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2021/05/30

147)嗚呼、大関朝乃山

 朝乃山が夏場所前の深夜、相撲協会の禁を破ってキャバクラにかよい、現場を週刊文春に押さえられて協会の調べを受けました。「事実無根です」。きっぱり否定した朝乃山ですが翌日の再聴取で一転して事実を認め、途中休場することとなりました。夏場所は復活した照ノ富士が連続優勝をとげ両大関が大きく明暗を分けました。

 過去の例から朝乃山に厳罰が下されることは必至で、複数場所の出場停止どころか解雇の可能性もありそうです。私の相撲熱も近頃はさめ加減ですが朝乃山は魅力ある四つ相撲の力士で、心・技・体の一番目が充実すればさらに強くなると期待していました。この件で感じたことを記します。ことの責任はもちろん朝乃山にありますが、彼を取り巻く世間の状況をどう見るべきでしょうか。

 まず相撲協会。すでに写真が流れ文春からも掲載まえの接触を受けて行った内部の聞き取り調査において、協会は朝乃山の見えすいた否定を受け入れる道をえらび、結果的に「虚偽申告」の事実づくりに加担しました。この選択には人情味もなければ人への洞察や組織としての危機回避の意思も見当たりません。

 そもそも力士と夜の街とは縁あさからぬ仲、だから協会も外出自粛のルールを定めたはずです。土俵際に追いつめられその場逃れのウソをつくことは誰にでもあり得ます。まして調べを受けているのは相撲一筋の27歳の青年。「文春砲」が映像や音声データをもとにタイミングよく放たれることも周知の事実です。協会は朝乃山を諄々と諭すべきであったと私は思うのです(懲戒処分全般にもつながることですが)。

 一説には「のちに事実と分かれば大変なことになる」と念押ししたそうですが朝乃山を正気に戻すことができず、一夜明け、芝田山広報部長がウソはけしからんと「激怒」してみせました。幹部の人材不足によるものか以前から不思議な判断をする相撲協会ですが今回も黒星、一人の青年の未来を閉ざすこととなりました。もし朝乃山が今後も相撲界に残ることとなれば、第2の照ノ富士を目ざして努力してほしいと思います。

 政官界はどうでしょうか。思いつくまま上げますが、コロナとたたかう総本山、厚労省の職員が23人で送別会を開いたのは記憶に新しいところです。彼らは午後9時までの時短要請を受けている飲食店に11時をこえ居すわっていました。菅首相も5人以上の飲食(この線引き自体おかしいけれど)を控えるよう呼びかけながら自身は8人でステーキ会食、加わっていた二階氏が「飯を食うために集まったのではない」と居直りました。

 石破氏は福岡で大人数のふぐ会食、松本純氏はイタリア料理を食べた後に銀座のクラブをはしご(しかも仲間がいたのに一人で行ったと虚偽説明)。石原伸晃氏は派閥の会合のあと複数でレストランの昼食。こうした人々が緊急事態宣言について論じているわけですが、さて朝乃山とどちらが罪深いのでしょうか。

 ウソという点では安倍氏の国会答弁を忘れるわけにはいきません。一例にすぎませんが、彼は国有地の8億値引きに関し「私や妻が関係していたら総理大臣も国会議員もやめる」と大見得を切り、つじつま合わせのために財務省が文書廃棄や改ざんを行い、抵抗した近畿財務局職員を結果的に死に追いやりました。キャバクラに行っていませんという力士の嘘など可愛らしいものです。

 権力者のとてつもない嘘や間違いがまかり通り、一般市民はささやかな嘘や間違いで再起不能になる。コロナはこうした社会の現状も浮き彫りにしています。朝乃山まけるな、ガンバレ!

