これまで大津市政の現状報告の中で幾つかの観点から越市長の評価を試みてきました。多くの方からコメントを頂いたおかげで議論が深まった気がします。さて、つまるところ越直美氏とはどのような市長なのでしょうか。
一口に言うと越市長は、「新自由主義的な考えを持つポピュリストであり、自らの発信力を生かした劇場型戦略で政治目的を達成しようとしているところの資質等に問題を抱えた首長」であると思います。
1期目の終わりに近づき、越市長は従来の路線の一部修正(予定していなかった施策の実施検討、民間導入の決定先送り、地域へのこまめな顔出し、遠ざけてきた人との面会など)に努めておられると風の噂に聞きます。
ここで指摘するのはこうした短期的な態度ではなく、越市長の本質と私が見なしているものです。
詳しくは下記ページをご覧ください。
大津市政の現状21(つまるところ越氏はどのような市長か)
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2015/10/24
大津市政 21 ~つまるところ越氏はどのような市長か~
越市長は一言で言うと「新自由主義的な考えを持つポピュリストであり、自らの発信力を生かした劇場型戦略で政治目的を達成しようとしているところの資質等に大きな問題を抱えた首長」であると私は見ています。
これが本質とすれば、たとえ心を入れ替えるとの表明があっても容易に変化しないでしょう。
それどころか1期目を無事に終えつつあるという自己認識のもとで、今後、こうした傾向はさらに強まっていくものと予測します。
こうした批評には解釈の幅があり用語も多義的ですから、蛇足を承知で少し補足いたします。
「新自由主義」は、経済的自由競争による市場(マーケット)至上主義に基づいて小さな政府を目ざす立場であり、自由競争の足かせとなる規制緩和を進めつつ、福祉や教育など公が担ってきた部門を民間へ移すことによって効率やサービスの向上が図れるという考え方です。
越市長が新自由主義者であると自認されているかどうか知りませんが、「官から民へ」を志向した公共部門の縮小化、富の再配分である社会保障に対する冷淡さ、自由競争の戦士と見なされるグローバル人材の重視など、越市長の考え方は非常に新自由主義的だと言わざるを得ません。
私は「官が民に優越する」と思っていませんし、新自由主義が一定の合理性を含んでいることも否定しません。また、国家と基礎自治体では、新自由主義の適用に際して多少事情が違うかもしれません。
一方専門家の中には、「新自由主義は、共同体存立の根本に関わる自然環境、社会インフラ、制度資本(教育、医療など)を根本から否定するものである」との指摘(宇沢弘文氏)もあります。
その見方に立つなら、越市長が力を入れる教育改革や市民病院・図書館・公民館などの改革の行く末が気になるところです。
また、新自由主義は構造的に強者と弱者の二極化を進めるとされていますが、このことと、社会的弱者としての高齢者や低所得者への温かな眼差しを感じさせない越市長の政治姿勢とを重ねて考えざるを得ません。
「ポピュリズム」は政治学上の原義から離れて大衆迎合主義とか衆愚政治と訳されているようですが、ここでは次のような意味で使っています。
ポピュリズムとは「普通の人々とエリート、善玉と悪玉、味方と敵の二元論を前提として、リーダーが普通の人の一員であることを強調すると同時に、普通の人々の側に立って彼らをリードして敵に向かって戦いを挑むヒーローの役割を演じて見せる劇場型政治スタイルである。それは社会運動を組織するのでなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法の一つである」(大嶽秀夫氏の定義)。
また、「劇場型政治スタイル」は、「本来、政治は人々の利害や価値(思想)の調整をするものであるにも関わらず、一般の人々にとって分かりやすく劇的に見せる政治手法を用いて、自分の政治目的を実現しようとするもの」(有馬晋作氏の定義)と説明されています。
従って、ポピュリストとは、上記のような思考法を持ち、政治手法を採用する人物ということになります。
ついでながらポピュリストについては、北海道大学時代の越市長の恩師である山口二郎氏が次のように述べています。
