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2015/12/16

67) まちづくりの課題(競輪場その2)

 まちづくりの課題を論じかけるとつい自問自答の脇道に入り込み、短い記述にも時間がかかって尺取り虫の歩みです。そんなところに競輪場の跡地利用に関して考えさせられるコメントを頂いたので立ち止まって競輪場の補足をしたいと思います。 
 跡地利用に際して民間のノウハウと資金活用の可能性を追求すべしと私が書いたことに対し、投稿者はまず、あの一体をどういう空間にしたいのか町のデザインを考えるべきだと述べた上、民間活用はあなた任せになりがちだと述べておられます。まことにもっともなご指摘だと思います。

 まちのグランドデザインである第4次大津市国土利用計画はコンパクトなまちづくりを志向し、大津市を多様な地域の連合体と見たて、琵琶湖と山並みにより保たれているまちの一体性を重視しながら各地域の個性の発揮をめざす方向性を打ち出しています。
 その中で競輪場一帯は、大津京駅、皇子山駅周辺の「西大津都市核」を中心とする「西大津地域」に位置づけられ、皇子山総合運動公園や近江神宮などが地域資源とされています。また、大津・浜大津地域、膳所地域とともに市全体の中心的エリアとして都市機能の集積をはかるべき地域であるとも位置づけられています。
 それに加えて山と湖の距離が近いという地理条件を考えると、自然の潤いと都市機能の高次の調和が自ずから求められる地域だと思います。その中における競輪場跡地です。 

 私が「民活」の可能性も追求すべしと言ったのは、まちづくりにおいても市場原理が有効である(もちろん100%ではないけれど)と思うからですが、これを突き詰めると「公」と「私」の問題に行き当たります。
 公(あるいは公共)という言葉について、私も長年公務員でしたから幾つもの解説が頭に浮かぶのですが、自他ともに納得できる定義を語ることはなかなか難しいと感じます。このブログで越市政を論じてきましたが心の底にはずっと公とは何かという自問がありました。
 ちなみに越市長には「目立った失政がない」という見方があり、私は正反対の解釈なのですがこれもまた公の概念と深く関連する問いであると考えます。皆さんのご意見を伺いたいところです。
  
 まちづくりをめぐる公と私の関係をめぐって、私はよく西欧の街並みの美しさを思い浮かべます。資本主義の先達であり個人主義の牙城のようなかの国々において、個人や企業が強烈な自己主張を控えて町全体の美観に協力するという羨ましい構図。それに比べてわが国の街並みにみるなりふり構わぬ自己表現の猥雑さ。限られた見聞による感想にすぎませんが、ここに彼我の公共感の相違がよく現れていると思います。多数の「私」の少しずつの我慢の総和に支えられる「公」の利益、逆に「公」によって多数の「私」が受益しているという感覚、これらを基盤とする地域の申し合わせや法規制。このように考えてくると、行政の責任に劣らず住民の責任も重要であると改めて思います。
 競輪場跡地にしても庁舎整備にしても十分な情報提供をもとに「そもそも論」からスタートし、議論をつくして進めるべきですが、そこで公と私のあり方が問われていくと思います。
 今回、足踏みをしたものの大したことが書けませんでした。次は市民センターの予定です。