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2022/07/29

184)原発事故 3(地裁判決)

 東電旧経営陣、勝俣・清水・武藤・武黒の4名は13兆円を賠償せよ。株主訴訟の東京地裁判決(7月13日、朝倉佳秀裁判長)はもっとも至極の一語につきます。判決から日にちが過ぎて後味はなお爽やか。原発が国民の命と暮らしを「いかに損なわないか」との観点から社会的公正の範が示されましたが、そのこと以上に私は、客観的な事実にもとづき常識的な判断が下されたという「当たり前のこと」に安堵しました。魚は頭から腐るとやら。司法、行政、経済界等々、国の中枢に近づくほど現今の体制になびいてわが身と係累の安泰を図るのが世の習いですが、少なくとも当該法廷は「まだ大丈夫」のようです。

 それにしても最高裁と東京地裁で何故かくも判断が異なるのか。原告、被告、訴えの利益は異なるものの、問われていることの核心は「国の地震予測の信頼性」と「それに基づく浸水対策の責務」です。すでに述べたので繰り返しませんが、これらは福島第一原発事故のずっと以前から今日に至るまで「事実のレベルの問題」であり、「想定外」とか「当時の趨勢」などという言い訳が入り込む余地がありません。この基礎的事実認識をめぐって法廷ごとに評価が「異なりすぎる」ことに不信感がぬぐえません。

 裁判官(特に裁判長)は、訴訟を担当するにあたってまず判例を調べる一方、有力な関係者を指おりかぞえ、世間の風向きも予測しつつ「判決の方向性」を早い段階で決めるのでしょう。何と言ってもその方がラクだし出世にもプラスです。後はその方向性に沿って事実認定や論理構成を行う。つまり「結論ありきの筋書きのあるドラマ」です。したがって結論が異なれば事実認識も異なるのは当然、丸い地球を平らだと認めることもありえます。これはあくまで素人の憶測ですが、一つの事実に二つの相反する解釈がなされることについて私は他の理由を思いつきません。原発に限らず基地、薬害、公害など政府が無関係ではいられない訴訟においてこうしたバイアスが働くことは容易に想像できます。「公」をむしばむ者は「公」の内部に存在します。

 それはさておき、東京地裁判決はまず「原発事故が起きれば国土の広範な地域、国民全体に甚大な被害を及ぼし、わが国の崩壊にもつながりかねない」との基本認識を示しました。まったくその通りです。もしこれが水力・火力発電所の事故や化学工場の爆発、ジャンボ機の墜落、新幹線の脱線転覆、高速道路の落橋などであったとしましょう。すべて重大、悲惨な結果をもたらすにしても「わが国の崩壊につながる」ことは決してありません。その差は言うまでもなく「放射性物質」の有無であり、これこそ「原発の唯一無二の災厄性」です。かりに事故が起きなかったとしても(これこそ想定外ですが)、増え続ける使用済み燃料など核のゴミは何万年にもわたって子々孫々を苦しめます。

 東京地裁は上記のとおり「原発事故は国の崩壊をもたらしかねない」との趣旨を述べた後、「原子力事業者には最新の知見に基づき、万が一にも事故を防止すべき社会的・公益的義務がある」と断じました。これまたその通りですが、そこまで大きなリスクのある原発事業を一民間企業に行わせておいていいのかという根本的な疑問が生じます。現に東電は1998年、当時の社長が株主配当を増やすために「兜町を見て経営する」方針を打ち出し、電力自由化の競争に負けまいと経費削減に邁進してきました。

 皮肉ながら株主の利益を最優先に掲げた東電経営陣は(少なくとも短期的に)正しいと言わざるを得ません。それが株式会社という制度であり、「株式発行総額を超える企業責任を問われない」との仮定により事業が成り立っています。ゆえにこのような「有限責任」しか負わない企業に「無限責任」を伴う事業を行わせることは最初から誤りです(この趣旨は内田樹の意見を下敷きにして以前にも書きました。ちなみに彼の天皇論にはおおいに異論があり、いずれ書きたいと思います)。しからば原発を(存続を前提にして)国営にすべしとは言いませんが、どのような主体が事業を行うのであれ国には連帯責任以上の責任があるはずです。

 さて、13兆円は裕福であろう勝俣らにも大金ですが、支払えなかったらどうなるのでしょうか。服役させても肉体労働の経験のない老人4人では使い物にならず出費の方が多いはず。多額の損害賠償を受ける東電サイドが今度は「有限責任」の被害者となるわけです。仮に1億円でも回収できれば、雀の涙でも東電から被害者に弁済すべきところですが、すでに多額の税金を東電に投入している国が割って入るかもしれません。国にはその金を東電と連帯して補償に回せと言いたいところです。

