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2021/08/29

152)野戦病院

  コロナ専用の医療施設を新たに設けるべきだという主張(いまさら何だと思いますが)のなかで突然「野戦病院」という言葉が出現し、首相や知事らが一斉に飛びつきました。聞く方も恥ずかしくなる政治家の言葉づかい。この期に及んで彼らはなお「自分が何をなしたか」より「自分がいかに発信したか」という観点から逃れられないようです。こうした軽薄さがコロナ対策の遅れにつながっており、前回とり上げた「コロナに打ち勝った証し」や「安全、安心の大会」も同類であると思います。

 そもそも彼らは「野戦病院」の意味を知っているのでしょうか。辞書では「傷病兵の収容のために戦場の後方に設置された施設で軍医や衛生兵が治療にあたった」というナイチンゲール時代の一般的定義が書かれています。しかし、先の戦争で母国を遠く離れて大陸や南方に戦線を広げた旧日本軍の野戦病院においては、人員、物資の不足が常態化し、銃創、爆傷、熱傷、不安障害、マラリア、低栄養などの傷病兵に十分な治療を行えなかったと言われています。

 特に戦争末期は、ジャングルや山岳地帯の一角を簡単に整地して天幕を張って患者は地面にごろ寝、末期の水さえもらえずに次々と息絶えていったという生存兵の証言が複数あります。こうした悲惨な状況は大岡昇平の小説からも読み取ることができます。すなわち日本における野戦病院の「直近の実例」は、「なすすべなく傷病兵を放置し、救える命を救うことができなかった名ばかりの病院」です。野戦病院は病院ではありませんでした。

 そこで戦後において大規模な災害や事故により病院が機能不全におちいった状態を「野戦病院」と表現する例がありました(これでも十分に不愉快です)。そしていまコロナ禍における「野戦病院」開設の大合唱。菅さん、小池さん、吉村さんらは少し勉強してからものを言うべきです。彼らは事態の緊急性を強調したいのでしょうが、そもそも後手後手の対応でこの状況を招いたのはいったい誰か。こんな時にオリンピック、パラリンピックを強行したのはいったい誰か。二重の意味で腹が立ちます。

 「酸素ステーション」、「入院待機ステーション」、「若年者向け予約なしワクチン接種」などの新たな取り組みもニーズの読み違いや現場管理の不手際から混乱を招いており、野戦病院と同じく「名ばかり」の施策です。貴重な税金と人材を浪費して看板を掲げ「やっている感」を出そうと画策するのはいい加減にやめていただきたい。これも「公」の私物化の一例ではありませんか。国民と政治家の距離が地球と月ほどある国において感染症を克服するのは至難の業です。

 ついでながらメディアや政治家は勇ましい言葉が好きなようです。野戦病院、さむらいジャパン、日の丸飛行隊等々。感性の劣化だと私は思います。









2021/08/23

151)政治家の言葉

  西武1階の食品売り場のレジの列に並んだら前に立つのは見覚えのある紺のスーツの背中に脂っぽい髪、思い切って安倍さんですかと声をかけると振り向いたのはまさにその人。よしこの際だと思い、人類が新型コロナに打ち勝った証しとしてオリンピックを開くと言ったことの責任をどう取るのですかと問いかけると、私はですね、人類に、人類にですよ、新型コロナが打ち勝った証しとして開催するとこう申し上げたわけであります、と淀みない答え。なんとそうであったかと合点したら枕がはずれて目が覚めました。外は薄明、激しい雨音、まったく寝覚めの悪いことで、、。

 菅首相も施政方針演説でこのセリフを本来の形で踏襲、世界規模の人の流れを引き起こし税金も医療資源も吸い上げて五輪が開かれ、次はパラリンピックが控えています。極上の羽毛より軽い昨今の政治家の言葉ではありますが、安倍氏、菅氏はじめ政権内部の人々は、この言葉の責任をいかに引き受けるのでしょうか。未知のウイルスとの戦いには誤算がつきものとは言わせません。政府は国民の数十倍、数百倍の情報を有し、絶大な権力を握っています。それを国民のためにいかに適切に行使するか、諸外国の実例をざっと眺めただけでも日本政府が逸したあの手この手が並んでいます。

