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2022/11/28

194)ケアをめぐって 7(個人的なこと)

 これが初めてではありませんが今回はきわめて個人的な内容にわたります。背伸びをして「公」の看板を上げているとはいえ所詮は個人のブログ、こんな「お断り」は大げさかもしれません。しかし、不特定多数の人が共有するネット空間に私ごとき者の「私事」をのせることにいつも気がひけます。「公私入り乱れる」ところがインターネットの可能性であり力でもあるわけですから、私の感覚はまことに古臭いという自覚もあるのですが。

 11月18日に私のところで療養していた96才の母(前の記事に書きました)が亡くなりました。穏やかに自分を貫いて安らかにその時を迎えました。私はそのように出来るだろうかと自問せざるをえません。居間から母のベッドがなくなり、少なくとも日に3回あった看護師・ヘルパーさんの訪問もなくなって飼いネコが所在なさそうに身を寄せてきます。

 今日(11月28日)は妻の一年で、遠方に住む息子夫婦が1才になったばかりの娘とともにやってきました。親しい友人、長年の知人、私の昔の仕事仲間からも、きれいなお花や心のこもったメッセージをいただきました。珠玉の言葉をブログに綴り悼んでくれた人もあります。何年も行き来していない人からの手紙もありました。こうした方々の中に妻の記憶が分け持たれていることを心からありがたく思います。私には「飲み過ぎないよう」との言葉も頂きました。
 この一年、蟻が目の前の砂粒や落ち葉だけを見て歩くように暮らしてきましたが、同時に、私が長年ずっと守ってきたつもりの妻から、それ以上に大きく包まれてきたのだということを痛覚をともなって何度も思い返しました。

 先ごろ記憶に残る追悼文を読みました。人の死を惜しむという人の心を過不足なく表した文章で、精神科医の斎藤環氏がおなじく精神科医である中井久夫氏に捧げた「義と歓待の精神 理想のケア」(朝日新聞)と題された名文です。そこには斎藤氏が中井氏に寄せる深い敬慕の念が示されており、同時に中井氏の精神科の臨床医・研究者としての仕事のみならず、語学の才をいかしたヴァレリー、カヴァフィスの詩の翻訳、『いじめの政治学』や『「昭和」を送る』などのエッセイ等々、中井氏の業績が限られた文字数に圧縮され紹介されています。

 私は、追悼する人、される人の双方を知りませんでしたが、すぐに中井氏のエッセイ集を読みました。同氏が、阪神淡路大震災の「こころのケアセンター」所長として活動したことも知りました。「思想と実践 常に立場の弱い人の側に」という斎藤氏の追悼文の副題のとおりの人であったことも分かりました。このような優れた人がいたということを知っただけでも良かったと思える人です。ついで斎藤氏の情報をネットで検索しましたが、この人も「並みのお医者さま」ではないと知りました。

 斎藤氏の追悼文から数か所を抜粋します。
 『先生(中井氏のこと)は「歓待」の人でもあった。患者と出会い、深い相互作用を試みながら、自らも影響を受けて変容してしまう。困難な患者の治療後にひどく疲弊してしまい、マッサージを受けたらマッサージ師も病んでしまった、というエピソードが印象的だ。』

 『翻訳も同様で、サリヴァンの翻訳に関しては、伝記を読んで彼が講演した講堂の情景を思い浮かべつつ訳し、翻訳が終わったときには自身の文体まで変わっていたという。人であれ文であれ、様々な対象と相互浸透し影響されてしまうその姿勢には、他者への深い「歓待」があった。』

 『精神科医としての私は、中井先生の遺志を継承していきたいと考えているが、あたかも「不世出の天才精神科医」として神棚に祀るようなことはすまいとも考えている。いつも平場で患者さんと対話していた中井先生の、あの「途方もない義と歓待の精神」は、私が理想とする「治療」ならぬ「ケア」の姿でもある。』

