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2021/04/24

143)呼出状

 大津市が被告となっている民事訴訟について時おり経過報告を行ってきましたが、このたび越直美氏の尋問が決まりました。同氏が市長として行った公文書の改ざん・廃棄や不祥事の隠蔽についての指示が争点である以上当然のことですが、事実関係を踏まえた地裁のご判断に敬意を表するものです。越氏の尋問は7月15日、大津地裁。はたして氏は証言台に立ち真実を話すのでしょうか。

 原告代理人弁護士に伺ったところでは、呼出状の強制力や拒否した場合の罰則などについて民事訴訟法190条以下に規定があり、正当な理由なく出頭を拒否した場合には過料や罰金が科される可能性があります。極端な場合には手錠をして法廷に連行する「勾引」もあるとか。もっとも実際に過料や罰金が科されることはほとんどなく、民事事件で勾引まですることはまずありません。また、証人尋問に出頭した場合であっても正当な理由なく証言を拒絶した場合には過料や罰金が科される可能性がありますが、これまた実際に罰金等が科されることはまず無いということです。

 「ガラスの天井」への挑戦者を自称して売名活動に余念のないコ氏ですが、私の目にはガラスの天井を踏み台にして「公」への挑戦を試みた「公共犯罪人」です。こうした見方が全体主義的であると私は思いません。コ氏の言動を間近に見たものの実感です。したがってこれは民事事件、刑事事件とは異なる重大な「公事事件」。張本人が逃げを打つなら腰縄手錠の勾引が相当です。

 すでに申し上げた通り、私はコ氏をあれこれ論評することがわが人生における時間のムダと考えて中止しました。それは今後も変わりありませんが、今回は大津市(越直美前市長)に全面的な非があることを私が確信している、いや、より正確には「事実として知っている」ところの訴訟における重要な節目として言及しました。次回は「公をめぐる話」に戻ります。




2021/04/17

142)「琵琶湖大津」である理由

 大津市でもワクチン接種が始まりました。担当される方々の精励、ご健康をお祈り申し上げます。非常時に浮世離れした話で恐縮ですが、また芭蕉です。「行く春を  近江の人と  惜しみける」。元禄3年、唐崎の舟遊びで詠まれた句。これに対し、なぜ「行く春」に「近江の人」か。「行く年」に「丹波の人」ではいけないかと弟子尚白が疑問を呈しました。近江人の末裔として無視できないところです。

 さて汝はどう思うかと芭蕉に問われた去来が答えます。尚白の問いは愚問です。湖水がぼんやり霞んでいる景色こそ春を惜しむにふさわしく、まさにその場に臨んで生まれた一句であると思います。芭蕉いわく、その通りだ。古人も近江の地で春を愛でることは都において春を愛でることになんら劣るものではない。

 そこで去来は返します。お言葉が心にしみます。もし師が年の暮れに近江におられたならどうしてこの感興がありましょう。また行く春に丹波におられたなら惜春の情すら浮かびません。このように風光が人を感動させるとは全くもって真実であります。芭蕉は大いに喜んで、去来よ、おまえは共に風雅を語ることができる者である。

 以上は「去来集」の現代語訳を私が勝手にアレンジしたもので文献的な厳密さはゼロですが、「近江」と「惜春の情」の組み合わせに芭蕉がある種の必然性を認めていたことを示す記述です。これは近江の門人たちへの挨拶句ですが、より本質的には、先人を偲びつつ脈々と続く文芸の到達を踏まえるという伝統的な作法にならって作られた一句と見るべきでしょう。

 すなわちこの地にかつて都(大津京)が置かれたこと、湖水を望んで延暦寺、三井寺をはじめ多くの名刹があること、古来多くの歌に詠まれてきた土地柄であること、源氏物語ともゆかりがあること等々、歴史・文化の分厚い集積が句作の背景にあるはずです。そしてこれらを大きく包み込むのが琵琶湖と山々からなる近江の自然であり、その典型例が大津市であると私は考えます。

 県内各市が「琵琶湖はわが物」とアピールをするのは自由ですが、その主張がもっともふさわしいのが大津であるというのが私の持論です。たとえば私は大津と草津に長年住んでいますが、日常生活の中で琵琶湖の存在を感じるのは圧倒的に大津です。都市計画法では市街化区域(多くの人が住み活動する都市的エリア)と市街化調整区域(自然ゆたかなエリア)の区分がありますが、大津市は市街化区域の面積が広いうえ長い距離で湖水に接しており、これは県内各市と比べて際立った特徴です。つまり一口に言うと大津市は「町」が琵琶湖に接し、他市では「田んぼ」が接しています。また、山と湖水の距離が近い湖西地域、なかでも大津市(北部、中部)は「傾斜都市」であり、いたるところから青い湖面を望むことができます。

