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2021/09/26

157)教育基本法の「改正」

  われらは、さきに日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して新しい日本の教育の基本を確定するため、この法律を制定する。

 これは1947年に制定された「旧」教育基本法の前文ですが、敗戦の焼け野原を踏みしめて立ち、明日を見つめる熱気のようなものが感じられます。軍国主義教育への反省から生まれたこの法律は権力が教育をゆがめ得ることに自覚的であり、国家の責務を規定することに重点が置かれていました。例えば第10条(教育行政)。教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。第10条2。教育行政はこの自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 こうした国家の責務は、安倍政権による2006年の教育基本法「改正」により大きく後退し、それを補うように「家庭教育」や「学校、家庭、地域住民の連携協力」の条項が新設されました。これは「自助、共助、公助」の人材育成を目ざすものと言っていいでしょう。そして、第2条(教育の目標)で、「道徳心」、「愛国心」、「公共の精神」という文言が出てきます。これらの言葉はプラスの価値を有し、当然ながら前後の文脈にほころびはありませんが、これが教育基本法の規定であることに留意しなければならないと考えます。

 もちろん家庭教育は重要であり子に対する親の責任は重大です。しかし、そもそも教育は現行世代が次世代の成長を支える「世代間支援」の営みでもあり、その端的な事例が奨学金制度であると思います。貧富の格差が拡大する中、この「法改正」によって親の「第一義的責任」だけが強調されて国や自治体の責任はどこかに隠れてしまいました。不思議なことに政府の好きな「自己責任」という言葉を支持する人々が少なくありません。そういう人々はもう少し自分の頭でものを考えた方がいいと私は思っています。

 「道徳」、「愛国」、「公共」。誰がそれを唱えるかという点が何より重要ですが、これらはおいおい考えてまいります。



2021/09/20

156)公共の授業

 来年度から高校で新科目「公共」の授業が始まると知りました。教科書は読んでいませんがざっと調べた限りでは「自立した主体としてよりよい社会の形成に参画する私たち」や「持続可能な社会づくりの主体となる私たち」のあるべき姿を模索すること、その過程において「答えを教えることから問いを探させること」にシフトすると説明されています。

 公共の新しい姿を追求することが社会的課題であると考える私はこれを歓迎すべきか、はたまた憂うべきなのか、にわかに判断がつきません。新教科の導入を決めた政府の意図は、「自己責任」の十字架を背負う国民の育成であることに間違いありませんが、その意図に反し、教室においては若者の思索の機会になる可能性もなしとしません。公共の教科書ではナチズムと対峙したハンナ・アーレントや天皇制を深く考察した丸山真男も紹介されるのです(学習指導要領は彼らをどのように「料理」するのでしょうか?)。

 素人考えですが、教育は教育者の意図と生徒の意思が必ずしも一致しない領域に可能性があるのかもしれません(先生方、どうもすみません)。この問題を正面から論ずる力は私にありませんが、何度かに分けて感想めいたことを書きたいと思います。ことの発端は2006年の教育基本法「改正」です。安倍政治の負の遺産は「戦争OKの憲法解釈」や「税金垂れ流しのオリンピック」ばかりではありません。自民党の議員諸氏はこれをどう見るのか。総裁選で政権与党の自浄機能が多少なりとも働くことを期待するものです。

 ところで大津保健所でコロナが発生したとか、佐藤市長から市民に向け丁寧なご説明がありました。職員のみなさんは臍を噛む思いでしょう。しかし現場の最前線にリスクはついてまわります。どうか萎縮することなくこれまで通り業務を継続してくださいますようお願い申し上げます。本日はこれにて失礼いたします。



                    夏の花が終わろうとしています

2021/09/12

155)誰かおらぬか

 滋賀版は低品質、全国版は煮え切らない良識路線、中でも昨今の天声人語はあまりに凡庸などと悪態をつきながら朝日新聞を読み続けてきた私ですが、9月12日の朝刊の「朝日歌壇」に掲載された短歌を目にして一言書きたくなりました。選者は高野公彦氏、作者は戸沢大二郎さんという方。

 その一首。「英雄を欲する時代(とき)は危うしと言えど何処かに誰かおらぬか」

 とりわけ東日本大震災が起きてからというもの、それまで以上に明るい未来を想像しにくくなった私たちの社会は昨年来の疫病流行にあえいでおり、政治の貧困が浮き彫りになっています。そのさなかの自民党総裁選です。まことに「誰かおらぬか」。公共について書くつもりがつい脱線しました。




2021/09/11

154)手段と目的

  自民党総裁選に出馬する者にとって勝つことがすべてだということは理解できます。自分の理想を実現するためには総裁になり首相にならなければ何もならない。そのためになりふり構わず票の獲得に動くのは「手段」、その先にある至高の「目的」が当選というわけです。しかし、果たして目的のために手段は正当化されるのか、手段が目的を規定することはないのか?