                   花がおわりレモンの赤ちゃんの顔見せ





2021/05/19

146)コロナと社会 3

 「全て」と等価である唯一無二の「個」、その集合体である「全て」の「個」に対する優越性、この二つの相容れない理念を包摂するより高次の理念を「公」とするならば、「公」は社会の成員により果てしなく追求されるべき至高の目標であるということになります。それはちょうど内田樹氏が言う「憲法の『空語』を充たす」ための営為に似ています(記事No124にも書きました)。

 そこで憲法12条です。「この憲法が国民に保証する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う。」素人解釈ですが「不断の努力により保持」するよう求められる「国民」のなかに統治機構である国を含むとするなら前段はよく腑に落ちるし、後段は「義務」でなく「責任を負う」というところがいいと思います。

 問題は自由、権利の行使の目的たる「公共の福祉」ですが、これは13条(幸福追求権)にも出てきます。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大の尊重を必要とする。」とあります。もしコロナ撲滅が「公共の福祉」だとすれば個人の不自由は甘受されるべきである、という理屈です。もっともコロナ撲滅とはどの程度までを想定するか、個人の自由制限の程度はどうかという問題がありますけれど。

 さて、憲法がいう「公共の福祉」とは、「人権相互の矛盾・衝突を調整するための実質的公平の原理」であるとされています(一元的内在制約説)。そう言われるとより適切な説明を思いつきませんが、なにやら喧嘩の仲裁の大元締めのごとき定義で、私のイメージする「公」と似て異なる気がします。それは「個」と緊張関係にある「国家権力」、「国家の利益」などの概念との関係がこの定義からは見えてこないからかもしれません。

 また、コロナをめぐっては憲法25条。「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」朝日訴訟で知られるこの条文は生活保護ケースワーカーであった私になじみ深いものですが、コロナで社会的な経済・文化活動が制限され「最低限度の生活」の維持が構造的に困難となっている今、生活保護があるからセーフティネットは問題ないとする政府見解には簡単に同意できません。

 憲法をめぐっては多様な学説があり、中でもここに引いた3つの条文には解釈の幅が大きいようです。私は学説を知らず日本語の意味に頼って私見を述べているにすぎませんがやはり次の2点が重要であると考えます。まず継続的な問題としては「憲法の『空語』を満たす」意思が私たちにあるかということ、そして喫緊の課題としては、コロナ禍の社会においていかに「公」を追求し、いかに個人の幸福と社会の安寧を図るかということ。

 後者の課題は政治の場面で端的に示されますが勿論それがすべてではありません。私は政府のコロナ対策とあわせ、個人として何を感じ、どう振舞ったかについて忘れないでおこうと思います。意のままにならない移動、顔を見られない面会、切り詰められる営業時間、補償がなく頭をかかえる知人、車内で咳きこむ人へのまなざし、濃厚接触者や陽性者にいだく感情等々。

 20204月、イタリアの作家パオロ・ジョルダーノが「コロナの時代の僕ら」(早川書房)で書きました。「僕たちは今、地球規模の病気にかかっている最中であり、パンデミックが僕らの文明をレントゲンにかけているところだ。数々の真実が浮かび上がりつつあるが、そのいずれも流行の終焉とともに消えてなくなることだろう。もしも、僕らが今すぐそれを記憶に留めぬ限りは。」1年まえに書かれたこの言葉が過去のものになるどころか、ますます妥当性を強めることになろうとは作家本人も予期していなかったのではないかと想像します。

 最後にメルケル首相の言葉を引きます。メルケル氏は2020318日、テレビ演説で現状に対する政府の認識と決意を伝え、広く国民に理解と協力を呼びかけました。

 (前略)日常生活における制約が、今すでにいかに厳しいものであるかは私も承知しています。イベント、見本市、コンサートがキャンセルされ、学校も、大学も、幼稚園も閉鎖され、遊び場で遊ぶこともできなくなりました。連邦と各州が合意した休業措置が、私たちの生活や民主主義に対する認識にとりいかに重大な介入であるかを承知しています。これらは、ドイツ連邦共和国がかつて経験したことがないような制約です。

 次の点はしかしぜひお伝えしたい。こうした制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです。(後略)

