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2022/03/25

174)大津市と越直美氏が反省すべきこと

 これまでシリーズで大津市公文書隠ぺい訴訟を取り上げました。「訴訟の中身の再確認」、「コ氏敗訴!」、「判決の評価」の3つの記事です。これらを踏まえて今回は「大津市と越直美氏が反省すべきこと」について考え一区切りにしたいと思います。時系列や事項別の細かな評価は行わず(以前の記事で試行ずみ)、より大きな観点から出来事をふり返り今後に生かすべき点を探ります。

 ちなみに「大津市公文書隠ぺい訴訟」は私のネーミングです。公開すべき情報を非公開としたこと、公文書が存在しないと虚偽を申し立てたこと、保存管理すべき公文書をこっそり改ざん・廃棄したことをひっくるめ「公文書隠ぺい」としています。公文書は役所内の堅苦しい無味乾燥な書類ではありません。公文書は「政策形成過程の生き証人」、「まちのカルテ」、「職員の勤務報告」であり更に言うなら「公務員の魂」です。これを足蹴にして踏みつけたのが越市長です。

 以下、反省点を3つ書きますが、越市政という特殊な状況下で起きたことゆえ、コ氏は別として他人に反省を迫る意図はまったくありません。
 
 反省その1(未然防止ができなかったこと)

 ① 越直美氏の政治姿勢
 「私の市政に文句があるなら次の選挙で落とせばいいのです」
 こう言い放った越直美市長。市政運営に意見をのべた私に対する返答です。いあわせたもう一人の副市長は「市長としての決意表明」と肯定的に受け止め、私は「これはもうアカン」と思いました。この発言は、「選挙で選ばれた以上4年間は好き勝手にやる。将来の大津のまちに禍根が残っても知らない。なぜなら落選の裁きを受けることで実質的に責任をとるわけだから。」という意味です。「市長のイス」と「都市の運命」を天秤にかけるのは市場原理に毒された不遜な発想ですがこの発言はその後も何度か聞きました。

 端的な例をあげます。記事65(まちづくりの課題~庁舎整備)をご覧ください。大津市は、本庁舎の老朽化が著しく耐震性能も極めて低いことから検討を重ね、費用対効果に優れる「現地建て替え」の方向で進んでいました。そして目片市長の時代に庁舎整備基金の積み立てを開始、先行させた学校や園の耐震化も一段落、いよいよ庁舎整備の具体的検討となりました。財源は、志賀町との合併(2006年)による合併特例債(庁舎建設費概算180億円の7割強を国が負担、残額は25年返済という夢のようにありがたいローン)の利用を想定していました。いや想定というより重い財政負担を考えると他に方法がありません。

 ただし、この特例債の適用条件は2020年度内に建物が完成していること。逆算すると遅くとも2015年ごろまでに庁舎整備方針を決定し事業をスタートさせなければなりません。2012年1月に就任した越市長にとって市政1期目の重要課題です。しかし同氏はこれを放置しました。市長によって政策が異なることがあっても状況判断を誤ることは許されません。越市長は、千載一遇の合併特例債を見送り庁舎整備の実現可能性をほぼゼロにする道を選択しました(隣接国有地の防災課題は対応可能であったはず)。大規模地震により本庁舎に大きな被害が出たら責任は誰がとるのでしょう。これは禍根です。市長を辞めればお終いではありません。

 かように「公」をわきまえない越市長のもとで公文書隠ぺい事件が起きたのは、むしろ自然です。そして、初期の段階で「未然防止」や「拡大防止」に努めるのが副市長の役割ですが、それができなかったのは私の責任です。言い訳めくのですが、副市長が市長に意見具申するには市長の信頼が必要である、越市長の信頼を得るには従順でなければならない、従順にふるまえば意見具申ができない、こうしたジレンマがありました。これは既に信頼関係が破綻していたことを意味しますが、いずれにせよ市長からの信頼と権限付与がなければ副市長は務まりません。ほかの重要案件でも同様のことが重なり私は退任せざるを得ませんでした。その後の副市長の対応は不明につき論評を控えます。
  
 ② 懐刀の重用
 裁判で違法もしくは不適切とされた大半の行為は越市長と元人事課長だけで行われました。私が二人の密談現場を押さえたわけではありませんが事実経過と多数の証拠がこれを雄弁に物語っています。この見方を否定する人は市役所に一人もいないでしょう。この結果、当時まだ主幹であった元人事課長の動向を上司である課長や部長も把握できず、周囲が知らないうちに事態が進行しました。意図された隠密行動により未然防止が一層困難となったわけです。

 ところで彼らに違法性の認識はなかったのか。今回の判決を見てビックリしたのか。もちろんそんなことはありません。そもそもこれは、人事課、総務部、副市長とも情報公開が妥当との認識で一致していた案件です。元人事課長(当時主幹)も最初は「公文書を公開してよろしいか」という起案を作成しました。それが越市長に否定され、次に「個人情報を開示してよろしいか」という切り口から伺いをたてました。これさえ認めなかった越市長と私のやりとりは陳述書にも書いたとおり。その後、市長と元人事課長の考えが「急接近」しましたが、この経緯からも明らかなように彼らは法令に反すると分かっていたはずです。

 こうした大津市の決定に対し京都市弁護士会からの厳重抗議があり、地裁・高裁・最高裁からも明確な「アウト判定」が出されました。越市長はいやしくも弁護士資格を有する法律の専門家です。遵法精神がなくても自分の行為が法令に照らしてマルかバツかの合理的判断は十分できます。さらにその後の国賠訴訟等の経緯をみれば、大津市の主張に無理があるのは誰にだって分かります。要するに、越市長と元人事課長は悪いと知りつつ不法行為を重ねたのだとしか言いようがありません。その行きつく先が「市政の継承」という悪夢でした。

