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2021/10/23

160)労連ニュース

 大津市労連の発行する「労連ニュース」(10月14日付)を読みました。大津市の公文書疑惑をめぐる国家賠償請求訴訟の公判を報じています。そこから市職員の方々が公務の在り方について鋭く深く自問しておられることが伺え、不肖のOBとしても一言書かずにはいられなくなりました。そう思い立ってからあっという間に半月が過ぎてしまいましたけれど。

 職員諸氏は、越直美前市長のもとで行われた公文書の隠ぺい・改ざん・廃棄の真相を究明することにより、いったん損なわれた市民の信頼と自らの公務に対する誇りを回復したいと願っています。なぜならそれが公務員として当然の心情でありますし、公判には毎回少なからぬ現役・OB職員が傍聴席で耳を傾けてこられたという事実がその証拠である、私はそのように考えています。

 そして10月7日、衆人環視のなか前市長越直美氏が出廷して証言台に立ちました。その証言について労連ニュースは詳細に報じています。書き手の義憤が伝わってくる数か所を紹介します。

「公文書を隠ぺい?・・(中略)・・当初、市は、『存否について答えることができない』と主張していましたが、審査会には『公文書は存在しない』、続いて『作成したが1年の保存期間後に廃棄した』と答えました。そのような市の態度に対し、審査会は2019年6月の答申で『審理を徒に遅延させることになったことは否めず、遺憾』と述べています。これらの経過について、越氏は、審査会や訴訟への対応は『人事課に任せていた』、それらについての相談や協議についても『なかったと思う』、人事課からは最高裁判決の説明も『なかったと思う』、その後の対応も『人事課に任せていた』・・(中略)・・と証言しています。」

「公文書の廃棄を指示?・・昨年7月、前市長は廃棄された公文書のコピーを個人ファイルに保管していて、最高裁での市の敗訴後、そのファイルの廃棄を秘書課の職員に指示していたことがわかりました。越氏は、個人ファイルは『職員が持参した資料や秘書課に差し入れられた資料で、秘書課の職員がファイリングしていたもの』で、”差し入れられた資料”は重要なものではなく『あまり確認していなかった』とのこと。(中略)問題のファイルの廃棄を指示したことは『覚えていない』、問題の資料が含まれていたことは『認識していない』、隠ぺい目的で廃棄を指示したのでは?との問いには『そのような事実はありません』との証言でした。」

「感想『そんなはずがない、あまりにひどい』・・(中略)・・裁判官が証言をどのように判断するのかわかりませんが、『良心に従って真実を述べる』と宣誓した直後の証言とは信じられず、前市長の下で仕事をしてきた私たちには、『そんなはずはない、あまりにひどい』と感じられました。一人の市民である原告とその家族に長期間に多大な困難を押し付けたことへの謝罪の気持ちや、関わってきた多くの職員への誠意や敬意も全く感じられませんでした。」 

 すでに申し上げたとおり私はコ氏について論評をする気はもはや全くありません。法廷で問われていることの真相はこのブログ(記事85以降)で詳細に説明ずみで付け足す何物もありません。労連ニュースでは、コ氏が「良心に従って真実を述べる」と宣誓したあとに繰り広げた「知らない・指示していない・覚えていない」の「3ない作戦」を手厳しく批判しました。もっともな話です。

 どうしてこれが偽証罪に問われないのか。それは、証言は「証人の主観的事実」を述べることで良しとするという暗黙の前提があるためであると私は思うのです。裁判所は証人の「記憶違い」や「忘却」まで責めることはない。これら証言は物証という「客観的事実」と合わせて比較考量され、最後に総合的な見地から判決が導かれるのであろうというのが私の素朴な考えです。

