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2022/12/21

195)ケアをめぐって 8(終わりに)

 この「ケアシリーズ」は、「介護」も「被介護」も人生の当たり前、自然の道筋であると今さらながら思い至り、私の小さな体験を少し遠くから眺めようと書き出しました。もとより手のとどく範囲は限られており更新にも時間を要しましたが、道中で何冊かの本(エヴァ・キテイ、小堀鷗一郎、中井久夫など)に出会ったこと、訪問ケアを仕事とする人々の話を聞けたことの二つは私にとって大きな収穫でした。

 最後に少し書き足します。前々回(記事193)で介護士・看護師さんのインタビューを載せました。その中に、「ケアの仕事」につくことがまるで子どもの時から定められていたような人の話がありました。一部を再掲します。

 ~福祉に携わることとなった原点のような思い出が二つある。小学生の頃、近所に一人ひっそり暮らす顔に傷のあるおじさんがいて、近づかないよう大人から言われていた。(いま思えば傷痍軍人)。なぜか気になって友だちと一緒に行き、話してみたら優しい普通の人だった。

 もう一つは中学の夏休み、近所の特別養護老人ホームで『実習』をさせてもらった。認知症のおばあさんの話し相手や爪切りをしたが、やがて「ミカンをむいて」と言われた。その通りにしたが、おばあさんはじっと見るばかり。ふと思いついてミカンを割って小さな房にしたら、おばあさんは美味しそうに食べ始めた。その時、自分が何かに気づいた気がした。~

 この思い出の主(Aさん)は、母をお世話いただいた訪問介護事業所のスタッフですが、自分は小さい時から人と接することが好きで、困っている人を見るとほっておけない気持ちにかられたと語っています。「傷痍軍人」は先の戦争で負傷し、国の支援では生活できないため街頭で募金活動をしていた人々。多くは手や足を失った白衣姿でアコーディオンで軍歌を弾いていました。幼い頃の私には得体のしれぬ恐ろしい存在でしたが、やがてその姿を目にしなくなりました。

 私よりふた回りほど年少であると推測されるAさんが「傷痍軍人」に出会ったとすれば、彼女の育った地方には戦時色が比較的ながく残っていたのかも知れません。ともあれAさんには、顔に傷があってひっそり暮らすおじさんに接近したいという気持ちが芽生えたわけです(近づくなという大人の制止が逆に子どもの好奇心を刺激したという側面があったにせよ)。

 またAさんは、中学の夏休みの自主学習として老人ホームでの「ケア実習」を思い立ち実行に移します(いまの時代では無理でしょう)。そしてミカンを小さく割るという工夫でおばあさんと回路を通じました。これらの逸話から私は、「開かれた心」と「共感の力」を、未だそうと知らずに身にそなえていた子どもの像を思い浮かべます。その地点から今のAさんまで一直線です。こうしたAさんの資質は生まれついてのものではなかったかと想像します。

 話が飛びますが、私がよく読んだ宮沢賢治や太宰治(ともに貧しかった時代の東北に生まれ、富裕な生家を「十字架」と感じた)は、世間の人と同じように周囲の環境を受けつつ成長しました。しかし、その作品や周辺資料を読むと、彼らが物心ついた時にすでに備わっていた資質(いわゆる感性、考え方の特質、人生への態度などの萌芽)によって早期に生き方を方向づけられたことが明白です。彼らが強者の側に立たなかったのは、思想である以前に「資質として立ちえなかった」のであろうと思うのです。

 「三つ子の魂百まで」どころか私は「0才児の魂」があると考えます。例によって調べ物をせず実感だけで書いていますが、「人は経験よりDNAにより決定づけられる」というのが私の意見です。これは経験や学習がムダであるという意味ではなく、それらを自己のものに内面化する過程が、その人の持って生まれた資質の大きな影響を受けるというアプリオリの見方です。あまり強調すると、「人生の分かれ道でどちらに進むか前もって定められている」という宿命論になってしまいますけれど。
 
 本題にもどって「職業的にケアに向いた資質」とはどのようなものでしょうか。それはやはり「人のことを自分のことにように考えられる(つい考えてしまう)基本的態度」であり、これは対人支援サービス全般について言えると思います。もちろんこれだけで「ケア=被依存」を担うことはできず客観視と相対化の力も要求されますが、ベースにあるのは「共感の姿勢」であると考えます。

 最近、保育園での虐待が報じられています。マスコミは伝えたいことだけを伝える、世間が反発しそうなことは真実であっても伝えないと私は体験的に知っていますから、この虐待報道を鵜呑みにはしませんが、話半分としてもひどい出来事です。保育士たちが疲弊していたことはおそらく事実でしょうが、そのことと行為との間に距離がありすぎる気がします。「共感の姿勢」の不足する職員の割合の多い職場ではなかったかと私は思います。

 まえに「ケアの手の温かさ」と書きました。情緒的なこの言葉を多少整理して全体の「まとめ」に代えようとしたものの、まとまりがつかなくなってしまいました。ときに世の中それどころではありません。政府は、将来世代にわたる国民の安全と財産を担保に入れて軍備を増強し、まだ売られていない喧嘩の輪に加わろうとしています。しかも議論の中心はことの是非ではなく「担保の入れ方」です。安倍もひどいが岸田もひどい。政権を担う人々は、少なくともまず各自のひ孫の分までの資産を担保にいれるべきだと思います。




2022/11/28

194)ケアをめぐって 7(個人的なこと)

 これが初めてではありませんが今回はきわめて個人的な内容にわたります。背伸びをして「公」の看板を上げているとはいえ所詮は個人のブログ、こんな「お断り」は大げさかもしれません。しかし、不特定多数の人が共有するネット空間に私ごとき者の「私事」をのせることにいつも気がひけます。「公私入り乱れる」ところがインターネットの可能性であり力でもあるわけですから、私の感覚はまことに古臭いという自覚もあるのですが。

 11月18日に私のところで療養していた96才の母(前の記事に書きました)が亡くなりました。穏やかに自分を貫いて安らかにその時を迎えました。私はそのように出来るだろうかと自問せざるをえません。居間から母のベッドがなくなり、少なくとも日に3回あった看護師・ヘルパーさんの訪問もなくなって飼いネコが所在なさそうに身を寄せてきます。

 今日(11月28日)は妻の一年で、遠方に住む息子夫婦が1才になったばかりの娘とともにやってきました。親しい友人、長年の知人、私の昔の仕事仲間からも、きれいなお花や心のこもったメッセージをいただきました。珠玉の言葉をブログに綴り悼んでくれた人もあります。何年も行き来していない人からの手紙もありました。こうした方々の中に妻の記憶が分け持たれていることを心からありがたく思います。私には「飲み過ぎないよう」との言葉も頂きました。
 この一年、蟻が目の前の砂粒や落ち葉だけを見て歩くように暮らしてきましたが、同時に、私が長年ずっと守ってきたつもりの妻から、それ以上に大きく包まれてきたのだということを痛覚をともなって何度も思い返しました。

 先ごろ記憶に残る追悼文を読みました。人の死を惜しむという人の心を過不足なく表した文章で、精神科医の斎藤環氏がおなじく精神科医である中井久夫氏に捧げた「義と歓待の精神 理想のケア」(朝日新聞)と題された名文です。そこには斎藤氏が中井氏に寄せる深い敬慕の念が示されており、同時に中井氏の精神科の臨床医・研究者としての仕事のみならず、語学の才をいかしたヴァレリー、カヴァフィスの詩の翻訳、『いじめの政治学』や『「昭和」を送る』などのエッセイ等々、中井氏の業績が限られた文字数に圧縮され紹介されています。

 私は、追悼する人、される人の双方を知りませんでしたが、すぐに中井氏のエッセイ集を読みました。同氏が、阪神淡路大震災の「こころのケアセンター」所長として活動したことも知りました。「思想と実践 常に立場の弱い人の側に」という斎藤氏の追悼文の副題のとおりの人であったことも分かりました。このような優れた人がいたということを知っただけでも良かったと思える人です。ついで斎藤氏の情報をネットで検索しましたが、この人も「並みのお医者さま」ではないと知りました。

 斎藤氏の追悼文から数か所を抜粋します。
 『先生(中井氏のこと)は「歓待」の人でもあった。患者と出会い、深い相互作用を試みながら、自らも影響を受けて変容してしまう。困難な患者の治療後にひどく疲弊してしまい、マッサージを受けたらマッサージ師も病んでしまった、というエピソードが印象的だ。』

 『翻訳も同様で、サリヴァンの翻訳に関しては、伝記を読んで彼が講演した講堂の情景を思い浮かべつつ訳し、翻訳が終わったときには自身の文体まで変わっていたという。人であれ文であれ、様々な対象と相互浸透し影響されてしまうその姿勢には、他者への深い「歓待」があった。』

 『精神科医としての私は、中井先生の遺志を継承していきたいと考えているが、あたかも「不世出の天才精神科医」として神棚に祀るようなことはすまいとも考えている。いつも平場で患者さんと対話していた中井先生の、あの「途方もない義と歓待の精神」は、私が理想とする「治療」ならぬ「ケア」の姿でもある。』

 私も中井氏の著作をいくつか読み感銘を受けましたが、何か書こうとしても斎藤氏をなぞるだけなのでここに引用させてもらいました(「義」に関わるところは割愛しました)。

 これまで数回にわたり「ケア」について考えてきました。今回は「まとめ」を書くつもりが横道にそれました。すこし戻って、先に「時に癒し、しばしば苦痛を和らげ、常に慰める」というアンブロワーズ・パレの言葉を紹介しました。「慰める」という言葉が単なる慰藉にとどまるものではないだろうとも書きました。この言葉は、医師の役割を示す言葉であると同時に「人の在り方」を現した言葉でもあります。中井久夫氏は、この言葉を体現する医師であり人間であったと私は考えます。






 









2022/11/13

193)ケアをめぐって 6(訪問の仕事)

  この9月に96才の誕生日を迎えた母の話から始めます。病気と付き合いつつ独居を楽しんでいた母が心不全で入院したのは4月のこと。一命はとりとめたものの寝たきり状態となり、翌5月、退院してそのまま娘の夫である私の家で療養生活を始めました。最初の2か月は読書三昧(1日1冊読了)の日々でしたが、次第に食が細って7月には水も喉をとおらなくなったため水分補給の腹部点滴を開始、訪問医は急変も覚悟するよう私に告げました。母の弟妹一家も遠方から駆けつけ、それぞれ口に出さない思いを抱いて久しぶりの会食をしました。ところが。

 お盆を過ぎたある日突然、母がそうめんを食べたいと言い出し、時間をかけて二筋三筋をすすりました。これを機に食欲がもどり、ほどなく普通食に移行して焼肉、てんぷら、握りずし、すき焼きと質、量ともに驚きの充実ぶり(私はついていけず別メニューとしました)。医師も首をかしげつつ、とにかく結果オーライで、飲食にともなう浮腫を軽減する薬を増量してくれました。この記事を書いている11月13日現在、病勢はましているように見えますが食の衰えはまったくありません。要介護度は「5」で鼻の酸素チューブ(在宅酸素)は24時間つけたままです。

 こうしてわが家での7か月が過ぎましたが、この間、母は在宅ケアとして毎日3回の訪問介護もしくは看護、毎週1回の訪問入浴、毎月2回の訪問診療を受けてきました。種別を問わず合計するとサービス提供は延べ670回ほど、基本的に介護保険と後期高齢者医療保険でカバーされており大いに助かっています(一部は自己負担。超過分は全額負担)。とはいえ介護保険は「軽度者はずし」や「自立支援の機械的運用」等の問題があるうえ、制度として安定的に維持できるのかも懸念される状況で、政府は防衛費(むしろ「攻撃」費)を増やしている場合ではないと思いますが、ここは「訪問」に話を絞ります。

 ホームヘルパー(訪問介護員)の仕事は、「身体介護」(排泄、食事、入浴、清拭、着替えなど身体に直接ふれる支援で「訪問看護師」の業務と共通部分がある)、「生活援助」(掃除、洗濯、調理、買い物、薬の受領など家事全般の支援)、「外出支援」(通院などの付き添い)に区分されます。母は身体介護(排泄、清拭、着替え)を受けており、私の介護とは別に、定時的にプロの眼と手による確かな支援があることは大きな支えです。

 訪問看護師の仕事は、健康観察・管理(バイタルチェック、服薬管理など)、床ずれの予防や処置、点滴、吸引、人工肛門、胃ろう、在宅酸素、各種カテーテルの管理など医療分野の業務が中心で、ほかにリハビリ指導、家族相談、身体介助(入浴や排泄)があります。
 母は健康観察・管理(問題があれば訪問診療所への連絡)や身体介助を受け、私も家族ケアに関するアドバイスを受けたり相談をしています。

 ちなみに訪問看護師の業務は「看取り支援」にも及びますが、「訪問看護師の人数」と「在宅看取り件数」には明らかな相関関係がある、すなわち訪問看護師が多い都道府県は在宅死も多いという事実を、前記の小堀鷗一郎医師が指摘しています(滋賀県はトップレベル)。一方で「在宅療養支援診療所の数」と「在宅看取り件数」の間には関連がないといいます。この記述に私は興味を惹かれました。

 小堀医師は同じ著書の中でこの事情を解き明かすように16世紀のフランスの外科医アンブロワーズ・パレの言葉を紹介しています。いわく、「時に癒し、しばしば苦痛を和らげ、常に慰める」。読んで字のとおりですが、「医師にとって患者の病気を治すことは時にしかできない。それに比べると苦痛の緩和はしばしばできる。さらに、患者に寄り添い元気づけることは常時可能である(そもそもそれが医師の基本的な役割である)」ということでしょう。 

 これは医療関係者によく知られた言葉のようですが、小堀医師は自身の訪問診療を振り返って「慰める」ことのみを行った(それが最善であると考えた)ケースがあると書いています。パレの言葉は「医療」の本質にふれており21世紀の今日においても妥当性を有していると私は思います。とりわけ終末期医療においては、安易な気休めにとどまらない「慰める」という行為が重要であり、訪問看護師の人数と在宅看取り件数が連動しているのも頷ける話です。「訪問看護」や「訪問介護」の仕事はこうした点からも評価されるべきだと考えます。

 話を戻します。母は、ある事業所による「定期巡回・随時対応型訪問介護看護」というサービスを受けています。訪問介護と訪問看護の二部門が同一法人により運営されているため相互連携が円滑であることに加え、全体のケアマネジメントもしっかりしている(ケアマネさんが有能である)と感じます。サービス提供においては「組織の質」と同様に「一人の資質」がものを言います。とりわけ福祉、介護などの分野、なかでも単独行動を基本とする「訪問の仕事」の場合、一人の職員イコール事業所のようなものですがその点も問題なく、おかげさまで母の「在宅ケア」は順調な経過をたどってきました。

 前にも書きましたが、私は母がケアを受ける現場に毎回立ち会うなかでヘルパーさん、看護師さんの仕事の「直接性」や「身体性」という性格に深く感じるものがあります。それやこれやの経過により、私は自然とわが家に来られる「訪問職」の人々の職業観やモチベーションを知りたくなり、7月末から8月にかけて「ひとことインタビュー」を試みました。忙しい仕事の合間に話を聞くことが出来たのはヘルパーさん8人、看護師さん5人。これが今回のメインであり以下にその要旨を記します。
 (私は3つの質問をしましたが皆さんには自由に語っていただきました。ヘルパー・看護師という職種は分けておらず、一人の答えがどこからどこまでかも明示していません。適当に段落を設けました。)


~  13人の訪問職に聞きました ~

<質問 1>
 あなたがこの仕事を選んだきっかけは何ですか? 
 なぜ「訪問支援」の仕事を選んだのですか? 
  特養や病院などの「施設ケア」との違いは何ですか?
 
