全ての部局が力を合わせて救援と復旧に取り組みました。
   特に一昨年は、県内12市から支援の申し出があり、延べ260人にのぼる各市の職員の方々が、本市職員に交じって、民家の土砂撤去に汗を流していただいたことは忘れがたい思い出です。
災害復旧に技術職員を派遣することは珍しくありませんが、一般職員をこうした作業に派遣することは極めてまれで、特に災害の少なかった本市にとって初めてとなる受け入れ経験であり、近隣の市町との平素のお付き合いの大切さを再認識した出来事でもありました。
3つ目は南部クリーンセンターの建設協定の白紙撤回です。
  本市は、越市長のもとで、将来世代の負担軽減を重視し、安定操業と災害対応にも配慮しつつ、ごみ焼却施設を3か所から2か所に減らす方針転換を行い、説明を尽くして地元および議会のご理解を頂くことができました。しかし地元の方々にしてみれば、かつて、市からのたっての要請を受け、様々な意見があるなかで議論を重ねたあげく、大津市全体の利益を考えて、ようやく受け入れを承知したところ、今度は一転して市から一方的に建設中止を告げられたわけですから、一時は、行政不信の声があがったのも止むを得ない成り行きでありました。
   ごみ焼却施設の建設計画がなくなるのだから、地元には受け入れやすい方針変更であるという見方がもしあるとしたら、それは極めて表面的な見方であります。
施設の受け入れ決定にあたって、地域の方々が費やしてこられた身を削るような多くの時間と、突きつけられた課題の克服に注がれたエネルギーは大変なものであり、これが自らの原因によらず無に帰することとなった空しさ、或いは徒労感は、本当に大きなものであったと拝察いたします。
その感覚は、建設推進のため地元との対話を続けてきた環境部の職員にも、当時、深く共有されていましたが、これは彼らの誠実な仕事ぶりの反映でもあったと認識しています。
こうした中、本市は、精力的に内部協議を重ね、職員一丸となって方針転換を図ることとなり、各方面へ丁寧な説明を尽くした結果、今は、有り難いことに地元のご理解と信頼をいただいていますが、このことは、南部クリーンセンターに限りません。
ごみ処理施設を受け入れていただいている各学区の住民の皆さま、とりわけ自治会役員の方々のご苦労の大きさに改めて気づかされ、そうした方々の、本市のまちづくりに対するご理解とご協力に対して、行政職員として、感謝の念を一層深める重要な契機となる出来事でありました。

次は、私から職員の皆さんへのメッセージです。
   職員の皆さん、特に部下をもつ皆さんに申し上げます。職場の仲間を大切にしてください。すべての職員は、縁あって人生のある時期に、同じ職場で働くわけですが、家に帰れば、夫であったり妻であったり、母や、息子、娘であり、それぞれ誰かにとって、かけがえのない存在として固有の人生を生きています。そんなかけがえのない一人ひとりが毎朝、出勤してきて上司として、部下として机を並べる、これが職場です。
もちろん我々は第一に公務員であり、職場には職場のルールがあり、職員たる者、これに従うことが大原則です。
その上で上司は、すべての職員が世の中において、かけがえのない存在であるという当たり前の事実を常に忘れないでほしいと思います。
そうした当たり前の感覚と認識に支えられた民主的な職場を築くよう、特に人の上に立つ人にお願いを申しあげます。職員を将棋の駒ではなく、一人の生ま身の人間として尊重してください。
そのような職場で、職員が互いに心を通わせ、自ら選んだ道である公務の遂行を通して自己実現の喜びを実感できるなら、そして、その力を市長のもとで一つに束ねることができるなら、モラルとモチベーションは自ずから高まり、市民のためにより良い仕事ができるものと私は確信しています。
これに関連して、不祥事について申し上げます。
昨今の本市の状況は、市民の皆さまに本当に申し訳ないことであり、引き続き全庁あげての取組を着実に進めていくことが重要であります。
現状を評して、市役所にはウミが溜まっているとの言葉があります。これはどういう実態を指すのか、職員は我が事としてよく考えて見る必要があります。実は、私自身はウミが溜まっているとは思っていません。同じく物の例えで言うならば、大量の白い砂の中に一つまみの黒い砂が混じっている状態であると思います。更によく見れば、黒い砂にも灰色や白黒まだらの粒が混入しています。そして黒い砂は断固、排除すべきですし、灰色やまだらは、よく見極めたうえ適切な対処が必要です。もし、白い砂を黒く変色させていく組織風土や文化が確かにこの市役所にあるとするならば、それこそがウミが溜まっている状態であり、組織の存立の根幹に関わる問題であります。
   不祥事の対策は究極のところ、全体の奉仕者たる公務員を志して市役所に入った職員一人ひとりのモラルの問題に行き着きます。内部通報も情報セキュリティも大切ですが、最後の砦は個人の心の中にあります。その深みに直接響くような働きかけを如何にして行うことができるか、これが難題ですが根本解決への正しい道筋であり、その環境を整備するのが先ほど述べた職場づくりであることは間違いありません。