 中国の瀟湘八景になぞらえて江戸初期に選定されたとされる近江八景が大津の地からの「見立て」であることもうなずけます。石山、瀬田、粟津、三井、唐崎、堅田、比良の7景は大津なのに矢橋だけは草津で残念と言う人もいますが、それは見当ちがい。「矢橋の帰帆」は、打出浜あたりから対岸に戻る船(私の想像では輝く西日に白帆を染めて)を見送る景色であり、主体が大津にあることに留意すべきです。以上が「琵琶湖大津」の理由です。「まちづくり」を考える上でいかに自然や歴史の要素が大きいか、大津の人々はいかに大きな遺産を相続しているか、職員であった頃はこのことを痛感したものです。

 ちなみに冒頭の句のピーター・J・マクミランによる英訳が朝日新聞(4月11日朝刊)に載っていました。

 With the people of Oomi

 ―ancient and now

 I lament the passing of spring.

 ―昔も今も― という説明を間に入れて訳者は歌枕をふまえた芭蕉の意図を伝えようとしています。私たちが読むシェイクスピアもこのようなものでしょうか。これは訳者というより読み手側の問題ですが、原文にない挿入句は翻訳の可能性と限界を感じさせます。






2021/04/10

141)切れて、つながる

 人工知能や通信技術の進展と共に社会のオンライン化が急速に進み、いまわしいウイルスがそれに拍車をかけています。距離や時間の壁を押し下げ、一人の知を速やかに社会の知となしうるインターネット。こうした可能性に付随するマイナス面を考慮しても利点がはるかに大きいというのが社会の常識で、最近はコロナを奇貨としてオンライン社会をさらに進めるべきだという主張を多く見受けます。

 私はそれに半ば同意しますが、一方で、回線を通じて、いや、むしろ回線を隔てて繋がることの「間接性」に関する議論が世の中に不足していると考えます。いまやオンラインゲームからミサイル攻撃に至るまで数々の指令はイスに座って指ひとつ。目の前に相手の生身がおらず見つめるのはモニター画面、計算と思考はすべて機械まかせ。これらは「脳ミソの外部化」、「直接性・肉体性の収奪」ではないでしょうか。

 社会の様々な場面でこうした状況が進んでいくと、人を支える要素の一つである「感性」に影響が及ぶのではないかと私は思うのです。たとえば民族・性・貧困などを理由とする差別、いじめ、パワハラ、DV等々の拡大再生産。これらの行為の根底にある「他者の痛みへの感覚の鈍麻」は、今日のオンライン・バーチャル社会の進展と無関係ではありません。

 いや我々には「想像力」という力があるではないか、との反論もあるでしょう。しかし、想像力は私たちのもつ自然性、身体性の深部に根を下ろしており、それこそ問題の根は深いのです。「身体性」の重視はそれ自体が差別の契機となりうることに留意すべきですが、人間において精神性と身体性が相互依存的(相互支援的)な関係にあることを無視してはならないと考えます。

 小学校では、政府方針により生徒すべてにタブレット端末が行きわたったことと思います。それは重要な施策ですが、次世代の健全な育成を目ざす総合的な施策として多面的な検証がなされているかどうか疑問です。こうした懸念は若い人にシーラカンスの愚問に見えるでしょう。私自身もやや古臭いという自覚がありますから。それにしても留めようのない社会のオンライン化をいかに評価すべでしょうか。

 敬愛する詩人、金時鐘さんに「切れて、つながる」という言葉があります。日本占領下の済州島で少年時代を過ごした金さんは、日本の敗戦後、母国語を学ぶことから自己回復の歩みをはじめました。やがて4・3事件に関わって来日、南北に分断された同胞が日本という第三の場所で肩をよせあい、遠く海を隔てて二つの祖国を等距離に眺めるありようから「在日の思想」を紡ぎました。日本語の現代詩における孤高の詩人。この人の語る「切れて、つながる」ことの意味を自問せずにはいられません。




2021/04/03

140)蝶の見た夢

  人生を夢と見なすことは、ある年数を生きた人間にとって何がしかの実感と共に受け入れ可能な見立てでしょう。「人生五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり」は幸若舞、「粟飯一焚之夢」は謡曲「邯鄲」、「処世若大夢 胡為労其生」は私の好きな李白の詩(春日酔起謂志)の冒頭。浦島太郎やリップ・ヴァン・ビンクルの異界体験(つかの間の不在のあと家郷に戻ったら何十年も過ぎていた)も同根だと思います。