 私も中井氏の著作をいくつか読み感銘を受けましたが、何か書こうとしても斎藤氏をなぞるだけなのでここに引用させてもらいました(「義」に関わるところは割愛しました)。

 これまで数回にわたり「ケア」について考えてきました。今回は「まとめ」を書くつもりが横道にそれました。すこし戻って、先に「時に癒し、しばしば苦痛を和らげ、常に慰める」というアンブロワーズ・パレの言葉を紹介しました。「慰める」という言葉が単なる慰藉にとどまるものではないだろうとも書きました。この言葉は、医師の役割を示す言葉であると同時に「人の在り方」を現した言葉でもあります。中井久夫氏は、この言葉を体現する医師であり人間であったと私は考えます。






 









2022/11/13

193)ケアをめぐって 6(訪問の仕事)

  この9月に96才の誕生日を迎えた母の話から始めます。病気と付き合いつつ独居を楽しんでいた母が心不全で入院したのは4月のこと。一命はとりとめたものの寝たきり状態となり、翌5月、退院してそのまま娘の夫である私の家で療養生活を始めました。最初の2か月は読書三昧(1日1冊読了)の日々でしたが、次第に食が細って7月には水も喉をとおらなくなったため水分補給の腹部点滴を開始、訪問医は急変も覚悟するよう私に告げました。母の弟妹一家も遠方から駆けつけ、それぞれ口に出さない思いを抱いて久しぶりの会食をしました。ところが。

 お盆を過ぎたある日突然、母がそうめんを食べたいと言い出し、時間をかけて二筋三筋をすすりました。これを機に食欲がもどり、ほどなく普通食に移行して焼肉、てんぷら、握りずし、すき焼きと質、量ともに驚きの充実ぶり(私はついていけず別メニューとしました)。医師も首をかしげつつ、とにかく結果オーライで、飲食にともなう浮腫を軽減する薬を増量してくれました。この記事を書いている11月13日現在、病勢はましているように見えますが食の衰えはまったくありません。要介護度は「5」で鼻の酸素チューブ(在宅酸素)は24時間つけたままです。

 こうしてわが家での7か月が過ぎましたが、この間、母は在宅ケアとして毎日3回の訪問介護もしくは看護、毎週1回の訪問入浴、毎月2回の訪問診療を受けてきました。種別を問わず合計するとサービス提供は延べ670回ほど、基本的に介護保険と後期高齢者医療保険でカバーされており大いに助かっています(一部は自己負担。超過分は全額負担)。とはいえ介護保険は「軽度者はずし」や「自立支援の機械的運用」等の問題があるうえ、制度として安定的に維持できるのかも懸念される状況で、政府は防衛費(むしろ「攻撃」費)を増やしている場合ではないと思いますが、ここは「訪問」に話を絞ります。

 ホームヘルパー(訪問介護員)の仕事は、「身体介護」(排泄、食事、入浴、清拭、着替えなど身体に直接ふれる支援で「訪問看護師」の業務と共通部分がある)、「生活援助」(掃除、洗濯、調理、買い物、薬の受領など家事全般の支援)、「外出支援」(通院などの付き添い)に区分されます。母は身体介護(排泄、清拭、着替え)を受けており、私の介護とは別に、定時的にプロの眼と手による確かな支援があることは大きな支えです。

 訪問看護師の仕事は、健康観察・管理(バイタルチェック、服薬管理など)、床ずれの予防や処置、点滴、吸引、人工肛門、胃ろう、在宅酸素、各種カテーテルの管理など医療分野の業務が中心で、ほかにリハビリ指導、家族相談、身体介助(入浴や排泄)があります。
 母は健康観察・管理(問題があれば訪問診療所への連絡)や身体介助を受け、私も家族ケアに関するアドバイスを受けたり相談をしています。

 ちなみに訪問看護師の業務は「看取り支援」にも及びますが、「訪問看護師の人数」と「在宅看取り件数」には明らかな相関関係がある、すなわち訪問看護師が多い都道府県は在宅死も多いという事実を、前記の小堀鷗一郎医師が指摘しています(滋賀県はトップレベル)。一方で「在宅療養支援診療所の数」と「在宅看取り件数」の間には関連がないといいます。この記述に私は興味を惹かれました。