 話を懐刀に戻します。市長は職員の誰にでも命令できるわけですから、こうした人の使い方を一概に非難するものではありません。しかし、通常の指揮命令系統によらず特定の職員を重用することについてトップは慎重でなければなりません。懐刀は本来は外部に対して用いるもので、これを内向きに使えば、行政の透明性が損なわれるばかりでなく組織に亀裂が入ります。公務集団の力をそぐこととなります。

 ついでながら、元人事課長は仕事熱心で有能な人でしたが懐刀となって道をそれました。この人は、従順にふるまうことで市長の信頼を得て、そのパワーを自分がやりたい仕事に生かそうと目論んでいたと想像します。市長選に出た時も、越市長の後継者であると訴えて票を集め、当選の暁には越市長よりずっと良い市政をしようと思っていたはず。言うなれば越市政を否定するために越市長の応援を受けたわけです。「目的のために手段を選ばない」とはこうした行為をさすのだと思います。

 前にも書きましたが、手段は目的に奉仕する、手段に奉仕される目的はより高次の目的に奉仕する手段となる、この連鎖をみると手段は目的と等価といってよい、とくに行政において手段を軽視してはならない、これが私の長い公務員人生の実感です。元人事課長とその取り巻きは手段を軽視する思考の持ち主であり、これが彼らとコ氏の悪しき共通点であると考えます。越市長と元人事課長の二人三脚は必然であったのかもしれません。

 反省その2(軌道修正ができなかったこと)

 これは私が辞めてから越市政が終わるまでの6年近くにわたり違法、不適切な行為が継続され、もしくは放置されたことの理由を考えようとするものです。私の体験によらず裁判の経過などに基いていますが、大筋のところで「反省その1」の延長線上にあったと考えます。

 後任の副市長等は、本件が「市長専属案件」として進行しているところに「途中参加」したようなもの、まして越市長は弁護士資格があるので自分たちが口をはさむ余地がないと考えたことでしょう。正論を述べても事態を改善できず、結局は辞任せざるを得なくなった茂呂の轍を踏むことは避けたいとの思いもあったでしょう。辞めてしまえば何の働きもできなくなるわけですからその判断にも一理あります。
 
 また、本件は各種データを揃え複数案につき協議するような「計画策定」や「施設整備」と違い「公文書を公開するかしないか」の二択問題であったため、関係者には「トップの意向次第」という意識が強かったと思います。本来は公文書の適正管理と知る権利の保障に関わる重要案件であったにも関わらず、こうした事情により本件が組織的な検討に付されることはなかったと思われます。

 しかし、市の訴訟担当課は証拠書類を読み込んだうえ毎回の公判を傍聴しており、真実に最も近い立場にいます。そして公判後は顧問弁護士同席のうえ市長への報告を行っています。その場で「さすがにこれは大津市が悪いのではないか」という疑問の声が出なかったのでしょうか。また顧問弁護士は、法を守れという助言をされなかったのでしょうか。それらを踏まえた検討、協議は行われなかったのでしょうか。
 あえて疑問形で書きましたが出席者全員が「言っても無駄だ」と思っていたはず、相手が越市長ではそれも無理はありません。担当課の人々は協議のたびに踏み絵を踏まされ、さぞ苦しかったことでしょう。そこは重々承知の上で「しかし、こんな場合にどうするか」と自問するのが残された課題です。

 こうした状況の中、大津市労連の動きが目を引きました。市労連は早くからこの裁判に注目し、自由で客観的な視点から職員に情報を伝えてきました。越市政のもとでも言うべきことは言ったと思います。かくして「労連ニュース」は職員に本件を知らしめる唯一の回路となりました。私は辞めて久しく組合の現状を知りませんが、市労連が本件を「公の危機」と捉えて警鐘を鳴らしたことを高く評価します。このように市の内部で自浄作用が働いたことを有難く嬉しく思っています。

 反省その3(今後に生かすべきこと)

 本件から直接的に導き出される教訓は、「公文書は法令に基づき保存、開示すべきこと」、「パワハラをしてはならないこと」、「そのほか何事も法令に基づいて仕事をすべきこと」です。当然すぎるこれら3項目が図らずも越市政の嘆かわしい実態を物語っています。

 二次的に考えるべき課題として、「もし市長に非違行為があった場合、いかにしてそれを是正するか」という難問があります。しかし、これは今の大津市役所を含め通常の自治体ではありえない設問でしょう。もう少し一般化するなら、「上司の判断が『公』に反する、あるいは市民の利益を損なう」と判断した時に部下はどのように行動すればよいか、ということです。これまた真摯に話せば理解を得られるのが普通です。そのため上に立つ人が聞く耳をもつこと、職場に民主的な空気が漂っていることが重要であると考えます。

 今回の判決を受け大津市が控訴するかどうか知りませんが、裁かれたのは越市政であること、市にとって守るべき正義がないことを考えると結論は自明であると思います。この上は、大津市において「公文書隠ぺい事件」を総括し、今後に生かされるよう期待をするものです。
 なお、本件原告は「市の違法、不適切な行為の被害者」であり、「市への反逆者」ではないことに異論を唱える人はいないはずです。ほかの職員と分け隔てなく処遇されていると思いつつ、一言申し上げる次第です。