 さらに古くは紀元前の荘子の夢。みずから蝶となりヒラヒラ舞い遊んだ夢から覚めた哲人は、「もしや今が夢の中ではないか。わが人生は蝶が見ている夢に過ぎないのではないか」と自問しました。この存在論には人を魅了する何かが含まれています。蝶の夢。これを俳号とする一人の僧が江戸後期に現れ、俳聖芭蕉の追慕、顕彰に尽力したことを大津市歴史博物館の展示で知りました。

 この間の日曜、開館30周年記念事業(おめでとうございます)の特別企画展「芭蕉翁絵詞伝と義仲寺」に出かけ、歴史博物館の名に相応しい見ごたえのある展示に時を忘れました。以下の記事はパンフレットからの抜き書きです。松尾芭蕉(1644~94)の葬儀には300人が弔問に訪れたそうですが、18世紀中葉には墓所義仲寺の荒廃が進み、世から忘れられた存在となり果てました。

 これを嘆き、生涯をかけてその復興に努めたのが文人僧の蝶夢(1732~96)。彼は芭蕉の百回忌に向けて義仲寺の復興整備に着手し、翁堂に安置された芭蕉像に奉納するため11年の歳月をかけ三十三段からなる松尾芭蕉伝を編集執筆、狩野至信による挿絵を加えて絵巻三巻(延長40m)に仕立て「芭蕉翁絵詞伝」を完成させました。この絵巻は義仲寺の門外不出の宝として長く守られてきましたが、近年、歴史博物館に寄託されました。

 「絵詞伝」を収めた木箱に俳人57人の名が墨書(今なお鮮やか)されていることが端的に示すように絵巻は芭蕉を蕉門俳諧の祖師と仰ぐ視点で編まれ、彼の俳文や紀行文を抜き出し時系列で並べて物語の中心としています。さらに当時の流行であった名所図会(旅行ガイドブック)の要素がふんだんに盛り込まれ、木版増刷の流布により俳諧文学に疎い庶民にも浸透しました。明治以降は活字翻刻本が出版され、幸田露伴も校訂、解題に関わります。かくして「芭蕉翁絵詞伝」は、今日の私たちの芭蕉理解に大きな影響を及ぼすこととなりました。

 その功労者である蝶夢は、義仲寺復興に際し全国をまわって募金活動を展開、集めた大金の管理は商人に委ねるなど精力的、合理的に事業推進に取り組みました。一方、自分の庵を俳諧の「交流センター」として提供しつつ各地からの序文、跋文、発句の依頼に応じて地方俳壇の活動支援を行いました。芭蕉の真筆の鑑定、保存活動にも取り組んでいます。

 以下は私の素人感想。蝶夢は、芭蕉の没後38年に現れた俳諧の守護神であったと言えるでしょう。彼の芭蕉に対する畏敬、追慕の念の深さは絵詞伝の文章からも察しられます。その芭蕉および俳諧のため、内奥から湧きあがる抑えがたい力につき動かされ、多事多難の中にも大きな喜びをもって彼は生涯を捧げたのであろうと想像します。江戸時代に一匹の蝶が見た大きな夢。その幻が豊穣なうつつとなって今の私たちの前に広がり、中で芭蕉がみずからの人生を生きている。芭蕉翁絵詞伝を見て私はそのように感じました。

 当日は企画展の隣で高校書道部の発表会が開かれていました。江戸の絵巻と今どきの若者の伸びやかな書。楽しさが倍になりました。こうした展示活動ばかりでなく、歴史博物館の役割は市内の有形無形の歴史的資産の保護など広く館外に及びます。その30年の歩みを見て、やはりこれは「公」の施設として維持すべき博物館であると強く思います。

 縮小のバイアスがかかる社会のなかで「公」を健全なものとして維持していくためには、私たち一人ひとりに幅広く柔軟な思考をする態度と、公私のより高次な調和をめざす志が求められます。こうした資質に欠ける新自由主義の信奉者や同調者が「公」を理解できないのは理の当然かもしれません。コ氏 VS 歴史博物館・図書館・公民館。維新橋下 VS 文楽・保健所。こうした蒙昧の人々に学びの機会を与えるため芭蕉展の招待券を送ることを博物館に提案します。

 この企画展はあと1週間、4月11日まで。招待券をもらえなかった方もお運びくださいますよう!