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2022/02/25

169)世界遺産と歴史認識

 ウクライナ侵攻は恐怖と嫌悪と落胆です。プーチンという一個人によって歴史の針が逆戻りさせられました。腕力が強く向こう見ずな者のしたい放題ですが、国連安保理の常任理事国も同類のように思われます。ではどうするか。妙案はないものの少なくとも日本はバイデンの顔色ばかり見ず、自前の言葉でロシアを始めアジア、アフリカ、中南米諸国等に平和構築を呼びかけるべきだと思います。平和憲法を持つ国として「力の論理」からの脱却を唱えることが何より肝要。即効性はないにしても他に有効な代案はあるでしょうか?この戦争の背景をなす歴史認識の問題は今回のテーマにも関わります。

 朝鮮半島を南北に隔てる北緯38度線。これを東にどこまでも延ばすと日本海をこえて佐渡島を横切り新潟市に達します。新潟はかつて帰国船の出港地であった所。1959年から1984年にかけて93,000人の在日朝鮮人と家族がこの地から北朝鮮に渡りました(朝鮮半島南部の出身者が大半をしめ、配偶者や子どもなど日本国籍保有者は6,800人と言われています)。船に乗ろうと全国から集まった人々は新潟の赤十字センターに4日間滞在して帰国の意思の確認をうけタラップを上りました。

 日本での生活が困難に満ちたものであった人々にとって望郷の念はことさら強かったでしょう。また当時、北の共和国は「地上の楽園」であると喧伝され、それを信じた人、信じたいと望んだ人が多数いました。背景には時代の大きな熱量があったと思われます。しかし帰国者が目にしたのは飢える民衆であり、自身もまた資本主義体制に染まった「腐敗分子」と見なされ、多くは苦難の道を歩むこととなりました。

 この帰国事業は日本と朝鮮の赤十字社が「人道支援」として行いましたが、その背景に岸信介政権、金日成政権の利己的動機があり、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が先棒をかつぎました。こうした事情は早くから指摘されていたものの、帰国船は四半世紀にわたって日本海を往復しました。2021年には帰国後に脱北した5人が北朝鮮政府を相手どって日本の法廷に損害賠償を求める訴えを起こしましたがこれは例外的少数でしょう。

 私の敬愛する詩人金時鐘がこの帰国事業に強く促され、また舞鶴湾で爆沈された浮島丸の記憶に迫られて長編詩「新潟」を書いたのが1960年のこと、しかし朝鮮総連の圧力をうけて出版は1970年となりました。「新潟」のなかに次の詩行があります。

 誰に許されて
 帰らねばならない国なのか。
 積み出すだけの
 岸壁を
 しつらえたとおり去るというのは
 滞る貨物に
 成りはてた
 帰国が
 ぼくにあるというのか。
 もろに
 音もなく
 積木細工の
 城が
 崩れる。
 切り立つ緯度の崖を
 ころげ落ち
 平静に
 敷きつもる
 奈落の日々を
 またしてもくねりだすのは
 貧毛類のうごめきだ。

 この詩集の全体は次の3行で締めくくられています。詩人の想念の世界において果たされようとする「帰国」のイメージです。

 茫洋とひろがる海を
 一人の男が
 歩いている。

 書くほどに野暮になりそうです。関心のある方はぜひ詩人の著作をご覧ください。
 私は、土地が否応なく帯びることとなる「歴史性」について考えています。新潟しかり佐渡しかり。沖縄、広島、長崎、福島、北海道もそうですが風呂敷を広げすぎると収拾がつきませんのでここは小ぶりに。「佐渡」と聞いてまず私が思い出すのは井上ひさしの戯曲「たいこどんどん」です。若旦那と太鼓持ちの二人連れが江戸から佐渡まで流れてきて路銀稼ぎに思いついたのが草鞋交換。新品の草鞋と取りかえた大量の古草鞋を水洗いして金のかけらを集めひと儲けしたという挿話ですが、砂金の島のイメージが鮮やかです。