 越市長が3期目に出馬しなかったのは、8年にわたり自分が無理を重ねてきたことへの自覚が影響したものと私は考えています(本人の説明は違います)。「重ねた無理」は数々あれど公文書隠ぺい事件がその最たるものの一つであったと思います。今回の訴訟にはこのような副次的な意義があり原告は市政刷新の「功労者」である、というのが私の意見です。本ブログもコ氏が自らを振り返る契機であったならばよいけれど、さあこの点はどうでしょうか。

 最後に、まことに余計なお世話ですが、反省ついでに「大津市民憲章」にならって「大津市職員憲章」を作りました。ご笑覧ください。

<大津市職員憲章>
わたしたち大津市職員は、
(わたしたち大津市民は、)

1、公務を愛しみんなの英知をいかしましょう
 (郷土を愛し琵琶湖の美しさをいかしましょう)
 ※みんなの英知とは多数決や平均値ではなく開かれた討議をさします。それが「公」の担保につながると思います。

1、法律と条例をまもりましょう
 (豊かな文化財をまもりましょう)
 ※この恥ずかしい項目が近いうち不要になることを期待します。

1、時代を超える眼をそだてましょう
 (時代にふさわしい風習をそだてましょう)
 ※道徳とは何十年、何百年という長いスパンの中にわが身を置いて、自分がなすべきことを考えるという「思考的習慣」のことである、という内田樹氏の意見を踏まえました。環境、教育、福祉、防災等々地方自治のテーマは「長尺もの」です。公務員には、「自分の任期だけ」、「自分の定年まで」というスパンをはるかに超える視力が必要だと思います。

1、健全であかるい職場づくりにつとめましょう
 (健康であかるい生活につとめましょう)
 ※越流の隠ぺい体質からの脱却です。

1、あたたかい気持ちで下の人を遇しましょう
 (あたたかい気持ちで旅の人をむかえましょう)
 ※あたたかい気持ちとは主観に客観を交えて相対化することです。仕事熱心で意見をまげない上司はパワハラ予備軍。目の前のひとりの人が「かけがえのない存在」であると知る力こそ上司ばかりでなくすべての市職員に求められています(エラそうにすみません)。

 これで大津市公文書隠ぺい訴訟に関する記事を終了します。この4回だけでなく過去に何度も本件を取りあげました。ふりかえって「公」のテーマを大きくそれることはなかったと思いますが、それにしても長い裁判でした。








 

 

2022/03/21

173)判決の評価

 さる3月17日、大津市を被告とする国家賠償請求訴訟および公文書部分公開決定処分取消訴訟の判決がありました。国賠訴訟の判決日は、もとは2020年2月の予定でしたが同年3月に延期となり、その後、大津市長の交代により新たな証拠が出てくる可能性も考慮して再延期され、この日の判決となったものです。この裁判ひとつをとっても訴訟提起から判決まで実に4年、本当に時間がかかるものだと感じます。

 この判決は、当日のNHKニュース、BBCニュースをはじめ翌日の各紙朝刊で報道されたのでご覧になった方も多いと思います。一言でいえば前回記事のとおり「コ氏敗訴」ですが、その後、原告弁護団から色々と専門的な話を伺ったうえ判決文を読み直し、私なりに理解が深まったので、それらについて感想も交えつつ記述します。
 
 当日は、まず「公文書部分公開決定処分取消訴訟(20199月提訴)」の判決が言い渡されました。以下のとおりです。
(1)大津市長が原告に対してした2017年6月23日付け公文書公開決定及び2019年8月1日付け裁決のうち、原告の2013年12月17日付け公文書公開請求における文書2に相当する被告の人事課及び市長室に保有するファイルを不存在とし、非公開とした部分を取り消す。 
 2)原告のその余の請求をいずれも棄却する。(※判決文の和暦は西暦に変えました)
 
 大津市は、公文書公開請求を受けた職員A親子の不当要求関係の記録について、「公文書の原本がすでに廃棄されて存在しないため非公開決定処分した」と主張してきました。そもそも市においてこのようなことはあり得ません。判決では、当該人事課長が引継ぎしてきたファイルと越市長が秘書課職員に廃棄を指示したファイルの中にその公文書の写しが保存されており、市の非公開決定処分時にその写しが確かに存在していたと認定しました。

そして、仮に公文書の原本が存在していなくても、その写しに「組織共用性」があったと認め、「市が、人事課ファイルおよび越市長が秘書課に廃棄を指示したファイルを不存在としたことは違法である」と断じて部分公開決定を取り消すと判決したものです。
 存在しないはずの公文書が実は存在していたことが裁判を通して明らかになったわけですから、「公文書は存在しない」という虚偽の理由に基づく市の非公開決定が違法であることは当然のように思います。

 しかし、裁判の中で市が、「その公文書を廃棄して原本がなく、写しだけが存在しているだけであるからそもそも公開対象にはならない」と主張したため、残されている写しに「組織共用性」があり、したがって公開対象となるか?というのが新たな争点となりました。情報公開条例などでは、原本でなければ公開しないなどと定めた条文はありません。
市長が公文書の写しをファイルにして手元に保存するほど重要な文書の原本を職員が廃棄するということ自体がそもそもありえず、このような争点は例がないはず。この点について大津地裁が、「たとえ写しであっても原本がない以上、組織共用性がある」と明快に認定されたことは判例としても大変重要であると思います。

また、この判決を通して「公」の観点から見落とせない2つの点があります。
 1つは、市が、存在する公文書を「存在しない」と偽って非公開決定したことです。
圧倒的な情報を保有する行政が、市民に公開したくない公文書を「存在しない」とごまかして非公開とすることが許されるなら行政の透明性が損なわれるばかりでなく、恣意的な政策決定に直結します。このケースはまさにそれです。市政情報は市民のものであり、市の務めはその適正管理にとどまります。