 最近の河野氏、岸田氏らの言動を見て、資質・志ともに史上最低であった大津市前市長の市政運営について以前このブログで取り上げたことを思い出しました。手段は目的に奉仕するがその目的はより高次の目的の手段となる、手段と目的はマトリョーシカのように順次包摂されていく、と書いた記憶があります。

 原発の廃止や政権中枢の腐敗解明が国益につながるという信念がもし候補者にあるなら、「今は封印するが当選のあかつきに堂々と表舞台に出す」などと考えるのは夢想であり自己欺瞞です。河野氏は安倍氏に「ご懸念には及びません」と言ったとか。両人とも恥ずかしい。こうした人々が政治の中心にいることを情けなく思います。

 うそも方便。勝てば官軍(ふるくさい言い回しですが)。自民党がそう考えても国民はそれを許さない。目的も大事、手段も大事、それが政治だと声高に要求する。こう期待するのも夢想でしょうか。つぎは少しまともなテーマ(公共の教科書)について書きます。





2021/09/06

153)池のかわず

 1年前にトノサマを襲名した一匹のカエル、本名はスガエル。目に光なく皮膚に張りなし、もっと鳴けと突っつかれてもカエルの面に水とばかりに知らぬ顔。池をゆるがす流行りやまいに際しては、それを収めるどころか「遊泳促進」「池間交流」と逆さまの号令を連発して病蛙が激増、治療院はふらふら。

 さすがに疑問の声がふくらんでその座を追われそうになったとたん、表情とぼしい仮面をかなぐり捨てて一つ大きくカエル跳び。裏ボスの首をちょん切り、子分をおどしつけ、池役員の総替えを宣言するなどミチガエルばかりの果敢なふるまい。けれども近く行われる水抜きに備えて隠れ場さがしに余念のない仲間の総スカンをくって、ついに自分から錦の座布団を下りることとなりましたとさ。

 今回もまたコロナと向き合い緊張つづきの現場の皆さまから遠く離れた笑い話で相済みません。しかし私はあまりに内向きで利己的な自民党(「責任政党」の自称の前に「無」の一文字をつけたい)の現状に怒りを通り越してしまいました。

 いま行うべきは、遅まきながらコロナ禍における私権の制限と社会の安全に関する真摯な議論と具体策の検討であり、そのため国会での議論が欠かせません。野党議員が議員総数の4分の1以上の名を連ねて臨時国会開会要求書を出したのが昨年7月のこと、時の安倍首相は憲法53条に反してこれを無視しましたが、菅首相も違憲路線を踏襲して今も国会を開こうとしていません(政権投げ出しも踏襲しました)。

 森友、加計、桜を見る会、公文書廃棄など由々しき問題も手つかずで残されたままです。さらには学術会議の任命拒否の理由や河合杏里氏への法外な支援金の出どころ等々。野党の力不足を指摘する声もありますが、まずはカネまみれ、利権まみれの自民党が自らのウミを出し切る努力をすべきだと思います。

 それにしても権力は、それを持つ者にとってこれほど蠱惑的なものはなさそうです。官房機密費しかり、政党交付金しかり、サラリーマンが一生かけて稼ぐほどの金(税金)を週単位、月単位でじゃんじゃん使って領収証1枚、メモの1行もいらないなんて私利私欲のある人間は三日やったら辞められないはず、官僚の忖度や業界の低頭もさぞ快いことでしょう。この醍醐味が自民党はじめ政治家の権力闘争の大きなエネルギー源となっているに違いありません。

 マイクを向けられ「菅さんは携帯料金を下げてくれたからよかった」と答える若い人をテレビで見ました。いやはや! 若い世代は変化をきらい現状維持をのぞむゆえに自民党に投票するのだと聞いたことがあります。この見方の是非は別として今の政治状況においては「現状維持」は無理です。「さらなる悪化」しかありえません。

 コロナは抑えられるか、公と私の折り合いをどうつけるか、明日の暮らしは大丈夫か、当選後も市民の声に耳を傾けるか。来るべき選挙ではこうした観点から政治家の言葉を吟味しようではありませんか。そして棄権はしないこと。若い人々に向かって以上のように申し上げたいと思います。

     熊蜂(くまばち):名前と姿は強そうですが蜜が好きな温和なハチです。