 この裁判は最高裁まで行くでしょうが、最高裁が原発事故に関する国の責任をあくまで認めない(東電の責任のみを認める)という方針を維持するなら、原判決を支持するかも知れません。ならば東京地裁の判決の基礎となった「国を損ない得るほどの原発の巨大なリスク」についても正面から論じてほしいところです。むなしい願いかもしれませんが今後の経過を注目したいと思います。
 本論の「なぜ国は原発をやめないのか」は次回にいたします。だらだら、のびのびをご容赦ください。時間がかかっても書いていこうと思います。





 

2022/07/09

183)原発事故 2(原発との「出会い」)

 メインテーマの「公(おおやけ)論」は歩みが遅く未だに周辺を手さぐりしている状況ですが、この「公」とは、若い人や生まれてくる人によりよい形で私たちの社会を引き継いでいくための手順であり思想でもあるということができます。そして「未来へのバトンタッチ」という観点からも、私は「原発」を容認することはできません。その理由について少し遠回りしつつ順をおって書きたいと思います。

 そのむかし自宅の本棚にほこりをかぶった原爆の記録集があり、粒子の粗いモノクロの被害写真(人や町の惨状)をみて子供心に放射能と熱線は恐ろしいと感じたことを、いま思い出しました。学生時代には岩波新書の「原水爆実験」(武谷三男)を読んで、当時さかんに言われた「原子力の平和利用」における「閾(しきい)値」の概念を知りました。放射線被爆の「許容量」とは安全基準ではなく、利益・不利益を比較考量した「がまん量」であるという指摘です。一つは「戦争」、いま一つは「平時」における「核」の話ですが、世の中に災厄しかもたらさないという点において「原発」は「原爆」と変わるところがありません。

 私たちは1977年に結婚しましたが、その2年後にスリーマイル島の炉心溶融(レベル5)が、9年後にチェルノブイリの爆発(レベル7)が起こり、2つの事故の間に2人の子どもを授かりました。そうなると力こぶの入っている新米の親として気にかかるのは環境中の放射性物質であり国内の原発事情です。妻は「まず正しく知ろう」と本を読みはじめ(当時はネットなる便利安直なものはなし)、私が二、三歩遅れて追随し、やがて私たちの周囲に「動き」が生じました。

 こまかい経緯は忘れましたが久米三四郎さんや高木仁三郎さんに連絡がつき、久米さんは大津での学習会(平野市民センター)にお越しくださり、高木さんからは原子力資料情報室についてお話を伺う機会を得ました。ご近所の方たち(今でいう「ママ友」)と共に、米国のビキニ環礁での水爆実験の灰を浴びて亡くなった少年「レコジ」を主人公とする紙芝居を制作したのもこの頃だったと記憶します。学習会や署名活動は二人で取り組みました。やがて妻は小出裕章さんの知遇を得て京大原子炉実験所の研究者(熊取六人衆)の市民講座に足を運ぶようになり、私も五、六歩遅れて追随しました。

 金時鐘さんとも親しかった弁護士の藤田一良さんは、小出さんの依頼をうけ伊方原発訴訟の原告団長となり、国の安全審査の責任を鋭く追及しましたが、下世話には「とても金にならない弁護」です。ある日突然に事務所を訪ねてきた小出さんとの運命的な出会いを、まるでモーツァルトにレクイエムの作曲を依頼した「地獄からの使者」のようだったと一流のユーモアを交えて語っておられたことが思い出されます。この我が国初の「原発訴訟」は最高裁まで争われて住民側が敗訴しましたが、「3.11」以降、伊方原発で複数の運転差し止め訴訟が提起されています。

 金時鐘さんの御坊市の別荘は、関電の御坊発電所(人工島)に使用済み核燃料の中間貯蔵施設を建設する計画が持ち上がった時、反対派住民の拠点となった建物です。様々な交渉のあげく漁協も受入れ止むなしの腹を固めたその朝、何年も不漁であったイワシの大群が海をうめつくして地元は建設反対でまとまり、計画は白紙撤回されました。これは時がたって金さんから伺った話、私たち夫婦がよく泊りがけで遊びにいった別荘も今はありません。別荘から急坂を2分登れば「魚見台」に到達します。ここで一杯やりつつ時鐘さんご夫妻と沈む夕陽を何度も送ったことを忘れません。