 2つ目は、きわめて重要な公文書を元人事課長が「単なるメモ」として廃棄したことです。
裁判において、「存在しない」公文書が「実は存在している」ことが明らかになったため、市は「もともと存在しない」から「廃棄したので存在しない」と説明を変えました。これもアウトです。裁判で虚偽の主張をしたこと及び公開したくない文書を「廃棄した」こと。公務員がこんなことをしてよいのでしょうか。これでは行政の信頼は地に落ちます。
 今回の判決で「たとえ原本が廃棄されても、その写しには『組織共用性』が認められるため公開すべきである」とされたことにより、最後の一線は辛うじて守られた感があります。

 当初、大津市が非公開決定処分(2014年1月)を行ったことに対する原告からの異議申立に対し、人事課だけでなく関係する各所属も同じように「存在しない」と審査会に回答しました。いま記録を見ると審査会への回答は2014年5月のことです。私の副市長退任がその月の末でしたから当時はまだ「現役」でした。ところがこの件について私は何の相談も報告も受けていません。審査会への虚偽説明は、課長や部長で決められる話ではありません。私が知らなかったということは、私の上位、すなわち越市長から審査会に虚偽回答するよう指示が出されたとしか考えられません。

ところで重要な公文書を不法に廃棄した元人事課長は何ら処分されることがありませんでした。職員の処分にきわめて熱心であった越市長が元人事課長を不問に付したばかりか、その後自らの後継者として指名したことは何を意味するのでしょうか。これも不思議な話です。

また、これは国賠訴訟の評価になりますが、「越市長の指示」と「意図的に公文書隠ぺい」が認められなかったのは今回の判決の残念なところです。越市長の至近距離でその実態を見てきた私の証言をはじめ、これだけの証拠(驚くほど詳細、膨大な証拠です)があっても、それが判決で認定されないというのが国賠訴訟の壁であると思われます。越市長が直接指示したときの録音でもなければ立証できないということかもしれません。
 
続いて、「国家賠償請求訴訟(20181月提訴)」の判決は
(1) 被告は、原告に対し、33万円の及びこれに対する2018年2月18日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。 
(2) 原告のその余の請求をいずれも棄却する。 
というものでした。

この判決において、大津市の以下の3つの行為が違法であると認定されました。
 
①大津市が審査会に虚偽の説明をしたこと。
 市が、原告からの公文書公開決定請求に対して非公開決定処分をし、原告からの異議申立に対して「文書は存在しない」と情報公開・個人情報保護審査会で説明しました。前述のとおり少なくとも写しが存在していたことは間違いなく、仮に原本が存在しないというのであれば、その写しが組織共用文書となることは比較的容易に判断できるのであるから、存在しないと審査会に回答して、その存在を明らかにしない対応をしたことは、適切な公文書の管理を怠り、その公開請求者の権利を尊重、保護しなかったという点において国賠法上の違法性を基礎づける過失があったというものです。
 
②大津市が、審査会への説明書等で、無罪判決後も原告を加害者扱いしたこと。
 無罪の判決を受けた経緯に照らすと、職員が加害者と自認するとは考え難いこと、これらの事情は、容易に把握できたことからすれば、原告を加害者と呼ぶ合理的な理由はなく、原告の名誉や名誉感情を毀損する表現である。かかる表現をしなければいけなかった必然性も事情もない。これらの事情からすれば、市長等は注意義務を怠り、原告の名誉や名誉感情を毀損する違法行為をしたと認める、というものです。
 
③市長らが原告に対し、不当に和解強要をしたこと
 原告は、Aの告訴内容が事実ではないと主張し、和解の意思がないことが明らかであったのに、多数回にわたる示談の促しは社会的相当性を超えて、原告の権利を制約する行為として違法である、というものです。
 
 ①については、「公文書部分公開決定処分取消訴訟」で書いたことと重なりますが、要するに、大津市は審査会にウソをついたということが認定されたということです。
 
 ②は、通常よりも違法認定のハードルが高い国賠訴訟で認められるのは、極めて異例なことです。当時の越市長および大津市の対応がいかに悪質であったかということが認定されたということです。
 
 ③の「市長ら」というのは「市長越直美および副市長茂呂治」ということです。
この2人が不当な和解強要を行ったと認定したもので、ストレートにパワハラであるとした点では画期的な判決です。他人事のように書いていますがもちろん責任は私にもあり、それは前回記事に書きました。しかし、越市長の強い意向によって行われたことですから、大津市の行為ではなく、越市長がその権限を濫用して国賠法上の違法行為を行ったことが認定されたと言えます。それを阻止できず、越市長の違法行為の片棒を担いだことが私自身の落ち度です。

 判決で、越市長が副市長を通じて示談を促した回数を「6,7回」と認定していますが、原告代理人弁護士によるとこれは実に興味深い事実認定であるといいます。なぜなら、越市長は証人尋問において、示談を促したことは複数回あったことは認めましたが、「6,7回っていうのはちょっと多いなという気がしますけれども」と述べ、「それよりも少ない回数であった」と証言しているからです。