「大衆民主政治の病理を批判するときのポピュリズムという言葉は、最近日本語にも定着している。中身はないが大衆受けする政治家に対してポピュリストという悪罵を投げつけたくなるという気分が、この言葉に関する最大公約数であろう。」
このブログは学問的な分析・分類や、悪意のレッテル貼りとはまったく無関係ですが、最近の政治、行政の分野で用いられる概念が越市政を読み解く助けになると考え、丁寧な議論を積み重ねるよりテレビ、新聞を使って手っ取り早く広く世間に流布する方を選ぶ越市長のメディア戦略と絡め、ポピュリストという言葉を使いました。
現実には越市長は「普通の人々」というより「エリート」ですが、この二項対立は越市長の心情においては、普通の人々が「自分を含む一般市民」であり、一方のエリートは「民間では考えられない非効率で進歩のない仕事をしている公務員」や、「既得権益にどっぷりと浸かっている市民団体」であり、ことによると「議会」も含まれるかも知れません。
一般市民のリーダーである越市長が、単身市役所に乗り込んで、自らの知名度と外部専門家の知見を武器に従来のシステムにメスを入れ、矢継ぎ早に改革を進めていく姿を市民に見せるための劇場。やや戯画的かも知れませんが越市政をこのように見立てることは十分に可能です。
そしてこの二項対立の構図は、早くも越市長就任一年目に提示されました。
いじめ事件が全国的な問題となった際、大津市役所という一つの組織が「何も知らなかった越市長という善玉」と「ずさんな教育委員会という悪玉」というステレオタイプに二分され、全国的な非難が教育委員会のみに集中しました。それを追い風とした越市長は、教育委員会批判を加速させていかれました。
このブログで教育委員会の独立性の尊重を訴えてきましたが、越市長のお言葉どおり「予算権は市長にあります」。また、裁判は市長を相手どって行われていました。このように大津市行政の唯一の代表としての統括代表権は市長が有しています。
その市長が、傘下の機関である教育委員会を対外的に一方的に非難するというのは、権限の面からも組織論からも妥当性を欠きます(市長の1回目の記者会見の後、私はご注意申し上げようと市長室に入りました。会話はごく短いものでしたが、私は市長のお言葉に深く失望しました)。
いずれにしても、自らの政治生命に関わる大きな危機をこうした形で(メディアを活用した劇場型手法によって)乗り越えた越市長の姿勢は、ポピュリストと呼ぶにふさわしいものと感じられます。
この体験が、越市長のその後の路線を決定づけたように思います。
このいじめ事件は既に教育の項目でも記述したとおり大津市行政にとって極めて重大な事件であったので誤解のないよう重ねて付言します。
ここで私は教育委員会及び学校を擁護しようとするものではありません。両者の責任と反省はそれぞれに行われた総括にも明らかですし、当然ながら今も再発防止の努力が続けられていると聞いています。
しかし、統括代表権者である市長が自らの発言力の大きさを生かして同じ行政機関の一翼を非難することにより、自らは世間のごうごうたる非難を免れ得た(あるいは教育委員会と比べて無いに等しいくらい軽減された)という不可解な構図に、私は、越市長に差すポピュリズムや劇場型政治の濃い影を見ないわけにいきません。
当初、行政組織のトップとして越市長の姿勢を疑問視する声も一部にありましたが、教育委員会への批判の嵐にかき消される形となりました。
またこれを契機に、越市長は、市長と教育長の権限と責任の分担が曖昧だとして制度論にまで踏み込んでいかれました。
それどころか、文部科学省の会議やテレビ番組などにおいて持論を唱える機会を得た越市長は、教育委員会改革に一家言をもつ首長として知名度を高めることとなったようです。その一方で、良心的で優れた教育者が教育行政から退くこととなりました。
ついでながら、いまこの出来事を振り返って、越市長の劇場型政治に大きな役割を果たすこととなった報道機関は、いまどのように当時をふりかえっているのでしょうか。
間接民主制におけるマスメディアの役割は本当に重要です。新聞、テレビに関わる人々が大きな使命感を抱き、昼夜を問わず一生懸命働いておられることもよく知っています。
