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2023/11/17

221)シャツの味噌漬け

 恐ろしい話があります。ことの発端は1966年6月30日深夜、静岡県清水市で起きた強盗殺人・放火事件です。被害者は味噌製造会社の専務一家4人。住み込み従業員の袴田巌氏(当時30才)が逮捕され一旦は犯行を自白、その後の裁判で一貫して無罪を主張しましたが、1968年9月、静岡地裁で死刑判決が下され、80年12月、最高裁で刑が確定しました。世にいう「袴田事件」ですが、本当に恐ろしいのは事件後の顛末です。

 重大事件はよく地名で呼ばれます。布川事件(1967年発生、無期懲役)、大崎事件(1979年、懲役10年)、日野町事件(1984年、無期懲役)、松橋事件(1985年、懲役13年)、足利事件(1990年、無期懲役)、飯塚事件(1992年、死刑執行済)のように。被害者にちなんだ名称には徳島ラジオ商殺し(1953年、懲役13年)、東電OL殺人事件(1997年、無期懲役)等があります。しかし「免田事件」(1948年、死刑、再審無罪)や「袴田事件」はなぜか「犯人」の名で呼ばれます。予断を招く不適切な命名ですが、それも本件の問題の大きさに比べると些事に見えます。

 袴田氏のパジャマには豆粒ほどの血痕が3つありました。本人は消火活動の際にトタンに引っ掛けた傷だと説明し、警察は揉み合いの際に凶器の小刀で切った傷だと断じました。1日十数時間の尋問を20日にわたって受け、袴田氏は自白に至ります。しかし、1年2か月後の1967年8月、味噌工場の醸造タンクの中から麻袋に入った5点の衣類(血痕がついた半袖シャツ、スポーツシャツ、ズボン、ステテコ、ブリーフ)が見つかりました。検察は「パジャマ犯衣説」をあっさり撤回し、半袖シャツの右肩の血痕は袴田氏のもので、他は被害者4人の血液であると主張しました。

 弁護団は当初から疑問を呈していました。「なぜ事件直後に捜査員がタンクの中に入って調べた時に衣類が見つからなかったか。タンクはほぼ空だったので衣類を隠すには底の味噌をかき集めて山に盛らなければならず見逃しようがない」、「返り血を浴びたら上着から下着に同じ血液が沁み通るはずだ。ズボンやステテコに付着していない型の血液がブリーフに付いているのは不自然だ」「1年2か月も味噌に漬かっていたのに生地の変色が少なく血痕も鮮やかすぎる」「控訴審での3回の着用試験でズボンが袴田氏の太腿につかえて履けなかった。これは本人のものではない」等々。

 また、死刑確定後の第1次再審請求(27年間審理され棄却)および第2次再審請求(15年間審理され2023年に再審開始決定)の42年間(!)におよぶ審理の過程で検察がようやく開示した証拠が多数あり、新たな鑑定や実験も行われました。弁護団は味噌漬けの再現実験を行い、「衣類の生地は味噌と同色に染まり、付着した血痕は赤ではなく濃い黒褐色になる」との結果を得て、5点の衣料は何者かが「発見」の少し前にタンク内に仕込んだ即席漬けであると主張しました。

 これに対し検察は「ズボンには『ゆったりサイズ』を示す『B』のラベルがついていた。大きなズボンが味噌に漬かった後に乾いて縮んだ」と説明しました。しかしその後で、検察は「B」が色を示す記号であるとメーカーから聞いていたのに虚偽説明を行っていたことが判明します。また検察が「袴田氏の実家からズボンの裾上げの端切れを押収した」と主張したことについて静岡地裁は、事件の重大性に鑑みると5点の衣類の関連品を幅広く押収するべきところ、ズボンのベルトと端切れだけ押収してすぐに捜索を終了した経緯が不自然である、と指摘しました。

 検察の味噌漬け実験においては「1年2か月にわたり味噌に漬かった後でも衣類に付着した血痕の赤みが消えずに残る」との結果が得られました。公開されている写真では確かに弁護団実験の衣類より血痕が赤く見えます。しかし一方で、生地全体が茶色にむらなく染まっており、タンクから発見された衣類(実物の証拠品)の生地が白っぽいことの不自然さを逆に浮き彫りにしているように思われます。

 こうして弁護団と検察の主張が対立する中で、血痕のDNA鑑定では双方が推薦する2人の法医学者が共に「半袖シャツの肩の血液は袴田氏のものでない」と認め、検察主張の根本がくつがえされました。以前に行われたDNA鑑定では「鑑定不能」とされたものが技術進歩によって今回の結論となりました。それは袴田氏が獄に繋がれていた年月の長さを物語っています。さらに弁護団推薦の法医学者は「返り血とされるのは被害者4人の血液ではなく、相互に血縁関係のない4人以上の血液が分布している可能性が高い」と分析しました。