 これは、裁判所が、副市長茂呂の証言(6,7回)を信用できると判断し、越市長の証言(もっと少ない回数)は信用できないと判断したことを意味しています。また、越市長は「示談の強要」など一切行っていない、あくまで「検察官から聞かれたことを原告に伝えて示談意思の有無を確認しただけ」と主張しましたが、裁判所は「促し」があったと認定しました。これも、裁判所が越証言を信用できないと判断したわけです。
ちなみに、越市長の和解指示は「強要」でした。私がいうのですから間違いはありません。裁判所はそれを「促し」と婉曲に表現したことに興味を覚えました。

 さて、「越証言は信用できない」という裁判所の判断は私からみれば当然ですが、そこまでの判断をしたのであれば、やはり越市長による「意図的な情報公開の阻止」を認定してもらいたかったと思います。コ氏は新聞各紙で「公文書の隠ぺい及び市長からの指示がなかった点は適正な判決である」とコメントしていましたが、裁判所は、判決文において「公文書の隠ぺいと越市長からの指示」については「認定を避けただけ」であり、「公文書の隠ぺいと越市長からの指示がなかったという認定」をしたわけではありませんので、この点を強調しておきたいと思います。

 和解の強要についてコ氏は「判決は不当である」とコメントしていますが、私ばかりでなく、当時のこと(コ氏と担当検事の面談や和解の強要など)をよく知る警察OBで統括調整監の職にあった人も、コ氏コメントを痛烈に批判しています。ところでコ氏は、原告が無罪判決を受けて復職して以降、声ひとつかけることなく市長を辞めました。あまりに遅きに失したとはいえ、司法の判断が示されたことを契機に、原告と向き合ってきちんと謝罪をすべきであると私は思います。
 
 また国賠訴訟上の損害賠償は認められませんでしたが、大津市が原告に対し行ってきた数々の違法行為、条例違反(異議申立に対する審査会諮問の引き延ばし、同じく諮問通知の不履行、誤った教示など)等については、決して裁判所はこれを良しとしたわけではなく、項目によって、市長、及び職員の過失を認めており、「不適切な対応というほかない」と指摘している項目もあります。市は、国賠訴訟上の損害賠償が認められなかったことに安堵するのではなく、判決の文言を嚙みしめるべきであると思います。

 最近の大津市では、事務処理ミスがあると速やかに公表し、同時にその事例を職員に周知していると聞きました。とても良いことだと思います。今回の判決において「国賠法からみても違法である」と認められた条例違反等についても、「事務処理上のミス」というレベルを超えています。これこそ共有すべき「教材」です。ほとんどの職員は、この一連の事件でどのような非違行為が行われたかご存じないでしょう。これらについて市の内部で検証し今後に生かされることを期待しています。
 
 今回の判決についての全体の評価です。
原告側の主張は、「大津市が恣意的に公文書を公開しなかったことは越市長の指示による組織的な隠ぺいである。司法によりそれを糺して、虚偽説明を繰り返す市の隠ぺい体質を変える。」というものでした。私は、「原告の味方」というより、口幅ったいけれど「公の味方」です。自分の見聞きしたことを包み隠さずありのままに証言し、またブログにも書いてきました。もし大津市が正しければ私は市側の証人になっていたはずです。

こうしたことから、今回の判決において、越市長の指示によって大津市が故意に公文書を隠ぺいしたという事実認定にまで至らなかった点は非常に残念です。しかし、国賠法上の違法というハードルを超えて、大津市が審査会に虚偽の説明をしたこと、原告を無罪判決後も加害者扱いしたこと、越市長らによる原告への不当な和解の強要をしたことが違法行為と認められたのは画期的であり、先例となる判決であると考えます。
原告、ご家族、代理人弁護士にとって長い10年だったと思いますが、希望を失うことなく粘り強く戦ってこられたことに敬意を表します。真実が勝ちました。
 
 「大津市の反省点」は次回に書きます。






2022/03/18

172)コ氏敗訴!

 大津市の情報公開拒否は違法である。越氏が副市長を通じて男性職員に何度も示談を強要したことも違法である。無罪確定後の男性職員を犯罪者扱いしたことも違法である。~ きのう3月17日、大津地裁の国家賠償請求訴訟においてこのような判決がありました。地方公共団体の違法性が認定されるのは稀とされる国賠訴訟でこの判決が出たことは、市の違法性がそれほど明白であった証左でしょう。本件はすべてコ氏一人が専権的に判断、決定、指示をしたという事実を踏まえると、実質的には「コ氏敗訴」です。

 しかし私はまず、自分の過ちを認めるところから始めなくてはなりません。私は2012年6月から2014年5月まで副市長の職にあり、この間に市が行った処分全般に責任を負っています。中でも私が直接行った重大な行為として、2013年9月以降、本訴の原告(前の記事と同じく「B氏」とします)に対し、係争の相手方と和解をするよう指示をした事実があります。自室に呼んで指示したり勤務時間外に電話したこともありました。威圧的な言葉づかいはしていませんが、B氏にとって副市長から繰り返し指示を受けることは大変な苦痛であったと思います。今回、この行為が違法であると認定されました。

 これに対しコ氏は、「検察官からの問い合わせを副市長に伝えただけ」とコメントしていますが、その鉄面皮ぶりに言葉を失います。コ氏は私に、「早く和解させてくれ、起訴されたら99.97%有罪となる、それをしっかり伝えてほしい」と繰り返し指示しました。私は、2、3回B氏と話して拒否の意志が固いと分かったのでコ氏にそれを伝え、最後は本人の考えを尊重すべきだと意見しました。コ氏は「私の指示を言葉どおり伝えているか?」と不信を示し、B氏がA氏を虚偽告訴罪で訴えていることも「論外だ」と怒りをあらわにしていました。コ氏から私への「和解指示」はおよそ10回、それを受けた私からB氏への「市長指示伝達」は少なくとも6、7回に上りました。