しかし、良し悪しは別として報道も市場の論理と無関係ではありません。
新聞、テレビには、事実の報道という原点に加え、権力のチェック役、多様な価値観の共存を目ざす民主主義の後押し役、多角的な視点を提示する議論の喚起役など、重要な機能が求められると考えます。いま、一連のいじめ事件報道をふり返って関係の方々がどのような自己評価をしておられるか関心のあるところです。
なお、この記事で多くの引用をしています。私は事実に基づく自分の見解をいかに客観的に整理して冷静に人に伝えられるかに腐心してきました。そこで研究者の言葉も遠慮なく拝借しました。
結果的に目にわずらわしい文面となりましたが、私の見解や懸念をかなりお伝えできたと思います。
これが本質とすれば、たとえ心を入れ替えるとの表明があっても容易に変化しないでしょう。
それどころか1期目を無事に終えつつあるという自己認識のもとで、今後、こうした傾向はさらに強まっていくものと予測します。
こうした批評には解釈の幅があり用語も多義的ですから、蛇足を承知で少し補足いたします。
「新自由主義」は、経済的自由競争による市場(マーケット)至上主義に基づいて小さな政府を目ざす立場であり、自由競争の足かせとなる規制緩和を進めつつ、福祉や教育など公が担ってきた部門を民間へ移すことによって効率やサービスの向上が図れるという考え方です。
越市長が新自由主義者であると自認されているかどうか知りませんが、「官から民へ」を志向した公共部門の縮小化、富の再配分である社会保障に対する冷淡さ、自由競争の戦士と見なされるグローバル人材の重視など、越市長の考え方は非常に新自由主義的だと言わざるを得ません。
私は「官が民に優越する」と思っていませんし、新自由主義が一定の合理性を含んでいることも否定しません。また、国家と基礎自治体では、新自由主義の適用に際して多少事情が違うかもしれません。
一方専門家の中には、「新自由主義は、共同体存立の根本に関わる自然環境、社会インフラ、制度資本(教育、医療など)を根本から否定するものである」との指摘(宇沢弘文氏)もあります。
その見方に立つなら、越市長が力を入れる教育改革や市民病院・図書館・公民館などの改革の行く末が気になるところです。
また、新自由主義は構造的に強者と弱者の二極化を進めるとされていますが、このことと、社会的弱者としての高齢者や低所得者への温かな眼差しを感じさせない越市長の政治姿勢とを重ねて考えざるを得ません。
「ポピュリズム」は政治学上の原義から離れて大衆迎合主義とか衆愚政治と訳されているようですが、ここでは次のような意味で使っています。
ポピュリズムとは「普通の人々とエリート、善玉と悪玉、味方と敵の二元論を前提として、リーダーが普通の人の一員であることを強調すると同時に、普通の人々の側に立って彼らをリードして敵に向かって戦いを挑むヒーローの役割を演じて見せる劇場型政治スタイルである。それは社会運動を組織するのでなく、マスメディアを通じて、上から、政治的支持を調達する政治手法の一つである」(大嶽秀夫氏の定義)。
また、「劇場型政治スタイル」は、「本来、政治は人々の利害や価値(思想)の調整をするものであるにも関わらず、一般の人々にとって分かりやすく劇的に見せる政治手法を用いて、自分の政治目的を実現しようとするもの」(有馬晋作氏の定義)と説明されています。
従って、ポピュリストとは、上記のような思考法を持ち、政治手法を採用する人物ということになります。
ついでながらポピュリストについては、北海道大学時代の越市長の恩師である山口二郎氏が次のように述べています。
「大衆民主政治の病理を批判するときのポピュリズムという言葉は、最近日本語にも定着している。中身はないが大衆受けする政治家に対してポピュリストという悪罵を投げつけたくなるという気分が、この言葉に関する最大公約数であろう。」
このブログは学問的な分析・分類や、悪意のレッテル貼りとはまったく無関係ですが、最近の政治、行政の分野で用いられる概念が越市政を読み解く助けになると考え、丁寧な議論を積み重ねるよりテレビ、新聞を使って手っ取り早く広く世間に流布する方を選ぶ越市長のメディア戦略と絡め、ポピュリストという言葉を使いました。