 小堀医師は同じ著書の中でこの事情を解き明かすように16世紀のフランスの外科医アンブロワーズ・パレの言葉を紹介しています。いわく、「時に癒し、しばしば苦痛を和らげ、常に慰める」。読んで字のとおりですが、「医師にとって患者の病気を治すことは時にしかできない。それに比べると苦痛の緩和はしばしばできる。さらに、患者に寄り添い元気づけることは常時可能である(そもそもそれが医師の基本的な役割である)」ということでしょう。 

 これは医療関係者によく知られた言葉のようですが、小堀医師は自身の訪問診療を振り返って「慰める」ことのみを行った(それが最善であると考えた)ケースがあると書いています。パレの言葉は「医療」の本質にふれており21世紀の今日においても妥当性を有していると私は思います。とりわけ終末期医療においては、安易な気休めにとどまらない「慰める」という行為が重要であり、訪問看護師の人数と在宅看取り件数が連動しているのも頷ける話です。「訪問看護」や「訪問介護」の仕事はこうした点からも評価されるべきだと考えます。

 話を戻します。母は、ある事業所による「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」というサービスを受けています。訪問介護と訪問看護の二部門が同一法人により運営されているため相互連携が円滑であることに加え、全体のケアマネジメントもしっかりしている(ケアマネさんが有能である)と感じます。サービス提供においては「組織の質」と同様に「一人の資質」がものを言います。とりわけ福祉、介護などの分野、なかでも単独行動を基本とする「訪問の仕事」の場合、一人の職員イコール事業所のようなものですがその点も問題なく、おかげさまで母の「在宅ケア」は順調な経過をたどってきました。

 前にも書きましたが、私は母がケアを受ける現場に毎回立ち会うなかでヘルパーさん、看護師さんの仕事の「直接性」や「身体性」という性格に深く感じるものがあります。それやこれやの経過により、私は自然とわが家に来られる「訪問職」の人々の職業観やモチベーションを知りたくなり、7月末から8月にかけて「ひとことインタビュー」を試みました。忙しい仕事の合間に話を聞くことが出来たのはヘルパーさん8人、看護師さん5人。これが今回のメインであり以下にその要旨を記します。
 (私は3つの質問をしましたが皆さんには自由に語っていただきました。ヘルパー・看護師という職種は分けておらず、一人の答えがどこからどこまでかも明示していません。適当に段落を設けました。)


~  13人の訪問職に聞きました ~

<質問 1>
 あなたがこの仕事を選んだきっかけは何ですか? 
 なぜ「訪問支援」の仕事を選んだのですか? 
  特養や病院などの「施設ケア」との違いは何ですか?
 
・在宅介護は施設介護に比べて一人の人に密接に関われる。そこにやりがいがある。・大好きだった祖母の介護が原点である。祖母は長男(伯父)宅で介護を受けており、母と二人でしばしば介護の手伝いに出かけた。介護保険のない時代の在宅介護は大変だった。・訪問介護は自分一人で仕事ができる点が自分には向いている。一人の大変さもあるが、新人の頃、急死された独居のご利用者の第一発見者として緊急対応したことがあり、その経験が今に生きている。  
                                        
個人の家庭を訪問して「家族と異なる客観的、第3者的な立場」からお話したりお手伝いをできることが業務の特長であり、やりがいもそこにある。たとえば、着替え、清拭、デイサービス利用などを家族が勧めても拒否ばかりするご利用者が、自分の働きかけによって良い方に動いてくれた時などに手応えがある。施設ケアではスタッフの協働作業が欠かせない。仲間と共に取り組む楽しさや成長を感じられる点はよかった。その点では訪問介護は基本的に単独業務であり、スタッフにとってそれぞれのメリット、デメリットがある。  
                                        
