2022/09/24

189)ケアをめぐって 2 (ケアの倫理)

  私と家族の事情により「介護」、広くは「ケア全般」について考えることとなりましたが、私たちが夫婦として過ごした最終の日々がその契機となったわけではないことを言い添えたいと思います。私たちは一貫してケアを「する者」と「される者」という関係になく、それまでからずっとそうであったように、ともに手を携え、声をかけ合いながら一つの出来事に共同して(この時は必死に)立ち向かったのであり、それは看護でも介護でもありませんでした。このことを相対化する視点と語る言葉が私にありません。あふれる記憶は彼岸にもっていきます。

 しかし一方で、同じ頃に人の親となった息子夫婦が、仲良く、真剣に育児に取り組んでいるのは、私にとって大いに喜ばしくも多少は客観的に眺められる情景であり、また本年5月から私が介護している妻の母(96才、要介護5、意識澄明、寝たきり)は、「大切だが一心同体ではない家族」として程よい心理的距離があります(それがなければこちらの心がもたなかったと思います)。そこで「ケア」をめぐる一般的な感想を述べるわけですが、「最初と最後におむつをするのが人生である」と改めて思いました。

 ちなみに赤ちゃん用のおむつには、水分を検知して「ありがとう」の文字が浮き出てくる製品があります。それも1パック全部でなく何枚かに1枚の割合で設定されており、画一化をさけるメーカーの工夫が心憎いところ。これを「しゃらくさいメンタル作戦」と見ることも可能ですが、昼夜を問わずへろへろになっておむつ交換する親には、まだ物言わぬわが子からのメッセージとなりえますし、私自身もその受け止め方に共感します。でもこれを大人用おむつに適用するのは難しいでしょう、何と書いてもウソくさくなる気がします。

 さて、こうした次第で母の介護の片手間に介護関係の本を読みだし、芋づる式にたどって「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」に行き当たりました。著者は米国の哲学者エヴァ・フェダー・キテイ、監訳は岡野八代、牟田和恵(白澤社発行)。著者、訳者ともフェミニズム研究者であり、一度講演を聞いたことのある岡野さんを除いて初めて知る名前です。同じ著者、訳者による「ケアの倫理からはじめる正義論 ~支えあう平等~」も深くうなづきつつ読みました。以下の記事はキテイの思想の受け売り、先刻ご承知の方はお許しください。

 人間はそもそも「依存」する存在であり、それを支える「ケア」がなければ生存できない。したがって「依存」も「ケア」も人間と社会を成り立たせる重要な一対の要素であるにも関わらず、「依存」は非自立とみなして否定的にあつかわれ、「ケア」は主として女性のシャドウワークとされてきた。これらを正しく評価し、社会の正義と平等を追求すべきである。このようにキテイは言っており、とくに革新的な考え方というわけではありませんが深く鋭い論考だと思います(私の理解の限りでは)。

 キテイは自分の主張を「依存批判」と名づけていますが、それは依存という状態を批判するものではありません。生後しばらくの間、人生の末期、あるいは病気等によって人間が不可避的に他人のケアに依存しなければならないという事実を覆い隠して平等を定義することは出来ない。依存を組み込まない平等ではなく、依存を包摂する平等理論を作るための作業を「依存批判」と呼ぶ、と彼女は言っています。

 この考え方について、社会学者の江原由美子は「ケアの倫理からはじめる正義論」で以下のように分かりやすく解説しています。

 ~ 従来のジェンダー平等のための社会批判の論理はいずれも、基本的に人々が能力において「平等者の集団」であることを前提として、あるべき社会を構想していた。無論、それらの批判においても、現状では「差異」や「支配・被支配」が存在すること、またそうした理由等によって能力において「不平等な状態が現にある」ことについては十分把握されてきた。しかし、こうした不平等な状態は「平等化施策」によって解消可能であり、それ以外の能力の差異も、社会的条件や偶然的な条件によって生じる「一時的なもの」と見なしうるとされた。それゆえ、基本的な社会構想としては、社会を「平等者の集団」と見なしてよいということを、当然視してきたのである。