 とりわけ問題なのは、政府の諸対策のスピードの遅さ(検査体制、ワクチン接種、病床確保、困窮者支援など)と、国民へ語りかける言葉の貧しさ(人との接触を最低限にすることについての心に響く真摯な要請と理由の説明の欠如)です。ちなみに「県境を越える移動の自粛要請」も県内移動を許容するメッセージとなりかねません。

 いま東京では感染者の9割以上が入院治療を受けられないと言われていますが、このままでは他の都市もそうなるでしょう。入院できない人を「自宅療養者」と称する政府の報道を垂れ流すマスコミも問題です。バファリンとアイスノンと体温計だけで一体どんな「療養」ができるのか。臥して重症化を待ち、失われた命が既にいくつもあるではありませんか。

 一人暮らしの人の心細さはどれほどか、一方で家族のある人は自宅が「感染媒介所」となりかねません。先日は「自宅療養中」の出産で赤ちゃんが亡くなりました。こうした事態をどのように受け止めているのか、これからどうするのか、菅首相の棒読み、誤読ではない自前の言葉を聞きたいと切に思います。それがあなたの責務でしょう。昨日の横浜市長選で菅首相の推した小此木氏が敗れました。当たり前です。みんな怒っています、深く悲しみながら。




 

2021/08/08

150)8月8日

  やれやれ、やっと閉会式までこぎつけた。国民の皆さまお楽しみいただけましたかな?疫病に負けず世界から人を集めて祭典を開く!これが政治の力です。エラそうに反対をぶち上げたマスコミ各社は一体どうだ。声をひっくり返して日本選手の応援、お涙ちょうだいの家族ものがたり、メダルの色・数の重大発表。あんたら恥ずかしくないのか。わしが「安全、安心の大会だ」と保証したのだからその通り書けばよい。報道とは聞いたことをそのまま伝えること、勝手な見解を加えてジャーナリズムを気取ってはいけない。パラリンピックの時は気をつけた方がいいぞ。恥の上塗りだ。

 さて五輪成功、政権安泰。どっちみちパンデミックなら五輪はないよりあった方がいいに決まってる。そこを見極めて一歩も引かないのがリーダーというもんだ。しかし河村さん、あんたはあんまり正直すぎる。なに、日本選手の活躍は政権に大きな力となる?五輪がなければ国民の不満が政権に向かうだと?なんで内輪の話を外でしゃべる。さっそく蓮舫に噛みつかれたじゃないか。だから官房長官も1年どまり、わしは8年こなしたぞ。この違いがわかるか河村、メダルを噛んでる場合じゃないぞ。おっとこれは河村ちがいだ。はは、は(ひとり笑い)

 ところで広島の読み飛ばしはしくじった。ノリがくっついたということにしたが世間の大方は真に受けたようだ。わしも人間、言い間違いやめくり間違いはたまにある。一般人とは仕事の質・量がちがうことを分かってもらいたい。それにしても読みたくないところをうまく飛ばしたなあ。これも結果オーライというやつか。バイデンはわしからのメッセージと受け止めたかもしれんな。ふふ。

 これは私が憶測するさる人の胸の内。選手のパフォーマンスは別として意義や企画の面において満身創痍の東京オリンピックが感染爆発まで加速させて幕を閉じました。組織委員会は大会関係の陽性者が71日から87日までで436人(国内在住者286人、海外在住者150人)にとどまりバブル方式が成功したと発表しました。そもそも陰性の人のみ参加させる前提からすれば436人はあまりに多く、しかも今後さらに増える可能性のある数字です。彼らのまき散らしたウイルスのゆくえも追いかけようがありません。

 五輪に伴い海外から入国した人は42,000人。これだけの人数が自国内を移動し、来日後は日本国内を移動しました。紆余曲折をへて競技は無観客となりましたが、競技場には関係者も無関係者もつめかけ、会場周辺や沿道では人々の団子ができました。これほど大がかりに人の流れをつくり出し、医療関係者7,000人を国民のコロナ治療の現場から引きはがした東京オリンピック。菅首相の唱える「安全、安心」は原理的に破綻した呪文です。