 ちなみに、三谷幸喜も面白いし悪くないけど結局は軽いね、井上ひさしと言葉の深みがまったく違う、心に残らない、本物と亜流の差だね、と私たちはよく言い合っていました。もはや井上ひさしの新しい芝居を見られないというのは残念です。漱石、鴎外、百閒、龍之介などは昔の人だから別として、大岡正平、丸谷才一、吉行淳之介、開高健、遠藤周作など私が物心がついた時に活躍していた人が彼岸にいるのは淋しいことです。小説家以外では加藤周一、吉田健一、鶴見俊輔もそうです。これらの人々の退場を惜しむのは私が年をとった証拠であり、私自身も此岸から移動しつつあるのかもしれません。

 さて本論に戻って、政府は佐渡金山を世界文化遺産に推薦することを決めました。韓国政府は戦時中に朝鮮半島出身者の強制労働があったと反発していますが、日本側はそれより前の16~19世紀、世界の鉱山で機械化が進む中において佐渡が手工業で金を生産した「匠のわざ」が世界遺産にふさわしいと主張しています。しかし、佐渡金山が1989年まで運営されていたこと、国民徴用令で朝鮮半島出身者も狩りだされたことを考慮すると、日本政府の主張は恣意的な歴史の「切り取り」に見えます。

 2015年、軍艦島の世界遺産登録の際も日本政府は「朝鮮人強制動員の歴史など全体を伝える」と約束したまま放置し、ユネスコから警告を受けた経緯があります。一方、同じ年に中国が「南京大虐殺の記録」を世界記憶遺産に登録することに日本が反発し、加盟国の反対があればユネスコは登録審査を中止するというルールができました。2016年には韓国、中国などによる「日本軍慰安婦記録物」の登録申請も日本の反対で審査に至りませんでした。

 世界遺産の発想はオリンピックと同じ「国別対抗戦」ゆえ歴史認識の食い違いはつきものかも知れません。原爆ドームの認定(核兵器の惨禍を伝える建築物)の際は、逆に中国が反対を唱えました。「日本の一部勢力が原爆被害を免罪符としてアジアへの加害責任を免れようとしかねない」との理由です。当の米国は「戦争終結のために使用した。その前段階で何があったかの歴史認識が問題だ」と主張しました。なんといっても原爆を落とした爆撃機エノラ・ゲイを誇らしげに展示している国です。

 韓国には金も払ったし条約も結んだ。慰安婦問題では最終的かつ不可逆的な解決に至った。彼らはいつまで蒸し返すのかと憤る政治家がいます。佐渡金山では安倍晋三、高市早苗氏らが勇ましい発言を繰り返しましたが、その勇気を米国に向けてほしいと思います。朝鮮半島は日本が36年にわたって植民地支配した事実が消えず(原爆投下の米国の罪が消えないのと同じように)、南北分断についても、日本が生地をこね、米ソが真ん中に深々とナイフを入れて2山のパンを焼いたごとし(パンにたとえてすみません)、決してよそ事ではないと考えます。

 結局のところ、日本は自国民にも近隣諸国にも多大の死と不幸をもたらした戦争責任の追及を極東軍事裁判にまかせ、自らの問題として真正面から取り組むことがなかったという敗戦後の出発点にもどります(ドイツと比べるとよく分かります)。こちらは忘れても相手は忘れてくれず、何かあれば「蒸し返され」ます。韓国の大統領選の候補者が「加害国の日本こそ2つに分割されるべきであった」と発言しました。とても容認できる話ではありませんが理解の範疇にあります。