・思春期に同居を始めた祖父母に、母を取られる気がして、優しく接することが出来なかった後悔がある。当時、祖父母をケアしてくれるヘルパーさんの仕事ぶりが記憶に残った。「こんな仕事もあるんだ」と思った。祖父母に済まなかったという思いが動機となった。・特養の場合は、トイレ、浴室、専門職など施設も体制も整っており、在宅より安心感がある。在宅では家庭による格差が大きい。  
                                        
・福祉に携わることとなった原点のような思い出が二つある。小学生の頃、近所に一人ひっそり暮らす顔に傷のあるおじさんがいて、近づかないよう大人から言われていた(いま思えば傷痍軍人)。気になって友だちと一緒に行き、話してみたら優しい普通の人だった。・もう一つは中学の夏休み、近所の特養に行き「実習として手伝いたい」と頼んだら受け入れてもらえた。認知症のおばあさんの話し相手や爪切りをしたが、そのうち「ミカンをむいて」と言われた。しかしその通りにしても、おばあさんはじっと見るばかり。ふと思いついてミカンを割って小さな房にしたら、おばあさんは美味しそうに食べ始めた。その時、自分が何かに気づいた気がした。・子供心に、「困難をかかえている(らしい)人が気になった」のだと今にして思う。基本的に人と接することが好きだが、この二つの小さな体験がいまの仕事につながっている気がする。  
                                        
・訪問介護の仕事はやりがいも喜びもあるが、ご利用者が亡くなって関係が終了するケースが多い。このことはやはり辛い。・人と関わる仕事が好きで訪問介護を始めて10年になる。あらゆることが人間関係であると思う。家庭訪問してサービスを提供すること、職場内での関係などもすべて人同士の関わりである。・「施設」には何でも揃っているし仲間もいる。「訪問」はその逆である。もし介護の仕事をはじめるなら「訪問」から入ってはどうか。それができれば「施設」でも十分に通用する、と知人から背中を押された。 
                                        
・病院は「流れ作業」である。そして患者にとっては「アウェイ」の場所。一人ひとりのニーズに応えきれない点がある。訪問ではこちらが「アウェイ」になる。相手の「ホーム」でゆっくりと対応できる。仕事は簡単ではないが、このことにやりがいと喜びを覚える。・病院勤務の時、退院当日に転倒し負傷した患者をそのまま退院させたことがある。その人は単身で在宅生活は困難と分かっていたが病院の決定でどうしようもなかった。こうした体験から在宅支援の介護保険制度には創設時から期待があった。 
                                        
・病院では患者は治療のレールの上に乗せられており自分の意志でうごけない。訪問は、「その人の生活の場でその人を支えること」に意義があると思う。・病院では「医療スタッフが上、患者が下」の関係だが本来は逆だと思う。少なくとも両者が対等で、同じ目的で結ばれるべきだと思う。・以前は病院勤務だったが、この事業所が訪問看護を始めた頃に参画した。その後に介護保険制度が始まった。制度初期のほうが自由がきいて利用者のニーズに応えやすかった。いまは様々な制約の中でケアの質を維持していくことが大切である。

病院では複数の職種・人員がケアするが、訪問看護は一人の世界である。「1対1の関係」であるため看護師の「看護観」に左右されるところが大きい。そこにやりがいもリスクもある。・病院では、極端に言えば「ナースコールで駆けつけた時だけの関係」のようなものであり、こま切れの関わり方にならざるを得ない。その人の生活や家族のことも分からない。退院されたら関係が終わる。病院の特性上やむを得ないが飽き足らない思いもあった。

・訪問看護では一定時間は「その人専属」で関われる。生活の場でケアをして家族とも話ができる。全体を見て関われるところが大きな特長だと思う。・以前に勤務していた病院の整形外科病棟では、患者の軽快退院で完結するのが普通だった。その後に配属された総合診療内科では、各診療科との連携はもちろん、家庭や地域も考慮した総合的なアプローチが必要とされた。この病棟で「退院支援」を行ったことが今につながっている。