   最後に越市長に申し上げます。
   市長は、4年で結果を残そうと積極的に行動してこられましたが、特に今年度は、市民に変化を実感していただける年にしたいと抱負を語っておられます。
   人口が減り高齢化が進むわが国において、市民の幸福を求めて将来のまちづくりを展望する時、本市の現在の姿をどのように解釈するかは極めて重要な問題です。
その姿は多面体であって、私たちの前には、長年にわたる人々のたゆまぬ営みの成果、試行錯誤を重ねて行き着いた安定の形、これから大切に育てていくべき若木の苗床、さらには時代の変化に取り残された旧来の風習やシステム等々、様々な景色が広がっています。
その中から、変えていくもの、守っていくものを、現場の声、職員の声に耳を傾け、丁寧に仕分けをした上で、次なる行動に移ることが重要です。
   変えるべきものは痛みを伴っても変えなければなりませんが、一方、守るべきものを変えてしまった場合は、取り返しがつきません。
   変える、変えないの仕分けに、一人の意思ではなく、多数の英知を動員して下さるようお願い申し上げます。思いの強さは正義ではありません。
偉そうなことを申し上げましたが、実は私、5月22日の部長会において、市長が全部局長に対して、職員の声を十分よく聞き、そして信頼し、任せると表明されたことに、深く感動いたしました。これは、極めてシンプルな言葉ながら、指導者にとっては、決して簡単なことではありません。
   2年間、市長のお仕事を間近で拝見し、手伝わせてもいただいて、市長の権限の大きさと責任の重さを改めて知り得た私としては、市長が決意をもってこの発言をされたものと理解し、大変嬉しい気持ちで拝聴いたしました。市長職は激務ですが、どうぞ健康にご留意をいただき、職員を大切に、市民にお役立ていただきますよう心からお願い申し上げます。
また、伊藤副市長には、この度、大変ご迷惑をおかけすることになり、誠に申し訳
ございません。どうぞ宜しくお願いを申し上げます。

大変長いご挨拶となってしまいました。職員の皆さん。大津は、本当に素晴らしいまちであります。皆さんは、この大津のまちで、市民のために働くことの誇りと喜びを胸に、一丸となって市長を支え、精一杯、いい仕事をしてください。健康に注意して元気に働いてください。
私は39年の公務員人生を終了しますが、実に多くの方々にご指導いただき、お世話になったことが思い出されます。人に支えられてしか人は生きられません。その有り難さを最後の日に噛み締めています。ご出席くださったすべての皆さんに、私の39年分のお礼を申し上げます。
皆さん、長い間、本当にどうも有難うございました。 

9)副市長退任のいきさつ ~私の引責と市長のお約束~

 副市長退任の背景をご理解いただくため、越市長への手紙を「関係資料1」として掲載しました。
 お手紙を差し上げて2~3日後(昨年3月中旬)、越市長の感想を伺ったところ「分かるところもあったが、分からないところもあった。そこはあなたと私の見解の違いである」という趣旨のお答えをいただきました。
 今回の掲載に際し私も改めて手紙を読み返しましたが、嘘はひとつも書いていません。あえて言えば、「すでに退任式の挨拶も考えてある」という部分だけは少し大げさ(言い過ぎ)でした。
 しかし、「越市長の岐路」を目前にして、副市長の職を賭けて市長に忠告を申し上げようとしたことは間違いありません。
 その理由は、当然ながら市民のため、他ならぬ越市長ご自身のため、そして職員のためでした。

 寄り道になりますが、市民、市長、職員という必ずしも並列関係にない存在(セクター)を引っくるめて「3方よし」の方向性を措定しうるのかという点について確認したいと思います。
 なぜ自明のことの確認が必要か。私には、越市長が、市民と職員を二項対立的に捉えておられ
るように思われてならないからです。すなわち、市民の利益は職員の不利益、職員の利益は市民の不利益という発想であり、越行革の底流にもこの考え方が流れている気がします(市民のために職員が汗を流すことと別次元の話として述べています。行革についてはまた後日に)。
 こうした二項対立的な見方は妥当でしょうか。

