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2021/02/01

131)届く声を持つということ

  いまに始まったことではないけれど国会で発せられる言葉の軽さ、特に政府答弁の虚しさは異常です。コロナ対策にかかる菅氏の声明もメルケル氏のそれと比べて恐ろしい落差があります。日常生活でも政治の世界でも「言葉の力」は重要この上ありません。民主主義あるいは公の問題と深く関わる言葉の問題については、今後少しずつ書きたいと思います。

 本日は京都市はぐくみ局のある係長のお話です。この方が大勢の民間事業者に対して事業説明および協力要請をされる場に、私は事業者の一人として居合わせました。こうした場における役所の話は紋切り型で退屈な場合が少なくありませんが、この係長の言葉は粒立って訴える力があり印象に残りました。その後何度かお話を聞く機会があり、この方は自分の言葉が相手に届くかどうかを明確に意識しながら話をしていることが判りました。

 親しい二人の会話ならいざ知らず、一人対多数の対話においては言葉の訴求力が減衰することがありがちです。それは話し手が「あなた」という個人に言葉を伝える意志をはなから放棄して集団に向き合っているからだと思うのです。まさに森を見て樹を見ず。一人にさえ届かない言葉が多数に響くわけがありません。ところがこうした「集団話法」が正当な話し方であるという誤解が根強く残っています。市議会も国会も然りです。

 さきごろ、私が京都での仕事を終えるにあたって担当課にご挨拶する機会があり、係の方々にお世話になったことを謝しつつ、係長には今後とも肉声でお話いただくよう勝手なお願いをさせていただきました。民の立場から官を見ることは私にとって興味深いのですが、この3年余、官の第一線で仕事をする人々から期待を裏切られたことはありませんでした。いずこも体をはって前線を支える人々がいます。











130)見切り発車

 前回の記事をもって大津通信は「中締め」とあいなりました。振りかえれば現役のとき、中締めの挨拶(皆さま、宴たけなわではありますが、、、という例のセリフ)を何度耳にし口にしたことでしょう。終了を告げつつ継続を否定しないという両義的な態度表明をこのブログでも踏襲しました。

 これまでのように「公を踏みにじる悪の権化」に触れることなく記事を書くことは爽快である反面、何だか筆が進みにくいというのは誠に皮肉なものです。これからは私の「目の付け所」を皆さんにジャッジされることとなります。いまさら格好のつけようもありませんが。

 今後書く記事は「あるべき公の姿」、より広くは「社会と個人の関わり」をめぐるところの、シワが浅くなり容積も次第に減りつつある私の脳ミソが見る夢物語のようなもの。毎回の記述の断片で一定の進捗を刻んでいくことは困難ですが、半年、一年たって何がしかの筋道が見えるならもっけの幸いです。お忙しい皆さまのご健勝をお祈りしつつ、この回り道や道草にお付き合いくださることをお願い申し上げます。