 和解を拒否したB氏は起訴されて刑事裁判を受けることとなりましたが、2014年に無罪が確定。私はすでに副市長を辞めていましたが、B氏宅を訪問し、和解を強要したことを謝罪しました。B氏も笑顔で応じてくれました。しかし今、国賠訴訟でコ氏および私の行為の違法性が指摘されるに至ったことから、改めてB氏に心からお詫びを申し上げます。市長の指示に従ったまでという言い訳は通じません。まことに申し訳ございませんでした。

 これらの経過はすでにこのブログに書いてきました。いま過去の関連記事を読み返して、すでに言うべきことは言っていると思いました。皆さまにはまことにお手数ですが、以下の記事を再読いただけたら幸いです。
 85)陳述書(1/2)~何が起きたのか~
 85)陳述書(2/2)~なぜ隠すのか~
 88)大津市で起こったこと(時系列資料)
 89)対応の分かれ道~越市長の選択~

 ブログ内でリンクを張るやり方が分からなくなり、閲覧しにくい状況です。おいおい改善に努めますが当分はご容赦ください。肝心の「判決への評価」および「大津市の反省点」は次回以降の記事にまわします。
 最後に越直美さん、あなたは今後どのように対応されますか。B氏に対する謝罪。その他の職員に対し無益無駄な仕事をさせ敗訴したことに対する謝罪。なによりも公文書の隠蔽、改ざん、廃棄等により市民の信頼を失墜したことへの謝罪等々。
 まずは訴訟参加した立場を鑑みて大津市長室を訪れ、謝罪するとともに今後の自身の対応について相談されてはどうかと考える次第です。
 



 

 

 
 


2022/03/11

171)判決まえに(訴訟の中身の再確認)

 越直美前大津市長(以下「コ氏」と略記)による公文書隠蔽・改ざんをめぐる訴訟が近く判決日を迎えます。国家賠償請求訴訟(20181月提訴)および公文書部分公開決定処分取消訴訟(20199月提訴)の2つです。きたる317日(木)1310分、大津地裁において判決が出されます。

すでに申し上げたとおりコ氏個人は論ずるに値しませんが、この人物が公人としてなした行為は論ずる価値があります。「公の棄損」を検証することは「公の維持」に資すると考えますゆえ。これは10年ごしの案件ですから、判決を前に改めて訴訟の中身を確認します。私が副市長であった2年間(20126月~20145月)の体験は陳述書(記事8586)に書きました。今回の記事は過去の出来事を時系列で並べるだけですがそれでもかなりの分量です。

<国家賠償請求訴訟>

 2012年のこと、大津市職員であったA氏は、同市職員B氏を強制わいせつ罪で刑事告訴しました。Bは告訴事由を全面否定したものの、警察の家宅捜査をはじめ1週間の取り調べを受けました。Aは、解放され職場にもどったBの退職を人事課に要求する一方、Bに対して内容証明付きの謝罪要求文書を職場あて送付します。

20132月、Bの退職を求める差出人不明の「怪文書」が市長や議会に配布されます。
3月には、Aおよびその父(大津市職員)が右翼団体幹部ら複数の部外者とともに人事課に押しかけ、Aの希望先への人事異動とBの退職を求めました。机をたたく、怒鳴りつけるなど暴力的な要求を行った後、彼らはBのところに行き、「目の前で辞表を書け」、「今度は家に行ったる」、「街宣車を回す」と脅しました。不当要求を担当する「統括調整官」が駆けつけ何とかその場を収めましたが、エスカレートするAの行動を危惧したB4月、Aを「虚偽告訴罪」で告訴しました。AとBが告訴し合う状況となり大津地方検察庁とコ氏が動きます。

大津地検はBに対し、Aと和解し告訴を取り下げるよう求めました。コ氏も担当検事と面談しつつ副市長(茂呂)を通じて、Bに対し同様の指示を繰り返しました。Bはこれに応じず、201310月に起訴され刑事裁判が始まります。そこでBは、市が保有する「怪文書」やA親子の「不当要求記録」など重要な証拠文書の提示を求めましたが市はこれを拒否。Bと代理人弁護士は、弁護士法に基づく弁護士会照会、公文書公開請求、裁判所からの公務所照会、保有個人情報開示請求と手段をつくして証拠文書の提供を求めました。しかし市(人事課)はコ氏の指示どおり全ての公開を拒否しました。

さらに市は、京都弁護士会からの抗議を無視、保有個人情報不開示に対するBの異議申し立ては1年間放置する(情報公開・個人情報審査会に諮問せず、諮問通知も行わない)など条例違反を重ねました。その後ようやく開かれた審査会でも「文書はそもそも存在しない」と主張し、裁判でも同じ主張を繰り返します。しかし、原告側は限られた証拠をもとに立証を行い、201410月、Bに無罪判決が言い渡されました。「今日の天気のように晴ればれとした気持ちで帰宅しご家族に報告してください」とはその際に裁判長が原告にかけた言葉です。

 2015年4月、Bは、大津市に公文書非公開決定処分の取消を求めて提訴、大津地裁はこれを認め、20163月にBが勝訴します。しかし市は控訴、同年9月の大阪高裁で再びBが勝利します。さらに市は最高裁に上告しましたが(公文書公開問題ではまことに異例)、20172月、最高裁はこれを棄却、上告審不受理の決定を行い、大津市の処分の違法性が確定しました。

