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2025/07/08

281)センタクの夏

 抜けるような青空いっぱいに無数の白シャツがはためく映像。それはかつて洗剤のテレビCMの定番でしたが、あの画がもたらす爽快感や清涼感は夏の暑さが尋常である時代の産物であったと今にして思います。「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香久山」にさかのぼる感覚です。昨今の夏はここから逸脱し禍々しいほどの暑さです。「地球温暖化」という表現を私たちは改めるべきでしょう。

 今年は「選択の夏」でもあります。参院選の投票日を迎える前に思うことを少し書きます。時節がら各党とも物価対策と生活支援を重視し、方策として給付金と減税のどちらがよいかが議論になっています。確かにこれらは当面の課題ですが、どうして物価が高く、賃金が低いのか、すなわちなぜ日本はうまく回っていないのかという「そもそも論」を説明する責任が政治家にあります。しかし先日のNHKの党首討論で各党首は、ガマの油売りのような口上を言うばかりでした。

 「これでいいのか日本」と思うことは多々あるけれど、私はトラック転落事故に衝撃を受けました。本年1月、埼玉県八潮市の町なかで県道に突然、穴があき、たまたま通りかかったトラックが転落した例のいたましい事故です。壊れた下水道管に周辺の土が流れ込んで地下に大きな空洞ができていました。転落の翌日、穴は直径40メートルに広がって救助は困難をきわめました。トラックと運転者が引き上げられたのはなんと3か月後でした。

 救助のため真摯な努力がなされたことに疑いはありませんが、山でも海でもない街のど真ん中の県道を走っていたトラックが下水道でできた穴に落ち、衆人は環視するばかりでその人を救えませんでした。これは「下水道の点検不足」や「救助技術の不足」以前の問題、すなわち私たちの社会の在り方の問題ではないかと考えます。このような社会が道路に穴を開け、落ちた人を無策のうちに見殺しにした、とは言い過ぎでしょうか。

 近年、道路の陥没は各所で起こっています。地下鉄工事やトンネル工事も原因の一つでしょう。水道管の破裂もめずらしくありません。ガス管の事故もありました。管渠ばかりでなくトンネルは崩落しないか、橋は落ちないか、線路はゆがまないか心配はつきません。そもそも日本は国土の大半が軟弱地盤であるうえ地震大国です。さまざまな現場で技術の伝承が困難になっているとも聞きます。事故の手前のニアミスはいくらでもあるでしょう。

 もちろん自治体や国には図面と修繕計画があり、それにもとづき年次的に維持管理が行われているはずですが、実際にはどことも予算と人手が圧倒的に足りません。すでに出来上がって何とか機能を果たしている(ように見える)構造物より、医療、福祉、介護、教育など「人がらみ」の施策の優先度が高いでしょう。うちの道路や橋は大丈夫と胸をはって言える都市はないはずです。

 日本のインフラは戦後復興期から経済成長期にかけて多く整備されました。それらはそろそろ寿命です。一斉更新など不可能ですから、だましだまし、かしこく、地道に維持管理を続けていかなければなりません。そうした維持管理は現に行われているはずです。しかし八潮市でトラックが転落しました。偶然が重なったのではなく、起こるべくして起こった事故のように見えます。

 この社会(私たち市民、とりわけ政治家)は、あまりに将来への想像力に乏しいと思います。形ができればハイおしまい、今日がよければそれでハッピー、国債が増えても何とかなるさと世の中が回ってきました。ふりかえれば15年戦争につっこんでいった時も、おなじノリではなかったでしょうか。トラック転落で私はこんなことを思いました。暗い気分です。

 そうしたら作家の高村薫が朝日新聞(7月3日朝刊)で同じテーマを深く鋭く論じていました。タイトルに「穴は至る所に」とあり、見出しには「 〈今〉に興じる我ら、先見通せぬ残念気質、なにもかもガタがきた」とありますが、これらは編集者がつけたのでしょう。うまく中身を切り取っています。