・在宅介護は施設介護に比べて一人の人に密接に関われる。そこにやりがいがある。・大好きだった祖母の介護が原点である。祖母は長男(伯父)宅で介護を受けており、母と二人でしばしば介護の手伝いに出かけた。介護保険のない時代の在宅介護は大変だった。・訪問介護は自分一人で仕事ができる点が自分には向いている。一人の大変さもあるが、新人の頃、急死された独居のご利用者の第一発見者として緊急対応したことがあり、その経験が今に生きている。  
                                        
個人の家庭を訪問して「家族と異なる客観的、第3者的な立場」からお話したりお手伝いをできることが業務の特長であり、やりがいもそこにある。たとえば、着替え、清拭、デイサービス利用などを家族が勧めても拒否ばかりするご利用者が、自分の働きかけによって良い方に動いてくれた時などに手応えがある。施設ケアではスタッフの協働作業が欠かせない。仲間と共に取り組む楽しさや成長を感じられる点はよかった。その点では訪問介護は基本的に単独業務であり、スタッフにとってそれぞれのメリット、デメリットがある。  
                                        
・思春期に同居を始めた祖父母に、母を取られる気がして、優しく接することが出来なかった後悔がある。当時、祖父母をケアしてくれるヘルパーさんの仕事ぶりが記憶に残った。「こんな仕事もあるんだ」と思った。祖父母に済まなかったという思いが動機となった。・特養の場合は、トイレ、浴室、専門職など施設も体制も整っており、在宅より安心感がある。在宅では家庭による格差が大きい。  
                                        
・福祉に携わることとなった原点のような思い出が二つある。小学生の頃、近所に一人ひっそり暮らす顔に傷のあるおじさんがいて、近づかないよう大人から言われていた(いま思えば傷痍軍人)。気になって友だちと一緒に行き、話してみたら優しい普通の人だった。・もう一つは中学の夏休み、近所の特養に行き「実習として手伝いたい」と頼んだら受け入れてもらえた。認知症のおばあさんの話し相手や爪切りをしたが、そのうち「ミカンをむいて」と言われた。しかしその通りにしても、おばあさんはじっと見るばかり。ふと思いついてミカンを割って小さな房にしたら、おばあさんは美味しそうに食べ始めた。その時、自分が何かに気づいた気がした。・子供心に、「困難をかかえている(らしい)人が気になった」のだと今にして思う。基本的に人と接することが好きだが、この二つの小さな体験がいまの仕事につながっている気がする。  
                                        
・訪問介護の仕事はやりがいも喜びもあるが、ご利用者が亡くなって関係が終了するケースが多い。このことはやはり辛い。・人と関わる仕事が好きで訪問介護を始めて10年になる。あらゆることが人間関係であると思う。家庭訪問してサービスを提供すること、職場内での関係などもすべて人同士の関わりである。・「施設」には何でも揃っているし仲間もいる。「訪問」はその逆である。もし介護の仕事をはじめるなら「訪問」から入ってはどうか。それができれば「施設」でも十分に通用する、と知人から背中を押された。 
                                        
・病院は「流れ作業」である。そして患者にとっては「アウェイ」の場所。一人ひとりのニーズに応えきれない点がある。訪問ではこちらが「アウェイ」になる。相手の「ホーム」でゆっくりと対応できる。仕事は簡単ではないが、このことにやりがいと喜びを覚える。・病院勤務の時、退院当日に転倒し負傷した患者をそのまま退院させたことがある。その人は単身で在宅生活は困難と分かっていたが病院の決定でどうしようもなかった。こうした体験から在宅支援の介護保険制度には創設時から期待があった。 
                                        
・病院では患者は治療のレールの上に乗せられており自分の意志でうごけない。訪問は、「その人の生活の場でその人を支えること」に意義があると思う。・病院では「医療スタッフが上、患者が下」の関係だが本来は逆だと思う。少なくとも両者が対等で、同じ目的で結ばれるべきだと思う。・以前は病院勤務だったが、この事業所が訪問看護を始めた頃に参画した。その後に介護保険制度が始まった。制度初期のほうが自由がきいて利用者のニーズに応えやすかった。いまは様々な制約の中でケアの質を維持していくことが大切である。

病院では複数の職種・人員がケアするが、訪問看護は一人の世界である。「1対1の関係」であるため看護師の「看護観」に左右されるところが大きい。そこにやりがいもリスクもある。・病院では、極端に言えば「ナースコールで駆けつけた時だけの関係」のようなものであり、こま切れの関わり方にならざるを得ない。その人の生活や家族のことも分からない。退院されたら関係が終わる。病院の特性上やむを得ないが飽き足らない思いもあった。

・訪問看護では一定時間は「その人専属」で関われる。生活の場でケアをして家族とも話ができる。全体を見て関われるところが大きな特長だと思う。・以前に勤務していた病院の整形外科病棟では、患者の軽快退院で完結するのが普通だった。その後に配属された総合診療内科では、各診療科との連携はもちろん、家庭や地域も考慮した総合的なアプローチが必要とされた。この病棟で「退院支援」を行ったことが今につながっている。

・病院と自宅とでは患者の態度が違う。病院では医師、看護師の言うことを素直に受け入れていた人が自宅では自分の思いや都合を主張する。「ああ、これがその人本来の姿なのだ」と思った。・病院での「言い方」が訪問では通じない場合があると知った。そして「自分も一人の人間である」と思った。食事制限や服薬管理など病院で当たり前に行われていることも、在宅では看護師が意識して働きかける必要がある。
 
 
<質問 2>
あなたが仕事で大切にしていることは何ですか?
  後輩に仕事のアドバイスをするなら何と言いたいですか?
 

・スキルも大切だがそれ以上に「心」が大切である。心が相手に伝わる。・ご利用者に寄り添うことが大切だが、その人の事情は人により異なる。それを理解することが大切で、まずはモニタリングなどでよく相手を知ることが重要だと思う。・相手の話を聞くことが大切であり、これが基本的な姿勢である。しかし、常にうまくいくとは限らない。認知症のご利用者の話に十分に応えることが出来ず残念な思いをしたことがある。・相手に安心してもらうことが大事だと思う。そのために自分はいつも誠実に素直に接したいと思っている。ご利用者に向き合うときには「まっすぐに」、ということを心がけている。

・大切なのはスキルより心だと思う。・ご利用者やご家族の要望を理解し、それに合わせることが大切だと思う。・訪問時に心がけていることは、まず「落ち着く」こと。内心はそうでない状況でも、落ち着いているようにふるまうことが大切である。自分の動揺は相手に感染するし、よいサービスにつながらないと思う。・自分を押し付けないことが大切だと考えている。ご利用者もご家族も家庭環境も様々だから、それをよく見て相手に寄り添っていく姿勢が大切だと思う。                                       
                                        
・後輩に助言するなら「まず70点を目標とするように。あまり無理をせず自分らしさを出すように。うわべだけ取り繕っても必ず相手にわかる。あなたが自分の心から仕事をすれば、それが必ずご利用者に伝わります。」と言いたい。・サービス提供には介護保険の制約がある。たとえば「自立支援」で認められていないサービス(本来は自らなすべきことで、またそれが可能であるような行為)を本人が行おうとしない場合にどうするか。時には、ヘルパーが「境界線を越えて」支援することもありだと思う。それにより本人の自覚と意欲が増して自立に近づく可能性もある。                         
                                        
・「自立」という目的を目ざして今日を見るか、明日を見るか、来月もしくは23月先を見るか。制度の趣旨をふまえた上で、どのような予測をもってそれを現場に生かすのか、こうした視点が重要だと思う。・ご利用者、ご家族の気持ちを見極めて、それに沿った支援をすることが大切である。もし計画に沿わないことがあれば、「その場の相手」に合わせる柔軟さが必要だと思う。もちろん計画はモニタリング等により常に更新することも大事であるが。                
                                         
・「尊厳」が大切だと思う。相手の尊厳をいかに守るか。逆に言えば、それを軽視してしまいかねない状況が現場にはある。自分の仕事を見失わないためにも訪問ケアの「理念」を意識している必要がある。・訪問中はできるかぎりご利用者に話しかけるようにしている。医療や健康の話題ばかりでなく、世間話や失敗談も楽しく語る。ご利用者の心がなごみ「共に時を過ごして」いただけることが嬉しい。とにかくご利用者の意志を尊重する。ケアを拒否されたら無理強いせずに話でも何でも他のことをする。・ご利用者がニコリとしてくれるとその日一日、幸せな気持ちになる。それが仕事の力になっている。                                      
                                        
・ご利用者に対する「見方が固定しないよう」別のスタッフが訪問するなど気を付ける必要がある。もちろんスタッフ間の情報交換も大切となる。・訪問看護の仕事は「お客様に選んでいただいたサービス業」であると思う。私たちの仕事は制度と契約に基づいて専門的ケアを提供しているが、「基本はサービス業」である。この基本を大切にしたいと思う。


・病院と違って自分一人で対応することに不安を覚える後輩もいる。そばに医師がいないという違いも大きい。しかし私たちはチームプレーをしており、緊急時には仲間が駆けつける。「訪問のフィールド」には医師も薬剤師も介護士もいる。後輩に対しては、恐れることなく自信をもって向き合うよう伝えたい。・訪問看護は一人のご利用者に対し、自分も一人の人間として関わる仕事である。この道に入ろうかどうしようか考えている人がいたら、私は「まずやってごらん」と言いたい。
 

<質問 3>
仕事や職場のこと、ご自身のことなど何かあれば教えてください。
 

・事務所内では職種の違いをこえて気軽に話し合える雰囲気があり、ありがたいと思っている。ご利用者は一人、目的は一つであってもスタッフが一つになれない職場もある。それはご利用者にもスタッフにもマイナスだと思う。そのようなことがなくて有難いと思う。・「一人の職場」なので引継ぎなど特別の時以外は複数のスタッフが同行訪問する機会はない。したがって他の人が実際にサービスを行っている現場を直接に見ることがない。それは仕方ないけれど、全員のスキルの向上のために所内の情報共有がさらに活発になるとよいと思う。たとえば「ケアの手順の共有」などの機会があればよい。              
                                        
・職員が出勤したり公休だったり、外回りしたりデスクワークしたり、それぞれのミッションで動いており、普通の会社のように「全員集合」の機会が少ない。私個人の話を、職場の仲間よりご利用者のほうが詳しくご存じのこともよくある。それが「訪問」の仕事の特徴であり面白さでもあるが、職員間の情報共有と一体感を強める工夫が大切だと思う。・いずれ現役で働く時期が過ぎたら「地域」を舞台に活動したい。今はこの仕事に全力で取り組んでいるが、将来は立場を変えて活動することになる。個人的な夢でもあるが、それが少しでも地域社会のためになればと願っている。                      
       
                                  
以上がインタビューの要旨です。長くなりましたがカットせず載せました。いま読み返して皆さんがとても率直にお答えくださったことに改めて感謝しています。ブログに掲載することは皆さんにあらかじめ断っていませんし、そもそも8月には私にそのような考えはありませんでしたが、一人占めするにはもったいない内容です。そこで、匿名性も確保されていることから「文責茂呂」として掲載するものです。
これらのコメントの中に「在宅ケア」の意義が示されていると思います。それは人にとっての「Home」の意義でもあります。もちろんすべての人にとって必ずしも自宅が「Home」であるとは限りませんし、「病院・施設ケア」でなければなしえないケアがあるのは当然です。次回は書き洩らしたことを追記して「ケアシリーズ」を終わる予定です。






  

2022/11/03

192)ケアをめぐって 5 (在宅ケア)

 なかなか捗らない「ケアシリーズ」も何とか終盤に入りました。今回のテーマである「在宅ケア」は、自分の住まいで病気をいやすという点で「自宅療養」と同じですが、ここ20年ほど、高齢者の終末期医療の場を病院から自宅へ移行させようとする国の方針のもとで多用された言葉で、当然ながら「みとり」までを含んでいます。

 わが国には、西行、芭蕉、山頭火といった「旅を栖(すみか)とする」漂泊の系譜がありますが、国の調査で「在宅死」を望む人が継続して8割に達することから明らかなように今どきの世間一般の人は(もちろん私も)、自分の生活の本拠地で人生の終幕を迎えたいと考えています。したがって「在宅ケア」の推進は妥当な方針であり、社会保障費節減のみを目的しない「在宅ケア」の環境整備が今後さらに進むよう私は願うものです(もちろん在宅一辺倒を主張するものではありません)。

 古来、人の生死の場所が「施設」でなく「在宅」であったことは言うまでもありません。「悲田院」や「施薬院」などの療養施設がありましたが、これらは施設ケアというより困窮者対策でした。統計が残っている1951年において自宅で亡くなる人が82.5%、病院で亡くなる人は11.7%、近年まで「在宅みとり」が圧倒的多数でした。この二つが同じ割合になるのが1976年のこと、その後ハサミの歯のように差が広がり続け、2005年には在宅死と病院死の割合がそっくり逆転して今に至っています。

 この70年でなぜ多数の人の望みに反して病院死が8割、在宅死が1割になったのか。まずは病院医療の高度化により在宅医療との診療レベルの格差が広がったことによるでしょう。病床の増加、交通の発達による病院へのアクセスの改善もあります。また、忘れてはならないのが1973年から10年間続いた老人医療費無料化という「あとは野となれ山となれ」の場当たり政策で、これが入院増加に拍車をかけました。やがて病院死が一般的となり、社会の中で在宅みとりの記憶が失われ、死が見えにくくなったという心理的な事情もあります(望みつつ自ら遠ざけるという皮肉な話です)。