 いけない、思い出話を始めると止まりません。ここで言い添えておきたいのですが妻はいわゆる活動家とは正反対のタイプで、礼節とユーモアはたっぷりあるけれど大変控えめな人間でした。しかしどういう訳か「人と出会う運」に恵まれ、さして多くはないけれど素晴らしい人とごく自然に知り合って心を通わせることができました。妻に比して多弁で外交的な私ですが彼女の真似はとうていできず、もっぱらそのお福分けに預かることで多少は己が人生を豊かになしえました。人としての芯の部分で彼女は私にないものを有していました。

 また、世間的に知られた人の名をいくつかあげたのは自慢ではなく、著名、多忙な科学者たちが無名の一市民の依頼に誠実に応えてくれた事実を記したかったまでです。それは、原発に対する誤りのない認識を世に広めるためには手間暇おしまないという科学者の良心の発露でもあったと思います。その爪のアカを煎じて、国に責任はないとした最高裁の3人の裁判官に飲ませてやりたいところです。

 こうしてふりかえると良くも悪くも「原発について考えること」が私たちの人生の一つの要素となっていた気がしますが、だからといって感情的に反原発を唱えるものではありません。理の当然としての原発廃止。いよいよ本論に入るところで力がつきました。駄文を弄しているだけなのですが時間ばかり過ぎます。

 明日は投票日ですが、「原発をどのように評価するか」は、私たちが政治家の合理的、理性的、公平公正な判断能力を判定するうえで有効な問いかけです。政党でいうと自公維新国民民主は完全にアウトでしょう。折からEU(欧州連合)は7月6日、原発は地球温暖化対策に役立つ「グリーン」なエネルギー源だという見解を示しました。こうした動きもひっくるめて、考える時間と空間が狭いと言わざるをえません。このような「今だけ、ここだけ、自分だけ」という物の見方は「公」に反するものであり、子孫を裏切るものです。
 憲法、経済、社会保障、外交等々争点はいくつもありますが、原発がリトマス試験紙であることは間違いありません。次回は国がウソをついてまで原発を進める理由について書くつもりです。

 一晩寝て追記します。
 安倍氏襲撃をめぐって、言論の封殺だ、民主主義への挑戦だ、暴力に抵抗を、戦前に回帰させてはならない等とマスコミも「識者」も「まちの人々」も口をそろえています。これは確かに許しがたい蛮行ですが、容疑者は、ある宗教団体に個人的な恨みがあって報復しようと思ったが近づくことができず、団体と関わりの深い安倍氏を狙ったと説明しているようです。
 もしそのとおりなら、これは政治・社会的な主義主張とは関係ない私怨にもとづく犯行であり、しかも安倍氏は教団代表者の身代わりとされたことになります。世間の受け止め方は見当違いもいいところです。なぜみんな、かくも素早く、かくも一斉に、たった一つの色に染まるのでしょうか。
 長く続いた安倍政権下でさまざまな出来事がありました。言論や民主主義という観点から問題ありと批判されていたのは他ならぬ安倍氏ではありませんか。それがいまや一転して礼賛の嵐です。私も惜別の情を十分に理解する人間ですが、ここで一つの声しか聞こえないことに違和感を禁じ得ません。こうしたムードは一票の行方にも影響するでしょう。
 あれやこれやを考えると、民主主義を内側から蚕食しているのは、むしろ私たち自身ではないのかという気がしてきます。




2022/07/03

182)原発事故(最高裁判決)

 原子力発電は子々孫々にわたる禍根である、いやそれどころか、子々孫々までこの社会を引き継ぐことを危うくする危険物であると私は思っています。正確には「思う」というより、地球が丸いのと同じくシンプルな客観的事実であると認識しています。それゆえ、「原発推進政策」をあえて選択し、科学的な知見にもとづく懸念や批判を封じ、力と金にまかせてこれを進めてきた国は、原発に関する最大、最悪の責任者に他なりません。しかし、あろうことか最高裁は「国に責任はない」と判断しました。司法は国民ではなく政府の顔色を見ていることが明らかです。今後文科省は「三権分立」を説く社会の教科書を「事実認識に誤りがある」として不採択にするべきです。

 福島第一原発は津波対策の不備により大爆発し、国土の一部を損ない住民の命と故郷を奪いました。東京電力は重い腰をあげ賠償に応じかけていますが、なんといっても原発は「国策民営」であり安全を担保する「監督・規制庁」としての責務も重大です。そこで被害者は国に対して損害賠償を求めましたが、最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)は6月17日、国の責任を認めない判決を言い渡しました。私なりに要約すると「津波があまりに大きかったので、もし国が防潮堤を高くするよう指導し、東電がこれに従っていたと仮定しても同様の爆発事故が起きたはずである。つまり国が指導しても『爆発』、指導せずとも『爆発』、どのみち結果は同じ『爆発』だから国の責任はない!」という驚きの理屈です。