 2007年には、1審の静岡地裁で死刑判決を起案した元裁判官・熊本典道氏が、「自分は袴田さんを無罪にすべきだと主張したが他の2人を説得できなかった。合議の結果、2対1で有罪・死刑に決まった」と暴露しました。判決から40年も過ぎて元裁判官が評議の秘密を公にしたことは極めて異例です(他の2人の裁判官はすでに故人)。熊本氏は、最初から袴田氏は無罪だと判断しており次のようにインタビューに答えました。

<熊本氏コメント要旨>
・1日の取調べが16~17時間にも及んでいた。当然ながら自白の任意性に問題がある。
・45通の調書のうち1通のみ問題が少ないと屁理屈をつけ証拠採用した。それは警察調書でなく検察調書だったが、検事は変なことをしないだろうという同族意識もあった。
・証拠と袴田さんが結びつかなかった。逃走口とされた裏木戸も施錠されていた。量刑(死刑)と動機(アパートを借りる金が欲しかった)もつながらない。
・犯人は小刀で1人10か所以上(4人で40か所以上)突き刺した。その後、4人の周囲に油をまいて火をつけた。この間に家族が気づいて抵抗した形跡もない。一人で出来ない犯行だ。
・後日5点の衣類が出てきたのは、何かあったなと思った。普通ではない。第3者がやるには手が込んでいる。ズボンの端切れも「なぜ今ごろ」と思った。

 熊本氏は左陪席裁判官(3人の合議体の最下位)でしたが、「ふてくされて死刑の判決文を書いた」そうです。そして、判決理由は「めちゃくちゃ」だけれど論理は通さなければいけない、苦労して書き上げたが上級審でこれを論破して欲しいと内心で願ったと述べています。また「日本の刑事訴訟法の中で刑事裁判所は真実を発見する場であろうか?裁判官は、検事が言ってきたとおり有罪かどうかを、証拠の有無によって判断すればよい。これが自分の基本的な立場である」とも語りました。

 前置きが長くなりましたが、本年10月にやっと静岡地裁で再審公判が始まった「袴田事件」をめぐる感想を書きます。わが国の刑事裁判で針の穴を通るような再審が決定されたということは、最高裁まで争われ弁護側と検察側の立証と審理が尽くされて確定した有罪判決をひっくり返すことですから実質的に「無罪」に等しい判断です。これに対し検察側が改めて有罪を主張していることは余りにひどい。組織の体面を保つ意図からあえて「負けいくさ」に踏み込んだとしか考えられません。

 私が死刑制度に反対する理由の一つが「冤罪は起きうる」という事実です。この記事の最初に列挙した重大事件はいずれも「冤罪」あるいは「判決確定後の再審中」のケースです。記憶に新しいものでは東近江市の病院で起きた呼吸器事件(2003年逮捕、懲役12年、2020年再審無罪)や厚労省郵便不正事件(2009年逮捕、2010年大阪地裁無罪判決)があります。冤罪は全体から見れば少数でしょうが、数の問題ではありえません。

 冤罪事件の多くでは犯人とされた人が「自白」をしています。本当に無実ならなぜ「うその自白」をしたのでしょうか。袴田氏のケースでは、取調べの録音テープ(警察の倉庫にあった23巻のオープンリール)に、長時間におよぶ強迫的で執拗な尋問の様子が記録されています。血液の鑑定結果について捜査員との「賭け」(負けた方が首を差し出す)を持ちかける言葉や、捜査員二人が犯行の筋書きを相談する会話もあります。袴田氏をトイレに行かせず運び込んだ便器で小便をさせる音も入っていました。その後の「自白」なのです。

 こうした取調べが裁判で問題にならなかったのは何故か。これらの調書は「テープ起こし」ではなく、捜査員の思い描く筋書きに沿うような修正(追加、省略、順序の入れ替えなど)が施され「分かりやすく」仕上げられました。それでも45通の調書のうち44通が証拠と認められなかったのは前述のとおりです。しかし反面、袴田氏が「パジャマの血痕の説明に窮して自白に追い込まれた」経過に光が当たらず、裁判官全員が「袴田氏は5点の衣類の存在を知らなかったはずだ」と推認するに至りませんでした。