 そもそも職員は法令により市民のため、市長のために仕事をするよう規定されている存在です。
 そして仕事といえば公務しかありえず、公務とは市民のための仕事です。職員の働き甲斐、働く喜びの源泉は、自分の仕事が市民のために役立っているという実感です。市長への手紙にも書いたとおり、そうした存在である職員(および市役所という組織)のパフォーマンスを最大限に引き出して、市民のために良い仕事をさせるのが市長の仕事です。
 また同時に市役所は一つの事業所でもありますから、トップは従業員である職員の指導育成、心身の健康保持、福利厚生などにも努めなければなりません。これは職員が公務従事者であるかないかに関わらない「社長のつとめ」です。こうした二つの意味から職員を大事にしていただきたいと市長に申し上げました。
 以前、私はこんな話を聞きました。
 ある自治体の首長が交代しました。新たな首長は、前体制のナンバー2の人物(副知事、副市長、副町長のいずれか)に引き続いて仕事をするよう求めました。ナンバー2は「職員をどう思いますか?」と問い返したのです。首長は即座に「職員は仲間です。職員と一緒に仕事をしていきます」と答えました。それでお受けする決心をしたとナンバー2は私に語ってくれました。決してスペシャルな答えではありませんが、それを聞いて私は、そんなトップのために働ける彼を心底、羨ましく思いました。そうした自治体においては、住民、首長、職員の利益(というか目的)の方向性が食い違うことなく、行政機関もより大きな力を発揮できるという気がします。
 現実にはそれほど話は単純ではありませんが、自治体の首長の「職員観」というものはより良い行政を行う上で本当に重要です。(手紙の中身の繰り返しになってきました)

 話を戻します。
 市長に手紙をお渡しした後、事態は変わらないどころか一層悪くなりました。多数の職員から出された嘆願書は取り上げられず、部局長の意見書(後日ご説明します)は生かそうとされず、私をますます遠ざけられるようになりました。
 私は、市長と職員とのパイプ役、また行政経験を踏まえたサポート役を期待され副市長となったのですが、こうした状態では何の役割も果たせません。就任以来、一生懸命に市長をお支えし、最後通牒のような手紙まで差し上げたにも関わらずこの状態。もはやこれまでと覚悟しました。そこで、越市長に対し、このままでは副市長として満足な仕事ができない、ついては辞めさせていただくと申し上げたのです。
 越市長は最初、驚いて慰留されましたが、間をおかず行った再協議の時には既に私の辞任を受け入れる考えに変わっておられ、それ以後は、いつ、どんな理由で辞めるのかが協議のテーマとなりました。

 以下、やり取りの一部の要旨を記します。
 越市長は「一身上の都合」とするよう求められました。私は、この事態の端的な説明としては「市長との意見の相違」であると申し上げました。越市長は、「それでは職員が動揺するし対外的にもよくない。私が感謝の言葉で送れるような去り方をしてほしい」と主張されました。
 これに対し私は「辞めたくて辞めるのではない。事情を明らかにする」と申し上げ、協議は平行線をたどりました。ついには市長が「一身上の都合で辞めないのなら退任式を取りやめる」と発言されました。こうしたやり取りは昨年4月から5月にかけ断続的に続き、最後の協議は退任式のわずか数時間前のことでした。それから今日まで越市長にはお目にかかっていません。

 結果はご存じのとおり「一身上の都合」となりましたが、決して「脅し」に屈した訳ではありません。
 私が副市長として十分な働きが出来ず、辞めざるを得なくなったのは、第一に私自身の力不足であると思っています。副市長を生かすも殺すも市長次第ですが、私は越市長の信頼を得ることが出来ず、私の判断を尊重していただくことも叶いませんでした。その原因の一部が仮に越市長にあったとしても、私が免責されることにはなりません。副市長には、「努力したけれどダメでした」などという言い訳はありえません。与えられた条件のもとでどれだけの結果が残せたかが問われます。 また、人間関係は相互的なものです。越市長と私の関係が次第に悪化していったのは、私にも原因があったと思います。どんな時も私が越市長に対して最適の対応をとりえたかというと、答えは残念ながらノーです。もし私がもっと大きな力を持つ人間であったなら、ひょっとすると越市長は自身のお考えを改められたかもしれません。しかし現実にそうはなりませんでした。在職中、私はいつも自分の責任を感じていましたが、最後には責任をとって辞めるしかありませんでした。一方、選挙で選ばれた市長については、いずれ市民の判断に委ねられると思っていました。
 もう一つ大きな理由があります。
 それは、私の退任をきっかけとして、越市長が「今後は私自身が職員の意見、周囲の意見を十分に聞き市政運営にあたる」と私に言明されたことです。越市長が本当にそのとおり行動してくださるのであれば、あえて波風を立てないことが私の最後のお手伝いだと考えました。新たな体制がうまく回っていく上で市長と前副市長の意見の対立はマイナスですし、職員の士気にも関わると思ったのです。
 以上のとおり、副市長退任の理由「一身上の都合」は、「私の引責と市長のお約束」でありました。今、ことの次第を詳しくお話しするのは記事(7)に記載した事情のとおりです。
 私の退任に際しては多くの職員の皆さんにご心配をおかけしました。また議員の皆さまにもご心配いただいたり、側面的なご支援をいただきました。有難く、申し訳ないことと思っています。
 退任式ご挨拶の原稿データが残っていますので、この記事の関係資料として掲示します。
 職員の方々には「またか」の話で恐縮ですが、市民の皆さまにご覧いただけたらと思います。
 過去を振り返る話ばかり続きましたがこれで一区切り、今後はもう少し広く、大津市政について考えていきたいと思います。
 

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