 ではどうすればよいかは政治家に尋ねたいところです。私としては一つの事実に複数の認識があると心得ること、加害的立場と被害的立場の落差を知ることが重要であると考えます(まるで友人知人とのつきあいのようですが)。より大きくは、身びいきと愛国が違うと知ること、対外関係においても憲法の精神を生かすこと、これらは勇ましい政治家に贈る言葉です。世界遺産には「文化」、「自然」、「複合」の3種類があり、別に「記憶遺産」というカテゴリーもあるようです。「文化遺産」であるローマ帝国の国境線(石の長城)やピラミッド、「記憶遺産」のアンネの日記について書きたかったのですが、長くなったのでまたの機会にします。





 



 

 

 

 








 

2022/02/18

168)省庁職員研修私案

 「国交省の不正統計」、「公僕」と来て今回のテーマは「省庁の職員研修」です。省庁の職場環境は「公僕精神の維持」という観点から好ましくない、すなわち政治家に近すぎ国民から遠すぎるという私見にもとづくお節介な提案なのですが、もう少し不正事例を見ましょう。そうそうあれもあったという話ばかりです。

 2018年には厚労省の「毎月勤労統計」の不正が発覚しました。この不正は10年以上続けられ、のべ2,000万人分の雇用保険・労災保険の給付額が正規額より530億円過少となる被害が出ました。厚労省はホームページでこの統計への協力を事業者に呼びかけ、同時に不正な情報収集を行う「かたり調査」に注意するよう促していますが笑止千万、泥棒が戸締り用心を説くようなものです。

 2017年は防衛省の「イラク日報問題」。復興支援のため非戦闘地域に派遣された自衛隊がどのような活動を行い、いかなる状況に遭遇したかを証する「日報」は、憲法9条にも関わる重要な公文書です。これを防衛省は「すでに廃棄した」と説明、その後「一部が残っていた」と訂正、ついで「不存在を確認した」と再訂正。さらに存在しないはずの日報の「探索を指示」したら、なんと約400日分、14,000ページにのぼる日報が「発見」されました。そして日報に「宿営地にロケット砲が着弾」、「戦闘の激化」などの文言があり、公表まで数か月かかるというおまけまでつきました。

 この時期は財務省の国有地払下げ不正(森友学園)や文科省の許認可不正(加計学園)が表面化し、その経緯を記録した公文書が廃棄、捏造されていたことも判明しました。その少し前には文科省の天下り不正が発覚、その数は2010年から2016年の間に62件にのぼり、歴代8人の事務次官をふくむ多数の職員が処分を受けました。

 2007年には社会保険庁の「消えた年金記録問題」。毎月せっせと年金の掛け金を納めたにも関わらずその人の氏名が分からないというケースが5,100万件、これは個人の年金給付額の目減りに直結するばかりでなく、公的年金制度の信頼性を揺るがす深刻な問題です。ずさん極まりない事務処理に加え、職員による業務上横領(納付者の名前を抹消してその掛け金を着服)も明らかとなりました。

 これらの不祥事に共通するのは規模の大きさ、行為の組織性・継続性、発覚に際しての事実隠蔽や矮小化の画策などであり、さすがに省庁は行政の中枢だけあって一旦悪い方にぶれると容易に巨悪となることが分かります。ゆえに職員は人一倍の倫理観をもって職務にあたるべきところですが彼らの公僕精神は一体どこへ消えたのか。

 残念ながら国の出先機関や地方自治体にも不祥事はあり、襟を正さなければならないのは公務員全般です。急いで付け加えますが大多数の公務員は公僕の名にふさわしい存在であり、思わず頭が下がるような人々を私も多数見てきました。ですから十把一絡げの議論はよくありません。それにしても不正の多さよ、と言いたくなります。

 さて本題に入ります。霞が関の「省庁」および全国各地の「市役所」と、住民(国民、市民)との距離の比較です。ふらりと入ってきた住民からいきなり怒られたり、時に褒められたり、相談にのって感謝される等といったことは省庁ではおそらく皆無、市役所では日常茶飯事です。この「住民」を「国会議員」に置き換えると話がきれいに逆転します。国会議員は住民の代表だからどちらも一緒と言いたいけれど現実は違います。