 厚労省の郵便不正事件では、虚偽有印公文書作成・行使容疑で逮捕、起訴された村木厚子氏(名誉回復後に本件を公けに語っておりここでも実名を書きます)が、担当検事から「私の仕事はあなたの供述を変えさせることだ」と言われた体験を語っています。そしていくら説明しても「あなたの話だけみんなと食い違う」と取り合ってもらえなかったそうです。「取調室で検事が作ったストーリーを何度も聞かされると『そうかも知れない』と思ってしまう。魔術のような怖さだった」とも述懐しています。

 担当検事は、押収品であるフロッピーディスクの日付を自分の見立てに合うよう改ざんし、それをかばった上司2人とともに逮捕されて大ニュースとなりました。精鋭部隊とされる大阪地検特捜部の組織犯罪でしたから捜査は高検を飛ばして最高検が行いました(3人は懲戒免職)。検事にとって無罪判決は「恥辱」なのだそうです。犯罪者を法廷に送り込むのが検事の本来業務であり、しかも起訴人員のうち有罪となる被告人が99.9%(司法統計年表)ですから、それも分からないではありません。

 一方、職業裁判官にとっても刑事事件において「有罪999人、無罪1人」の割合ですから、年間200件の判決を下すと仮定すると無罪を言い渡すのは5年に1回に過ぎません。無罪判決を一度も出さずに定年退官する人もいるでしょう。うっかりすると判決が有罪への流れ作業になりかねません。裁判官は事件処理件数が人事考課の対象とされ、たくさん「捌く」人の評価が高いのだそうです。無罪判決が出される事件では公判回数が増え、判決書の作成にも時間がかかる(上級審で否定されないよう)のが普通ですから、無罪はさらに狭き門となります。

 ついでながら重大事件の1審に導入されている裁判員裁判では「流れ作業」が発生しないでしょうが、これはそもそも死刑判決に国民を巻き込む制度であり、マスコミなどがもてはやす「市民感覚」にも注意が必要であると思います。これらは別の機会に述べます。

 「犯人」の身柄と人生は、警察、検察、裁判所の順に委ねられていきますが、これら3つの機関が独立した別組織で役割も所轄官庁も異なることは今さら言うまでもありません。しかし同時に、お互いに関わりを持ちながら全体として法的秩序を維持している点においては「司法一家」です。それゆえ判事と検事が入れ替わるという驚きの「判検人事交流」も行われています(刑事裁判を除外するなど一部廃止になったようですが)。

 裁判所では一日に何件も裁判が行われますが、一つの法廷の裁判官と検察官は同一人物がつとめ、被告と弁護人だけが事件ごとにコロコロ変わるのが日常的な光景だそうです。そしてくどいようですが99.9%という有罪率。これでは熊木氏も語ったとおり裁判官と検察官の身内意識(ひどくは馴れ合い)が発生したとしても不思議はありません。このように考えると一つ一つの法廷において「疑わしきは被告人の利益に」という理念が貫かれているかどうか私には大いに疑問です。

 山門の両脇に仁王像が立ち、拝殿の前には狛犬が鎮座しています。これらの一方は口を開いた「阿形」、他方は唇を結んだ「吽形」で左右一対で奥なる神仏を守っています。同じように裁判官と検察官も、良くも悪くも一対となって阿吽の呼吸で法を守護しています。しかし、これまでを振り返ると、彼らが守ろうとしているのは「法よりは秩序」である、それどころか少なからぬ場合において「秩序よりは自らの組織」であるとさえ思われます。

 「袴田事件」の再審開始にあたり、静岡地裁の次席検事は報道陣に対し「有罪主張を粛々と行う」とコメントしました。私はこの「粛々」が嫌いです。官房長官など政府筋もよくこの言葉を使います。原義はさておき「周囲に惑わされることなく信念をもって冷静にことにあたる」ほどの意味で多用される「粛々」という言葉。私にはこの言葉を発する人間の薄っぺらな権力意識と自己陶酔が目に見えるようでウンザリです。その意味で「有罪主張」と「粛々」は釣り合っています。

 袴田氏は死刑判決を受けて48年間服役し、2014年、静岡地裁の再審決定の際に釈放されました。30才の青年が78才の老人になっていました。獄中から家族や支援者あてて無実を訴えた手紙は1万通。重い拘禁反応により精神の安定を失い意思疎通も困難になっています。むごい話です。再審で無罪が確定することは間違いないでしょうが人生は戻りません。脈略はないけれど「わたしをかえせ、わたしにつながるにんげんをかえせ」という詩句が思い浮かびます。

