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2022/01/29

163)個人的なこと 2

  妻のことは二人共通の友人の一部にしかお知らせしなかったため、今年も変わらず多くの年賀状をいただきました。迷った末、先日その方々にハガキを送りましたが、今後はもはや恒例のご挨拶をすることはないだろうとの思いにとらわれ「年賀状終結宣言」をしてしまいました。ご覧になった方には藪から棒の最後通牒、一方で私の手違いから「お返事洩れ」まで発生しました。その方々がもしこの記事をお読みになっておられたらどうぞご容赦いただきたいと存じます。

 それにもかかわらず何人もの方から私たち二人に心のこもったお言葉を頂きました。彼女の人となりにふれ悲しみ惜しんでくださる声、私に少しでも心穏やかな時があれかしとの祈りの言葉、彼女との再会の時まで「大津通信」を続けてほしいとの激励、そしてまた、このブログを「正義」という言葉で表現して下さる方もありました。さらに、春には飲もう、山を歩こうとのお誘いも受けました。すべて本当に有難いことです。

 妻は私に、飲み過ぎないで検診を受けること、友人と楽しく過ごすこと、ブログを再開すること、母をよろしく、の4つを言いましたが、これは私にとって難易度の高い順番となりました。簡単(かつ当然)なのは4つ目、母のことは言われるまでもありません。3つ目のブログはこのほど何とか再開にこぎつけました。2つ目は時間がかかっても春がめぐってくると思います。難しいのは1つ目ですが、これも努力目標としてしっかり取り組まねばなりません。この中でブログについて少し書きます。

 「大津通信」は、前大津市長越直美氏の第1期の任期終了が迫った時期にスタートしました。その頃にはすでに越氏の稚拙で粗雑な市政運営の弊害が大きくなっていましたが、越氏のイメージ戦略(これだけは巧み)に加え、氏を利用する人々や大勢追従を旨とするマスコミの影響により全市的には泰平ムード、現場の危機感が庁舎の外に広がることはありませんでした。そこで私は元職員として自分の体験したことをありのまま記し、大津市政の実情を有権者に広く、かつ客観的にお伝えすることを目的としてブログを始めた経緯があります。

 妻は、もたもたと文を綴る私を励ましつつ、毎回の記事の最初の読者として辛口の批評を惜しむことがありませんでした。私たちの価値観や思考には共通する部分が大きいことから、彼女の指摘は自然と記事の中身より文章表現に関することが多くなりました。そして私がどう書くか迷った箇所をずばりと指摘することが多く、それにより修正したことが一再ではありません。唯一彼女が中身に注文をつけたのは他ならぬ越氏に関する記述です。彼女は次のように私に言いました。これもまた病気と分かった1年余り前の話です。

 ~ あなたは与えられた公務をすでに全うしたではないか。これ以上に越さんの責任を問うたり彼女が損なったものの修復をめざすことは今の市政にお任せしてはどうか。紆余曲折を経て、あなたは多くの若い市職員の方々や大津にゆかりのある人々に語りかけるブログという手段を得た。意図したことではないにせよこれは大きな幸運だと思う。今後は卑小な一個人にこだわることなく、あるべき「公」の姿について正面から論じるべきである。テーマは大きいがあなたなりにアプローチすればよい。できる範囲で少しずつ書いてほしい。きっとできる。がんばれ! ~

 この言葉が身に染みました。越市政は、民主主義的手続きで選ばれた個人がいかに非民主主義的な行政を行いうるか(たった一人の浅慮と保身によりどれほど組織を損ない行政を歪めることができるか)、という観点から検証されるべきケーススタディだと考えます。しかし、それには組織的なアプローチが必要であるうえすでに時間も経過しています。また私にとっても越氏について考えることには、今なお怒りや不快の念が伴います。妻はこれらを十分に承知したうえで次に進むよう促しました。私が内に閉じこもったりせず、明るい気持ちで社会との関係を保つよう望んだのです。私が越氏への直接的な言及をやめたのはこうした事情によります。

 しかしこの際に一言だけ。昨年、越氏が大津地裁で行った証言は事実に反します(最初から正直に話していたらそもそも訴訟になりませんが)。私の知るすべての事実はタテ・ヨコの網目のようにこのブログで書いてきました。そこに一片の嘘もありません。ならば嘘つきは誰か?それが問われる裁判です。しかし、わが国の国家賠償請求訴訟において、原告が勝訴するのは駱駝が針の穴を通るようなもののようです。大津市(正確には越直美氏)の行為について司法がどのような判断を下すのか、勝敗はもちろん関心事ではありますが、私は、判決文の文言の中に、越氏に対する評価の中に、民主主義の希望を見出したいと思います。判決は3月17日です。

 「公」に話をもどすと、いま国をあげて取り組まれているコロナ対策について、これを「個人と集団とのより幸福な関係を追求する困難かつ重要な試み」と見立てることができます。そもそもヒトが社会的動物である以上、個人と集団の利益の両立は根源的なテーマとならざるを得ませんが、そこに権力のコントロールという難題を引きずって「公」の問題が現れます。感染症対策をめぐって昨日の経験を今日に生かすことができない政府の対応に不満がつのりますが、同時に、根本的な議論を回避してすべてを数値に矮小化する「哲学の不在」にも政治の貧困を痛感します。

 も少しあっさり書いたら?という彼女の声が聞こえてきそうです。御意。これからは助言者なし、単独行のブログです。あまり大風呂敷を広げず、自分の手のとどく範囲でぼつぼつ続けていきたいと思います。次回は忘れがたい詩人の言葉をとりあげ、そのあと元にもどします。