 国も、こうした状況を座視していたわけではありません。1992年に「寝たきり老人在宅総合診療料」を設け「居宅」を診療提供の場として明確に位置づけたのを皮切りに、在宅診療にかかる各種加算の新設や点数引き上げを実施、2006年には「在宅療養支援診療所」の設置基準(24時間対応等)を定めました。前回テーマの「地域包括ケアシステム」も、国の意図するところは在宅ケアの推進にあります。これらが功を奏して在宅ケアは最近は増加に転じているはず(数値は知りませんが)。特にここ3年ほど、入院患者の面会がコロナで制限されていますから在宅ケアが増えていると聞きます。

 しかし、このような動向と関係なく、早くから訪問診療(日常的な往診)に携わってきた医師、看護師がいたことを最近知りました(有難いことです)。「京都の訪問診療所 おせっかい日誌」(渡辺西加茂診療所編・幻冬舎)は、書名のとおり世間の境界線をすこし踏み越えて親身なケアを提供する診療所の活動記録であり、1985年に医師渡辺康介氏が始めた訪問診療の様子が生き生きと描かれています(ホームページによると現在は訪問看護ステーションが開設されて機能充実のもようです)。

 この本に収録されている訪問スタッフのコメントの一部を紹介します。「病院が『患者の病気を治すところ』であるのに対し、在宅は『病気、生活を含めて患者自身を診るところだと思う。」「病院では『患者が客』であり、在宅では『医療従事者が客』である。」「訪問看護では基本的に一人で患者宅に向かう。医師の判断も仰ぐが自分で判断するケースの方が多い。それを『不安』ととらえるか『やり甲斐』ととらえるかで訪問看護師に向いているかどうか決まると思う。」等々。こうした「実感」は、わが家の訪問介護・看護の方々へのインタビュー(次回に書きます)にも通じますが、在宅ケアの意味を照らす言葉であると思います。

 次の例です。難しい患者が多数おしよせる東大病院の外科医として40年間勤務したのち、2005年に訪問診療の道に転じた医師小堀鷗一郎氏は、その体験にもとづく「死を生きた人びと」(みすず書房・2018年刊)という本を書いています。その裏表紙の紹介文の一部を抜粋します。
 ~これまで355人の看取りに関わった訪問医が語る、患者たちの様々な死の記録。現代日本では、患者の望む最期を実現することは非常に難しい。「死は敗北」とばかりにひたすら延命する医者。目前に迫る死期を認識しない親族や患者自身。そして、病院以外での死を「例外」と見なし、老いを「予防」しようとする行政と社会。さまざまな意図に絡めとられ、多くの高齢者が望まない最期に導かれていく。~

 小堀氏自身は、食道がん手術の専門医として働いた年月をこう振り返っています。
 ~外科医として過ごした40年間を一言で表現するならば「救命・治癒・延命」の日々であり、手術死亡率を低くすることのみを考えて毎日を過ごしていた。合併症によって重篤となった患者を一日でも長く生かすべく何日も病院に泊まり込んだ。末期や老衰で最期を迎える患者に対しても基本的には同じで、さらなる生命の延長を図るのが常であった。そのような自分の姿が患者や家族の目にどのように映っているか、考えたことはなかった。~

 小堀医師の透徹な視線は自身に対して仮借なく、患者へは深い共感をともなって向けられています。数々の印象深い患者との交流が描かれていますが、そのうち一つだけ概要を記します(原文を勝手に端折っています。望むらくはぜひ本書をお読みください)。

 ~事例25 「好きな酒を自由に飲みたい」
 76歳男性。妻と二人の老々世帯。進行した胃がんの切除手術を受けたが再発。本人の強い希望で自宅療養を開始。小堀医師の初回訪問時はひどく痩せ腹水がたまり食事もとれない状況であったが、本人の第一声は「好きな酒が自由に飲みたい」。小堀氏はこれを全面的に許可し、介護にあたるヘビースモーカーの妻にも、夫が許す限り自由に喫煙することを認めた。翌日から患者はホームサイズのウイスキーボトルに吸い口をつけて枕元に設置したが、それと同時に食欲が一時的に回復しウナギ、寿司などを食べ始めた。最期までの2か月間、小堀氏が行った医療行為は、妻が吸うタバコの濛々たる煙の中で褥瘡(床ずれ)の処置をすること位であった。

 ある日、小堀医師は思いついて長年手元にあったジョニーウォーカー青ラベルを持参し患者に進呈した。コルク栓が劣化しており苦労してスプーンの柄で開栓し、大量のコルク屑とともに患者と医師で乾杯。患者は嬉しさのあまり、近く生まれる孫に小堀氏の名前をつけると言い張ったが、小堀氏はこれを制し、患者の名前の一字と小堀氏の名前の二字を組み合わせて「久一郎」とすることを提案し、ようやく折り合いをつけた。この提案は母となる娘に即座に却下された。~

 引用が長くなりました。著者の名前(鷗一郎)の「鷗」の文字に注意をひかれた方があるかもしれません。彼は森鷗外の二女、小堀杏奴(随筆家)の子息であるよし。蛙の子ならぬカモメの孫はさすがにカモメです。最近読んだ文章でいいなと思ったのが小堀鷗一郎、中井久夫、斎藤環の3氏ですが、いずれも医師であるのは偶然でしょうか。

 10年ちかく前のこと、高校以来の友人が96才の母堂を自宅で看取りました。若い日々、遠慮なく押しかける私たちをいつもにこやかに歓待してくださったお母さん、優しく凛とした方でした。友人は、あるきっかけがあって「母親の看取りを通して考えたこと」を副題とする一文を草しましたが、私が母の在宅介護を始めたことからその冊子をくれました。それは大いに参考になりましたし、同時に、その「看取り」が友人一家にとって勿論容易なことではないけれど、幸せな成り行きであったことを知って嬉しく感じました。

 友人は、冊子をこのように締めくくっています。
 ~在宅であっても病院であっても「看取り」というのは、送る者が送られる者を一方的に見送ることではないと思う。「死」は「死にゆく」ということであって、紛れもなく生きるということだ。命終に向かう濃密な生ーそれは寄り添われる者と寄り添う者の両方にとってであるーを、死を共有して共に生きること、これが「看取り」ではないか。そんなことを教えられた母との別れであった。~

 私は友人の意見にふかく頷くとともに、355人の看取りに関わった小堀医師氏の著作の表題がまさに「死を生きた人びと」であることを思います。大きく言えば、私たちすべてが日々「死を生き」ているのであり「死にゆく」途上にあると言えます。また、「看取り」が一方的な行為ではないという友人の認識は、前に取り上げた哲学者エヴァ・キテイの「依存・ケア」論にも通じるものですし、さらに一般化するなら「すべての関係は、(それがまともであればあるほど)すぐれて相互的なものである」と言えるでしょう。

 なにやらツギハギだらけの記事になりましたが今回はこれにて。次回は「訪問ケア」の業務に従事する人々のインタビューを掲載する予定です。





 



 

 

 


実態、推移
在宅の医師
在宅みとり
在宅のワーカー


2022/10/12

191)ケアをめぐって 4 (地域包括ケア)

 これまで人間の本来的な在り方としての「依存」と「ケア」の問題を眺め、ついで家族介護のシーンで存在感を増しつつある「男性介護」にふれました。今回はケアが行われる「場」と「仕組み」である「地域包括ケアシステム」について考えます。このシステムはまだ理念の段階から大きく前進していませんが、人口減少・高齢社会の地域づくりの点で重要な意義をもっています。それにしてもギクシャクしたこの名称。お役所のネーミングは、生硬な漢字、説明のいるカタカナ、手前勝手な標語と相場が決まっていますが、もっとセンスを磨いてほしいと思います。

 そういうおまえはどうだ、と言われる前に本題ですが、いわゆる「近代化」は、世の中を遠景でとらえて社会資源を配置しそこに人を集めるという「集約」と「誘導」により進められてきたと言えます。たとえば巨大な工場、店舗、病院、テーマパーク等のように、、。交通、物流のインフラ整備もあいまって日常生活のエリアは拡大を続けました。効率第一の資本の論理であり、東京一極集中をこの側面から論じることも可能でしょう。こうした流れは私たちに豊かさを提供しつつ、一方で様々なレベルにおける格差をもたらしました。

 地域包括ケアシステムは、少し大げさかも知れませんが、この世の「近代化」に伴って生じた健康、福祉サービスの偏在を、高齢者を中心とした個々の市民の立場から是正する試みであると評価することができます。いわば、わが身の移動がままならない時に介護・医療サービスを近くに手繰り寄せる仕組み。とても良いではありませんか。厚労省はこう言っています。「重度な要介護状態になっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい、医療、介護、予防、生活支援が一体的に提供される地域システムである。」

 具体的には、おおむね中学校区(約30分圏内)を一つのエリアとし、高齢者(ケアを要する人)の住まいのバリアフリー化、サービス付き高齢者住宅の整備、訪問サービス(診療・看護・介護・リハビリ等)の充実、通所サービス(予防・日中介護等)の整備、さらには地域の診療所と大病院との連携強化や老健施設・グループホームなど居住系施設の整備を図ると例示されています。またこれらのサービスは、利用者からみて一体的に提供されることが重要であること、また一方、利用者たる市民は、健康寿命を長く保つために定期健診をうけ、生活習慣病に留意し、活動的な日々をおくって介護予防に努めることが「推奨」されています。

 こうした地域づくりは、介護保険の保険者である市町村や都道府県が、地域の自主性や主体性に基づき、地域の特性に応じて作り上げていく必要があり、介護保険を母体としつつ、より広く地域の健康づくりに取り組むことを国は求めています。地域の特性とは、都市の性格(近郊都市や山間地など)や土地柄、人口や年齢構成、社会資源の状況などで、土台は共通でも全国一律のシステムとはなりえません。当初、目標年次として戦後のベビーブーム(夢のよう)の主役であった「団塊の世代」が75才以上となる「2025年」の実現をめざしていましたが、現在は「団塊ジュニア」が65才以上になる「2040年」(このあたりが国民の死亡数のピーク)に繰り延べられています。

 国にとって地域包括ケアシステムを進める目的は第一に社会保障費の抑制でしょう。高齢者の激増を主因とする社会保障費の増大は半世紀も前から自明のことであったはずです(そのために人口推計をはじめ各種の予測がある)。しかし、時々の政権は将来に備えるより、その時点での票の獲得を優先してきました(いまも同じ)。ようやく2008年、厚労省に「地域包括ケア研究会」が設置され、「なるべくカネのかからない高齢者のケアシステム」が議論されて今日にいたっています(防衛費増額のしわ寄せにされてはたまりませんが)。

 したがって「自助、互助、共助、公助」が重視されるのも自然の流れで、インフォーマルサービスと呼ばれる「互助」には、時にサービスの利用者自身も「担い手」として参加することが期待されています。「地域包括ケアシステム」は、こうした多様なサービスを引き出す場としても存在します。悪口のようなことを言いましたが、私は、このケアシステムに期待を寄せています(システムというよりビジョンやネットワークの方が中身に近いと思います)。

 その胴元である地方自治体は、地域福祉の維持増進に関する国からの責任転嫁(丸投げ)に注意しなければなりませんし、私たち高齢者(さらには地域住民)は、行政の「自助努力」や「自己責任」の押しつけをはねのける気概を持ちたいところですが、いずれにせよ今、日本の福祉、介護は大変厳しい状況にあります。そして、このシステムをよりよく運用することにより、私が言うところの「公」(個人と集団との幸福な関係)が地域的、局部的に出現するかもしれません。ささやかでもよいから成功事例を作りたいところです。

 このシステムにおいて重要な役割を果たすのが、私にもなじみ深い「地域包括支援センター」です。大津市は、従来から乳幼児・母子保健の拠点となる「すこやか相談所」を7つの福祉圏域に設置し、ここを基地として保健師が活動してきました。2000年の介護保険法の施行により「地域包括支援センター」を設置する際、「すこやか相談所」との併設を決定したことがとてもよかったと思います。これにより赤ちゃんから高齢者まで一貫した地域保健サービスを提供することが可能となりました。民間事業者からの出向人材も受け入れました。

 ただ、大津市民の方々に「地域包括」の名前がいつまでたってもピンとこないと私たちは感じていて(私は所管課長でした)、公募の結果「あんしん長寿相談所」に改名した経緯があります。「すこやか」と「あんしん」の所長は一人の保健師が兼務しており計7名、私は勝手に「セブンシスターズ」と名づけ、彼女らとの定例会議をいつも楽しみにしていました。その場では地域の様子が手に取るように分かったのです。まったく現場の人々の努力のお蔭であったと思います。

 いま、大津市のホームページを見ると、高齢者人口の増加している地区に「あんしん長寿相談所」の「第2センター」が設けられ、拠点数は11か所になっています。今後こうした場において、地域福祉の担い手たち(医療、介護、福祉、企業、自治会、NPO関係者等)の交流が日常的に行われることを祈るものです。大津の民・官の人材は豊富ですから地域包括ケアシステムの前途は明るいと信じています。

 一晩寝て書き足します。

 地域包括ケアシステムの進め方私案ですが、原案をつくり、各方面に声をかけ、進行管理していくのはやはり市町村ということになります。段取りとして、① 対象地域の地図をつくる(福祉・医療機関などサービスの担い手をプロットする)。 ② 地域内の担い手の顔合わせを行う。イメージを共有できる資料も配布(可能ならば一堂に会して)。 ③ 担い手が情報共有できるサイトを作る。 ④ いくつかのモデルケースに取り組む。 ⑤ 以上のプロセスから改善点を整理し共有する。 ⑥ 自治会等を通じて地域の住民への情報提供(安心の地域づくりを皆で進めています、という趣旨の周知)。

 以上は大津市の現状も知らないまま私の頭の中だけで書いています。慢性的な人手不足に加えてコロナ対応がありますから現場はさぞ大変でしょう。どうかすべての「担い手」が疲弊することなく、安心の地域づくりが進むことを祈っています。




 

 

 


 

 




2022/10/01

190)ケアをめぐって 3(男性介護)

 ~  介護をしない男を人間と呼ばない。介護は人間しかしない、他の動物は決してしない営みです。ですから介護することは人間の証明です。性別役割分業のもとに育てられた男性は、具体的な介護の仕事に戸惑い、悩むことが多いでしょう。しかし一方で男性には長年にわたって築き上げた社会的スキルがあります。孤立していてはその力を発揮できませんが、まとまれば社会を動かせます。(中略)男性諸兄、介護の世界にようこそ! 真人間の世界にウェルカム! ~