 この記事では刑事事件の捜査や裁判について批判的に書きました。しかし個人として見ると警察官、検察官、裁判官の「善良度」は一般社会と同レベルでしょう。いやむしろ「法と正義を守る」ためにその職を選んだでしょうから世間より正義派が多いかも知れません。それでも冤罪が発生します。やはり組織の中に「疑わしきは罰する」バイアスが働いていると考えざるをえません。ならばその一員としていかに動くか、これは個人にとって難題です。

 村木厚子氏は「検察は人の人生を左右させる強大な権力を持っている。権力を使う際には怖れを持ってほしい」と述べました。重い言葉です。こうしたこともあってか現在では一部事件において取調べの録音、録画が法制化されていますが、これを全ての刑事事件に広げることが課題です。また、私としては、検察は最初からすべての証拠を法廷に出すこと、死刑判決においては裁判官の全員一致を要件とすることを提案したいのですが、素人の世迷言と一蹴されるでしょうか。

 この記事を書くにあたり、「冤罪と裁判」(今村核・講談社新書)、「隠された証拠が冤罪を晴らす」(日本弁護士連合会編・現代人文社)、「証拠改竄」(朝日新聞取材班・朝日新聞出版)、「袴田事件の謎」(浜田寿美男・岩波書店)、「袴田事件、これでも死刑なのか」(小石勝朗・現代人文社)を参考にしました。書きたいことは山ほどあるのにうまくまとめられませんでした。しかしここに権力の犯罪がいくつも表れています。私は元公務員として(判事や検事のようなエリートではないけれど)、組織が間違っていると思った時に一職員としてどのように振舞うことができるかを今更に自問することとなりました。

 「袴田事件」の再審は2024年3月に結審の予定ですが、実際には3~4か月ほど延びる見通しです。長い長い裁判が終わった時、袴田氏の無罪がどのように証明されるのか。その際に警察や検察が行った人権無視の取調べや、それを隠すために検察官が法廷で行った偽証はどのように裁かれるのか。警察が行ったと推定される5点の衣類の味噌漬け(証拠捏造)の真実はいかに明かされるのか。過去2回にわたる再審請求の際に検察が即時抗告して42年間が費やされたことをどう見るのか。これらの責任を誰がどんな形でとるのか。「償う」ことは可能であるのか。本当に恐ろしい話です。袴田氏はいま87才、ずっと支えてくれたお姉さんと一緒に過ごしています。
 





 

 


 

 

 




2023/11/02

220)桐生あれこれ

  「また来はったであの兄さん。毎日や」「ほんまによ。精の出るこっちゃな」「よっぽどヒマやであれは」「旗もって通学路でも立たったらええのにな」「いや立ちんぼは務まらんやろ」「ほな草刈りか」「缶拾いでもええで」「ははははは」。上桐生駐車場の番小屋では婦人会の方々のこんな会話が交わされているかも知れません。いやまったく有益なことを何もなさず桐生の山道をほっつき歩いている私です。今回は日ごろ格別にお世話になっている桐生の山やお寺について書きます。

 桐生詣では2年ちかくになります。昔はジャンボお握りを持って家族で出かけ、その後は長らく夫婦でたどった山道です。今は一人で香ばしい空気を吸いながら緑と岩と水の間を歩くと、堂々めぐりの頭が次第に軽くなります。春はうぐいす、山ツツジ、夏はセミに野イチゴ、秋は萩やドングリ、冬は椿と雪上の小さな蹄の跡。リスは年中見かけるし、先日は曲がり角で鹿と鉢合わせしました。熊はいませんがスズメバチが我が物顔です。

 私が住む草津の中央部から草津川を数キロさかのぼると、信楽山地の北端部に位置する金勝山(こんぜやま)に達します。山の手前半分が大津市桐生で向こう半分は栗東市金勝。境界をなす稜線に登ると琵琶湖と比良比叡が一望でき、ふり返ると田んぼの中に三上山が置かれています。あたりの山々は低いけれど起伏と変化に富み、山頂一帯には侵食された花崗岩の巨岩、奇岩が立ち並んでいます。近江湖南アルプスと呼ばれる(少しほめすぎ)これらの山々が私のフィールドで、お茶を入れたザックを背に1時間半から2時間半いろんなコースを歩きます。ふもとまで車なので冷やした缶ビールのぐるぐる巻きを持参できません。