  



 



 

 

 

 

2022/01/24

162)個人的なこと 1

  このブログは「公」について考えることを目ざし、たとえ個人的な体験であっても社会との関わりを意識して綴ってきました。しかし今回は例外として全く私的なことを記述します。お読み下さる方に恐縮至極、また私自身にも言葉にし難いことを文字にする困難な作業ですが、これをおいてブログも私も先に進むことができません。私にとって限りなく重要な私事を記します。

 昨年11月28日、私の妻が亡くなりました。その1年前(2020年)の10月に病気と分かり、以来最良の治療を受けながら、本人はもとより家族一丸となって闘病してきました。しかし遂に及ばず、心待ちにしていた初孫とのオンライン対面が実現した2日後、晩秋の庭の見わたせる居間で私と息子の手をとって穏やかな眠りにつきました。

 この1年余、病気と向き合って妻が過ごした日々は全くと言っていいほど従前と変わらず、持ち前のユーモアと笑顔が絶えることはありませんでした。心身ともに辛くないわけがありません。それを気遣う私に対して、その倍の心で私をことを案じていました。そんな時など、去りゆく者として私を見つめるまなざしの深さを感じないわけにはいきませんでした。そして彼女は、愚痴のひとつ、不安や恐れのひとかけらさえ口にしませんでした。それに私はすっかり甘えていました。いまこうしたことが胸に迫ります。

 「けふのうちに とほくへいってしまふわたしのいもうとよ」という痛切な呼びかけで始まる宮沢賢治の「永訣の朝」を私は想起します。深い絆で結ばれた兄妹。必死に看病する兄と、自分なき後の兄の魂の平安を願う病床の妹。とし子から賢治にむけた最後の願いは、松の枝に積もった雪をひとすくい取ってくること(あめゆじゆとてちてけんじや)でした。「はげしいはげしい熱やあへぎのあいだから」「わたくしをいつしようあかるくするために」「こんなさっぱりした雪のひとわんを おまへはわたしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」

 妻と私は高3の同級生として出会い、担任の先生に仲人をお願いして25歳で結婚、それから44年をともに歩んできました。世間知らずの未熟者であった私たちがこの歳月にほんの少しでも熟することができたとしたら、それは相互の対話によるところが大きかったと思っています。良くも悪くもいまの私をあらしめたのは二人の関係性であり、私にとって彼女は無二の親友、同志でもありました。ともに歩むことで喜びは本当に倍以上に、苦しみは半分以下になったのです。田んぼ道の散策もスーパーの買い出しもこよなく楽しいひと時でした。

 この1年余、私たちはその日一日を大切に生きることを心掛けました。過去は振り返らない。将来を見通さない。二人が共にあるこのひとときを大切にする。こうした生活を息子夫婦も精一杯支えてくれました。彼らが優しくまっとうな人間であることに私たちはどれほど喜びと力を与えられたかわかりません。妻は、これまでとても幸せだったし、いまも幸せだと言いました。それは努めた自己肯定ではありません。私もまったく同じ思いでした。

 いまは魔法がさめたよう。がらんとした部屋で、ひとり歩く道で、繰り返し名を呼び、話しかけるばかりの日々です。コーヒーカップ、香水瓶、ソファ、土曜日の「数独」欄、庭のクリスマスローズ、餌をねだりに集まる雀たちの声、キースジャレットのピアノ、、、見るもの聞くものに揺さぶられ、目を閉じるとあふれる記憶に溺れそうです。それにも関わらず私は悶え死ぬことも焦がれ死ぬこともなく、三度の食事をとり、排泄し、入浴し、夜は睡眠をとって2か月を過ごしました。もはや彼女が歩みを止めてしまったのに私一人が進み続け、日ごとにその地点から遠ざかりつつあります。そして一人で老いていくのです。私はこれを刑罰のように感じます。自分のかくも大切なものを喪ってしまったという私の罪に対する罰です。

 一方でこうした感覚は感傷であるとも知っています。感(覚)の傷という字義においても感傷です。妻が示したあの勇気と克己心、そして家族への深い愛を思うと恥ずかしい限りですし、共に生きようと私を励ましてくれる息子夫婦がもしこれを読んだらさぞ落胆するでしょう。また、世の中には震災による別れ、戦火の中での別れもあります。この2か月、そうした別れも頭に浮かびました。宮沢賢治は「ありがたうわたくしのけなげないもうとよ」の詩句に続いて「わたしもまつすぐにすすんでいくから」と告げています。不世出の詩人に倣うわけではありませんが、私も進まなければならないと思います。

 44年前、参列者の前で私たちが読み上げた「結婚の誓い」を忘れません。それは、「自らがお互いを選びとったことを忘れず、私たちと私たちにつながるすべての人々が幸せになるよう努力する」といった趣旨でした。若い私たちの平凡な決意表明でしたが、結果的に二人の人生の航路のベクトルとなったという点において空手形となることを免れた気がします。いや、より正確には、とりわけ妻においてこうした人生への態度が言葉を超えて内面化していました。この1年余を振り返ってそのように強く思うのです。

 不幸と悲哀は似て異なります。私は妻と出会い家庭を築き一緒に生きてきました。まるで神様のギフトのようです。彼女と同じく私も、これまでも、今も、幸せです。そして彼女の夫でありえたことを誇りに思っています。いずれ再会できると信じています。

 このブログの中心的な読者は私の友人、知人であるという事情にも背中を押され、今回はミもフタもないことを書きました。書き残したこと(ブログをめぐる事柄など)は次に回すこととし、やがて本来の形に戻したいと思います。私事へのお付き合いを有難うございました。