 コロナ対応を例にとると全国の感染状況の集約、分析や各種の仕組みづくりは省庁が行い、患者、家族、事業者への直接支援は市役所が担当します。行政機構における両者の役割が異なるためとはいえ省庁は現場から遠くにあります。ひとつの「機関」としてはそれもよしですが、職員にとって「生身の実感」が欠乏することはよくありません。こうした状況が省庁職員の公僕精神の維持を困難にしているのではないか、これが冒頭に述べた問題です。

 問題はもう一つ。上記課題を増幅させる事情として、省庁職員は東大卒が多く偏ったエリート意識をもつ者の割合が多いという点です。いわゆる難関大学とそれ以外の大学の「学生の能力の差」は、煎じ詰めれば記憶力がいいかどうか、計算が早いかどうかの違いにすぎません。テレビのクイズ番組に出るならそれも結構ですが、「頭がよい」ことに基づくエリート意識は、公僕精神とまったく相容れません。そして入省後、これらエリートの多くは熾烈な出世競争を繰り広げつつ権力に接近し、住民から遠ざかっていくように思われます。

 何事にも例外はあると思いつつ断定的な物言いをしました。しかし私は、「公僕」であろうとする若者にとって、省庁の職場環境は地方自治体のそれより厳しい状況にあると思っています。しからば省庁の若手職員に地方自治体での実地研修を施してはどうか、ようやく結論にたどり着きました。省庁の中堅職員が自治体の幹部職員として地方自治体に「降臨」したり、地方自治体の若手職員が省庁の「徒弟」となる事例があります。こうした人事交流は省庁が上、地方が下という暗黙の前提に立っていますがあまりに古臭い感覚です。「公僕精神の維持」の観点からは地方が上、中央が下であると私は思います。

 そこで入省後の新採職員に対し、半年(できれば1年)の市役所や町村役場での実務研修を行う、市町村の職員定数の員数外とし給与は省庁負担とする。どの職場でどんな仕事をさせるかは市町村の判断によることとし、研修生は定期的にレポートを書くほか「卒業」に際しては市町村の「口頭試問」を受ける。「エリート」の目からウロコです。自治体の最前線における生身の体験(喜びも苦労も含めて)は、彼らの公務員人生を照らし続ける松明となるに違いないと私は確信します。叶うならたまに「里帰り」してもよいのです。体を運ぶのが無理なら電話かメールでも。地方の仲間の情報は役に立つことがあるはずです。

 わが国は公務員の数が少ないうえ少子高齢化の構造的課題に加えてコロナがあり、中央も地方も大変です。こんな時に時間を要する人材育成を行うことは困難かもしれません。しかし、それならばいかにして省庁職員の公僕精神の涵養に努めるのか、不祥事の山を前にしてこの点を省庁は真摯に考えるべきだと思います。




2022/02/11

167)公僕について

  公務員をさす公僕(public servant)という言葉をあまり聞かなくなりました。僕(しもべ)の文字が今どきの感覚に合わず「別称」ならぬ「蔑称」と感じられるのかも知れません。では、「神の僕」や「芸術の僕」はどうでしょう。仕える相手が至高の存在ならこの語の印象も変わるはず、「公」は「それなみの概念」であるべきだと考えます。その限りにおいて私は「公僕」という言葉が好きです。

 憲法15条2項は「公務員はすべて国民全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」と言い、さらに99条で「天皇又は摂政及び国務大臣、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と念を押しています。「国民」と「公務員」が区別され対置されているのは国民主権の原理に照らして当然ですが、これらの条文が憲法における「公僕」の淵源でしょう。

 その点を承知しつつ少し緩やかに考えてみたいのですが、「すべて国民全体」の中には「公務員」も含まれます。したがって公務員は「自分自身に奉仕する」者でもあります。また、公務員が「国民の奉仕者」なら「民のしもべ」すなわち「民僕」と呼ぶべきところですが現実には「公僕」と称されます。「民僕」と「公僕」の違いは何でしょう。そもそも公務員の奉仕の客体たる「国民」とは何でしょうか。