 ところで金勝山は土がやせているため樹木の成長が遅いけれど、その分だけ木質が稠密、堅牢であったとか。人もかくありたいと一言添えたくなるのは老化現象ですが、良材ゆえに奈良の南都七大寺、紫香楽宮、石山寺などの造営のため乱伐されました。やがて樹林が丸ごと消え、江戸時代には「田上の禿」という心ない名をつけられるに至りました。山には土砂をおさえる何物もありませんから水害が頻発し、やがて草津川の河床が上がって天井川となりました。明治政府は土留め、芝張り、植林など大規模な治山事業に着手し、大正、昭和を経てようやく今日の緑を取り戻しました。

 知る人ぞ知るオランダ堰堤は、明治15年、お雇い外国人技師のヨハネス・デ・レーケの指導、田辺義三郎の設計により築造されたもので、切石を階段状に積み上げた鎧型アーチダム。さすがに石材の角は丸まっていますが躯体はびくともせず今なお現役です。水は清冽で夏の滝つぼ周辺はプールサイドの賑わいです。少し下流に副堰堤があるほか、上流部の山中の各所に土留めの小さな石積みが残っています。初めてこの地を訪れる人は、山の奥深くにまで人の手が入っていることに驚かれるでしょう。

 美林の乱伐、伽藍の建造、治山事業等はそれぞれ活動の方向が異なるものの、大変な大事業である点に変わりありません。ちなみにかつて切り出した木材は瀬田川に一本ずつ浮かべ(管流し)、木津川合流点で陸揚げして筏に組みなおし再び水路を下ったそうです。紫香楽方面へは最初から陸路だったでしょう。人力主体の時代です。ミミズを運ぶアリの群れのような作業。運搬に続く建築の工程はさらに大変だったでしょう。ピラミッドや万里の長城もしかり。こうした人間の業(わざ)には賛嘆と同時に驚き呆れる気持ちが生じます。

 金勝寺は、733年、聖武天皇の勅願により、平城京の東北鬼門を守る国家鎮護の祈願寺として東大寺別当の良弁僧正が開きました。この寺は瀬田川方面から見ると一つ奥まった山中にあり、一帯には乱伐から逃れた杉の巨木が立ち並び、霊場にふさわしい雰囲気を漂わせています。昨年、雪の深い日に金勝寺を訪れました。その日は山門に人がおらず入山料は自主納付で境内にも人影がなくあたり一面は白。門の両脇の朱塗りの仁王像やお堂の仏像は威厳と迫力がありました。冷え切った本堂にホットカーペットが敷かれていたのには感動しました。

 私は今日まで信仰を持たず(それが自分に幸いかどうか不明だし、そもそも「幸い」という尺度が心得違いかも知れません)、お寺、神社、教会等をまず建築物として見てしまいます。しかし一方で、建物および周辺の空間に他の施設にはない何物かが漂っていることは不信心の私にも感知されるのです。長い歳月にわたって無数の人々が捧げてきた祈りのベクトルが堂宇に染み込み、あたりに反射しているとでも言うのでしょうか。人が手を合わせ頭を垂れるのも自然な話です。

 まことに建物と人とは感応しあいます。不思議です。住人が去った家は、風を通していても魂を抜かれたように傷んでいくし、反対に、例えば音楽ホールはコンサートが繰り返されるうちによく響くようになるそうです。山下達郎氏の話だから間違いありません。これには部材や構造体の経年による物理的変化だけでは説明できない何か(使い込まれた楽器がよく鳴る現象を越えた何か)がありそうです。こうした建物と人の相互作用は宗教施設において顕著に現れるのかも知れません。

 のんびりしたことばかり書きましたが社会は緊迫しています。自衛隊が南半球のオーストラリアまでいって向こうの軍隊と一緒に訓練すると報じられましたが常軌を逸しており、辺野古の代執行訴訟もひどい話です(もちろん国が)。海の向こうではロシアが侵略をやめずイスラエルは難民キャンプに爆弾を落としました。国の内外を問わず悪事を命ずる人間はグラス片手に安楽椅子に座っています。私も茶の間で座布団に座って泣き叫ぶ彼の地の人々を見ています。

 ウクライナでもパレスチナでも毎日毎時、人が亡くなっています。とにもかくにも戦闘を一旦ストップできないものか。敵と味方の信じる正義が異なり戦力に差があっても、双方が同時に銃口を下ろさないと終わりが見えません。素人の夢想ですがまず戦いを停止させ、停止が蘇らせる「何物か」に希望を見いだすほかない気がします。ガザ休戦の国連総会決議を日本が棄権したことを岸田氏はもっともらしい顔で説明しますが、これは思想的に誤りです。パワーバランスの信仰からは戦争のループの出口が見つかりません。支援金も結構ですが日本国憲法をもつ国ならではの外交の道を模索すべきだと思います。