・病院と自宅とでは患者の態度が違う。病院では医師、看護師の言うことを素直に受け入れていた人が自宅では自分の思いや都合を主張する。「ああ、これがその人本来の姿なのだ」と思った。・病院での「言い方」が訪問では通じない場合があると知った。そして「自分も一人の人間である」と思った。食事制限や服薬管理など病院で当たり前に行われていることも、在宅では看護師が意識して働きかける必要がある。
 
 
<質問 2>
あなたが仕事で大切にしていることは何ですか?
  後輩に仕事のアドバイスをするなら何と言いたいですか?
 

・スキルも大切だがそれ以上に「心」が大切である。心が相手に伝わる。・ご利用者に寄り添うことが大切だが、その人の事情は人により異なる。それを理解することが大切で、まずはモニタリングなどでよく相手を知ることが重要だと思う。・相手の話を聞くことが大切であり、これが基本的な姿勢である。しかし、常にうまくいくとは限らない。認知症のご利用者の話に十分に応えることが出来ず残念な思いをしたことがある。・相手に安心してもらうことが大事だと思う。そのために自分はいつも誠実に素直に接したいと思っている。ご利用者に向き合うときには「まっすぐに」、ということを心がけている。

・大切なのはスキルより心だと思う。・ご利用者やご家族の要望を理解し、それに合わせることが大切だと思う。・訪問時に心がけていることは、まず「落ち着く」こと。内心はそうでない状況でも、落ち着いているようにふるまうことが大切である。自分の動揺は相手に感染するし、よいサービスにつながらないと思う。・自分を押し付けないことが大切だと考えている。ご利用者もご家族も家庭環境も様々だから、それをよく見て相手に寄り添っていく姿勢が大切だと思う。                                       
                                        
・後輩に助言するなら「まず70点を目標とするように。あまり無理をせず自分らしさを出すように。うわべだけ取り繕っても必ず相手にわかる。あなたが自分の心から仕事をすれば、それが必ずご利用者に伝わります。」と言いたい。・サービス提供には介護保険の制約がある。たとえば「自立支援」で認められていないサービス(本来は自らなすべきことで、またそれが可能であるような行為)を本人が行おうとしない場合にどうするか。時には、ヘルパーが「境界線を越えて」支援することもありだと思う。それにより本人の自覚と意欲が増して自立に近づく可能性もある。                         
                                        
・「自立」という目的を目ざして今日を見るか、明日を見るか、来月もしくは23月先を見るか。制度の趣旨をふまえた上で、どのような予測をもってそれを現場に生かすのか、こうした視点が重要だと思う。・ご利用者、ご家族の気持ちを見極めて、それに沿った支援をすることが大切である。もし計画に沿わないことがあれば、「その場の相手」に合わせる柔軟さが必要だと思う。もちろん計画はモニタリング等により常に更新することも大事であるが。                
                                         
・「尊厳」が大切だと思う。相手の尊厳をいかに守るか。逆に言えば、それを軽視してしまいかねない状況が現場にはある。自分の仕事を見失わないためにも訪問ケアの「理念」を意識している必要がある。・訪問中はできるかぎりご利用者に話しかけるようにしている。医療や健康の話題ばかりでなく、世間話や失敗談も楽しく語る。ご利用者の心がなごみ「共に時を過ごして」いただけることが嬉しい。とにかくご利用者の意志を尊重する。ケアを拒否されたら無理強いせずに話でも何でも他のことをする。・ご利用者がニコリとしてくれるとその日一日、幸せな気持ちになる。それが仕事の力になっている。                                      
                                        
・ご利用者に対する「見方が固定しないよう」別のスタッフが訪問するなど気を付ける必要がある。もちろんスタッフ間の情報交換も大切となる。・訪問看護の仕事は「お客様に選んでいただいたサービス業」であると思う。私たちの仕事は制度と契約に基づいて専門的ケアを提供しているが、「基本はサービス業」である。この基本を大切にしたいと思う。