ところが市は最高裁決定を無視し、すでに公開済の文書のみ再度公開することでお茶をにごしただけ。「怪文書」や「不当要求の記録」その他の文書は「存在しない」として、またも非公開決定を行いました。Bはやむを得ず審査請求を行った後、20181月に大津市を相手どって「国家賠償請求訴訟」を提起しました。これが本件です。

この訴訟で証拠文書が次々と明らかになり、元副市長(茂呂)、元人事課長らの証人尋問も行われました。さらに2020年1月のコ氏退任後に新市長のもとで行われた内部調査の結果、歴代の関係職員から「存在しないはずの文書」があるという証言が続々と出てきました。そして「存在しないはずの文書」の写しをコ氏自身も保有し、最高裁の判決確定後にそれを廃棄するよう部下に指示していたことも明らかになりました。

大津地裁はこれを重視し、202110月についにコ氏の証人尋問が実現します。その場でコ氏は、「知らない」、「覚えていない」、「人事課がしたことなので私は関係ない」と繰り返すばかり。しかしこの裁判を通じて市が「存在しない」と主張してきた文書が「すべて存在する」ことが明らかになり、コ氏もそれを知っていたという事実が明らかになりました。

いま一度、コ氏体制下における大津市の不当行為を列挙します。
・文書が存在することを知りながら虚偽の説明を続けて非公開を繰り返したこと
刑事裁判前のコ氏からBへの不当な圧力
保有個人情報異議申立等に対する度重なる条例違反
・刑事事件の無罪確定後も審査会文書等でBを「加害者」と表記し犯罪者扱いしたこと
・201812月の京都新聞記事「大津市が職員による不当要求隠ぺいか?」に対する記者会見や議会説明の場で既に無罪が確定しているBが犯罪行為を行ったかのように説明したこと
・保有個人情報開示請求に係る決裁文書の改ざん
・最高裁で判決確定後の決定を不当に遅延させたこと
・不当な決定により審査請求の機会を奪う違法な教示をしたこと等々

 当初は大津市の主張を信用していた審査会もこうした経緯が明らかになるにつれて認識を改め、市が「保有していないと主張していた文書を実際は保有していた」事実を認定し、市が故意に隠ぺいした可能性を厳しく指摘しました。指摘どおりコ氏時代の市の行為の大半は故意によるものですが、国賠訴訟の場合は単なる過失と判定されれば損害賠償は認められません。
「故意」か「過失」か。大津地裁はどう認定するでしょうか。またコ氏が市長として総体的な指示を行ったかどうかの判断についても注目されるところです。
 
<公文書部分公開決定処分取消訴訟>

前記の通り大津市は最高裁決定を無視して公文書の隠ぺいを続けたため、Bは、20176月に審査請求を行い、20196月に審査会の答申が出されました。審査会は、市が文書を「作成、保有していない」との虚偽説明を繰り返し、裁判の中で証拠が明らかになるにつれ、「作成したが廃棄した」と主張を変えたことに対し、審査会の調査を妨害したと厳しく批判するとともに、大津市がメモと位置づけて廃棄した文書は、「本来10年保存が適当である」と指摘しました。市がウソをついたこと、公文書を廃棄したことを咎めたわけです。

 また、審査会は、市の説明どおり文書を「作成し、後に廃棄した」のが事実なら、その時期と経緯を明確に示すよう求めましたが市はこれを無視しました。本件の裁判は、市が最高裁後に行った処分、すなわち「すでに公開されている文書のみを部分公開し、他に存在する文書を非公開とした『部分公開』の決定」を取り消すこと、および、市が審査会の答申を無視して「部分公開決定」を行ったことが不当であるとし、その処分の取消しを求めたものです。

繰り返しますが「存在しないはずの文書」はコ氏がコピーを保有していたことからも明らかなように「存在していた」ことがこの訴訟で確認されています。
ここまで事実を並べてきましたが最後に私も一言いわずにいられません。法廷でも証言したとおり、これらの文書は、私も元人事課長らから説明をうけコピーを受けとり、自分でファイルして執務室で保管していました(もちろん在任中の話)。コ氏がファイルを持っていたのも当たり前です。コ氏体制下の大津市(人事課)は、裁判所、審査会、自分の身を守るため公開請求を行ったB氏、ひいてはすべての市民に対し真っ赤なウソをついたのです。これに関しては後日続けます。

さて、この訴訟「公文書部分公開決定処分取消訴訟」は、前記の「国家賠償訴訟」と深く関連するため、二つの訴訟が一体的に審理され、3月17日に判決されるものです。

 


 

2022/03/04

170)第一藝文社のこと

 これは「第一藝文社をさがして」という新刊を取り上げた記事で、3月4日に公開した後、間違って「下書き」に戻してしまいました。すぐに復元すると進行中の「公文書隠ぺいシリーズ」に割って入るので今まで待っていました。私には昔と今の滋賀に関わる大切なテーマゆえ「再公開」しますが中身は前とまったく同じです。ついでにこの間の反響を著者に尋ねると、多くの声が寄せられた中、ある若い編集者が「誠実な本」と評してくれたことが嬉しかったとの弁。映画監督をめざす俳優がこの出版社(とうに廃業)の本を探し出して読んだとも聞きました。以下が元の記事です。

 米国コロンビア大学東アジア図書館が所蔵する「マキノコレクション」の中に大津市出身の詩人・映画評論家である北川冬彦の「純粋映画記」(1936年)があり、図書館司書として勤務していた一人の日本人が書誌を作成しました。彼女は滋賀県の出身で、その本の版元が「大津市桝屋町14、第一藝文社」であることを心に留めていました。そして2015年、滋賀に住む友人に第一藝文社を知っているかと米国からメールで問い合わせたのがことの発端です。