 私は「国民」を静止画のように見ず、憲法の3原則、つまり国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の実現に自らも参画し、その果実をより豊かに享受しつつある動的存在と捉えてはどうかと思います。この場合、公務員は、そのベクトルの向きに従って国民に奉仕する者となります。その奉仕の対象は未来の国民であり、外国籍市民でもあります。さらに社会資本の維持、環境の保護、国土の保全も含まれます。

 以上は思いつきの拡大解釈ですが、「公務」の定義からあまりそれていない気がします。私は、国民=主人、公務員=奉仕者という図式から肝心かなめの「公」の位置づけが明確に見えないことが惜しいと思っています。このように考えると「公僕」とは言い得て妙です。今回のテーマは「省庁職員のモラル向上を図るための研修」であり、前置きとして「公僕」に触れたのですが長くなり過ぎました。「研修」は次回にまわします。





2022/02/05

166)水増し上等

 ~なに、もう消せません、正しいことと思えませんだと? おまえはどこの生徒会長だ、いい加減にしろ。消すためにわざわざ鉛筆書きさせてるんだ。やつらはエッセンシャルワーカー、県民相手に揉み手して定年むかえりゃいいんだ。俺たちはかじ取り役、公務員もピンキリだあ。おまえは何のために東大出てここにいるんだ、しっかりしろい。

 改めて言っておくからよく聞けよ。統計は数値じゃないトレンドだ。コロナとおんなじ増えたか減ったかだ。せっかく続けてきた手法を今さら変えてどうする。過去のデータも未来のデータもパーだ。それこそ地方の連中に済まない話だ。元々これは悉皆じゃないサンプル調査だ、知ってるだろう。どうせ係数をかけて全体を占うんだからそもそも作り物だ。調査票の補正ごときでギャアギャアさわぐんじゃない。

 次はマインドだ。景気がよいと思うと財布のヒモがゆるむ。するとほんとに景気がよくなる。株も一緒よ。ならば官需も民需も増えている、GNPも増えていると思った方がいいだろう。データが景気をなぞるんじゃない、データが景気を引っ張るんだ。正確に越したことはないがおまえもちっとは頭を上げて統計の究極の目的を見ろ。それはつまるところ国民の福利厚生だ、違うか。俺たちはその仕掛け人、水増し上等じゃないか。

 3つ目はパワー、これが一番大事だぞ。いま首相がアベノミクスのラッパを吹いてる。首相が変わったって第一番は飯のタネ、経済だ。これを応援するのがおまえの仕事だ。法律ごときにビクビクするない。佐川さんを見ろ、あんな肝のすわった人もない。主君を守るため弁慶のように総身に矢をあびたがどうだ、十分に報われよな。それにひきかえ文科省をやめた前川はどうだ、正義の代償は高いぞお。佐川、前川、どっちの川の水が甘いか分かるだろう。検査院は気にするな。彼らも仕事、こっちも仕事。プロレスみたいに筋書きのあるドラマなんだ。大親分は首相ひとりだから心配はない。万万が一処分を食らっても訓告、悪くてちょいと減給か。どっちにせよ若いおまえはお咎めなしよ。心配するな男だろ。

 どうだ少し目が覚めたか。ときに最近こどもが生まれたそうじゃないか。おまえの人生はまだまだ長いぞ。広い道の真ん中をみんなと一緒に歩け。妙なことを考えるな。そして今日は早く帰って子どもの寝顔をサカナに酒でも飲め。職場の和がないとそれもしにくいだろ。俺たちは仲間だ。いいな。今日のことはもう忘れろ。そうか分かった。はい、お疲れ。~

