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2022/05/28

179)天皇の戦争責任

 新聞、テレビを見ない日が続き(ネットはあまり見ず)、世間が忘れかけた頃に初めてその出来事を知って「周回遅れ」で驚いたり怒ったりしています。ウクライナ政府が公式ツイッターの動画にヒトラー、ムソリーニ、昭和天皇の写真をセットで掲載し、日本政府の抗議をうけて引っ込めたというニュースもつい先日知りました。今さらですが感想を述べたいと思います(ウクライナのツイッターは見ずじまいです)。

 政府は外交をつかさどり各国に大使館をおいてオモテ・ウラの事情を探っていますから、欧米諸国が「ヒトラー、ムソリーニ、ヒロヒト」を先の大戦における枢軸国の「戦犯代表」と見なしていることなど先刻承知のはずです。ウクライナはこの国際常識に基づいて悪意なく写真を掲載したのでしょう(その節は日本国民も大変でしたね、ぐらいの気持ちで)。これに対しドイツ、イタリアは黙って見過ごし日本政府だけが嚙みついた。ウクライナは支援を受ける立場ですからあっさり撤回しましたが、内心はウソも方便と思ったことでしょう。

 私は既に「死に体」となっていた日本に原爆を落としたトルーマンも極悪非道の大戦犯であると考えますが、何と言ってもアメリカは戦勝国の筆頭です。国連の秩序も第2次大戦の勝ち負けを恒久化するべく維持されてきたやに見受けます。戦敗国(この烙印は長く消えません)を代表する3人の「セット写真」が海外の公的機関から流されたことに対し、国際社会の現実として冷静に受け止めるのが国家としてあるべき反応です。色めき立って騒ぐばかりが愛国ではありません。そんな気概があるなら米国に対してそれをぶちまけ、へつらい外交から半歩でも脱却すべしと思うのです。

 政府が「セット写真」で怒ったのは国内世論を意識してのことでしょうが、その背景に天皇の戦争責任という積年の店晒しの問題があり、ケリをつけず放置しているから事あるたびによみがります。いつも書くように、個人と社会との幸福な関係を展望するうえで私は「公」に関心があり、天皇制という制度についても同じ視点で見ています。そしてそれが柔らかく人々を束ねているという側面に注目します。ファシズムはファッショからきており原意は「束」であるとか。これから素麺のおいしい季節ですが、あの細い乾麺の一把が薄い紙の帯一枚で見事に束ねられているのを目にするたびに「ファッショ」という言葉を想起します。私は素麺は大好きですが一まとめに束ねられるのはいただけません。そして戦時中は「柔らかい束ね方」ではありませんでした。国民が無謀な戦いに総動員され、自国民にも他国民にも多大な惨禍を及ぼしました。このことについて昭和天皇は重い責任を負っています。

 「セット写真」に関して、朝日新聞が例のごとく複数の有識者の意見を羅列のみしています(5月24日「耕論」)。この中で社会学者の橋爪大三郎は「昭和天皇には法的責任も政治的責任もない。主たる理由は当時の憲法が天皇を責任を問われない存在として規定していたからだ」と述べていますが、これは国内は別としてもウクライナはじめ外国には通じない理屈でしょう。一方で彼は、ナチスの超国家主義と大日本帝国の大東亜共栄圏のイデオロギーの類似性にふれ、第三国からは「同一ではないにせよ同質に見える」と用心深く指摘しています。

 哲学者の高橋哲哉は、天皇が帝国憲法により「統治権の総覧者」であると規定され、また大元帥として全軍の最高司令官であったという事実に注意を促しますが、かといって橋爪と異なる見解を示すこともなく、戦争に関する記憶がいよいよ薄れてきたという感想を述べるにとどまっています。敗戦直後には南原繁東大総長が昭和天皇の「道徳的責任」にふれて退位を求めたという昔話を付け足していますが。

 橋爪、高橋に共通するのは、日本人は、昭和天皇の戦争責任について極東軍事裁判(米国の政治的思惑)に全面的に判断をゆだね、自力で考えようとしなかったという指摘です。しからば学者として自力で考えてきたはずのあなたの意見はどうなのかと問いたいところですが、そこは二人とも踏み込んで語っていません。