現実には越市長は「普通の人々」というより「エリート」ですが、この二項対立は越市長の心情においては、普通の人々が「自分を含む一般市民」であり、一方のエリートは「民間では考えられない非効率で進歩のない仕事をしている公務員」や、「既得権益にどっぷりと浸かっている市民団体」であり、ことによると「議会」も含まれるかも知れません。
一般市民のリーダーである越市長が、単身市役所に乗り込んで、自らの知名度と外部専門家の知見を武器に従来のシステムにメスを入れ、矢継ぎ早に改革を進めていく姿を市民に見せるための劇場。やや戯画的かも知れませんが越市政をこのように見立てることは十分に可能です。
そしてこの二項対立の構図は、早くも越市長就任一年目に提示されました。
いじめ事件が全国的な問題となった際、大津市役所という一つの組織が「何も知らなかった越市長という善玉」と「ずさんな教育委員会という悪玉」というステレオタイプに二分され、全国的な非難が教育委員会のみに集中しました。それを追い風とした越市長は、教育委員会批判を加速させていかれました。
このブログで教育委員会の独立性の尊重を訴えてきましたが、越市長のお言葉どおり「予算権は市長にあります」。また、裁判は市長を相手どって行われていました。このように大津市行政の唯一の代表としての統括代表権は市長が有しています。
その市長が、傘下の機関である教育委員会を対外的に一方的に非難するというのは、権限の面からも組織論からも妥当性を欠きます(市長の1回目の記者会見の後、私はご注意申し上げようと市長室に入りました。会話はごく短いものでしたが、私は市長のお言葉に深く失望しました)。
いずれにしても、自らの政治生命に関わる大きな危機をこうした形で(メディアを活用した劇場型手法によって)乗り越えた越市長の姿勢は、ポピュリストと呼ぶにふさわしいものと感じられます。
この体験が、越市長のその後の路線を決定づけたように思います。
このいじめ事件は既に教育の項目でも記述したとおり大津市行政にとって極めて重大な事件であったので誤解のないよう重ねて付言します。
ここで私は教育委員会及び学校を擁護しようとするものではありません。両者の責任と反省はそれぞれに行われた総括にも明らかですし、当然ながら今も再発防止の努力が続けられていると聞いています。
しかし、統括代表権者である市長が自らの発言力の大きさを生かして同じ行政機関の一翼を非難することにより、自らは世間のごうごうたる非難を免れ得た(あるいは教育委員会と比べて無いに等しいくらい軽減された)という不可解な構図に、私は、越市長に差すポピュリズムや劇場型政治の濃い影を見ないわけにいきません。
当初、行政組織のトップとして越市長の姿勢を疑問視する声も一部にありましたが、教育委員会への批判の嵐にかき消される形となりました。
またこれを契機に、越市長は、市長と教育長の権限と責任の分担が曖昧だとして制度論にまで踏み込んでいかれました。
それどころか、文部科学省の会議やテレビ番組などにおいて持論を唱える機会を得た越市長は、教育委員会改革に一家言をもつ首長として知名度を高めることとなったようです。その一方で、良心的で優れた教育者が教育行政から退くこととなりました。
ついでながら、いまこの出来事を振り返って、越市長の劇場型政治に大きな役割を果たすこととなった報道機関は、いまどのように当時をふりかえっているのでしょうか。
間接民主制におけるマスメディアの役割は本当に重要です。新聞、テレビに関わる人々が大きな使命感を抱き、昼夜を問わず一生懸命働いておられることもよく知っています。
しかし、良し悪しは別として報道も市場の論理と無関係ではありません。
新聞、テレビには、事実の報道という原点に加え、権力のチェック役、多様な価値観の共存を目ざす民主主義の後押し役、多角的な視点を提示する議論の喚起役など、重要な機能が求められると考えます。いま、一連のいじめ事件報道をふり返って関係の方々がどのような自己評価をしておられるか関心のあるところです。
なお、この記事で多くの引用をしています。私は事実に基づく自分の見解をいかに客観的に整理して冷静に人に伝えられるかに腐心してきました。そこで研究者の言葉も遠慮なく拝借しました。
結果的に目にわずらわしい文面となりましたが、私の見解や懸念をかなりお伝えできたと思います。