・病院と違って自分一人で対応することに不安を覚える後輩もいる。そばに医師がいないという違いも大きい。しかし私たちはチームプレーをしており、緊急時には仲間が駆けつける。「訪問のフィールド」には医師も薬剤師も介護士もいる。後輩に対しては、恐れることなく自信をもって向き合うよう伝えたい。・訪問看護は一人のご利用者に対し、自分も一人の人間として関わる仕事である。この道に入ろうかどうしようか考えている人がいたら、私は「まずやってごらん」と言いたい。
 

<質問 3>
仕事や職場のこと、ご自身のことなど何かあれば教えてください。
 

・事務所内では職種の違いをこえて気軽に話し合える雰囲気があり、ありがたいと思っている。ご利用者は一人、目的は一つであってもスタッフが一つになれない職場もある。それはご利用者にもスタッフにもマイナスだと思う。そのようなことがなくて有難いと思う。・「一人の職場」なので引継ぎなど特別の時以外は複数のスタッフが同行訪問する機会はない。したがって他の人が実際にサービスを行っている現場を直接に見ることがない。それは仕方ないけれど、全員のスキルの向上のために所内の情報共有がさらに活発になるとよいと思う。たとえば「ケアの手順の共有」などの機会があればよい。              
                                        
・職員が出勤したり公休だったり、外回りしたりデスクワークしたり、それぞれのミッションで動いており、普通の会社のように「全員集合」の機会が少ない。私個人の話を、職場の仲間よりご利用者のほうが詳しくご存じのこともよくある。それが「訪問」の仕事の特徴であり面白さでもあるが、職員間の情報共有と一体感を強める工夫が大切だと思う。・いずれ現役で働く時期が過ぎたら「地域」を舞台に活動したい。今はこの仕事に全力で取り組んでいるが、将来は立場を変えて活動することになる。個人的な夢でもあるが、それが少しでも地域社会のためになればと願っている。                      
       
                                  
以上がインタビューの要旨です。長くなりましたがカットせず載せました。いま読み返して皆さんがとても率直にお答えくださったことに改めて感謝しています。ブログに掲載することは皆さんにあらかじめ断っていませんし、そもそも8月には私にそのような考えはありませんでしたが、一人占めするにはもったいない内容です。そこで、匿名性も確保されていることから「文責茂呂」として掲載するものです。
これらのコメントの中に「在宅ケア」の意義が示されていると思います。それは人にとっての「Home」の意義でもあります。もちろんすべての人にとって必ずしも自宅が「Home」であるとは限りませんし、「病院・施設ケア」でなければなしえないケアがあるのは当然です。次回は書き洩らしたことを追記して「ケアシリーズ」を終わる予定です。






  

2022/11/03

192)ケアをめぐって 5 (在宅ケア)

 なかなか捗らない「ケアシリーズ」も何とか終盤に入りました。今回のテーマである「在宅ケア」は、自分の住まいで病気をいやすという点で「自宅療養」と同じですが、ここ20年ほど、高齢者の終末期医療の場を病院から自宅へ移行させようとする国の方針のもとで多用された言葉で、当然ながら「みとり」までを含んでいます。

 わが国には、西行、芭蕉、山頭火といった「旅を栖(すみか)とする」漂泊の系譜がありますが、国の調査で「在宅死」を望む人が継続して8割に達することから明らかなように今どきの世間一般の人は(もちろん私も)、自分の生活の本拠地で人生の終幕を迎えたいと考えています。したがって「在宅ケア」の推進は妥当な方針であり、社会保障費節減のみを目的しない「在宅ケア」の環境整備が今後さらに進むよう私は願うものです(もちろん在宅一辺倒を主張するものではありません)。