 三人目の論客、米国の歴史学者キャロル・グラックは、戦争中、白馬にまたがった軍装の昭和天皇のイメージが日本政府から発信され、国家の最高指導者として広く世界に知られていたと述べています。これはヒトラー、ムソリーニと並び立つ存在(3人セット)であることを意味しますが彼女はそこに触れず、代わりに昭和天皇が戦後は何十年もの間、「平和国家の象徴」であったと指摘します。さらに平成天皇の「戦争記憶の大使としての行動」もあいまって「一般の日本人の戦争に対する意識はだいぶ変化してきている」として、今回の政府の反応により「日本人のせっかくの変化が世界に届かず、日本も(プーチンらのように)歴史を書き変えようとしているとの誤解」を与えかねないことが残念であると結んでいます。この人は米国における日本近現代史研究の第一人者であると朝日新聞は紹介していますが、なにやら「上から目線」を感じるのは私の根性が曲がっているせいでしょうか。

 3人とも核心をさけ周辺事情の解説に終わっていますが、それにも関わらず共通して見えてくるのが「天皇の戦争責任について当の日本人が正面から考えようとしてこなかった」ことに対する直接、間接の言及です。さらにキャロル・グラックは戦後における天皇の平和を象徴する行動が日本人の歴史認識によい影響を及ぼしているという趣旨の発言をしていますが、私はこの意見に注意をひかれました。「象徴天皇」であるから当然だと思う人もいるでしょうが、私は、先の戦争を世界近現代史のなかに位置づけて自前で評価しようとしていない(天皇の戦争責任を含めて)日本人に対する当てこすりであると受け止めました。

 ウクライナが「お世話になってありがとう」と列挙した国々のなかに日本の名前が入っていないと政府が抗議したという話もありました。それが何かのメッセージかどうかについて非公式にウクライナ政府関係者に尋ねてみるくらいのことはアリかも知れませんが、正面切って抗議したのは大変みっともない話です。国交も人付き合いも根本は同じで大人の度量と洒脱さが求められますが、外国との関りにおいて「さすが日本!」と思ったためしがありません。日本の個人はいざ知らず、何かと格好の悪い日本政府です。





 

自力で考えようと人もあるでしょうが、どこまでも自力で考えようとしない日本人であることよ、

 

 


2022/05/22

178)思うこと二つ

 瀬田唐橋、大津事件と昔話が続いたので次回は多少なりとも系統だてて「公」を論じようと勉強しかけた4月半ば、妻の母(95才)が心不全で倒れて入院し、5月初めに退院したものの一人暮らしはもう無理でそのまま我が家に同居することとなりました。幸い介護や看護の訪問サービスを受けることができ大助かりですが私も毎日付ききり状態。3週間すぎて何とか生活が回り出し、ようやくパソコンに向かっています。

 以前に私は、駅前広場でハンドマイクを持ち通りゆく人に語りかけるような気持ちで「大津通信」を綴ると書きました。メインテーマも「私」ではなく「公」です。こうしたことからブログ上でなるべく私事を遠ざけてきました。しかし、昨年はわが身より大切なひとを喪って私の人生もいったん終了したと痛感しました。そのことに触れずに記事を書くことは出来ません。そこで思案のうえ個人的な事情を明らかにしつつブログを再開した経過があります。

 しかし考えてみればブログをご覧くださるほとんどの方々は私をよくご存じであり、私的独白もたまに許されるかもしれない。また、私の記事は公務員という私的体験に多く基づいていますから公私の切り分けがそもそも難しい。これからは公的サービスの「受け手」という私的立場から「公」の一側面が見えてくるかもしれない。とすれば多少の「公私混同」はアリかな、、、と一人合点して今回は母のことを持ち出し一時休止の事情説明とさせて頂いた次第です。

 いま思っていることを二つ書きます。
 まず「人生を振り返る」ということについて。
 人の一生を春夏秋冬の四季になぞらえるのは類型的ながら、時間の経過とともに変化する活力や熱量のカーブを思い描くと頷ける見立てです。雪の夜、暖炉の前の安楽イスに身を沈めて遠い夏の日々を懐かしむ。人生の終盤にはそんなシーンもありましょう。過ぎさった時間の密度と長さの積(ボリューム)と残された時間のボリュームのあまりに大きな落差。これが老境の人をして人生を「振り返らせる」のではないでしょうか。年寄りの昔話のゆえんです。