 ドイツ大使館の記事から引きましたが、省略した多くの部分を含め、メルメル氏の言葉は深く、肉声と呼ぶにふさわしい身体性を帯びています。これこそ難局において「公」を希求する言葉であり、「個」に届く言葉だと思うのです。いま、ワクチンも欲しいけれど一国の指導者からこうした言葉も欲しい。その両方を欠いている日本であることをまことに残念に思います。 


                                                                                       レモンの花


2021/05/09

145)コロナと社会 2

 人生で遭遇した大きな災厄は何かと問われたら、私は迷わず阪神淡路大震災、東日本大震災と福島第一原発事故、新型コロナのパンデミックをあげます。一つ目は自然現象、二つ目は自然現象と人為である未必の故意の複合、三つ目は地球規模の生命現象と態様は異なりますが、いずれも多くの命と暮らしが犠牲となり、それを守るためにこそある政治の機能不全を私たちは目の当たりにしてきました。ここで政府の対策に3つの疑問を呈しますが世の多くの見方も同様だと思います。

<PCR検査の不実施>

 感染症対策は迅速な検査により一人を救い、伝播をとめて社会を守ることが重要ですが、感染力が強く無症状者も多いコロナの場合は尚更です。国内で初の感染事例(武漢のツアー客から日本人へ)が確認されたのが昨年128日、翌2月にはもう経路不明の感染が広がり始めました。国は、遅くともこの時から全力をあげてPCR検査や抗体検査の体制整備に着手すべきであったと思います。その代わりに行われたのが37度5分の熱が4日続くまで自宅待機を呼びかける「受診の目安」の公表で、それを守って亡くなる方も出ました。

 当時トランプ大統領は「混乱するから検査をするな」と指示しましたが日本政府も同じ考え方であったようです。検査には手間がかかり熟練した技術者の大量動員が必要との説明もありましたが言い訳にすぎません。そのころ国内のベンチャー企業が開発した全自動PCR検査機と試薬キットがフランスで大活躍し、同国大使から感謝状を贈られたとの報道がありました。「まず日本で使ってほしかったが誰も取り合ってくれなかった」とは社長の弁です。

 早い時期にPCR検査を健康保険の対象として国民の選択に任せた(放り投げた)ことも問題でした。他の感染症検査の兼ね合いもあったのでしょうが、一方で、国が10万円や布マスクをばらまいたのは新型コロナが「別格」であるとの認識に基づいていたはずです。その後、さすがに検査数は増えたものの発症者の検査⇒コロナ診断⇒濃厚接触者の検査という「後追いスタイル」は基本的に変わらず、限定的検査の結果が対策の基礎となっています。そして現在、全国民を対象とする予防的検査の実施に程遠いまま医療体制が危機的状況を迎えています。そもそも国にはまともなPCR検査を実施する意思がないのだと私は考えています。

<火に油のGO TOキャンペーン>

 この事業に関する不透明な金の流れや実施のドタバタ劇を忘れてはなりませんが、それはさておき、感染予防と経済対策を天秤にかけて間を行き来する対策の立て方にまず問題があります。そして全国でコロナが流行っているさなかに広域・大量に人の移動を促したこと常軌を逸しています。「検査の手抜き」と「人流の促進」。菅内閣は国民のために働く内閣だと自称していますが、これでは「新型コロナウイルスの繁栄のために仕事をしている」と言われても仕方ありません。

 Go To事業が政府の説明どおり観光関連産業を救うためなら人を動かさず金だけ動かす、つまり手厚い補償しかなかったであろうと思います。緊急事態宣言や蔓延防止措置による移動抑制もバランスの悪い中途半端な施策に終始しています。これは後知恵の批判ではありません。すでにコロナ500日です。政府は感染状況と対策を並べ効果を検証した報告書を作成し国民に説明すべきです。そうでなければ日本のコロナ克服は困難であると思います。