 古来、人の生死の場所が「施設」でなく「在宅」であったことは言うまでもありません。「悲田院」や「施薬院」などの療養施設がありましたが、これらは施設ケアというより困窮者対策でした。統計が残っている1951年において自宅で亡くなる人が82.5%、病院で亡くなる人は11.7%、近年まで「在宅みとり」が圧倒的多数でした。この二つが同じ割合になるのが1976年のこと、その後ハサミの歯のように差が広がり続け、2005年には在宅死と病院死の割合がそっくり逆転して今に至っています。

 この70年でなぜ多数の人の望みに反して病院死が8割、在宅死が1割になったのか。まずは病院医療の高度化により在宅医療との診療レベルの格差が広がったことによるでしょう。病床の増加、交通の発達による病院へのアクセスの改善もあります。また、忘れてはならないのが1973年から10年間続いた老人医療費無料化という「あとは野となれ山となれ」の場当たり政策で、これが入院増加に拍車をかけました。やがて病院死が一般的となり、社会の中で在宅みとりの記憶が失われ、死が見えにくくなったという心理的な事情もあります(望みつつ自ら遠ざけるという皮肉な話です)。

 国も、こうした状況を座視していたわけではありません。1992年に「寝たきり老人在宅総合診療料」を設け「居宅」を診療提供の場として明確に位置づけたのを皮切りに、在宅診療にかかる各種加算の新設や点数引き上げを実施、2006年には「在宅療養支援診療所」の設置基準(24時間対応等)を定めました。前回テーマの「地域包括ケアシステム」も、国の意図するところは在宅ケアの推進にあります。これらが功を奏して在宅ケアは最近は増加に転じているはず(数値は知りませんが)。特にここ3年ほど、入院患者の面会がコロナで制限されていますから在宅ケアが増えていると聞きます。

 しかし、このような動向と関係なく、早くから訪問診療(日常的な往診)に携わってきた医師、看護師がいたことを最近知りました(有難いことです)。「京都の訪問診療所 おせっかい日誌」(渡辺西加茂診療所編・幻冬舎)は、書名のとおり世間の境界線をすこし踏み越えて親身なケアを提供する診療所の活動記録であり、1985年に医師渡辺康介氏が始めた訪問診療の様子が生き生きと描かれています(ホームページによると現在は訪問看護ステーションが開設されて機能充実のもようです)。

 この本に収録されている訪問スタッフのコメントの一部を紹介します。「病院が『患者の病気を治すところ』であるのに対し、在宅は『病気、生活を含めて患者自身を診るところだと思う。」「病院では『患者が客』であり、在宅では『医療従事者が客』である。」「訪問看護では基本的に一人で患者宅に向かう。医師の判断も仰ぐが自分で判断するケースの方が多い。それを『不安』ととらえるか『やり甲斐』ととらえるかで訪問看護師に向いているかどうか決まると思う。」等々。こうした「実感」は、わが家の訪問介護・看護の方々へのインタビュー(次回に書きます)にも通じますが、在宅ケアの意味を照らす言葉であると思います。

 次の例です。難しい患者が多数おしよせる東大病院の外科医として40年間勤務したのち、2005年に訪問診療の道に転じた医師小堀鷗一郎氏は、その体験にもとづく「死を生きた人びと」(みすず書房・2018年刊)という本を書いています。その裏表紙の紹介文の一部を抜粋します。
 ~これまで355人の看取りに関わった訪問医が語る、患者たちの様々な死の記録。現代日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりにひたすら延命する医者。目前に迫る死期を認識しない親族や患者自身。そして、病院以外での死を「例外」と見なし、老いを「予防」しようとする行政と社会。さまざまな意図に絡めとられ、多くの高齢者が望まない最期に導かれていく。~

 小堀氏自身は、食道がん手術の専門医として働いた年月をこう振り返っています。
 ~外科医として過ごした40年間を一言で表現するならば「救命・治癒・延命」の日々であり、手術死亡率を低くすることのみを考えて毎日を過ごしていた。合併症によって重篤となった患者を一日でも長く生かすべく何日も病院に泊まり込んだ。末期や老衰で最期を迎える患者に対しても基本的には同じで、さらなる生命の延長を図るのが常であった。そのような自分の姿が患者や家族の目にどのように映っているか、考えたことはなかった。~