 いやひどい上司もあったものです。これは、国交省統計調査室長のデスクにマイクをしかけておいたらこんな声が拾えたかも、という私の想像であり、生徒会長さん、前川喜平氏、県職員の方々への失礼をお詫びしなければなりません。しかしこれは絵空事ではありません。「建設工事受注動態統計」は2000年に開始され、国交省は当初から一貫して、営々と、たゆむことなく不正を行ってきました。これは「統計の不正」ではなく「不正統計」です。その主な問題点は以下の通りであると考えます。

 一つ目は、国交省が、締め切りに間に合わなかった業者の受注実績が「実際よりも過大となるように」調査票を書き換え、長年それを継続してきたということ。調査票の回収が締め切りに間に合わないのはあり得ることで、正確な数値を把握してから遡及訂正を行うのが普通です。ところが国交省は、報告が遅れた業者が数か月分の受注実績をまとめて提出した場合、これを「最新1か月分」の受注実績として合算していました。明らかに意図的な水増しです。もし数値が「下振れ」するケースなら、彼らはこんなことは決してしません。

 二つ目は、2013年から「二重計上」を始めたこと。不正の拡大再生産です。
 この年から調査票未提出の業者について推計値を計上するようになり、同時に「伝統的な」書き変えも継続したため、当然、ダブルカウントになりました。検証委員会は組織内の情報共有の不足を指摘しましたが、それは有能な彼らに対して失礼です。私は、技術的なミスに見せかけて意図的な数値の水増しが行われたと考えており、その額は年間4兆円を大幅に超えると報じられています(朝日新聞が公表データに基づき2020年度の過大額を4兆円と試算。これは二重統計のデータ量を大幅に減らした年の数値。それ以前の過大額はさらに多いはずだが調査票は廃棄済み)。当時は第2次安倍内閣の2年目でアベノミクスの真っ盛りであったことも押さえておく必要があると思います。

 三つ目は、2020年、会計検査院の指摘により都道府県に書き換えの中止を指示する一方、国交省は書き換え合算額を「全月分」から「2か月分」に減らしつつ秘かに書き変え不正を続けていたこと。組織あげての隠ぺい工作であり不正の矮小化です。これを知って斎藤鉄夫国交省が「言語道断だ」と怒って見せたようですが白々しい話です。お芝居が下手なのか考える力の不足なのか私は知りませんが。

 以上三点はワンセットです。国交省は統計という事実のみに基づくべきものを政権に都合のよい方向にあえて歪めて提示し、これまで20年にわたり国民を欺いてきました。国交省と一括りに言いますが、もちろん多くの部署があり、大勢の職員のうちには辞めた人、新たに加わった人も沢山いるでしょう。しかし一つの役所としての風土、人から人へ伝達される気風があります。省庁のホメオスタシス(生物恒常性)といってよいかも知れません。今回の「不正統計」はその深部に根を下ろしていると私は思います。これに比べればGDPへの影響など軽い問題です。

 今回の件で問われるべきは「公務とは何か」、「公務員とは何か」です。ひょっとすると「本省」の職員は、自分を国民の指導者であると勘違いしているのではないか。まずは、国交省の当事者すべてに反省文を書かせ公表していただきたい。それを踏まえないと改善策にたどりつけません。「減給3か月」など4か月目から忘却のかなたです。
 彼らと違い、地方公務員は現場に身を置いています。時にしんどくても、これが「公務員とは何か」を自問する契機となり得ます。私は、冒頭の国家公務員の頭をバシン!と叩き、地方公務員の方々の肩をポンポンと叩きたい気持ちです。

 最後に「黒幕」のこと。歴代の中で特に安倍政権は「公」を「私」にすげかえるという点において最も悪質、低劣であったと思います。その強大な力が本省役人の公務の規律を緩め官邸になびかせました。何度も書いてきたモリ・カケ・サクラばかりでなく、この不正統計も同根です。国会ではこの点を追及してほしいところです。