 これは、2009年3月、樋口恵子氏(高齢社会をよくする女性の会理事長)が、「男性介護者と支援者の全国ネットワーク」の発足によせた応援メッセージの一部。同ネットワークの事務局長をつとめる津止正敏氏(立命館大学産業社会学部教授)の著書「男が介護する」(中公新書)から転載しました。男をすこし持ち上げ励ましながらバチンと正論をぶつけており、男の私が読んでも気分爽快で、依存とケアの「正義」を論じるエヴァ・キテイの主張と深く通じるものがあります。
 ついでながら、私は元来、男だ女だという意識があまりなく、まずは「人間」だろうと思っています。早くに父を亡くし母の「女手ひとつ」で育ててもらった「恩恵」かも知れません。
 
 さて、いまや介護は完全に私の生活の中心となりましたが、まだ「介護歴」は5か月ですから何かを語れるほどの中身がありません。それにしても人の介護の話が身に染みるようになりました。ああそうだ、わかるわかる、という感じです。「男が介護する」という本もそのように読みました。著者は、かつて実母の介護問題に悩み、ゼミのフィールドワークとして地域の男性介護者の聞き取り調査を行い、各地の男性介護者のコミュニティ(会や集い)のネットワーク化に尽力してきた人です。今回はこの本をネタにさせて頂くこととし、以下に「はじめに」から抜粋して引用します。

 ~ 「女性介護者」とあえて呼ばないように長く介護を支えてたのは女性だが、近年では介護する夫や息子などの実数は100万人を超え、男性が主たる介護者の3人に1人を占めるに至った。ワーク・ライフ・バランスや男女共同参画の観点から歓迎すべきだが、一方で介護心中や虐待などの不幸な事件は増加しており、加害者の多くが男性家族である。その背景には、介護は、そればかりでなく男性の苦手な家事の負担(炊事、洗濯、買い物、掃除など)を伴う場合が多い、これらと仕事との両立は容易ではない、困難を抱えても人に助けを求められず孤立する男性が多い、といった事情がある。

 介護はつらくて大変だというのは厳然たる事実だ。ただ留意したいのは取材に応え体験記を記した多くの介護者が異口同音に「でも、そればかりでもない」と発したことだ。介護はささやかなりとも希望にも喜びにも浸れるような、直面して初めてその価値に気がつく生活行為でもあるというのだ。社会の主流である介護を排除してこそ成り立つような暮らしと働き方への異議申し立てだろう。本書が提起する「介護のある暮らしを社会の標準に」という主張は、こうした介護者の両価的感情との出会いから生まれた。

 男性を介護の射程に収めることは、視点を変えると男女がともに介護を担う時代を見据えることにあり、男女が手をたずさえ家族と自分の老後を安心して託すことができる新しい介護社会のシステムを創造していくことに他ならない。これは家族介護を礼賛しそこに誘導することとは一線を画し、「介護の社会化」の延長線上で家族と介護とを捉えようというものだ。いわば、家族等をいたわり気遣う権利(ILO156号条約)の観点から介護の社会化を考えてみたいのだ。

 万全の準備をして介護に臨んだ人、備えなく突然に介護場面に押し出された人、これまでの愛情や支えの恩返しを胸に一歩を踏み出した人、家族責任の思いからすべてを引き受けようと覚悟を決めた人、仕事と介護の両立に難儀している人、離職を余儀なくされた人。家族を看取った人もいれば新たに次の人生を歩き始めた人もいる。いわば、時代のフロントランナーとして戸惑いながらも介護者の道を歩むことになったすべての男性たちに心からのエールを送ろうと思う。 ~

 以上はこの本の趣旨を端的に語っている前書き部分の要約で、涙あり笑いあり読み応え十分の本編はこのあと続きます。世帯人数の減少や高齢者の増加により男性介護が増えるのは道理ですが、新参者である男性介護者が地域の介護者の集い(女性の割合が多い)に参加しても馴染めないことがよくあり、各地で自然発生的に男性介護者の交流の場ができているのだとか。そうしたグループが、「認知症の人と家族の会」や「男性介護研究会」の呼びかけに応えて「男性介護者ネット」を設立した経緯があり、今ではすべての都道府県に会員がいると記されています。

 それを知って、これは男性のワクに閉じこもったネットワークかと思われる方があるかも知れません。しかし、著者は次のように書いています。 ~ 介護・育児のために職場から排除されキャリアを剥奪されることが、女性ならば当然視され、社会から支援の対象として認知されることもなかった。いざ男性が当事者となると、なぜに社会問題と化すのか。場合によっては特段に注目され、さらには賞賛されるのか。この社会に深く根を下ろすジェンダー規範を乗り越えていくにはどうすればいいのか。この課題に男性たちのケアのコミュニティはどう関わり得るのか。ネットワークの10年は、いつもこうした問いに向き合いながら交流する日々だった。~

 引用ついでに本編からいくつかの報告やデータを転記します。

・男性介護者の介護困難の内容は、身の回りの世話および家事労働であった。中でも特に排泄や食事の介助が最も多く、問題行動は少なかった。男性介護者は女性介護者に比べて介護に時間がかかり、介護負担がいっそう強くなっていると考えられた。(本書P70。小和田・中山による1992年アンケート調査結果)

・男性介護者は介護を一身に背負い、精神的負担が非常に強いことや、周囲への援助要請が消極的であること、痴呆や介護への知識不足が介護への負担感を強くしていることなどが推測される。高齢者介護問題を取り上げた従来の研究では、介護が伝統的な性別役割規範のもと、嫁や娘といった比較的若い女性によって担われてきたため、高齢配偶者間介護、特に高齢の夫が介護者である場合の介護問題については研究が不十分である。(P72。一瀬による2002年「高齢者の心中問題に潜む介護問題」)

・同居の主たる介護者の続柄(1968年~2019年の割合変化)
  嫁 (1968年:49.8%  ⇒  2019年:9.8%)
  妻 (20.5%  ⇒ 25.9%)
  娘 (14.5%  ⇒ 16.1%)
  夫 (  4.5%  ⇒   14.3%)
  息子(  2.7%  ⇒ 14.9%)
  婿 ( 0.4% ⇒  0.3%)
(P85。著者作成データ。「その他家族」を除いた数値。中間年の数値を省略して引用しましたが、どの続柄の増減もほぼ直線的な動きを示しています。「嫁」の激減と「男性」の激増が明らかです)

・要介護者と同居の主な介護者の年齢組み合わせ(2001年~2019年の割合変化)
  60才以上同士 (2001年:54.4% ⇒ 74.2%)
  65才以上同士 ( 40.6% ⇒ 59.7%)
  75才以上同士 ( 18.7% ⇒ 33.1%)
(P87。厚労省データより著者が図表作成。ここ20年で介護の「老々化」に拍車がかかっています)

・男性介護者のシンポジウムにおける支援者(社会福祉協議会職員)の発言
 「徘徊に悩まされたり、夜中に何度もトイレに起きて大変なんだという会話を傍らで聞いていた、介護5の寝たきりの妻をみている人が、『妻のそういう状態(徘徊やトイレ介助)を何年も見たことがありません。私にとってはそのような状態は逆にうらやましいです』と話された。こういうのが大切かと思った。聞いていて思わず泣けてくるような場面もある。こういう気付きは私たちが支援できるものではなくて、介護者同士だから言い合えるものだと思ってそっと聞いている。」(P161)

 長々と引用しましたが、最後に収まりよく「まとめ」らしいことを書くことができません。しかし、この本「男が介護する」は、男性介護、老々介護のただなかにあるわが身につまされます。私も時間を使い手抜きをせずに介護と家事をやっていますが、どうも投じたエネルギーにみあう結果を得られていません。要領が悪いという自覚はあるので(特に母のための家事や買い物に関して)、今後、少しは進歩の可能性もあると思いたいところです。次回はケアシステムについて考えます。





 

 

 

 

 

 

2022/09/24

189)ケアをめぐって 2 (ケアの倫理)

  私と家族の事情により「介護」、広くは「ケア全般」について考えることとなりましたが、私たちが夫婦として過ごした最終の日々がその契機となったわけではないことを言い添えたいと思います。私たちは一貫してケアを「する者」と「される者」という関係になく、それまでからずっとそうであったように、ともに手を携え、声をかけ合いながら一つの出来事に共同して(この時は必死に)立ち向かったのであり、それは看護でも介護でもありませんでした。このことを相対化する視点と語る言葉が私にありません。あふれる記憶は彼岸にもっていきます。

 しかし一方で、同じ頃に人の親となった息子夫婦が、仲良く、真剣に育児に取り組んでいるのは、私にとって大いに喜ばしくも多少は客観的に眺められる情景であり、また本年5月から私が介護している妻の母(96才、要介護5、意識澄明、寝たきり)は、「大切だが一心同体ではない家族」として程よい心理的距離があります(それがなければこちらの心がもたなかったと思います)。そこで「ケア」をめぐる一般的な感想を述べるわけですが、「最初と最後におむつをするのが人生である」と改めて思いました。

 ちなみに赤ちゃん用のおむつには、水分を検知して「ありがとう」の文字が浮き出てくる製品があります。それも1パック全部でなく何枚かに1枚の割合で設定されており、画一化をさけるメーカーの工夫が心憎いところ。これを「しゃらくさいメンタル作戦」と見ることも可能ですが、昼夜を問わずへろへろになっておむつ交換する親には、まだ物言わぬわが子からのメッセージとなりえますし、私自身もその受け止め方に共感します。でもこれを大人用おむつに適用するのは難しいでしょう、何と書いてもウソくさくなる気がします。

 さて、こうした次第で母の介護の片手間に介護関係の本を読みだし、芋づる式にたどって「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」に行き当たりました。著者は米国の哲学者エヴァ・フェダー・キテイ、監訳は岡野八代、牟田和恵(白澤社発行)。著者、訳者ともフェミニズム研究者であり、一度講演を聞いたことのある岡野さんを除いて初めて知る名前です。同じ著者、訳者による「ケアの倫理からはじめる正義論 ~支えあう平等~」も深くうなづきつつ読みました。以下の記事はキテイの思想の受け売り、先刻ご承知の方はお許しください。

 人間はそもそも「依存」する存在であり、それを支える「ケア」がなければ生存できない。したがって「依存」も「ケア」も人間と社会を成り立たせる重要な一対の要素であるにも関わらず、「依存」は非自立とみなして否定的にあつかわれ、「ケア」は主として女性のシャドウワークとされてきた。これらを正しく評価し、社会の正義と平等を追求すべきである。このようにキテイは言っており、とくに革新的な考え方というわけではありませんが深く鋭い論考だと思います(私の理解の限りでは)。

 キテイは自分の主張を「依存批判」と名づけていますが、それは依存という状態を批判するものではありません。生後しばらくの間、人生の末期、あるいは病気等によって人間が不可避的に他人のケアに依存しなければならないという事実を覆い隠して平等を定義することは出来ない。依存を組み込まない平等ではなく、依存を包摂する平等理論を作るための作業を「依存批判」と呼ぶ、と彼女は言っています。

 この考え方について、社会学者の江原由美子は「ケアの倫理からはじめる正義論」で以下のように分かりやすく解説しています。

 ~ 従来のジェンダー平等のための社会批判の論理はいずれも、基本的に人々が能力において「平等者の集団」であることを前提として、あるべき社会を構想していた。無論、それらの批判においても、現状では「差異」や「支配・被支配」が存在すること、またそうした理由等によって能力において「不平等な状態が現にある」ことについては十分把握されてきた。しかし、こうした不平等な状態は「平等化施策」によって解消可能であり、それ以外の能力の差異も、社会的条件や偶然的な条件によって生じる「一時的なもの」と見なしうるとされた。それゆえ、基本的な社会構想としては、社会を「平等者の集団」と見なしてよいということを、当然視してきたのである。

 これに対し、「依存批判」は、まず、「依存」を、基本的な人間の条件としてみなすべきであると主張する。ここにおける「依存」とは、「誰かがケアしなければ生命として維持することが難しい状態」にあることをいう。人間は誰もがすべて、その生涯において一定期間は「依存」の状態にある。また長期間あるいは一生にわたってその状態にある人もいる。その意味において「依存」とは「たまたま生じたまれな状態」、「それゆえ無視してもかまわないような状態」なのではなく、私たち人間の基本条件なのだと「依存批判」は主張する。

 「依存」を人間の基本的な条件とみなすことは、「依存者」をケアする活動を行うことをも人間の基本条件とみなすことを意味する。「依存者」は、その生命の維持を他者に依存している。すなわち「依存者」はその生命維持のために、「被保護者の安寧の責任を負う活動」を行う「依存労働者」の労働を不可欠とする。ゆえに「依存」を人間の条件として認めることは、社会を「平等者の集団」とみなすのではなく、「依存者」「依存労働者」をも含む人々の集団であるとしてみなすことを意味する。

 そうだとすれば、「平等」とは、能力において対等な「平等者の集団」で構想されればよいことなのではなく、他者のケアなしには生存できない「依存者」や、「依存者の生存の責任を負っている依存労働者」との間において構想されなければならないことになる。このように「依存批判」は、「依存」という状態を「人間にとってあってはならない例外的な状態」で「できる限り克服すべき状態」と見なすのではなく、誰もが経験する当たり前の状態と見なすことから出発するのである。~

 長い引用となりました。「出発するのである」とあるとおり本論はこれからであり、古くはソクラテス、アリストテレスからカントを経て近年のジョン・ロールズにいたるまでの西洋哲学の系譜を、自立した人間(すなわち男性)を暗黙の前提とするものであるとして批判するところはフェミニストの面目躍如たるものがありますが、そこまでのご紹介は力が及びません。私としてはこの大きな「出発点」を確認できたことで十分に満足(満腹)したような次第です。

 さて、キテイの定義によると、私も息子夫婦も「依存労働者」ということになります。ここで「労働」という言葉が使われているのは、第一には「家事労働」と同じく、多くは女性のシャドウワークとして介護や育児が行われてきた事実に注意を向けさせようとするものでしょう。質も量も中途半端ではないこうした「労働」に従事した結果、「金銭を対価とする労働」から長く疎外されてきた女性の歴史があります。
 第二には、「ケア」が人間の生存と社会の維持をになう「社会的」な行為で責任を伴うものであるという認識によるのでしょう。職業としての「ケア」があることは言うまでもありません(こうしたプロフェッショナルについては、母と私もお世話になっている最中であり、いろいろ感じるところを今後書きたいと思います)。

 キテイの思想は、本来的に脆弱である人間というものを擁護し、依存する人間と依存される人間とをともに肯定するものです。依存は人間の自然であり、生存のための権利である。同時に、それを支える行為(ケア)も人間の自然であり、行為者は自らの責任を果たしつつ必要十分なケアの実現を社会に求める権利を有する。したがって育児、看護、介護などは私的な営みであるばかりでなく社会的な行為でもある。「権利」という言葉を使ってキテイの主張はこのように言うこともできます。