 事実をふりかえりましょう。事故当時の福島第一原発の防潮堤はわずか「5.7m」の津波を想定したものでしたが、実際の津波は「14~15m」で原発(1号機~4号機)は敷地ごと水没しました。その結果、電源が失われて原子炉はメルトダウン、建屋にたまった水素が爆発して史上最悪の事故となりました。いわゆる「想定外の地震と津波」ですが本当にそうであったのか。国は2002年(大震災の9年前)、「福島県沖をふくむ太平洋側の日本海溝沿いにマグニチュード8級の地震が30年以内に20%程度の確率で発生する」という長期予測を公表しています。これに基づき東電は2008年に、最大で「10.2m」(陸地を駆け上って到達する最高点である「遡上高」は「15.7m」)の津波がくると試算したものの実際には工事を行いませんでした。

 最高裁は、この東電の津波予測を「合理性を有する」と指摘し、国が対策を命じれば「試算された津波に対応する防潮堤が設置されたと考えられる」と認めました。しかし現実に発生した津波は「はるかに大規模」であったため、仮に防潮堤を設置させていても「海水の進入は防げず、実際の事故と同じ事故が起きた可能性が相当にある」と判断しました。つまり最高裁は、「14~15m」の津波が「5.7m」の防潮堤(現実のもの)を乗り越えた場合と「10.2m」の防潮堤(仮定のもの)を乗り越えた場合の「巨大な水塊の上陸後の挙動」がほぼ同一であるとさしたる根拠もなく推測しているわけです。
 一方、この2つの場合における「水塊の量とエネルギー」には無視できない差異が生ずるという見方も当然に成り立ちますから、これこそ専門知を集め、「富岳」を駆使して検証するべき事案です。最高裁は重大な判断を行うにあたって当然の手続き省きました。もし「国の責任あり」という逆の判決を下すのであれば最高裁の姿勢は必ず違っていたはずで、まさに馴れ合いの構図です。

 また仮に、福島原発を襲った津波が国の長期予測に基づく東電の試算どおり「10.2m」であったとしましょう。国がこれに対応する防潮堤の設置を命じていたら防潮堤は所期の目的を果たして原発を水没から守り、爆発を回避しえたでしょう。この場合において国の対策命令は「爆発」と「爆発回避」という2つの運命を左右したことになります。ところが実際には「5.7m」の防潮堤しかありませんから、「10.2m」の津波はやはり敷地を水没させ爆発事故を起こした可能性が大いにあります。今回の最高裁の理屈に従えば、この場合は「国に責任あり」という結論になります。現実には津波が「10.2m」を越えていたため国は免責されました。すなわち小さな津波では国に責任があり、大きな津波では国に責任はない。これは「危険度の高い災害ほど国は責任を問われない」というに等しく、国民の生命財産を守るという国の基本的責務に反する論理です。

 ここでまた「想定外」という言葉が浮上してきます。不可抗力ゆえ関係者は誰一人お咎めなしの免罪符です。しかし、そもそも「地震大国」日本の中でも東北沿岸は「津波の常襲地」と言われてきました。貞観地震(869年)では津波が内陸3~4キロまで達しており、明治三陸地震(1896年)では津波の遡上高が38.2mであったと報告されています。どちらの地震でも海岸沿いの原発は完全に水没したはず。2度あることは3度あるし、過去になくても何事にも1度目があります。そこで国も「長期予測」の試みを続けてきました。確かに2011年の津波は恐ろしい規模でしたが、とりわけ原発の安全運転を目ざす上でこれを「想定外」と呼ぶべきでしょうか。

 逆に言えば「想定内」なら事故は起こらないはず。もし本気で安全を追及するなら「想定外」にこそ備えるべきであり、不断の努力で「想定外」を「想定内」に取り込まなくてはなりません。そのうえで「想定外」と胸をはって(?)言えるのは隕石の直撃くらいしかありません。そして、それですら原発をやめる理由の一つになると私は考えています。「想定外」と「安全神話」は歴代政権が電力会社やゼネコンと結託し国民を欺くためにでっち上げた二題話であり、やすやすとこれに騙される国民は底抜けのお人好しです。以前、日本人は御しやすいと外国の友人から言われて無念な思いをしましたが、指摘自体は当たっています。