2022/02/04

165)個人的なこと 4

 ためらったあげくに個人的なことを書き始めもう4回を数えます。これで終わりですが今後は個々の記事の公私を峻別せず、全体として「公」というテーマを考えていきます。
 2つ前の記事で、これからは残された私の「単独行のブログ」であると書いたところ友人がメールをくれました。~これからも幾子さんは変わらず治さんに語りかけ、治さんと共に生きていくと思います。けっして「単独行」ではないと思うのです。~
 痛いほどに不在である彼女と、実際のところ私は日々話しています。「単独行ではない」というのは真実ではなく、真実でもあります。真実である方向に私の背中を押してくれる友人をありがたく思います。

 長田弘もまた妻の好きであった詩人です。パウル・クレーの「忘れっぽい天使」が表紙に描かれた詩集「黙された言葉」、グスタフ・クリムトの絵が美しい「詩ふたつ」などよく読み返していました。いま探してもわが家の小さな書棚から「詩ふたつ」がどうしても見つかりません。買いなおそうと出かけたジュンク堂にも丸善にも在庫がなく、取り寄せを頼んだ上とりあえず「長田弘全詩集」(みすず書房)を買って帰りました。

 「長田弘全詩集」に収められた詩集「詩ふたつ」から「花をもって、会いに行く」という詩を転載します。これは詩人が亡き妻に捧げた詩ですが、そこに漂っている懐かしさ、切なさ、甘さ、そして澄明な明るさの前に私は立ち止まらざるを得ません。それは今の私に不可思議であり蠱惑であり大きな救いでもあります。
 詩人の妻と私の妻とは奇しくも没年が同じです。長田弘は、妻、長田瑞枝さんの残した6年の時間を生き、2015年に75才で亡くなりました。

 長田弘による「あとがき」から一部を引きます。
~亡くなった人が後に遺してゆくのは、その人の生きられなかった時間であり、その死者の生きられなかった時間を、ここに在るじぶんがこうしていま生きているのだという、不思議にありありとした感覚。「詩ふたつ」に刻みたかったのは、いまここという時間が本質的にもっている向日的な指向性でした。心に近しく親しい人が後にのこるものの胸のうちに遺すのは、いつのときでも生の球根です。喪によって、人が発見するのは絆だからです。~


 花をもって、会いにゆく

春の日、あなたに会いにゆく。
あなたは、なくなった人である。
どこにもいない人である。

どこにもいない人に会いにゆく。  
きれいな水と、 
きれいな花を、手に持って。

どこにもいない? 
違うと、なくなった人は言う。  
どこにもいないのではない。

どこにもゆかないのだ。  
いつも、ここにいる。  
歩くことは、しなくなった。

歩くことをやめて、  
はじめて知ったことがある。  
歩くことは、ここではないどこかへ、

遠いどこかへ、遠くへ、 遠くへ、
どんどんゆくことだと、そう思っていた。  
そうではないということに気づいたのは、

死んでからだった。もう、  
どこにもゆかないし、 
どんな遠くへもゆくことはない。

そうと知ったときに、
じぶんの、いま、いる、 
ここが、じぶんのゆきついた、

いちばん遠い場所であることに気づいた。 
この世からいちばん遠い場所が、 
ほんとうは、この世に、

いちばん近い場所だということに。 
生きるとは、年をとるということだ。 
死んだら、年をとらないのだ。

十歳で死んだ 
人生で最初の友人は、 
いまでも十歳のままだ。

病いに苦しんで 
なくなった母は、 
死んで、また元気になった。

死ではなく、その人が 
じぶんのなかにのこしていった 
たしかな記憶を、わたしは信じる。

ことばって、何だと思う? 
けっしてことばにできない思いが、 
ここにあると指さすのが、ことばだ。

話すこともなかった人とだって、 
語らうことができると知ったのも、 
死んでからだった。

春の木々の 
枝々が競いあって、 
霞む空をつかもうとしている。

春の日、あなたに会いにゆく。 
きれいな水と、 
きれいな花を、手に持って。 







  
  