 もしその通りなら、証人が自分の証言を「信じ込んだふり」をすれば、それが法廷で通用することになります。かといって拷問して自白させるわけにもいかない。なんとも歯がゆい話ですが、私の証言とコ氏および元人事課長の証言が相反するのはこうした事情によります。「良心に従って真実を述べる」と宣誓させたところで良心のない人間には何の足かせにもなりません。おっと、この辺で止めておきます。「労連ニュース」の後半は、公務員が全体の奉仕者であると憲法および地方公務員法で規定されていることを指摘した上、次のように続けています。

「たとえ市長の指示であっても、私たち職員は『全体』への奉仕になるのか『一部』にしか奉仕しないことになるのか、指示が『公共の利益』のためになるのか、見極めなくてはなりません。また、地公法第32条には『職員は(法令等に従い)かつ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない。』とあります。上司の命令に対しても、法令に照らして『できないことはできない』と言わなければならない時があるのは当然です。」

 よく言った!それが公務員だ!赤木氏を追い詰めた財務省は大津市労連ニュースを読め!偉そうな言い方ですみません。しかし、これが公務に携わる者の矜持だと思うのです。このニュースを読めたのは近来になく嬉しいことでした。労連ニュースの末尾をご紹介して記事を終わります。

「先の証人尋問で元人事課長は『市長からの指示はなかった』と言い、前市長も『人事課に任せていた』とのことで二人の証言に食い違いはありません。前市長は『忖度』したであろう職員さえ守ろうとしませんでした。長への『忖度』は国でも問題になりました。大津市でもこの件を特異な2人の例と捉えるのではなく、どうやって『全体の奉仕者として公共の利益のために勤務』することを実践していくのか、職員一人一人が考えていく必要があります。」













いま大切なことは、大津市の公文書の隠ぺい・改ざん・廃棄 

2021/10/12

159)たとえば「愛国心」について

  高校新教科「公共」に関連してもう少し書きます。為政者が「愛国心」の涵養、発露を国民に求めるのは、それが人権主張のブレーキになると期待してのことでしょう。何といってもその方が政府に好都合ですから。したがって教科書に載せる近現代史の「史実」は入念に取捨選択されており、教育現場への「指導」も行き届いているはず。しかし、それにも関わらず若い人々が真に「愛国的」な物の見方を獲得した時、その政権こそが「非愛国的である」という認識に到達する場合もあるだろうと私は想像します。それが授業の可能性でしょうし、本来知識とはそのようなものであるはずです。

 そもそも「国」とは何でしょうか。一般的な定義はさておき一人ひとりの国民が愛(もしくは憎)の情念を抱きうる対象としての国とはどのようなものか。それは「ひとりの人間」に近い存在であるように私には感知されます。その「ひと」はどのような思想を持ち、いかに生きていくのか。はたして弱いものを助けるか、仲間を大事にするか、よその人とも仲良くするか、力を恃んで人を脅すことはないか。こうして見ると、日本という国にとって憲法の存在が限りなく重要であることに気づかされますし、それが私にとって「愛国」の大きな理由でもあります。そんな私には、改憲を主張する人々が愛国を説くことが論理矛盾の見本のように思われます。

 また別に私の生活実感に即して「国」を定義するなら、それは「日本語で満たされ、その状態が継続している空間」ということになります。サンマを値切るのも日本語、愛を語るのも日本語、芭蕉も漱石も日本語、私が手探りで「公共」を考える手立ても日本語です。山紫水明よし、炊き立ての新米の香りもまたよし。しかし、私という卑小な存在が細々と根を下ろして養分を得ている地層は、つまるところ日本語という言葉の堆積ではないか。したがって私にとっての「国」の実体は、「日本語で満たされた空間」であるとしか言いようがないのです。これもナショナリズムの一形態ですから更に大きな視点からは一つの「腐れ縁」だということになるのかも知れませんが。

