ここでは前項に続き、内部事情として越市長と教育委員会との関係を見たいと思います。
内部といっても教育委員会は自主性、独立性を持った存在であり、その根幹に関わる問題を見ていきます。
①
首長と教育行政
すでに見たように越市長は「選挙で選ばれた自分の考えは市民の考えだ」という発想のもと、学校教育にも積極的に「関与」しておられます。そもそも、越市長はいじめ事件を契機として教育委員会廃止を主張されるに至った首長であり、こうした「関与」も越市長のお考えによれば「制度の不備を補い時代のニーズに応える教育改革の一環」なのでしょう。
しかし、越市長が高い教育理念と見識の持ち主であったと仮定しても、そのことと教育行政に市長が関与することは別次元の話です。越市長が個人的信念を教育現場に政策的に強く押し付けることが許されるとすると、市長が交代して異なる教育理念を持つ市長が登場し、「前任者のやったことは廃止して私の信念を実現していく」と言い出した場合に、それを阻止する論拠がなくなってしまいます。政治が地方教育行政に関与することを一度認めたら、その後教育現場は首長選挙があるたびに教育理念、教育方法、教育プログラムを変更しなければなりません。それによって最も混乱するのは現場の教師であり、一番の被害者は子どもです。
学校教育の役割は人間社会に蓄積されている文化を子どもたちに伝達し習得させることであり、子どもが将来、社会で人間として生きていくために必要とされる基礎・基本を培うことです。
さらに、環境の変化に対応できる新しい文化を生み出し社会を更新的に存続させるために必要な能力を子どもたちに育成する役割も求められています。こうした、既成の文化の習得と文化を創造する能力の育成のために、学校は、子どもたちが自律と他人への思いやりをもち協同して問題解決をやり遂げるという経験を積み重ねる場でなければなりません。
こうしたことから、公教育に携わる教育行政の責任者には腹をすえ、腰をすえてゆっくりと進める姿勢が求められています。
「ゆっくり」の程度は、1期4年、2期8年どころではありません。教育現場の常識や専門家の
知見においては10年単位の尺度で語られており(学習指導要領もほぼ10年で改訂)、ある教育方法を導入してから効果を検証するまでには20~30年を要するという見解も一般的です。
これに対し「社会の変化のスピードに対応していない」と批判するのは見当違いですし、もし4年の任期中に目に見える結果を出したいと考える首長がいるとしたら見識を疑われます。
このように教育は、社会の存続に関わる息の長い営みであることから、教育基本法、学校教育法において、「政治的中立の確保」、「継続性・安定性の確保」、「地域住民の意向の反映」がうたわれ、首長からの独立性・合議制・住民による意思決定(レイマンコントロール)をもつ執行機関として教育委員会が運営されてきました。
そして今回の地教行法改正においても、政治的中立性の確保に重きがおかれ、教育委員会は引き続き執行機関であり、新たに設置された総合教育会議でも首長と教育委員との協議調整は行うものの最終的な執行権限は教育委員会に留保されることとなりました。
こうした教育の重要性と特殊性を踏まえた長年の知恵と経験の蓄積により、いまの法と制度があることをどれほど重く受け止めるか、これまた首長の見識と資質の問題だと思います。