 そして今度は中等症患者の入院拒否。これは「医療崩壊の制度化」であり「棄民」ではありませんか。コロナがはじまって1年7か月。この間に政府は何をしていたか。GO TOキャンペーンで人流をつくり、ワクチンや事業者支援をとどこおらせ、コロナ専門病院ひとつ作らず、貴重な資源を使って感染のさなかのお祭りを挙行しました。私たちはいまかなり危険な状況にあると思います。金メダルを祝うのも結構ですが、政府のコロナ対策の真剣さの欠如とその根底にある国民への軽視を忘れてはならないと思います。




2021/08/02

149)反日をめぐって

 先ごろ安倍晋三氏が櫻井よしことの仲よし対談で、オリンピックに反対する人は反日的だと発言しました。モリ・カケ・サクラでは社会より自分の仲間が大切だという「うるわしい身内愛」を発露させた安倍氏ですから(でもそれって反日的じゃないの?)、オリンピックを踏み絵とする彼我の区別(愛国、反日の二極構図)が頭の中に描かれているのでしょう。彼が4年前の都議選の応援演説で「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と批判的な聴衆を指さしたことが思い出されます。

 思うにこうした安倍氏の思考の問題点は3つあって、まず社会の動向も個人の思想も決して単純ではなくシンプルな二分法になじまないものであるという大人の認識に欠けること(認識の幼稚性)、とりわけオリンピックから戦争にいたるまで様々な段階がある国家の行為に対してその構成員たる国民一人ひとりが下す評価や抱く感情がきわめて多様かつ重層的でありうるという認識に欠けること(人間性への洞察の欠落)、三つめは個々の違いをみとめ議論を重ねることを通じて社会・個人の幸福をめざすという民主主義的手続きにおける政治家の役割に対する認識に欠けること(資質の欠如)。

 この3要素は相互補完的に作用して安倍氏の思想的バックボーン(?)となっていますが、似たような物の見方、考え方は自民党の憲法草案にも見うけられ、菅氏にもきっちり引き継がれており、さらに政府のコロナ対策の本質(国民に語りかける言葉の貧しさ、地方自治体への責任転嫁、政治日程の優先、場当たり的対策の連発等々)にも深く影響を与えていると私は考えます。さすれば「安倍晋三」より「安倍晋三的なもの」が実のところ始末におえないのかも知れません。

 ところで「反日」という言葉は現在どのような文脈で使われているのか、それを確かめようとネットを検索してげんなりしました。「反日芸能人ランキング」、「反日企業一覧」、「日本のマスコミの反日性」、「支那・朝鮮はなぜ反日か」、「憲法29条を狂信的に信仰している云々」、「偽装保守で反原発である云々」等々の言葉の行列、それぞれの主張はお粗末ながらネット社会における「反日」というワードのもつ情念の惹起力の大きさを思いました。安倍氏の「反日」もこれらネット言論と同じレベルです。

 ここでゆくりなく思い出したのが「NATIONAL」という言葉をめぐる開高健のエピソードです。いうまでもなく開高健はベトナム戦争の従軍記録においても銘記されるべき作家ですが、彼が戦場に持参していたトランジスタラジオは当時のナショナル製。その小さな機体に貼られたNATIONALのシールを見て南ベトナム政府軍の兵士が「何といい言葉だ」と夢見る目つきで語り、また別の時、敵対するベトコン(南ベトナム解放民族戦線)の兵士がまったく同様の反応を示したことを作家は印象深く記録しています。分断された国家で相戦う兵士たちが追い求める「国民」あるいは「国家の」という一つのイデア。書名は忘れましたがそれを掬い上げた開高の豊穣な文章が記憶に残っています。

 さらに話は飛んでその昔、開高健がわが敬愛する詩人金時鐘さんのお宅を訪問した際、金氏夫人への手土産に日替わりで身に着ける「七色パンティ」を持参したと金さんご夫妻から伺ったことがあります。色がわり7着の下着は当時も今も一般的な手土産とはいえませんがいかにも開高らしいプレゼント。大阪の砲兵工廠跡地から深夜に金属くずを持ちだす男たちの物語「日本アパッチ族」の取材訪問であったということです。ちなみに金時鐘さんは日本の皇民化政策のもと済州島で少年時代を送り、日本の敗戦により自身が「祖国に突き戻された」ところからハングルを学びなおした経歴があります。これまで金さんからNATIONALをめぐるお話を伺う機会に恵まれたことを私は有難く思っています。