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2015/09/02

15)大津市政の現状 4 (市長としての姿勢)

連載にもどります。これまで大津市政の現状報告と位置づけ、市長の資質について記述しました。
記事(12)にも書いたとおり私に偉そうなことを言う資格はありませんが、「公職に要求される基本的条件」という観点から率直に述べさせていただきました。
次は「市長としての姿勢」であり、より思想的な面について記述します。内容は「大津市政」のページをご覧ください。


    大津市政 4 (市長としての姿勢・自治体運営と企業経営




大津市政 4 ~市長としての姿勢 ①自治体運営と企業経営~

 先に「資質」について述べましたが、これから、政治家としての基本的な考え方、すなわち市長としての姿勢について記述します。

   自治体運営と企業経営
 越市長の政治家としての大きな特色は、本来は別物の自治体運営と企業経営を区別せず、大津市を一つの企業のように見なして経営しようとする姿勢にあり、行財政改革も予算編成も人事異動も全てこうした考えが基調となっていると私は見ています。
 そもそも株式会社は「有限責任」の組織であり、仮に社長の失敗によって倒産してもその責任は株主の出資金の総額を超えることがありません。倒産は、従業員の失業を始め地域経済の衰退、法人税収の消失など無視できない社会的影響を伴う場合があるものの、倒産した以上は現実的にその責任をとるべき主体がなく、企業はこうした損害を突き詰めて問われることがありません。
株式会社は決して無責任な存在ではありませんが、世の約束事として、いまの社会経済のルールとして、企業責任には自ずから限度があり、そのもたらした損失は最終的には外部に転嫁できることとなっています。

これに対して地方自治体は(国家も)、「無限責任」の組織です。
住民の生命財産を守り、教育により次世代を育て、産業経済の基盤を整備し、環境を次代へ引き継ぐことに伴う責任は限りがなく、国家や自治体の外部に転嫁しようがありません。会社の場合、破産をすればそれ以上の責任の追及ができないことに対し国家や自治体に破産宣告はありません。
 従って有限責任体である会社において経営者の最大の責任の取り方は辞任でしょうが、無限責任体である自治体の場合、首長が辞任すればそれでお終いとはなりません。自治体の運営責任には限りがありません。
越市長は、「私の政策に文句があるなら次の選挙で落とせばいい」と臆することなく発言されます。裏を返せば「自分は民意により市政を任されたのだから4年間は思うようにやる」ということでしょうか。
しかし、市長の「落選」は「今後4年間」にかかる未来の話であり、「これまでの4年間」の市政運営の責任の重さと天秤にかけられるものではありません。
現在の責任を問う手段として不信任決議やリコールもありますが、後述するように、市長任期の4年を超えてようやく結果の可否が見えてくる行政テーマはたくさんあります。だからこそ市長には深い自覚が求められます。公職の重みへの感覚です。
こうした市長の責任の限りない重さに対して、越市長は畏れかしこまるような気持ちをお持ちでしょうか。十二分に認識をお持ちでしょうか。越市長の言動を拝見して私はこの点が疑問なのです。

 このことに関連して、有権者の負託を越市長がどのように受け止めておられるかを見たいと思います。
 選挙で選ばれることの意味は大変重く、首長の正当性を担保しパワーの源泉ともなるわけですが、越市長はその点を重視されるあまり、ご自分の意思は市民の意思であると見なし、ご自分を絶対視して事を進めがちであると私の目に映ります。
 有権者は、候補者のマニフェストや人となりを主な判断材料にするでしょうが、マニフェストに書かれる内容には限りがあり、候補者の人となりについても直接知る人以外はイメージの域を出ないのが普通です。有権者はこうした限られた情報を手掛かりに、候補者が当選後においても市民の声に耳を傾け、適切な市政運営をしてくれるであろうとの期待を込めて一票を投じるのであり、「あとは好きにやってくれ」と白紙委任するわけではありません。

 加えて投票率と得票率の問題もあります。
 2012年1月の大津市長選挙の投票率は約44パーセント、越市長の得票率も約44パーセントで掛け合わせると約20パーセント、越市長に投票したのは有権者の5人に1人でした。
このことにより選挙結果の正当性がいささかも損なわれるものではありませんが、越市長はもっと謙虚に市民負託の意味を考えられるべきではないでしょうか。そして、二元代表制のもう一つのセクターである議会に対して、もっと誠意をもって真剣に向き合うことが必要だと私は考えます。
 選ばれた存在であることへの越市長の過信と、それと繋がる思考の軽さ(「自分に文句があるなら次の選挙で落とせばいい」という発想)は、公(おおやけ)或いは公職に対する認識の不十分さと無関係ではないと思われます。

なお、誤解のないよう記しますが、株式会社が無責任だと主張するものではありません(株式会社がないと社会がたちまち立ち行きませんし、社会に貢献しない会社が淘汰されるのが現実です)。
 ここでは、有限責任システムである株式会社の経営と、無限責任システムである地方自治体の運営は、お互いに学びあう点があるとしても、本来的に全く別個のものであるという当たり前の事実を指摘しているだけです。
 いま、学びあうと書きましたが、実際には官が民から、手法において学ぶ点が圧倒的に多いでしょう。自治体の仕事は、市域の中の互いに対立する利害の調整に重点が置かれることや、達成度を測る客観的な尺度の設定が難しいこと、原理原則を重んじること等の特徴があり、機動的、効率的なマネジメントはどちらかというと不得意です。
 一方、企業は、市場は正しい(売れるものが善である)という共通ルールのもとで厳しい自由競争にさらされスキルを磨き、機動的で効率的なマネジメントを追求してきたわけですからその点でレベルが違います。かつて公共サービスの提供においてニューパブリックマネジメントが提唱されたのは、こうした事情によると思います。近年は公民の中間域を豊かにする多様な試みがなされ、「新しい公」の考え方も現れて公と民のシンプルな二分法は昔話となったようです。
 それでもやはり企業経営と自治体運営は本来的・原理的に異なるものです。両者を同一視した自治体の運営姿勢は不適切だであるというのが私の意見です。

ちなみに、企業経営者には、周囲の声に耳を傾け、部下を信頼して任せ、責任は自分が引き受ける人物、そのことを組織トップとして当然の行いであると考えている人物が多数存在しています。企業経営を範とされる越市長は、こうした点もご参考になさったらよいと思います。
(この項では責任の有限性、無限性という切り口で自治体の仕事を論じています。これは思想家・武道家の内田樹氏の著書に教えられました)