 小堀医師の透徹な視線は自身に対して仮借なく、患者へは深い共感をともなって向けられています。数々の印象深い患者との交流が描かれていますが、そのうち一つだけ概要を記します(原文を勝手に端折っています。望むらくはぜひ本書をお読みください)。

 ~事例25 「好きな酒を自由に飲みたい」
 76歳男性。妻と二人の老々世帯。進行した胃がんの切除手術を受けたが再発。本人の強い希望で自宅療養を開始。小堀医師の初回訪問時はひどく痩せ腹水がたまり食事もとれない状況であったが、本人の第一声は「好きな酒が自由に飲みたい」。小堀氏はこれを全面的に許可し、介護にあたるヘビースモーカーの妻にも、夫が許す限り自由に喫煙することを認めた。翌日から患者はホームサイズのウイスキーボトルに吸い口をつけて枕元に設置したが、それと同時に食欲が一時的に回復しウナギ、寿司などを食べ始めた。最期までの2か月間、小堀氏が行った医療行為は、妻が吸うタバコの濛々たる煙の中で褥瘡(床ずれ)の処置をすること位であった。

 ある日、小堀医師は思いついて長年手元にあったジョニーウォーカー青ラベルを持参し患者に進呈した。コルク栓が劣化しており苦労してスプーンの柄で開栓し、大量のコルク屑とともに患者と医師で乾杯。患者は嬉しさのあまり、近く生まれる孫に小堀氏の名前をつけると言い張ったが、小堀氏はこれを制し、患者の名前の一字と小堀氏の名前の二字を組み合わせて「久一郎」とすることを提案し、ようやく折り合いをつけた。この提案は母となる娘に即座に却下された。~

 引用が長くなりました。著者の名前(鷗一郎)の「鷗」の文字に注意をひかれた方があるかもしれません。彼は森鷗外の二女、小堀杏奴(随筆家)の子息であるよし。蛙の子ならぬカモメの孫はさすがにカモメです。最近読んだ文章でいいなと思ったのが小堀鷗一郎、中井久夫、斎藤環の3氏ですが、いずれも医師であるのは偶然でしょうか。

 10年ちかく前のこと、高校以来の友人が96才の母堂を自宅で看取りました。若い日々、遠慮なく押しかける私たちをいつもにこやかに歓待してくださったお母さん、優しく凛とした方でした。友人は、あるきっかけがあって「母親の看取りを通して考えたこと」を副題とする一文を草しましたが、私が母の在宅介護を始めたことからその冊子をくれました。それは大いに参考になりましたし、同時に、その「看取り」が友人一家にとって勿論容易なことではないけれど、幸せな成り行きであったことを知って嬉しく感じました。

 友人は、冊子をこのように締めくくっています。
 ~在宅であっても病院であっても「看取り」というのは、送る者が送られる者を一方的に見送ることではないと思う。「死」は「死にゆく」ということであって、紛れもなく生きるということだ。命終に向かう濃密な生ーそれは寄り添われる者と寄り添う者の両方にとってであるーを、死を共有して共に生きること、これが「看取り」ではないか。そんなことを教えられた母との別れであった。~

 私は友人の意見にふかく頷くとともに、355人の看取りに関わった小堀医師氏の著作の表題がまさに「死を生きた人びと」であることを思います。大きく言えば、私たちすべてが日々「死を生き」ているのであり「死にゆく」途上にあると言えます。また、「看取り」が一方的な行為ではないという友人の認識は、前に取り上げた哲学者エヴァ・キテイの「依存・ケア」論にも通じるものですし、さらに一般化するなら「すべての関係は、(それがまともであればあるほど)すぐれて相互的なものである」と言えるでしょう。

 なにやらツギハギだらけの記事になりましたが今回はこれにて。次回は「訪問ケア」の業務に従事する人々のインタビューを掲載する予定です。





 



 

 

 


実態、推移
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