 さらに彼女は、自分が重度の知的障碍をもつ娘の母として、夫と協力しプロの支援を受けつつ育児をしてきた経過と、その体験が自己の思想を深めたことを著作で述べています。この本を読んで励まされる人は多いでしょうし、私もまちがいなくその一人です。
 引き続いて男性の介護者、地域包括ケア、訪問診療などについて書く予定です。








 



 


  



正義論の本家といえば、やはり米国の政治哲学者ジョン・ロールズというのが通り相場で、「公」を論じる私もロールズを読まなければならないのですが、キテイは






2022/09/18

188)ケアをめぐって

 このブログでは、いまだにメインテーマである「公」について系統立てて論じていません。たとえば、「公」の定義や概念の変遷(「公儀」という語もあったように)、民主主義や社会正義さらには政治と「公」との関わり、さまざまな表現活動に見る「公・私」関係の変容、情報通信技術(ICT)や人工知能(AI)のとめどない進展が「公」に及ぼす影響、さらには人口減少時代(縮小社会)における「公」のあるべき形、等々。

 こうした論点を順序よく並べひとつの読み物にしたいのですが、思うばかりで着手できず、なにせ「がっぷり四つ」に組むには大きすぎる相手です(誰かそんな面白い本を書いてくれないものか)。そこで私としては、少なくとも今のところは体験的、周辺的、断片的な「私的公論」を綴っているわけですが、上空たかく漂う「公」の風船のヒモだけは離さずにおこうと思っています。

 さて、これからシリーズで「ケア(care)」について書くつもりです。「公」は、その実現が決して容易ではない「個と集団との互恵的なより良い関係」を目ざすものであり、「ケア」はその場における重要なキーコンセプトであると考えます。今このことを強く感じるのは、私が母を介護する者として、被介護者たる母と共に「地域包括ケア」(これも「公」の一つの現れ)のサービスを受ける身であり、同時に、離れた地では、息子夫婦が生後まもない娘の養育に大きな喜びをもって取り組んでいるという事情があります。人生の初めと終わりは、時には途中でも、ケアを抜きにして語れないということをあらためて認識しました。今回は前触れだけで失礼します。









2022/09/09

187)出るわ出るわ

 「お通じ」に悩む人が多いのでしょう、ネット上には「朝イチどっさり」とか「出るわ出るわ」とミもフタもない便秘薬のCMが流れています。しかし最近は自民党から「出るわ出るわ」。ひどい悪臭がただよっています。これでスッキリしたと党幹部は言いますが、懐中電灯で暗闇をさっと掃いたほどのこと、氷山の一角にすぎません。これはもちろん「統一教会」と関わりのある議員の話であり、ひいては「統一教会」と自民党との深い縁(エニシ)の問題です(この教団については馴染みのある旧名を用います)。

 安倍氏襲撃の翌日、私は記事183で次のように書きました。「容疑者は、ある宗教団体に個人的な恨みがあって報復しようと思ったが近づくことができず、団体と関わりの深い安倍氏を狙ったと説明しているようです。もしそのとおりなら、これは政治・社会的な主義主張とは関係ない私怨にもとづく犯行であり、しかも安倍氏は教団代表者の身代わりとされたことになります 」。今このコメントをふりかえって極めて浅薄であったと反省します。

 「統一教会」といえば私の学生時代にキャンパスで勧誘活動が盛んでしたが、そのほかには「高額の壺」や「奇怪な合同結婚式」程度の知識しかなく、数あるうさん臭い宗教の一つに過ぎないと思っていました。しかし、信者からの収奪によって形成した大きな「金力」と「人力」を武器にここまで自民党に食い込んでいた、というより「共に歩んでいた」とは思いもよりませんでした。岸信介と文鮮明のツーショットも今あらためて目にしました。なるほど元来から親和性のある二つの団体ではあります。

 山上容疑者の蛮行は、事情がどうあれ相手がどうあれ絶対に認めるわけにいきません。万一これを良しとしてしまうと世の中の「タガ」が外れます。仇討ち(私的報復)はとうに禁じられています。その上であえて言うならば、容疑者の眼には、統一教会の代表者の次に安倍晋三氏が報復に値する「二番目」の対象であると映りました。これは信者の家族として過ごした人生が彼にもたらした「認知」であり、見当違いと一蹴することは困難です。一方でこの襲撃は、岸信介から安倍晋三が相続した有形、無形の「遺産の一部」であったという気がします。

 ところで今回、自民党は「統一教会との関わりについての議員の自己申告」を取りまとめ公表しました。うるわしき性善説に基づく「取りまとめ」の結果、379議員のうち179人が「関係あり」と自己申告しました。自己申告分だけで自民議員の47パーセント。アイウエオ順の名簿が洩れなくきれいに出来ました。茂木幹事長は「決して少ないとは思っていない」と評価しつつ、「今後あらたな事例が出てこないよう祈りたい気持ち云々」と言いました。まことに無責任でお上手なコメントです。

 また「申告」できない安倍晋三氏こそ疑惑の中心人物ですが、死亡しているので調査できないという不思議な理由で臭いものに蓋をされました。
 ついでに言うと、選挙運動で統一教会に出向いた萩生田氏が「どこに行ったか分からない」と釈明し、統一教会でひな壇に上がっていた山際氏が「報道を見る限り、私が出席していたと考えるのが自然である」と言いました。いやまったく恐れ入ります。「ジキルとハイド」のレベルです。並みの人間ではとても政治家になれないと実感します。

 さらに言うと、この件に関し岸田氏も茂木氏も「率直にお詫びしなければならない」と語っています。こうした尊大な物言いを咎めないマスコミの言語感覚はとてつもなく鈍く、それを許容している世間は無類のお人好しです。なぜ彼らは「心からお詫び申し上げます」と言わないのか。われわれ一般国民はあなた方政治家よりも格下か。私は揚げ足を取っているのではありません。安倍政権から今にいたる政治状況をふりかえって言っています。一事が万事です。

 国葬しかり。被葬者安倍晋三氏の評価が仮に「満点」であったとしても国葬には法的根拠がありません。最長政権、内政外交の功績、各国の弔意等々なんとでも言えばよいけれど、これらすべてに有力な反論と異議申し立てが可能です。ともかく法的根拠がない。根拠なく国民に大きな黒いベールを被せ、莫大な公費を費やすことは認められません。いっそ「統一教会葬」にしてはと思うのですが、これまた教団の社会的信用の向上に寄与するので不適切です。前例通りでよいのではないでしょうか。私が遺族なら全て私的に執り行うと主張するところですが、幸いなことに故人とは縁もゆかりもありません。







 




 

2022/08/28

186)原発事故 5(追記)

 話題を変えようとしたら政府が「原発推進」のノロシを上げました。岸田文雄首相は「大津通信」を読んでいないのか! と書くと「コイツは大丈夫か?」と心配くださる向きもありましょうが、いえ大丈夫ではありません、私はキレています。「ごまめ」どころか「めだか」の歯ぎしりにも及びませんが追記しないではいられません。

 カーボンニュートラルの実現に向けたグリーントランスフォーメーション実行推進会議(なんと恥ずかしい名前!)において、首相が「事故停止中の刈羽、高浜など7基の原発(安全対策や地元同意も未完了)の再稼働の推進」、「すでに40年から60年に延長ずみの法定運転期間の再延長」、「次世代革新炉の開発・研究の推進」を表明しました。おい、岸田さん、気は確かか?

 政府が理由にあげるのは、① 二酸化炭素の排出抑制の必要性、② ロシアのウクライナ侵攻による原油、天然ガスの高騰、③ かかる情勢下での電力の安定供給確保です。
 このうち、① がウソとゴマカシの塊であることは既に書いたとおり、② は、少なくとも新型炉推進の理由になり得ません。なぜなら「革新炉」の実用化、安全対策の確立、環境影響評価、プラント建設、なあなあ審査、試運転、営業運転までどんなに急いでも10年以上はかかるでしょう。③ は、「原発こそ基幹的・安定的電力源」であるという政府の決まり文句ですが、一方で火力・水力発電を止めたり太陽光電力を捨てたりしています。

 岸田首相はじめ政権を担う人々は「脅せば従う」と国民をなめてはいけない。いたずらに危機感をあおり、「積極的平和主義」を標榜し、米国の意のままに「核ある世界」を承認し、さらに「原発推進をたくらむ」など火事場泥棒の真似はやめろ。もう福島の事故を忘れたか。「ご父母様」に叱ってもらうぞ。

 防衛費の「GNP2%枠」など、何かというと欧米を引き合いに出す日本の政府、政治家たちですが、欧米がすでに原発から撤退していることは「選択的に除外」しています。米国で原発の数が最大であったのは1974年(およそ半世紀前)のこと、それ以降は計画中の原発のほとんどすべてが中止、完成間近の原発も中止されました。天然ガス(シェールガス)の開発が進んだという事情もありましたが、スリーマイル島原発事故(1979年)の教訓を米国政府と国民が忘れなかったことが最大の理由でしょう。

 ドイツのメルケル前首相は原発推進派でしたが(科学者でもあったことが裏目に出た?)、福島原発事故を「他山の石」として技術者と知識人からなる「倫理委員会」を立ち上げ、事故のリスクと未来への責任を重視して原発撤退を決断しました。イタリアでは2011年6月に福島事故を受けた国民投票が行われ原発再開計画を断念。スイスでも国民投票が行われ、原発新設を禁止し再生可能エネルギーを推進する新法が成立しました。韓国、台湾でも原発見直しが進んでいます。こうした動きは小出裕章さんの著書から引用しましたが、「自山の石」の日本は、いったいどうしたのか。

 「電力の安定供給」と「環境の損傷軽減」の両立を図る工夫は幾つもあります。たとえば「自然エネルギーの本格導入」、「余剰電力による揚水発電の活用促進や水の電気分解による水素燃料の大量生産」、「送電線・連携線の増強による電力ネットワークの強化」、「蓄電池の低価格化のための研究開発」等々。しかし、これらは「各論」に過ぎず、「総論」は「大量生産、大量廃棄によるエネルギー浪費システム」の見直しに他なりません。

 そしてその大本には、いまの世の中をこれ以上悪化させることなく持ちこたえ、できれば改善し、未来への禍根を減らしつつ「よりマシな形で」次代へ引き継ごうとする理念が据えられるべきだと思います。まさに「公」の理念です。この理念に照らして「原発は悪」です。
「売国奴」とは、右翼の連中が好んで使う下品な言葉であり、同時に国家と個人の相克を照らし出す言葉でもあると思っていましたが、原発推進の旗を振る政治家にはこの言葉がピッタリです。彼らに理知と廉恥を求めます。




 

2022/08/16

185)原発事故 4(国策のわけ)

 「国策」である原発が国と事業者なれあいの「無策」の末に爆発し、いまも国土と海を汚染し続けています。11年たって溶け落ちた核燃料(デブリ)の状況すら把握できず処理方針は未定。原子炉(1~3号炉)の底が抜けたため、チェルノブイリのように「石棺」で覆って放射能の減衰をまつ「時間かせぎ」もできません。放射線管理区域(非日常空間!)の基準を超えて汚染された土地が福島を中心に広がり、原子力緊急事態宣言も解除されず、自宅に戻れない人はなお多数、子どもの甲状腺がんも増えています。

 しかるに「国には何の責任もない」と、国自身が、最高裁の口を通して、言い放ったことに怒り呆れて長々書きましたが今回でいったん終わります。擬人化しても仕方ありませんが「国」とは、想像を絶するほどに無責任、無慈悲、厚顔無恥、鉄面皮、傲岸、利己的な存在です。私は主に統治機構としての国について言っていますが、時々の政権も似たようなもの、個々の政治家にも同類が多数あります。

 これは仕組みの問題か人間の本性のなせる業か、歴史は繰り返すのか劣化しつつあるのか、日本だけの現象か世界も同様か、一考に値しますが私には見当もつきません。「これなら人格高潔な君主が支配する専制国家の方がマシだ」という意見も出るでしょう。現実にそうした「明君」の機能を天皇制に期待する声が根強くあります。私たちの民主主義が日々、試されています。

 以下、3項目(原発の問題点、原発の利点、国策である理由)に分けて書きます。これまで私が勉強(?)したことによりますが、特に原子核工学の小出裕章さんから多くを伺いました。著作(「原発事故は終わっていない」ほか多数)や講演だけでなく何度か親しくお話する機会があったため出典等を逐一明記できません。すべて私の知識と理解の範囲で書いており文責は勿論私にあります。

<原発の問題点>

 原発の何が問題かといえばすべて問題であり、ウランの採鉱から濃縮、超巨大プラントの建設、高温高圧の蒸気を得るために燃料を核分裂させる原子炉の運転、立地自治体の「金漬け」、使用済み燃料再処理・処分、廃炉、これらを通じた継続的な環境汚染、容易に国土を損ない得る事故の可能性および「実績」等々。こうした事実に即していえば原発は「存在自体が悪」ですが、ここでは原子炉の運転により核分裂生成物「死の灰」やプルトニウムが生成される点を取り上げます。「危険物」が「極超危険物」に変化して人の手に負えなくなる過程です。

 100万キロワットの原子炉を1年間運転して生じる「死の灰」(ヨウ素131、セシウム137、キセノン133、ストロンチウム90、サマリウム149など)の分量は「1トン」。米国が広島に落とした原爆による死の灰は「800グラム」。つまり標準サイズの原発は1年で「広島原爆の1200発分」の死の灰を作り炉内に貯めこみます。福島第一原発の爆発で外部に放出された死の灰は「2%」とされていますが、それだけでこれほどの被害(政府公表数値:セシウム137は広島原爆の168倍)が出ています。

 こうした原発が全国に57基あり(福島第一原発など廃炉が決定したものを含む)、わが国は原爆何万発分もの核物質を過疎地の沿岸部に「集中配備」していることになります。現在大半は休止中ですが、厄介なことに核燃料は運転中でなくても崩壊熱を出すため、炉内にあっても燃料プールにあっても冷却し続けなければなりません。ご記憶でしょうが津波の時に定期検査で停止していた福島4号炉の燃料プールに必死で注水していたのはこれが理由です。さもないと東京あたりまで人が住めなくなると原子力委員会委員長が警告したのです。このように原子炉は運転を止めれば安全という代物ではありません。

 今回の津波のように自然災害は今後も必ず発生します。また、そもそも原発は緩慢な核爆発を連鎖的に発生させる綱渡りのような複雑・巨大な装置であり、暴走事故も人為的ミスも十分あり得ます。サイバーテロの可能性も小さくありません。航空機や隕石の落下も誰がゼロだと保証できるでしょうか。さきほど「核物質の集中配備」と言いましたが、核のボタンは誰の手にもありません。今回の爆発は起こるべくして起こったのだと私は思います。