 尋ねられた友人は滋賀の農山村女性の生活史を記録したり、市民のための図書館のあり方について発言してきた早田リツ子さん(私も親しくお付きあい頂いている方)。彼女も興味をそそられ調べ始めたものの出版社はすでになく社主の消息もつかめません。そこで草津市立図書館に問い合わせ、1週間ほどで綿密な調査記録と参考文献リストを手にします。草津の図書館はよいお仕事(レファレンスサービス)をされたと思います。

 その結果、第一藝文社は確かに大津市桝谷町、いまの大津市立図書館のあたりに確かに存在したこと、1934年(昭和9年)の創業であること、社主は真野村大字谷口(真野谷口町)出身の中塚悌治という人で後に「道祐」、「勝博」と名を変えたこと、彼が若いころ詠んだ啄木風の短歌が戦前の滋賀県歌人の歌集に収録され、晩年は「勝博」名で歌集を残したこと等が明らかとなりました。

 ふつうはここで調査終了となるでしょうが、この出版社が刊行した書籍が戦前、戦中の歴史を伝える貴重な史料であると考えた早田さんは、つとに第一藝文社に注目していた京都の古書店主山本善行氏の「関西赤貧古本道」を読んでその思いを強くし、中塚悌治の子孫を探します。そしてその子息にめぐり逢って中塚悌治の私家版自伝「思い出の記」にたどりつき、彼と北川冬彦、重森三玲、伊丹万作、今村太平、織田作之助など当時活躍した映画・文芸関係者との交流のもようを垣間見ることとなりました。

 ついで早田さんは、国会図書館を始め各地の図書館のデータ検索や自ら開拓した古書店ネットワークを活用して散逸、埋没した資料をかき集め、丹念な裏付けを行いながら第一藝文社をめぐる人々と時代をたどります。そして友人への回答レポートのつもりで書き始めた原稿の枚数がどんどん増え、ついに四六版300ページの本となって昨年末、夏葉社から刊行されました。タイトルは「第一藝文社をさがして」。以上の記事はすべてこの本から得た情報によります。

 さて、中塚悌治は120年まえ真野村に生まれた人。志をいだいて出版社を起こしましたが一般の歴史年表にのるような人物ではありません。その人を追って1冊の本を書いた早田リツ子さんも淡麗辛口の達意の文章、長年の業績ともに並はずれているものの、著作や研究を職業とする人ではありません。その意味でこの本は、在野の人のために在野の人が建てた顕彰碑です。それは冷たい石柱ではなく、中塚悌治および彼と関わりのあった人々と出来事が熱をおびてページに立ち現れます。芸術と理想、若き日の友情、小林多喜二虐殺の衝撃、召集令状、紙の配給、検閲統制、「新しき村」等々。

 私は、その人の記憶、ということを考えます。一緒に生きた者にはそれが自分自身の記憶として刻印されますが、後続の世代に向けては口伝とならざるをえません。「直接記憶」から「間接記憶」へのリレーとでもいうのでしょうか。ここに文字が介在し、各種の文献が縦横の糸をつなぐにいたって個人史は社会史の広がりを持ちます。早田さんの本は、昭和前半、日本が戦争にむけ傾斜していく中で映画を始めとする表現に携わる人々が何を感じ、どのように生きたかをリアルに伝えています。かくして私も中塚悌治の記憶を共有することとなりました。ところで彼は一時期、真野村役場の書記をしていました。大津市職員の先輩筋ということになります。 

 「大津の出版社」には私もささやかな思い出があって、十数年前のこと「ヒトラーに抗した女性たち」(マルタ・シャート)を書名に惹かれて買いました。ヒトラーの第3帝国は、社会が行き着く究極の姿のひとつを体現したといえるでしょうが、それが最も民主的とされたワイマール憲法下で芽生え、民衆の支持を得て肥大化したという事実を忘れてはならないと思います。ナチスへの抵抗として「白バラ運動」が知られていますが、そのゾフィー・ショルを含む多くの女性の勇気ある行動を記録した本です。

 私には、本の内容とともに、奥付に版元「行路社」の所在地が大津市比叡平と書かれていたことが印象に残りました。その後、たまたま山中比叡平学区自治連の会長さんと懇談する機会があり、行路社を知っていますかとお尋ねしたら、それは私の出版社ですと即答されて驚いたことがあります。行路社は近現代の思想(宗教、政治、フェミニズム、死生観など)を中心として興味深い本をいくつも出しているところ、これも大津人(おおつびと)の活躍ですから私には嬉しい話です。
 音楽の世界ではかつてレコードを駆逐したCDが今やネット配信に駆逐されつつあります。文字の世界はどうなるでしょう。紙の本がいつまでも健在であることを願わずにはいられません。

(追記)
 一晩寝て書き足したくなりました。人生は物語です。時代も国も年齢も問わず、すべての人は例外なく一冊の書物に相当する物語を生きています。こうした認識は、齢をとるほど深く私の身に迫るのです。ウクライナの人々にもロシア兵にも一人一つの物語があります。それを破いて火にくべているプーチンの物語は血で綴られています。

 戦争は絶対悪ですが、そこに至る道筋が平和であった日々と切れ目なくつながっていることは歴史にみるとおり。独裁政治では「ある日開戦」ともなりましょうが、民主主義体制のもとでは、特に初期段階において緩慢に進行するように思われます。わが国の改憲論議をそうした視点からも眺めてみる必要があると考えます。