 広い世間にはヨットの堀江謙一さんのような敬服すべき例外もありますが、実は彼も一般の人と同じく、いやそれ以上に「振り返らされている」のではないか。堀江さんは24才で太平洋単独無寄港横断という圧倒的な「ボリューム」を達成しました。しかし、いくら何でも青年が早々と安楽イスに座るわけにはいかない。彼は背後の大きすぎる「重心」に抗するため前方に新たな冒険という重りをぶら下げてバランスをとり、それを何度も付け足して今日まで現役であり続けてきた。その動機は「振り返り」である、という解釈です(憶測です)。

 私自身も圧倒的な時間の集積が背後にあり、今は振り返ってばかりの日々です。また多くの方が同感されると思いますが、近しい人と長年ともに暮らすことは二人そろってタイムカプセルに入っているようなもの、相対速度がゼロゆえ互いに年を取ることがありません。ところが人生後半でカプセルが壊れると玉手箱を開けたように突然老いを感じざるを得なくなります。それが身体にまで現れるので近ごろ病院通いを始めましたが、わが家には安楽イスがありませんからもう少し頑張らなければなりません。ともあれ、こうした懐旧マインドもあり前回は昔話を書くこととなりました。

 もう一つは、5月からお世話になっている看護師、介護士さんたちのお仕事ぶりについて。1日に2~3回、若い女性たち(10人余の方が曜日と時間帯により分担)が我が家に来られ、耳の遠い母に明るく大きな声で話しかけながら要領よく様々なケア(健康チェック、着替え、全身の清潔を保つための様々な手当て)をしてくれます。その中には家族である私が容易に行えない世話が含まれています。それがプロだと言ってしまえばそれまでですが、自らの手で他人の肌にふれて働きかけるサービスの直接性、身体性の強さを見て、私は「かなわないなあ」とたじろぎつつ感謝するのが常です。そこに言葉をこえる力を感じます。

 その彼女たちが帰り際、例外なくにこやかに「ありがとうございました」と母に声をかけてくれます。それは「利用客への儀礼的な挨拶」以上の意味を含んでおり、行為者と受容者の緊密な関係によって成り立つ「介護」という時間を共にした相手に対する「ねぎらい」ではないかと私は考えます。介護サービスを必要とする理由は人それぞれですから一概に言えませんが、たとえば母のようにある日を境として全面的な身体介護を受けるに至った場合、その心中は察するに余りあります。 ~ 今日は嫌なこともよく頑張りましたね。そのおかげであなたの心身の状況は改善されたし私のミッションも果たせました。どうもお疲れさまでした~  このように彼女らは語りかけています。これは提供されるサービスの特質を物語るものでもあります。もちろん母も私も感謝の言葉しかありません。

 病気と闘っている辺見庸は、長生きして書き続けてほしいと私が最も強く願う作家ですが、彼自身の透徹な「被介護」体験記や、彼の友人らが身をもって体験している肉親介護の深い闇のエピソードを想起すると上記の私の述懐は介護初心者の公式論に過ぎないかもしれません。   
 肉親介護の「闇の深さ」は、誰しもある程度は想像がつきます。また、介護保険の理念である「介護の社会化」には当然ながら常に可能性と限界が併存しています。「集団」に支えられる「個」のあり方、そうした場における「個」の尊厳といった実存的テーマもあります。ここにも「公」の問題が横たわっていると感じますが、ともあれ今の私は試行錯誤と感謝の日々であります。

 それにつけても大津市保健所の皆さん、あんしん・すこやか相談所の皆さんはどうしているかと思います。私は事務職でしたが現場で働く人々の職務の直接性に敬意を払ってきました。いま私もそうした支援を受け(自治体は違うけれど)、健康保険部で一緒に仕事をした頃を「振り返って」います。保健所に限らず人のために行う職務は相手の心に響き、その暮らしを助けます。コロナその他で大変でしょうが「現役が花」ですぞ。どうか元気に機嫌よくお仕事をされますよう。いつもながらOB職員の手前勝手なエールをお笑いください。