 また、事故を別としても原発が生み出す死の灰を何万年も保管し続けなければなりません。
現実として死の灰が生じた以上は速やかに隔離したいところですが、深海、南極、宇宙処分などは国際条約や危険性の面から不可能であり、多少見込みがあるのは大深度の地層処分のみ。しかし日本列島は地震の巣であるうえ地下水脈が多く、ここなら安心という場所がありません。後始末を考えずに営業運転を開始したわが国の原発は当初から「トイレなきマンション」と言われており、いまや危険な汚物があふれる寸前です。六ケ所村の燃料プールは全国の原発から搬入された「再処理待ち」の使用済み燃料で満杯、そのあおりで各原発の燃料プールも8割がた満杯の状況です。

 こうしたなか国は、従来から「核燃料サイクル」の実現をめざして巨費を投じてきました。すなわち使用済み核燃料を細断して硝酸で溶かしプルトニウムを取り出し(再処理)、それをウランと混ぜて高速増殖炉「もんじゅ」で燃やそうというのです。理屈上は核燃料の有効利用ですが、六ケ所村の再処理工場は26回の完成延期のすえ今も操業できず、これもトラブル続きの「もんじゅ」の廃炉はすでに決定済み。いずれも制御が困難で危険極まりない技術であることが根本的な理由であり、国策である核燃料サイクルはとうに破綻しています。再処理をやめてダイレクトに処分(正確には永年保管)しようにも前記のごとくその場所の確保すらできていないのです。

 下線をつけた幾つかの言葉は、常識的、客観的、論理的、科学的に考えて実現または実施が不可能な行為や事物です。ここで詳述しませんが、あふれる情報を比較検討しながら丁寧にたどっていくと一目瞭然です。これほどまでの危険物をこの世に有らしめてはならない。原発の問題はこれに尽きます。このシンプルな事実を何十年も前から、前掲の久米さん、高木さん、小出さん(熊取6人衆)ら真っ当な科学者達が中心となり、身体をはって訴え続けてきました。福島第一の爆発事故を防ぐことは出来ませんでしたが、それでも、或いはそれゆえ、原発への「理解」は徐々に広がりつつあると思います。

<原発の利点>

 原発に何の利点もありませんが国や事業者の「虚偽説明」を簡単にふり返ります。
「化石燃料はあと20年で枯渇する」。私たち夫婦が原発に関心を持ち出した頃、国と電力会社がこのように言っていたことを忘れもしません。石炭は掘りつくし原油の埋蔵量も知れている、これからは原発が主力だというわけです。それから40数年、石油は燃料以外の原材料としても大量消費されていますが、そのことの是非は別として、化石燃料はまったく枯渇などしていません。天然ガスも十分にあります。発電燃料の中で最も残り少ないのはウランです。

 「原発の電気が一番安い」とも喧伝されました。コスト計算は経費発生の始期・終期の設定や計算式によって玉虫色ですが、研究者は当初から国の説明を否定しています。ごく最近の電力会社の有価証券報告書の記載データからも、火力発電や水力発電の方がずっと安いことが裏付けられています。ましてや原発から切り離せない放射性廃棄物の処理経費や事故対応の費用を考慮すると、もう比較にならないほど原発は高額の発電手段です。
 ちなみに福島事故の復旧費は国の概算で22兆円、シンクタンク試算で80兆円、いずれも応急措置のレベルであり、法的な許容放射線量を満足する除染、復旧を行おうとすると金額のケタの想像がつかないと小出さんは言っています。

 「多重防護で安全だ」という話もありました。ウラン燃料はペレットに焼き固めジルコニウム合金で被覆されている、原子炉も格納容器も分厚く、コンクリート建屋も頑丈だ。緊急時には制御棒が自動的に挿入され注水もされる。審査も厳重に行っており、もし何かあっても「安全側にこける」よう設計されているのでご安心を、というわけです。いまもネットで流されている虚ろな安全神話。ウソでないのは「こけ」た一点だけではありませんか。

 「温暖化防止に貢献する」とは近ごろ売り出し中の文句でありコスト論議とまったく同じです。確かに「核分裂反応は燃焼と異なって二酸化炭素を発生させない」ことは事実ですがあくまで「発電時」に限っての話。ウランの精錬、濃縮、使用済み燃料の一時保管と永年保管、「放射能対応」のプラント建設から廃炉までを勘案すると「発電の前後の工程」において一般の産業活動よりずっと大量の二酸化炭素を排出しています。

 そもそも二酸化炭素の排出には建設、製造、運輸、交通などあらゆる産業活動が関わっており、それは産業革命以降、飛躍的に発展し、一方で森林は減少しました。これを悪と言うならば「二酸化炭素排出の集団犯罪」が行われているのに、なぜ火力発電所だけが被告席に座らせられるのか。なぜ原発だけが「クリーン」で「グリーン」か。放射能はキレイで安全な代物か。福島事故はもはや昔話か。冗談はいい加減にしろと言いたいけれど、このプロパガンダは日本のみならず欧米でも繰り広げられ互いに補強しあっています。Oh my Buddha !

 温暖化と二酸化炭素の関係について、小出裕章さんは講演(本年5月ライブ配信)で各種データを示しつつ次のように指摘しています。
 「IPPC(気候変動に関する政府間パネル)によると最近160年間で地球の大気の温度が0.85度上昇し、二酸化炭素の濃度も上昇している。二つの事実のどちらが原因でどちらが結果か即断できない。もともと地球は公転軌道や地軸の傾き等により熱くなったり冷たくなったりしてきた星だ。氷河期と温暖期の気温差は10度にもなる。大気温が上昇すると海水に溶けた二酸化炭素が気体となり大気中の濃度が上がる。」

 「1958年以降のグラフでは気温の増減に追随して二酸化炭素濃度が増減しているように見える。長いスパンで見ると地球の温暖化は1800年代当初からほぼ一定のペースで続いており、二酸化炭素は1946年から激増している。これは第2次大戦が終了し産業活動が再開された年であり、日本も世界も大量生産、大量消費のエネルギー浪費社会が到来した。確かにいま、地球環境は危機的状況にある。大気汚染、海洋汚染、森林破壊、酸性雨、産業廃棄物、環境ホルモン、マイクロプラスティック、放射能汚染等々。貧困や戦争もある。こうした中で地球温暖化のみがクローズアップされその原因が二酸化炭素だとされている。」

 「そもそも二酸化炭素は植物に必須で、ひいては動物の生存を支える有用物である。一方、放射能が微量でも生命体に危険を及ぼすことは科学の常識である。いま、国や電力会社は、温暖化防止(さらには地球環境保護)のために原発を進めるべしと主張しているが、その目的のためには原発だけはやってはいけない。温暖化防止も二酸化炭素の排出抑制も重要ではあるが、最大の原因は、私たちが作り上げてきたエネルギー浪費社会であることを忘れてはならない。」

 カッコ書きの3段落は小出さんの講演の要約です。確かに日本を含む「先進諸国」はあらゆる活動を通してエネルギーを浪費しています。まずは国内からこの点を見直すべきではないか。それはアイドリングをやめるとか冷房温度を1度上げるという小さな話ではありません。それも大切ですが、あらゆる生産・流通過程および製品の省エネ化を「国策」として強力に推進し、原発関連に垂れ流している莫大な税金の一部をふりむけるだけで事態は大きく改善するはずです。国は、原発の巻き返しにウソの上塗りをやめ正しい道を歩め! 私はこのように思います。

<国策のわけ>

 この項目は国がいつまでも原発にしがみつく理由を3つ挙げており、小出さんの見解そのままです。私なりに要約した部分もありますからオリジナルの情報を確認していただきたいと思います。
 
(理由1)

  原発の推進により大きな利権(政治的権限、社会的影響力、金儲け等々)を得ている勢力が原発をやめようとしないこと。政党、官僚、電力会社、原発産業(日立、三菱重工、東芝など)、ゼネコン、下請け企業、労組、学界、広告会社、マスコミなどです。こうした勢力は立地選定の段階から活動をはじめ、原発の建設、運転時はもちろん、事故後の「除染」、「復興」でも大きな利益を得ています。

(理由2)

  全国57基の原発が立地する17の自治体の存在を無視できない。これは心ならずも原発を受け入れたため、いつの間にか「原発ありきの自治体運営」になってしまった「国策の犠牲者」の問題です。何といっても電源三法に基づく交付金は億単位であり、固定資産税も莫大です。大きな地元雇用が生まれるし、電力会社からのダイレクトな寄付金(地域振興協力金などの名目)もあります。皮肉な話ですが立地自治体はもはや原発がないと困ります。一方で、原発マネーによる「城下町化」は住民間の不信をまねき、関電と高浜町(助役森山栄治)のような癒着も後を絶ちません。

(理由3)

  原発が国策である真の理由は、原発を持っていれば日本はいつでも核武装が可能であり、それが潜在的な核抑止力になると自民党政権が考えてきたためだと小出さんは指摘しています。
 核爆弾の原料はウランとプルトニウムの2種類あります。まずウランですが、核分裂を起こす(使える)ウラン235はウラン鉱石に0.7%しか含まれておらず、残りは核分裂しないウラン238です。両者のわずかな比重の違いを利用して遠心分離を繰り返しウラン235の濃度を高める工程が「濃縮」で、原発には3~5%の低濃縮ウラン、核兵器には約90%の高濃縮が使用されますが、これに大変なエネルギーを必要とします。

 一方、99.3%を占めるウラン238は、原子炉の中で中性子を当てるとプルトニウム(自然界に存在しない核分裂元素)に変わります。使用済み燃料(死の灰)からプルトニウムを取り出す化学工程が「再処理」です。ウラン濃縮より死の灰からプルトニウムを取り出した方がはるかに効率的かつ容易に原爆ができる。原子炉が「プルトニウム製造機」として開発されたのは歴史的事実であり、「製品」たるプルトニウム爆弾は長崎に投下されました。広島はウラン爆弾。アメリカという非道の国は2種類の核爆弾の「社会実験」を77年前に相次いで行いました。

 原爆製造の中心技術は、「濃縮」、「原子炉」、「再処理」の3つです。核兵器保有国であり国連常任理事国である米・露・英・仏・中は、当然これら3技術を持ち、それを独占するために核不拡散条約やIAEA(国際原子力機関)をつくりました。まことに手前勝手な話ではあります。これに抗してインド、パキスタン、イスラエルは原爆を有し、北朝鮮も有していると自称しています。そして核兵器「非保有国」の中でただ日本だけが「中心3技術」を有しています。「濃縮」と「再処理」は東海村のパイロットプラントを運転した後、六ケ所村で本格稼働を進めています。プルトニウム製造機である「原発」の全国展開はご存じのとおり。これらには「兆円」単位の税金が投じられており、採算を度外視して進められてきました。

 すでに1969年、外務省政策企画委員会が作成した「わが国の外交政策大綱」には「核兵器については核拡散防止条約に参加すると否とにかかわらず、当面核兵器は保有しない政策をとるが、核兵器製造の経済的・技術的ポテンシャルは常に保持するとともにこれに対する掣肘を受けないよう配慮する。」と書かれています。

 また1982年4月の政府国会答弁は以下のとおりです。
「自衛のための必要最小限度を超えない戦力を保持することは憲法によっても禁止されていない。右の限度に留まるものである限り、核兵器であろうと通常兵器であろうとを問わず、これを保持することは禁ずるところではない。」
 
 2012年6月、福島の原発事故の翌年に、国は原子力基本法の改定を行いました。第2条にこうあります。「原子力利用は平和の目的に限り安全の確保を旨として民主的な運営のもとに自律的にこれを行うものとし、、、(後略)」。
 この次に「2項」として次の条文が新たに付け加えられました。「前項の安全確保については、確立された国際的な基準を踏まえ、国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びにわが国の安全保障に資することを目的として行うものとする。」
 下線は私がつけましたが、「安全保障に資することを目的として」とわざわざ加えた理由は何か。ここに政府の考え、すなわち「原子力の平和利用」には「平和を守るための利用」が含まれるとの解釈のもと、「原子力を利用して相手に攻撃を思いとどまらせること」すなわち「自衛のための核武装」なら認められるべきだという政権の考えが端的に示されています。

 2013年8月、自民党の石破茂議員はテレビ朝日の報道ステーションで以下の趣旨を述べました。「日本は核を作ろうと思えばいくらでも作れる。それは抑止力となり得る。それを放棄してよいのか。日本のまわりは中国、ロシア、北朝鮮。同盟関係を度外視すれば米国も含め、弾道ミサイル技術をもつ核保有国に取り囲まれている。こうした状況を考え、日本の核の保有について議論を深める必要がある」。一議員の発言ですが政権の意図を正直に(かつソフトに)代弁しています。

 2016年3月、参議院予算委員会で内閣法制局長官は次のとおりです。
「憲法上、あらゆる種類の核兵器の使用がおよそ禁止されているという風には考えていない。核兵器は武器の一種である。核兵器に限らずあらゆる武器使用は、国内法、国際法の許す範囲で使用できるものと解している。」

 日本が有するプルトニウムは約46トン、長崎原爆の4000発分であり、日本はすでに「核大国」です。当初はフランス、イギリスに再処理を委託してきましたが、東海村プラントで実績を積んで後継の六ケ所村プラントの本格稼働を目ざしています。
 国産ロケットの技術も着々と進歩しています。日の丸印の核ミサイルは、明日は無理でも明後日あたりには作れるでしょう。


<まとめ>
 
 長くなったので最後に「まとめ」をつけますが「まとまり」ますかどうか。小出さんのご指摘に深くうなずきながら綴ってきました。唯一の被爆国である日本の政権が核兵器禁止条約に参加しないのは、「米国の核の傘に守られている」からだけではなく「自ら核武装したいと願っている」ことに基づいていることが明らかです。それが現実的な安全保障であると歴代の自民党政権は考えているのでしょう。原発が国策であるばかりでなく、核武装(ポテンシャルも含む)もまた国策なのです。

 突飛ながら「死刑論議」を私は連想します。他者に死をもたらすことを究極の悪とみなして行為者に死刑を科する。死刑は他者に死をもたらす刑罰である。私人に許されず、国家に許される「他者に死をもたらす行為」。それは本当に正しいのかという議論です。死刑容認派は(もちろん国も)、死刑に「抑止力」があること、社会において「目には目を」の心情が優勢であることを主張します。これこそ論理矛盾であり、死刑は絶対に容認できないと私は考えるものですが、この件についてはもう少し勉強してから書きたいと思います。