 「自分は騙されていた」という人のうちに小泉純一郎元首相がいます。あなたは騙す側の人間でしょうと尋ねたいところですが、彼によれば、「この数十年、原発推進は日本の国策であり続けてきた。研究者やジャーナリスト、市民団体などから疑問の声が投げかけられていたが、時々の政権は原発が国全体の利益になると考え、それを支持し続けてきた。2001年から2006年まで総理大臣を務めた自分自身も例外ではなかった。日本の原発は安全だという推進派の説明を信じ、原発推進は正しいと思い込んでいた。いまから振り返ればそんな自分に強い憤りを感じる。勉強不足のせいで騙されていたことが残念でならない。その憤りと悔しさが、原発ゼロを訴える私の原動力になっている」のだそうです(著作「原発ゼロ、やればできる」より)。

 おそらく小泉氏は本音を語っているのでしょうが、私は、彼が「騙されていた」ことに二つの感想をもちます。一つは、やすやすと騙される「政治家としての知性の低さ」あるいは「思考回路の単純さ」です。彼は反対意見があることを十分承知した上で経産省役人や一部研究者の説明を鵜吞みにしました。きわめて重大な判断を行うにあたって一方の意見しか聞かないというのは、まことに無責任な態度であり、権力者が「聞きたい意見しか聞かない」という例証でもあります。
 しかし小泉氏が総理のイスに座るまでの長い「政治家生活」の中で、原発という社会の重要な課題について、しがらみにとらわれずに自由に考える機会はいくらでもあったはずです。彼はそれをせず、イスに座ってからは「正規ルート」で流れてくる報告、説明にうなづくだけでした。こうした姿勢は、知性と倫理の欠如による職務怠慢であると私は思います。その後の総理も似たようなものでしょう。

 もう一つは、小泉氏の改心の軽さです。
「総理をやめフリーになってようやく気づいたが、原発はめちゃくちゃ危険なものだった。福島の事故が何よりの証拠だ。その後しばらく原発がすべて止まったが日本の国は問題なく回った。原発は必要悪ではなく不要悪だ。然らばさっさと止めるべし。」彼の論旨はこのようなもので、私もそれに異論はありません。しかし、そんなに簡単に気づいて180度判断を変えるくらいなら、それまで一体何をやっていたんだと私は言いたくなります。彼は著作の中で「あやまちを改むるに憚ることなかれ」と開き直っていますが、あまりに軽い。一国の政策がこのような軽いノリで決められていたのかと思うと不快です。こうしたことの背景には、政府、経産省を始めとする各省庁、自民党、公明党などが共有する原発推進の空気があったのでしょう。まさに「国策のバイアス」であり、それは今日さらに強化されていることでしょう。こうした中、小泉氏には彼ならではの立場で活躍いただきたいと思います。

 本題に戻ります。最高裁の判決でただ一人反対意見を述べたのは三浦守裁判官で、その意見はまことに正論であると思います。彼は、国の規制権限は原発事故が万が一にも起こらないようにするため行使されるべきものと強調し、信頼性が担保された長期評価をもとに事故は予見でき、浸水対策も講じていれば事故は防げた、国は東電と連帯して賠償義務を負うべきであると主張しました。これこそ「理の当然」です。こうした裁判官が一人でもいたことに多少は救われる思いです。しかし、この真っ当な少数意見の「最高裁にとっての意義」は、判決を不服とする世論に一定のカタルシスを与えつつ、「4人の裁判官が誰に忖度することもなく様々な観点から自由に議論を尽くした結果、やはり国に責任はないと判断するに至った」ことの証拠となりうるものです。うがった見方をすれば「4人のチームプレーの一環」です。三浦裁判官は信念と決意をもって正論を述べられましたが、最高裁は「国あってこその司法である」と思っているかもしれません。

 今度の参院選で、自民、維新、国民民主などは原発推進を明確に打ち出しています。彼らがかつての小泉氏のように不勉強なのか、どのみち自分は責任を問われないから原発の危険性を承知で目先の票を取りに行くのか、いずれにせよ許しがたい国民への背信です。ウクライナの便乗軍拡もしかり。政治家の無責任、無知性、無倫理を多少なりとも正しうる機会が迫っています。投票に行きましょう。
 今回はここで終ります。国がなぜここまで原発に固執するのかという理由については次回に述べたいと思います。











 



 

地震は繰り返すものと分かっており、



  
 





 


土を損ない住民の命と故郷を奪った福島第一原発事故で被害を受けた6月17日、最高裁は