 日本はかつて韓国を植民地化して言葉を奪いました。その非道を改めて思います。しかもこの「国」は、自国民および他国民に対する戦争責任をあいまいにしたまま朝鮮戦争特需を皮切りとして経済繁栄の道を歩みました。それが朝鮮半島の人々の「愛国心」に火をつけるのは自然の理です。どうして「愛国的な」日本の政治家はこの歴史的事実に鈍感なのか。そのような人々には愛国を語る資格はないと思うのです。まずは国民に愛国を求める日本の政治家自身の「愛国」の論理をとくと聞いてみたい。それに比べて国民の「愛国」は、もう少し上等なのではないかと想像するものです。









2021/10/03

158)「学ぶ力」によって

 あらためて新科目「公共」の成立過程を振り返ります。前回お伝えしたとおり2006年の教育基本法「改正」で、「公共」、「道徳」、「家庭」、「愛国」といったキーワードが表に出てきました。ついで2010年の参院選において自民党は、「道徳教育や市民教育、消費者教育等の推進を図るため新科目『公共』を設置する」という公約を掲げました。2012年の衆院選でも、「規範意識や社会のルール、マナーなどを学ぶ道徳教育や消費者教育等の推進を図るため、高校において新科目『公共』」を設置する」ことを公約しました。

 さらに2013年、自民党文部科学部会の「高校新科目『公共』に関するプロジェクトチーム」が、新科目「公共」の設置を文科大臣(下村博文氏)に提出。こうした流れを受け2015年に中央教育審議会が「論点整理」を行い、ついに「公共」が高校公民科の共通必修科目として設置する方針が明確化されました。それは「主体的な社会参画に必要な力を、人間としての在り方、生き方の考察と関わらせながら実践的に育む科目」とされ、「社会的・職業的な自立に必要な力をはぐくむキャリア教育の中核となる時間として位置づけることを検討する」とされました。

 これを受けて中教審教育課程部会の「社会・地理歴史・公民ワーキンググループ」が具体的検討に着手、その検討結果が2016年の中教審答申に取りまとめられ、高校現場のカリキュラムや授業内容を規定する学習指導要領が作られることとなりました。この経過から明らかなように、新科目「公共」は政治家の敷いた路線にそって設置され形作られてきたことがわかります。それを牽引したのは「大日本帝国」にノスタルジーをいだく自民党の政治家たち、中でも教育勅語の実質的復権を目論む安倍晋三氏であったと私は思います。

 しかし、こうした時代錯誤の連中の思惑はさておいて、「公共」の学習内容はなかなか面白そうなのです。概要は以下の通りです。

 A 公共の扉

 (1)公共的な空間を作る私たち

 (2)公共的な空間における人間としての在り方生き方

 (3)公共的な空間における基本的原理

 B 自立した主体としてよりよい社会の形成に参画する私たち

 C 持続可能な社会づくりの主体となる私たち

 A「公共の扉」では、個人の尊厳と自主・自立、幸福、正義、公正、権利と義務、法の支配、民主主義などの概念を学ぶことになっており、ベンサム、J.S.ミル、カント、フロム、ロールズ、ホッブズ、ロック、アリストテレスなどが出てくるようです。

 Bでは政治参加、世論の形成、消費者の権利と役割、国家主権と領土、安全保障と防衛、国際社会における日本の役割、職業選択、雇用、市場経済の機能と限界、グローバル化と相互依存の深まりなどを学習。

 Cは「公共」全体のまとめと位置付けられ、A、Bを踏まえて生徒自身が課題を見つけ、調べ、討議し、自身の考えを論述する(レポート作成、クラスでのプレゼンテーションなど)時間とされています。

 たとえばこの十年、慰安婦や領土問題に関して教科書の記述はずいぶん変わってきたことでしょうし、基礎的な知識の刷り込みは生徒の思考を左右すると思います。その一方、授業は生徒の考える力をはぐくむ場でもありますから、そうした目で「公共」の教科内容を眺めると、来年度の導入以降、各地の高校の教室で政治家の目論見を軽々とこえるシーンが出現することもあるのではないかと私は想像します。この問題は継続してみていきたいと思います。