 ともあれ、武力侵攻を防ぐために武力を持つ。核ミサイルを防ぐために核ミサイルを持つ。こうした考えはウクライナ侵攻で説得力を増したかに見えます。原発被害の「語り部」に、日本も核武装すべきではないかと質問した若者があったと先日、報じられていました。
 戦没者追悼式では岸田首相が「積極的平和主義」によって平和を追求していく旨述べたようです。とくに政治の場で行われる議論の視野は狭く、想像する時間の長さがあまりに短いと思わずにいられません。百年後の日本は、アジアは、世界は大丈夫か。本質に迫る議論の不足を感じます。

 ところで、「核」は 「nuclear」 ですから nuclear weapon は「核兵器」。
しかし、nuclear power plant は「核発電所」ではなく「原子力発電所」と訳されます。nuclear development をイランや北朝鮮が行う場合は「核開発」、日本が行うばあいは「原子力開発」と呼ばれてきました。
 日本では「核」は悪いもの、「原子力」は良いものと意図的な使い分けが行われ、長年にわたって私たちは洗脳されてきました(これも小出さんの指摘)。
 無人となった双葉町の看板にこう書かれていたのをご記憶の方も多いでしょう。「原子力 明るい未来の エネルギー」。 
 
 最後にアパッチの格言(鷲田清一「折々のことば」朝日新聞8月5日で知りました)を引いて、原発についてひとまず終了いたします。

 「我々は先祖から土地を受け継ぐのではない。子どもたちから土地を借りるのだ」








 






 

2022/07/29

184)原発事故 3(地裁判決)

 東電旧経営陣、勝俣・清水・武藤・武黒の4名は13兆円を賠償せよ。株主訴訟の東京地裁判決(7月13日、朝倉佳秀裁判長)はもっとも至極の一語につきます。判決から日にちが過ぎて後味はなお爽やか。原発が国民の命と暮らしを「いかに損なわないか」との観点から社会的公正の範が示されましたが、そのこと以上に私は、客観的な事実にもとづき常識的な判断が下されたという「当たり前のこと」に安堵しました。魚は頭から腐るとやら。司法、行政、経済界等々、国の中枢に近づくほど現今の体制になびいてわが身と係累の安泰を図るのが世の習いですが、少なくとも当該法廷は「まだ大丈夫」のようです。

 それにしても最高裁と東京地裁で何故かくも判断が異なるのか。原告、被告、訴えの利益は異なるものの、問われていることの核心は「国の地震予測の信頼性」と「それに基づく浸水対策の責務」です。すでに述べたので繰り返しませんが、これらは福島第一原発事故のずっと以前から今日に至るまで「事実のレベルの問題」であり、「想定外」とか「当時の趨勢」などという言い訳が入り込む余地がありません。この基礎的事実認識をめぐって法廷ごとに評価が「異なりすぎる」ことに不信感がぬぐえません。

 裁判官(特に裁判長)は、訴訟を担当するにあたってまず判例を調べる一方、有力な関係者を指おりかぞえ、世間の風向きも予測しつつ「判決の方向性」を早い段階で決めるのでしょう。何と言ってもその方がラクだし出世にもプラスです。後はその方向性に沿って事実認定や論理構成を行う。つまり「結論ありきの筋書きのあるドラマ」です。したがって結論が異なれば事実認識も異なるのは当然、丸い地球を平らだと認めることもありえます。これはあくまで素人の憶測ですが、一つの事実に二つの相反する解釈がなされることについて私は他の理由を思いつきません。原発に限らず基地、薬害、公害など政府が無関係ではいられない訴訟においてこうしたバイアスが働くことは容易に想像できます。「公」をむしばむ者は「公」の内部に存在します。

 それはさておき、東京地裁判決はまず「原発事故が起きれば国土の広範な地域、国民全体に甚大な被害を及ぼし、わが国の崩壊にもつながりかねない」との基本認識を示しました。まったくその通りです。もしこれが水力・火力発電所の事故や化学工場の爆発、ジャンボ機の墜落、新幹線の脱線転覆、高速道路の落橋などであったとしましょう。すべて重大、悲惨な結果をもたらすにしても「わが国の崩壊につながる」ことは決してありません。その差は言うまでもなく「放射性物質」の有無であり、これこそ「原発の唯一無二の災厄性」です。かりに事故が起きなかったとしても(これこそ想定外ですが)、増え続ける使用済み燃料など核のゴミは何万年にもわたって子々孫々を苦しめます。

 東京地裁は上記のとおり「原発事故は国の崩壊をもたらしかねない」との趣旨を述べた後、「原子力事業者には最新の知見に基づき、万が一にも事故を防止すべき社会的・公益的義務がある」と断じました。これまたその通りですが、そこまで大きなリスクのある原発事業を一民間企業に行わせておいていいのかという根本的な疑問が生じます。現に東電は1998年、当時の社長が株主配当を増やすために「兜町を見て経営する」方針を打ち出し、電力自由化の競争に負けまいと経費削減に邁進してきました。

 皮肉ながら株主の利益を最優先に掲げた東電経営陣は(少なくとも短期的に)正しいと言わざるを得ません。それが株式会社という制度であり、「株式発行総額を超える企業責任を問われない」との仮定により事業が成り立っています。ゆえにこのような「有限責任」しか負わない企業に「無限責任」を伴う事業を行わせることは最初から誤りです(この趣旨は内田樹の意見を下敷きにして以前にも書きました。ちなみに彼の天皇論にはおおいに異論があり、いずれ書きたいと思います)。しからば原発を(存続を前提にして)国営にすべしとは言いませんが、どのような主体が事業を行うのであれ国には連帯責任以上の責任があるはずです。

 さて、13兆円は裕福であろう勝俣らにも大金ですが、支払えなかったらどうなるのでしょうか。服役させても肉体労働の経験のない老人4人では使い物にならず出費の方が多いはず。多額の損害賠償を受ける東電サイドが今度は「有限責任」の被害者となるわけです。仮に1億円でも回収できれば、雀の涙でも東電から被害者に弁済すべきところですが、すでに多額の税金を東電に投入している国が割って入るかもしれません。国にはその金を東電と連帯して補償に回せと言いたいところです。

 この裁判は最高裁まで行くでしょうが、最高裁が原発事故に関する国の責任をあくまで認めない(東電の責任のみを認める)という方針を維持するなら、原判決を支持するかも知れません。ならば東京地裁の判決の基礎となった「国を損ない得るほどの原発の巨大なリスク」についても正面から論じてほしいところです。むなしい願いかもしれませんが今後の経過を注目したいと思います。
 本論の「なぜ国は原発をやめないのか」は次回にいたします。だらだら、のびのびをご容赦ください。時間がかかっても書いていこうと思います。





 

2022/07/09

183)原発事故 2(原発との「出会い」)

 メインテーマの「公(おおやけ)論」は歩みが遅く未だに周辺を手さぐりしている状況ですが、この「公」とは、若い人や生まれてくる人によりよい形で私たちの社会を引き継いでいくための手順であり思想でもあるということができます。そして「未来へのバトンタッチ」という観点からも、私は「原発」を容認することはできません。その理由について少し遠回りしつつ順をおって書きたいと思います。

 そのむかし自宅の本棚にほこりをかぶった原爆の記録集があり、粒子の粗いモノクロの被害写真(人や町の惨状)をみて子供心に放射能と熱線は恐ろしいと感じたことを、いま思い出しました。学生時代には岩波新書の「原水爆実験」(武谷三男)を読んで、当時さかんに言われた「原子力の平和利用」における「閾(しきい)値」の概念を知りました。放射線被爆の「許容量」とは安全基準ではなく、利益・不利益を比較考量した「がまん量」であるという指摘です。一つは「戦争」、いま一つは「平時」における「核」の話ですが、世の中に災厄しかもたらさないという点において「原発」は「原爆」と変わるところがありません。

 私たちは1977年に結婚しましたが、その2年後にスリーマイル島の炉心溶融(レベル5)が、9年後にチェルノブイリの爆発(レベル7)が起こり、2つの事故の間に2人の子どもを授かりました。そうなると力こぶの入っている新米の親として気にかかるのは環境中の放射性物質であり国内の原発事情です。妻は「まず正しく知ろう」と本を読みはじめ(当時はネットなる便利安直なものはなし)、私が二、三歩遅れて追随し、やがて私たちの周囲に「動き」が生じました。

 こまかい経緯は忘れましたが久米三四郎さんや高木仁三郎さんに連絡がつき、久米さんは大津での学習会(平野市民センター)にお越しくださり、高木さんからは原子力資料情報室についてお話を伺う機会を得ました。ご近所の方たち(今でいう「ママ友」)と共に、米国のビキニ環礁での水爆実験の灰を浴びて亡くなった少年「レコジ」を主人公とする紙芝居を制作したのもこの頃だったと記憶します。学習会や署名活動は二人で取り組みました。やがて妻は小出裕章さんの知遇を得て京大原子炉実験所の研究者(熊取六人衆)の市民講座に足を運ぶようになり、私も五、六歩遅れて追随しました。

 金時鐘さんとも親しかった弁護士の藤田一良さんは、小出さんの依頼をうけ伊方原発訴訟の原告団長となり、国の安全審査の責任を鋭く追及しましたが、下世話には「とても金にならない弁護」です。ある日突然に事務所を訪ねてきた小出さんとの運命的な出会いを、まるでモーツァルトにレクイエムの作曲を依頼した「地獄からの使者」のようだったと一流のユーモアを交えて語っておられたことが思い出されます。この我が国初の「原発訴訟」は最高裁まで争われて住民側が敗訴しましたが、「3.11」以降、伊方原発で複数の運転差し止め訴訟が提起されています。

 金時鐘さんの御坊市の別荘は、関電の御坊発電所(人工島)に使用済み核燃料の中間貯蔵施設を建設する計画が持ち上がった時、反対派住民の拠点となった建物です。様々な交渉のあげく漁協も受入れ止むなしの腹を固めたその朝、何年も不漁であったイワシの大群が海をうめつくして地元は建設反対でまとまり、計画は白紙撤回されました。これは時がたって金さんから伺った話、私たち夫婦がよく泊りがけで遊びにいった別荘も今はありません。別荘から急坂を2分登れば「魚見台」に到達します。ここで一杯やりつつ時鐘さんご夫妻と沈む夕陽を何度も送ったことを忘れません。

 いけない、思い出話を始めると止まりません。ここで言い添えておきたいのですが妻はいわゆる活動家とは正反対のタイプで、礼節とユーモアはたっぷりあるけれど大変控えめな人間でした。しかしどういう訳か「人と出会う運」に恵まれ、さして多くはないけれど素晴らしい人とごく自然に知り合って心を通わせることができました。妻に比して多弁で外交的な私ですが彼女の真似はとうていできず、もっぱらそのお福分けに預かることで多少は己が人生を豊かになしえました。人としての芯の部分で彼女は私にないものを有していました。

 また、世間的に知られた人の名をいくつかあげたのは自慢ではなく、著名、多忙な科学者たちが無名の一市民の依頼に誠実に応えてくれた事実を記したかったまでです。それは、原発に対する誤りのない認識を世に広めるためには手間暇おしまないという科学者の良心の発露でもあったと思います。その爪のアカを煎じて、国に責任はないとした最高裁の3人の裁判官に飲ませてやりたいところです。

 こうしてふりかえると良くも悪くも「原発について考えること」が私たちの人生の一つの要素となっていた気がしますが、だからといって感情的に反原発を唱えるものではありません。理の当然としての原発廃止。いよいよ本論に入るところで力がつきました。駄文を弄しているだけなのですが時間ばかり過ぎます。

 明日は投票日ですが、「原発をどのように評価するか」は、私たちが政治家の合理的、理性的、公平公正な判断能力を判定するうえで有効な問いかけです。政党でいうと自公維新国民民主は完全にアウトでしょう。折からEU(欧州連合)は7月6日、原発は地球温暖化対策に役立つ「グリーン」なエネルギー源だという見解を示しました。こうした動きもひっくるめて、考える時間と空間が狭いと言わざるをえません。このような「今だけ、ここだけ、自分だけ」という物の見方は「公」に反するものであり、子孫を裏切るものです。
 憲法、経済、社会保障、外交等々争点はいくつもありますが、原発がリトマス試験紙であることは間違いありません。次回は国がウソをついてまで原発を進める理由について書くつもりです。

 一晩寝て追記します。
 安倍氏襲撃をめぐって、言論の封殺だ、民主主義への挑戦だ、暴力に抵抗を、戦前に回帰させてはならない等とマスコミも「識者」も「まちの人々」も口をそろえています。これは確かに許しがたい蛮行ですが、容疑者は、ある宗教団体に個人的な恨みがあって報復しようと思ったが近づくことができず、団体と関わりの深い安倍氏を狙ったと説明しているようです。
 もしそのとおりなら、これは政治・社会的な主義主張とは関係ない私怨にもとづく犯行であり、しかも安倍氏は教団代表者の身代わりとされたことになります。世間の受け止め方は見当違いもいいところです。なぜみんな、かくも素早く、かくも一斉に、たった一つの色に染まるのでしょうか。
 長く続いた安倍政権下でさまざまな出来事がありました。言論や民主主義という観点から問題ありと批判されていたのは他ならぬ安倍氏ではありませんか。それがいまや一転して礼賛の嵐です。私も惜別の情を十分に理解する人間ですが、ここで一つの声しか聞こえないことに違和感を禁じ得ません。こうしたムードは一票の行方にも影響するでしょう。
 あれやこれやを考えると、民主主義を内側から蚕食しているのは、むしろ私たち自身ではないのかという気がしてきます。




2022/07/03

182)原発事故(最高裁判決)

 原子力発電は子々孫々にわたる禍根である、いやそれどころか、子々孫々までこの社会を引き継ぐことを危うくする危険物であると私は思っています。正確には「思う」というより、地球が丸いのと同じくシンプルな客観的事実であると認識しています。それゆえ、「原発推進政策」をあえて選択し、科学的な知見にもとづく懸念や批判を封じ、力と金にまかせてこれを進めてきた国は、原発に関する最大、最悪の責任者に他なりません。しかし、あろうことか最高裁は「国に責任はない」と判断しました。司法は国民ではなく政府の顔色を見ていることが明らかです。今後文科省は「三権分立」を説く社会の教科書を「事実認識に誤りがある」として不採択にするべきです。