<五輪中止の不決断>

 東京オリンピックの延期決定は昨年324日、開幕まで残り4カ月の決定に遅すぎるとの声が国の内外から上がりました。ちなみに当時の感染者は国内で約1千人、世界で約40万人。現在は国内で約63万人、世界で約16千万人。「復興五輪」を標榜した際には安倍首相が「福島原発はコントロール下にある」と表明し、1年延期した今は「人類が新型コロナに打ち勝った証」として五輪を行うと菅首相が発言しています(4月の会見時にもなお)。私はこうした人々の頭の構造を見てみたいとつくづく思います。

 はじめから大義なき五輪ですが、さすがに今は政府も内心は開催を諦めているでしょう。先日の二階氏の「中止発言」も観測気球と後日の言い訳(柔軟かつ多角的に内部検討を行っていた証)の二つの狙いがあると思われます。開催予定まであと2か月余。もはや将棋の投了前の「形作り」の状況ではないでしょうか 。はやく投了して感染拡大の上乗せをやめ、医療体制の維持に注力すべきだと考えます。

 そのほかにも日本のコロナ対策に関して私たちが忘れてはならないことは沢山あります。国の報告書とは別に全体を視野におさめた客観的なレポートが出てくることを期待したいと思います。次回は社会と個人の関りについて書く予定です。




2021/05/02

144)コロナと社会

「銀河の微塵と浮かぶ地球。その表皮にひしめくミジンコのような人の群れ。それをたやすく分断し恐慌におとしいれた究極の微塵の毒。新型コロナウイルスなるものが出現し、またたく間に多くの命が失われ、社会のありようが変わりました。それが生命の歴史であり、ヒトの遺伝子の少なからぬ部分が外部由来、すなわち感染の置き土産だと学者は言いますが、歴史はさておき今を生きる私たちは所かまわず降りかかってくる火の粉を払わないわけにいきません。

そして、こうした時こそ社会の安寧と個人の幸福に重大な責任を負う政治が機能し政治家が責務を果たさなければなりませんが、果たして現実はどうでしょうか。五輪延期の迷走、屋形船や豪華客船の怪、マスクの品切れ、パチンコの行列、咳へのまなざし、テレワーク、内定取り消し、雇い止め、倒産、救急室の疲弊、保育所で一人ぼっちの子ども、保健所の不通電話、家庭ごみの山、DVの増加、死者の棒グラフ、754日の『誤解』、宣言の発出と解除、知事の腕くらべ、気の緩みへの『戒め』、再配達中の『安心』布マスク、来ないヘルパーを待つ人、、、

現在進行中のこれらの問題の多くは、まず政府の責任において早急に解決されるべきであり、その他関連する様々な事象と共に後日しっかり検証される必要があると考えます。同時に、私たちが個人としてどう考え、振舞ったかについても簡単に忘れるわけにはいかない。そのような『コロナ問題』ではないでしょうか。」

以上ながながと引用したのは昨年5月、近しい人と4人でポツリポツリと編んでいる冊子「一微塵」でコロナを取り上げようということになり、友人知人に寄稿を依頼した際の呼びかけ文の冒頭です。それから1年。いま改めて皆さまに同じことを申し上げたくここに載せました。1年の間にこの感染症は「降ってわいた災厄」から「居すわり程度を増し続ける脅威」に変わりました。しかるに政府の対応はどうか。改善されたのは唯一「マスクの品切れ」だけ、ワクチン接種がはじまったとはいえ大きく見て事態は悪化しています。

ここで政府の悪口を言うのが「主たる」目的ではありません。いま私たちが目にしているのは政治家の質の低下のみならぬ政治の貧困であり、社会システムの不適合であり、私たちのありようを含む「公」の危機であり、総じて言えば、命の選別が公然と語られ始めたことが端的に示すように民主主義を標榜する社会の変容です。その全体像にはとても手が届きませんが、昨年来私が感じていることを一つ二つ書きたいと思います。今日はこのあたりで。