 これに対し、「依存批判」は、まず、「依存」を、基本的な人間の条件としてみなすべきであると主張する。ここにおける「依存」とは、「誰かがケアしなければ生命として維持することが難しい状態」にあることをいう。人間は誰もがすべて、その生涯において一定期間は「依存」の状態にある。また長期間あるいは一生にわたってその状態にある人もいる。その意味において「依存」とは「たまたま生じたまれな状態」、「それゆえ無視してもかまわないような状態」なのではなく、私たち人間の基本条件なのだと「依存批判」は主張する。

 「依存」を人間の基本的な条件とみなすことは、「依存者」をケアする活動を行うことをも人間の基本条件とみなすことを意味する。「依存者」は、その生命の維持を他者に依存している。すなわち「依存者」はその生命維持のために、「被保護者の安寧の責任を負う活動」を行う「依存労働者」の労働を不可欠とする。ゆえに「依存」を人間の条件として認めることは、社会を「平等者の集団」とみなすのではなく、「依存者」「依存労働者」をも含む人々の集団であるとしてみなすことを意味する。

 そうだとすれば、「平等」とは、能力において対等な「平等者の集団」で構想されればよいことなのではなく、他者のケアなしには生存できない「依存者」や、「依存者の生存の責任を負っている依存労働者」との間において構想されなければならないことになる。このように「依存批判」は、「依存」という状態を「人間にとってあってはならない例外的な状態」で「できる限り克服すべき状態」と見なすのではなく、誰もが経験する当たり前の状態と見なすことから出発するのである。~

 長い引用となりました。「出発するのである」とあるとおり本論はこれからであり、古くはソクラテス、アリストテレスからカントを経て近年のジョン・ロールズにいたるまでの西洋哲学の系譜を、自立した人間(すなわち男性)を暗黙の前提とするものであるとして批判するところはフェミニストの面目躍如たるものがありますが、そこまでのご紹介は力が及びません。私としてはこの大きな「出発点」を確認できたことで十分に満足(満腹)したような次第です。

 さて、キテイの定義によると、私も息子夫婦も「依存労働者」ということになります。ここで「労働」という言葉が使われているのは、第一には「家事労働」と同じく、多くは女性のシャドウワークとして介護や育児が行われてきた事実に注意を向けさせようとするものでしょう。質も量も中途半端ではないこうした「労働」に従事した結果、「金銭を対価とする労働」から長く疎外されてきた女性の歴史があります。
 第二には、「ケア」が人間の生存と社会の維持をになう「社会的」な行為で責任を伴うものであるという認識によるのでしょう。職業としての「ケア」があることは言うまでもありません(こうしたプロフェッショナルについては、母と私もお世話になっている最中であり、いろいろ感じるところを今後書きたいと思います)。

 キテイの思想は、本来的に脆弱である人間というものを擁護し、依存する人間と依存される人間とをともに肯定するものです。依存は人間の自然であり、生存のための権利である。同時に、それを支える行為(ケア)も人間の自然であり、行為者は自らの責任を果たしつつ必要十分なケアの実現を社会に求める権利を有する。したがって育児、看護、介護などは私的な営みであるばかりでなく社会的な行為でもある。「権利」という言葉を使ってキテイの主張はこのように言うこともできます。

 さらに彼女は、自分が重度の知的障碍をもつ娘の母として、夫と協力しプロの支援を受けつつ育児をしてきた経過と、その体験が自己の思想を深めたことを著作で述べています。この本を読んで励まされる人は多いでしょうし、私もまちがいなくその一人です。
 引き続いて男性の介護者、地域包括ケア、訪問診療などについて書く予定です。








 



 


  



正義論の本家といえば、やはり米国の政治哲学者ジョン・ロールズというのが通り相場で、「公」を論じる私もロールズを読まなければならないのですが、キテイは






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