 福島第一原発は津波対策の不備により大爆発し、国土の一部を損ない住民の命と故郷を奪いました。東京電力は重い腰をあげ賠償に応じかけていますが、なんといっても原発は「国策民営」であり安全を担保する「監督・規制庁」としての責務も重大です。そこで被害者は国に対して損害賠償を求めましたが、最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)は6月17日、国の責任を認めない判決を言い渡しました。私なりに要約すると「津波があまりに大きかったので、もし国が防潮堤を高くするよう指導し、東電がこれに従っていたと仮定しても同様の爆発事故が起きたはずである。つまり国が指導しても『爆発』、指導せずとも『爆発』、どのみち結果は同じ『爆発』だから国の責任はない!」という驚きの理屈です。

 事実をふりかえりましょう。事故当時の福島第一原発の防潮堤はわずか「5.7m」の津波を想定したものでしたが、実際の津波は「14~15m」で原発(1号機~4号機)は敷地ごと水没しました。その結果、電源が失われて原子炉はメルトダウン、建屋にたまった水素が爆発して史上最悪の事故となりました。いわゆる「想定外の地震と津波」ですが本当にそうであったのか。国は2002年(大震災の9年前)、「福島県沖をふくむ太平洋側の日本海溝沿いにマグニチュード8級の地震が30年以内に20%程度の確率で発生する」という長期予測を公表しています。これに基づき東電は2008年に、最大で「10.2m」(陸地を駆け上って到達する最高点である「遡上高」は「15.7m」)の津波がくると試算したものの実際には工事を行いませんでした。

 最高裁は、この東電の津波予測を「合理性を有する」と指摘し、国が対策を命じれば「試算された津波に対応する防潮堤が設置されたと考えられる」と認めました。しかし現実に発生した津波は「はるかに大規模」であったため、仮に防潮堤を設置させていても「海水の進入は防げず、実際の事故と同じ事故が起きた可能性が相当にある」と判断しました。つまり最高裁は、「14~15m」の津波が「5.7m」の防潮堤(現実のもの)を乗り越えた場合と「10.2m」の防潮堤(仮定のもの)を乗り越えた場合の「巨大な水塊の上陸後の挙動」がほぼ同一であるとさしたる根拠もなく推測しているわけです。
 一方、この2つの場合における「水塊の量とエネルギー」には無視できない差異が生ずるという見方も当然に成り立ちますから、これこそ専門知を集め、「富岳」を駆使して検証するべき事案です。最高裁は重大な判断を行うにあたって当然の手続き省きました。もし「国の責任あり」という逆の判決を下すのであれば最高裁の姿勢は必ず違っていたはずで、まさに馴れ合いの構図です。

 また仮に、福島原発を襲った津波が国の長期予測に基づく東電の試算どおり「10.2m」であったとしましょう。国がこれに対応する防潮堤の設置を命じていたら防潮堤は所期の目的を果たして原発を水没から守り、爆発を回避しえたでしょう。この場合において国の対策命令は「爆発」と「爆発回避」という2つの運命を左右したことになります。ところが実際には「5.7m」の防潮堤しかありませんから、「10.2m」の津波はやはり敷地を水没させ爆発事故を起こした可能性が大いにあります。今回の最高裁の理屈に従えば、この場合は「国に責任あり」という結論になります。現実には津波が「10.2m」を越えていたため国は免責されました。すなわち小さな津波では国に責任があり、大きな津波では国に責任はない。これは「危険度の高い災害ほど国は責任を問われない」というに等しく、国民の生命財産を守るという国の基本的責務に反する論理です。

 ここでまた「想定外」という言葉が浮上してきます。不可抗力ゆえ関係者は誰一人お咎めなしの免罪符です。しかし、そもそも「地震大国」日本の中でも東北沿岸は「津波の常襲地」と言われてきました。貞観地震(869年)では津波が内陸3~4キロまで達しており、明治三陸地震(1896年)では津波の遡上高が38.2mであったと報告されています。どちらの地震でも海岸沿いの原発は完全に水没したはず。2度あることは3度あるし、過去になくても何事にも1度目があります。そこで国も「長期予測」の試みを続けてきました。確かに2011年の津波は恐ろしい規模でしたが、とりわけ原発の安全運転を目ざす上でこれを「想定外」と呼ぶべきでしょうか。

 逆に言えば「想定内」なら事故は起こらないはず。もし本気で安全を追及するなら「想定外」にこそ備えるべきであり、不断の努力で「想定外」を「想定内」に取り込まなくてはなりません。そのうえで「想定外」と胸をはって(?)言えるのは隕石の直撃くらいしかありません。そして、それですら原発をやめる理由の一つになると私は考えています。「想定外」と「安全神話」は歴代政権が電力会社やゼネコンと結託し国民を欺くためにでっち上げた二題話であり、やすやすとこれに騙される国民は底抜けのお人好しです。以前、日本人は御しやすいと外国の友人から言われて無念な思いをしましたが、指摘自体は当たっています。

 「自分は騙されていた」という人のうちに小泉純一郎元首相がいます。あなたは騙す側の人間でしょうと尋ねたいところですが、彼によれば、「この数十年、原発推進は日本の国策であり続けてきた。研究者やジャーナリスト、市民団体などから疑問の声が投げかけられていたが、時々の政権は原発が国全体の利益になると考え、それを支持し続けてきた。2001年から2006年まで総理大臣を務めた自分自身も例外ではなかった。日本の原発は安全だという推進派の説明を信じ、原発推進は正しいと思い込んでいた。いまから振り返ればそんな自分に強い憤りを感じる。勉強不足のせいで騙されていたことが残念でならない。その憤りと悔しさが、原発ゼロを訴える私の原動力になっている」のだそうです(著作「原発ゼロ、やればできる」より)。

 おそらく小泉氏は本音を語っているのでしょうが、私は、彼が「騙されていた」ことに二つの感想をもちます。一つは、やすやすと騙される「政治家としての知性の低さ」あるいは「思考回路の単純さ」です。彼は反対意見があることを十分承知した上で経産省役人や一部研究者の説明を鵜吞みにしました。きわめて重大な判断を行うにあたって一方の意見しか聞かないというのは、まことに無責任な態度であり、権力者が「聞きたい意見しか聞かない」という例証でもあります。
 しかし小泉氏が総理のイスに座るまでの長い「政治家生活」の中で、原発という社会の重要な課題について、しがらみにとらわれずに自由に考える機会はいくらでもあったはずです。彼はそれをせず、イスに座ってからは「正規ルート」で流れてくる報告、説明にうなづくだけでした。こうした姿勢は、知性と倫理の欠如による職務怠慢であると私は思います。その後の総理も似たようなものでしょう。

 もう一つは、小泉氏の改心の軽さです。
「総理をやめフリーになってようやく気づいたが、原発はめちゃくちゃ危険なものだった。福島の事故が何よりの証拠だ。その後しばらく原発がすべて止まったが日本の国は問題なく回った。原発は必要悪ではなく不要悪だ。然らばさっさと止めるべし。」彼の論旨はこのようなもので、私もそれに異論はありません。しかし、そんなに簡単に気づいて180度判断を変えるくらいなら、それまで一体何をやっていたんだと私は言いたくなります。彼は著作の中で「あやまちを改むるに憚ることなかれ」と開き直っていますが、あまりに軽い。一国の政策がこのような軽いノリで決められていたのかと思うと不快です。こうしたことの背景には、政府、経産省を始めとする各省庁、自民党、公明党などが共有する原発推進の空気があったのでしょう。まさに「国策のバイアス」であり、それは今日さらに強化されていることでしょう。こうした中、小泉氏には彼ならではの立場で活躍いただきたいと思います。

 本題に戻ります。最高裁の判決でただ一人反対意見を述べたのは三浦守裁判官で、その意見はまことに正論であると思います。彼は、国の規制権限は原発事故が万が一にも起こらないようにするため行使されるべきものと強調し、信頼性が担保された長期評価をもとに事故は予見でき、浸水対策も講じていれば事故は防げた、国は東電と連帯して賠償義務を負うべきであると主張しました。これこそ「理の当然」です。こうした裁判官が一人でもいたことに多少は救われる思いです。しかし、この真っ当な少数意見の「最高裁にとっての意義」は、判決を不服とする世論に一定のカタルシスを与えつつ、「4人の裁判官が誰に忖度することもなく様々な観点から自由に議論を尽くした結果、やはり国に責任はないと判断するに至った」ことの証拠となりうるものです。うがった見方をすれば「4人のチームプレーの一環」です。三浦裁判官は信念と決意をもって正論を述べられましたが、最高裁は「国あってこその司法である」と思っているかもしれません。

 今度の参院選で、自民、維新、国民民主などは原発推進を明確に打ち出しています。彼らがかつての小泉氏のように不勉強なのか、どのみち自分は責任を問われないから原発の危険性を承知で目先の票を取りに行くのか、いずれにせよ許しがたい国民への背信です。ウクライナの便乗軍拡もしかり。政治家の無責任、無知性、無倫理を多少なりとも正しうる機会が迫っています。投票に行きましょう。
 今回はここで終ります。国がなぜここまで原発に固執するのかという理由については次回に述べたいと思います。











 



 

地震は繰り返すものと分かっており、



  
 





 


土を損ない住民の命と故郷を奪った福島第一原発事故で被害を受けた6月17日、最高裁は

2022/06/23

181)公文書裁判判決に対する市の見解

 大津市は「公文書裁判」の敗訴を一体どのように受け止めているのか。大津市議会6月通常会議で八田憲児議員がこの点を質問され、佐藤健司市長が答弁されました。このブログでは前市長越直美氏の公文書不正をはじめ市民と法にそむく市政運営についての論評を終了していましたが(怒りと徒労感を感じつつ)、今回ようやく議場において市の公式見解が示されたのでこれにふれます。本件の中身は私自身の責任も含め詳細に述べたので省略します。八田議員の質問も大津市はこの教訓をどう生かすのか、すなわち「今後のこと」に力点が置かれており、私もそこが重要であると考えます。

 佐藤市長の答弁要旨は以下のとおりです(下線は茂呂)。
・前市長及び当時の職員の行為はコンプライアンス上問題があり、組織として判決の内容を真摯に受け止める必要がある。 
・特にあるべきはずの公文書が保存されていないことは大変遺憾であり、今後は適正な公文書の管理に努めていく。
・市はこれまでも公正な職務執行のための条例を制定しコンプライアンスの推進を図ってきた が、引き続き職員のコンプライアンス意識のさらなる向上と組織体制の整備を図っていく。

 市は控訴を見送っており議会答弁も「仰せのとおりです」というトーンになっています。惜しむらくはもう少し踏み込んで頂きたかったところですが、それはさておき少し感想を述べます。本件は越直美氏が主犯、元人事課長が従犯、佐藤市長は係争の承継者という構図ですが、行政機関の継続性および事案の重大性に鑑みて佐藤市長が見解を示したうえ善後策を講じていかれることは当然かつ重要なことであると思います。

 佐藤市長は「組織として」判決を真摯に受け止める必要があると答弁されました。組織とはもちろん「大津市役所」ですが、あえて分けると事案発生時の市役所(越市政)と今の市役所(佐藤市政)の二つがあります。佐藤市長は後者について語っていますが、それに加え、前者においてなぜ公文書不正を阻止できなかったかという検証が必要ではないでしょうか。
 前市長と元人事課長の隠密行動でしたが、公開の法廷で多数の証拠が示され関係者の具体的な証言もあり、個人情報保護審査会と担当課のやりとりも繰り返し行われました。こうした中で「組織として」公文書不正に気づかなかったことはありえません。それにも関わらずなぜ不正に歯止めをかけられなかったのか、なぜ法廷で虚偽、不毛の主張を続けてきたのか、ふりかえるべき点はこれです。

 もっとも「市長の不正を糺す」など組織において普通はありえないミッションで、市長に仕えることを本務とする市職員にとっては容易なことではありません。そもそも佐藤市長をはじめ大多数の市長のもとではこんなことは起きないでしょう。しかし大津市役所は現にそうした状況に陥ったわけです。最大最悪の責任者は越直美氏ですが今はそれを横において、大津市役所は「組織として」無謬であったかどうか。これは繰り返し言ってきましたが職員にとって「市長か市民か」という「公」の根幹に関わる問題です。いまさら検証委員会を立ち上げるわけにいかないのなら内部会議で振り返ってはどうか。少なくともまず、職員各自の胸の中で「こんな時にどうすべきか」を考えて見られたらいかがかと思うものです。

 また佐藤市長は「あるべきはずの公文書が保存されていない」ことが大きな問題であると指摘されました。私もまったく同感ですが、「保存されていない」理由は事務的なミスではなく隠ぺいを目的とした意図的な廃棄であったこと、はじめは「文書が存在していない」と虚偽を申し立てたことがさらに大きな問題です。これはコンプライアンス云々ではなく「公務員失格」のレベルです。下手人は市役所を去りましたが、大津市役所がかかる犯罪行為の舞台となったことを「組織として」銘記すべきである、それが取組の第一歩であると私は思います。

 今後について佐藤市長は「コンプライアンス意識の向上と組織体制の整備」を図っていく考えを示されました。そのためには市長ご自身が率先して範を垂れることが何よりも重要であると越直美氏の事例に鑑みて思うものです。部長、課長の姿勢も重要であり、職場に民主的な空気が漂っていることが大切であると思います(前にも同じことを書きました)。
 風通しのよい職場で自由に意見が交わされ、職員の一人ひとりが「公」のクワで自らを耕すイメージを持ち得たらどんなに素晴らしかろうと思います。急いで付け加えなければなりませんが、私が課長や部長であったときも理想の職場環境は作れませんでした。しかし、一人でも多くの人が「そのように思う」ことの大切さをあらためて感じています。

 この公文書不正に関する私の意見は、記事174(大津市と越直美氏が反省すべきこと)で述べたとおりです。「公」を内部から腐らせるような事案がなぜ起きたか、組織として未然防止や軌道修正ができなかったか、どのような教訓をくみとり今後に生かすか、に関する私見です。本来は裁判終結のタイミングで大津市が本件をひろく市民に説明して再発防止を約束するとともに、原告に対しても丁寧な説明、謝罪を行うべきですが、私の知るかぎりこれらはなされていません。
 ともあれ「コンプライアンスの堅持」に関しては八田議員の問いかけで市の考え方を知ることが出来ました。大津市の今後の具体的な取組を心からご期待申し上げます。

 ちなみに越直美氏が、前任者の不始末を処理する今の佐藤市長の立場なら「私自身も被害者であり、こんな卑劣な行為は許すことができません」と答弁をしたであろうと想像します。詳細な答弁書を代筆したい気さえしますが、さすがに本筋から外れるのでやめておきます。
 なお、私事ですが、不整脈のアブレーション治療で短期入院をしたため、今回もブログ更新が遅くなりました。また、一緒に暮らしている母の様子を見るにつけ人生について考えさせらることが多いのです。赤の他人の皆さまが多少がまんしてなら読める、という書き方ができれば、いつか少しだけ書きたいと思います。