2022/02/02

164)個人的なこと 3

 詩人金時鐘の言葉について書こうと考えていた朝、新聞の一面でその人の言葉に出会いました。

「終わりは、いつも終わらないうちに終わってしまうのよ。」

 朝日新聞1月28日朝刊、折々のことば(鷲田清一)。鉛筆画家・木下晋との対談「生とは何か」から採られたものです。~裏返していえば、終わりと思っていたものも終わっていないということ。いいかえると人生に終わりはなく、いつまでも「過程」でしかないということ。だから終わりもしょせん「道すがら」でしかないと、詩人は言う。人生を一つの物語に綴じることはできない。だから人生は閉じない。~鷲田清一はこう書いています。

 私は対談「生とは何か」を読んでおらず前後の文脈を知りません。しかし、読む者にそれぞれの実感をともなって人生を振り返らせる言葉であると分かります。これを読んで、自省を深める人も光を見出す人もいるでしょう。言葉の力だと思います。
 そしてまた、これと別に私たちにとって忘れがたい金時鐘さんの言葉があります。

「惜しまなければ 残る何物もこの世にはない」

 2007年に出された「再訳 朝鮮詩集」(岩波書店)の扉にサインをそえ書いて頂きました。

「人は、人の心にあるかぎり生きている」

「記憶される限り 人が死ぬことはない」

 これも時鐘さん。2004年頃、妻とふたりでお宅に伺いあれこれお話した折、穏やかな口調で嚙みしめるように語られました。その後、妻の叔父が亡くなった時にその愛する妻であった叔母に私の妻が書き送ったこの言葉を、今度は私が叔母から贈られました。

 これまで何度かふれてきた金時鐘さんは1929年、元山市で出生。植民統治下の朝鮮で少年期を過ごし、21歳のとき、済州島四・三事件に関わって来日しました。以来「在日」(これは時鐘さんが初めて呈示した概念)の実存を問いながら、かつて日本が朝鮮に押しつけた日本語を武器として、人間、社会、時代を他に類を見ない言葉で表現してきました。その作品にも素顔にもふれ「真っ直ぐで堅い背骨を持った人」であると私は思っています。実際に生身のご本人も背筋が通って姿勢が美しいのです。金時鐘と比べると谷川俊太郎も今やB級商業詩人に過ぎません。

 1945年の解放(日本敗戦)後、朝鮮は米ソにより分割占領され済州島は米国統治下となりました。1948年、米国が南朝鮮の単独総選挙を企図したことに対し国家分断につながると民衆が激しく反発、4月3日に済州島で武装蜂起がおこりました。これが四・三事件の発端ですが、軍や警察、右翼団体による武力鎮圧は凄惨をきわめ、島民の犠牲者は3万人といわれています。時鐘さんも命の危機にさらされ、1949年、島を去ることとなります。一人息子を見送ったご両親は彼の地で亡くなり、海に隔てられた親子の再会は叶いませんでした。

 その後1950年に始まった朝鮮戦争。38度線をはさんで同胞同士による悲惨な戦いが繰り広げられましたが、軍需景気に沸く日本で時鐘さんは仲間と共に反戦運動に身を投じました。 
 時がすぎて1980年の韓国で全斗煥軍政に抗議する大規模な民主化運動(光州事件)が起こり多数の死者が出ました。この出来事が時鐘さんに詩集「光州詩片」(福武書店)を編ませることとなりました。

 東アジアの近現代史の荒波に翻弄され、命がけでそれに抗い、生きのびてきた詩人。その別離と流血の記憶をくぐって金時鐘の言葉はあります。それは人生の哲理であり、さらにゆるぎない決意、深い祈りであると私は思います。

※関係著作
金時鐘:「在日」のはざまで(立風書房)(平凡社)
金石範・金時鐘(対論):なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか(平凡社)