 同氏は、「くだんの陥没事故を目の当たりにした時、私は一抹の淋しさとともに突如、これこそ自分が生きている社会の掛け値なしの実相というものだと腑に落ちていたのだ」、「一言で言えば、何もかもが古くなってガタがきている感じ・・・だろうか」と述べたうえ、例をあげて日本の国力の衰退を指摘しています。残念だけれどすべて指摘の通りです。

 終わりの方を引用します。
 「最新の日本の相対的貧困率はアメリカや韓国にも抜かれて15.4%であり、先進国でもっとも貧しい。それでも群を抜いて国内の治安はよく、私たちは生活不安を抱えながらも、グルメだの『推し』だのとそれなりに生活を楽しみ、街ゆく人々の表情も明るい。
 しかしそれもそのはず、私たちはそうして〈いま〉だけを見、見たくもないものは見ない。その結果全盛を迎えているのがフェイクニュースであり、切り取り動画である。
 〈いま〉を大切にしたい老若男女が日々の刺激を求めてウェブに集まり、それが時に一過性の潮流をつくったりもする。おそらく日本の社会も政治もそうして漂流していくのだと思うが、では厳しい現実はどこへ行くか。どこへも行きはしない。」

 高村氏は、言いっぱなしで終ってはいません。日本の現実(1323兆円の政府債務残高、国家の信用力の低下、気がつけば台湾防衛の最前線に立たされていること、戦争するカネがないこと、狭く逃げ場のない国土などの事実)を肝に銘じておけば、〈いま〉しか見ない私たちでもたぶん、なんとかなると語り、参院選に話をつなげています。

 さて、すべての議員は政治的理念をもっているとします。とするなら彼らは、理念の実現には議員の身分が不可欠であると考えているに違いありません。それは正しくないけれどきわめて現実的な考えです。そこで議員にとって当選することが何より重要になります。理念の実現は時間がかかるから当選を続けなければなりません。そこで議員には「当選=理念」となります。政党レベルでみても同じことでしょう。議員という職業がオイシイことも背景にあります。

 いまさら当たり前のことを書きましたが、私は政治家(政党)が本当に理念を持っているかどうか疑っています。もし政治家としての理念があるなら、それは必然的に歴史的認識(過去があって今があり、今が未来を準備するという客観的認識)に裏付けられたものでなければならず、また30年、50年先をリアルに思い描く想像力を伴うものでなければなりません。それに加えて他者の痛みに共感する力が政治家の基本的資質として求められます。

 このように考えると、トラック転落事故を自己の政治的理念に関わる重大問題だと捉え、社会に警鐘をならす議員が百人単位でいてもいいはずですが、私の知るかぎりそんな人物はいません。とすれば、ほとんどの議員は理念を持っていないことになります。これが政治の劣化なのでしょう。コメも賃金も社会保障も大事だけれど各論です。まずは理念に基づいて総論を語るべきではありませんか。政治家だけに要求してはなりませんが、選挙に出るなら国のビジョンを持つべきでしょう。

 私には最善の政党と候補者が見当たりませんが、すでに投票を済ませました。棄権すればずるずる後退してあとがなくなります。このブログをご覧の方々、すなわち一個人のたわごとにお付き合い下さる限りにおいて世の中に絶望していない人々は、きっと棄権されないでしょう。それ以外の人々(ほとんど社会全体)が、よく品定めをして投票されるように祈ります。
 

 【棚から言の葉】

 ~ くり返して申しますが、私たちは『とにかく治す』ことに努めてきました。いまハードルを一段あげて『やわらかに治す』ことを目標にする秋(とき)であろうと私は思います。かつて私は『心の生ぶ毛』という言葉を使いましたが、そのようなものを大切にするような治療です。そのようなものを畏れかしこむような治療です。(中略)分裂病の人のどこかに『ふるえるような、いたいたしいほどのやわらかさ』を全く感じない人は治療にたずさわるべきでしょうか、どうでしょうか。 ~
 
 精神科医・中井久夫の神戸大学医学部での最終講義の一部です。「中井久夫拾遺」(高 宣良・金剛出版)の中に、「みすず書房『最終講義』」からの引用として書かれていた部分を孫引きしました。素人の私の胸に迫りました。これから時おり、たまさか出会った言葉をコラムのように書き留めたいと思います。これが第一号です。





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