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2023/01/28

199)夢は枯野を

 1月23日、岸田首相が施政方針演説を行いました。そして昨年、国民と国会と憲法9条を無視して他国領土内の軍事基地を攻撃する力を保有すると宣言したことを「日本の安全保障政策の大転換」であると胸をはりました。バイデン氏に頭を撫でてもらい元気倍増です。むこう5年の軍事費を43兆に膨らませ、そのため増税するとも言いました。そして原発の推進表明、教団との関係の「不説明」等々。起きても致し方ない国会乱闘も起こりませんでした。

 今回のテーマは別にありますがここで憲法をめぐって一言だけ。自民党は改憲を党是とするそうですが、憲法が「結果的にせよ」おびただしい人の命によって贖われた最高規範であることは、押しつけ憲法と批判する人々も認めざるをえないはずです。まして国務大臣や国会議員には理念レベルにとどまらぬ明瞭な憲法遵守義務があります。そもそも戦後70数年、私達はいまだに憲法の文言に血肉を添え内実を充填していく途上にあって、改憲論議はその先の話ではないでしょうか。

 百歩ゆずって「時代の変化に応じた改憲はあり」としましょう(たやすく改憲できるなら規範の意味はないけれど)。政府与党はそのための地ならしに血道を上げています。特定秘密保護法や集団的自衛権の容認も議論のないまま強行されました。今回の「敵基地攻撃能力保持」も同じで、違憲事実を積み重ねて「憲法は時代にあわない」と主張するのは本末転倒、事実(政治)こそが憲法によって縛られるべきです。国会では「改憲論議」ではなく「憲法論議」を行う必要があります。

 こうした問題山積のご時勢にのんきな昔話は気が引けますが、前回の割愛分に区切りをつけておきたく再び江戸期の話をいたします。かの芭蕉とわが先祖に袖すり合うほどの縁があった(らしい)と分かったので私も「元気倍増」なのです。貞享2年(1685)早春、「野ざらし紀行」の途上で京都にあった芭蕉は、堅田の本福寺住職三上千那に請われ初めて大津に足を踏み入れました。小関越えの道すがら、「山路来て なにやらゆかし すみれ草」の句を得ています。

 今颪町(長等3丁目)の本福寺支院に草鞋をぬいだ芭蕉は、さっそく「辛崎の 松は花より  朧にて」と詠みました。「湖水の眺望」と題するこの句について芭蕉は、「我はただ花より松の朧にておもしろかりしのみなり」(去来集)と語っていますから、その地点から見たままを描写したはずで、当時は長等から唐崎まで見渡せたのでしょう。「花」はもちろん長等山の桜であったとされています。数百メートル先の山一杯の桜と3キロかなたに緑に霞む銘木。三井寺の桜も唐崎の松も今なお「健在」であるのは代々の人たちの努力のたまものです。大津は知る程に懐の深い町ではあります。

 この際にまず芭蕉の門人となったのが三上千那はじめ江左尚白(医師)、青亜(僧侶)で「近江蕉門」の嚆矢となりました。ご存じのとおり「俳諧」は、何人もの人が一堂に会し、五七五の長句と七七の短句を交互に組み合わせて合作する文学形式で「連句」とも呼ばれます。いまの「俳句」は俳諧の第1句(発句)から独立したもので、もとは格が低いとされました。芭蕉が「発句は門人のうちに予に劣らぬ句する人多し。俳諧においては老翁(自分)が骨髄」と述べたように当時は俳諧(連句)が重んじられていました。

 連句は「芸術であり、社交の具であり、娯楽を兼ねる点で茶事に似ている」と自らもこれを楽しんだ丸谷才一が指摘しています。句の数は36と芭蕉が定めて「歌仙」と称し、表6句に神祇、釈教、恋、無常を出してはならないが発句は何でもOK、春と秋は3句続ける、同じ語の反復はさける等の規則があります。私達も友人と歌仙の真似事(ルール無視)を何度もやりましたがなかなか面白いのです。人の句と付かず離れず、時に転換あり飛躍あり、終わって眺めると一巻が何となくひとつのまとまりをなしている。合作、即興という遊戯の魅力でしょうか。

 それはともかく三百数十年前、スーパースター芭蕉が全国的な俳諧ブームを巻き起こし、大津でもさかんに俳諧興行(歌仙興行、俳席とも言われます)が行われていたところに芭蕉本人が登場したわけです。大津の俳諧好きが色めき立ったことは間違いないでしょうし、芭蕉もまた大津びとの心をぐっと掴んで離しません。

「五月雨に 隠れぬものや 瀬田の橋」
「四方より 花吹き入れて 鳰の波」
「大津絵の 筆のはじめは 何仏」
「行く春を 近江の人と 惜しみける」
「三井寺の 門たたかばや 今日の月」
「鎖明けて 月さし入れよ 浮御堂」

 芭蕉は42才から51才(没年)までの間に6回にわたって大津を訪れ、義仲寺無名庵、幻住庵、門人宅などに滞在してはさかんに俳諧興行を催しています(芭蕉が点者として批評と採点を行う)。座衆は町人、武士、医師、僧侶など多様でしたが身分をこえた楽しい集まりであったろうと想像します。近江の門人は他に榎本其角(膳所藩医)、竹内成秀(米穀商)、河合乙州(荷問屋)、河合智月(尼僧)、内藤丈草(元犬山藩士で粟津草庵に起居)、望月木節(医師)、水田正秀(膳所藩士)らが知られており、元禄7年10月、大阪で病に臥した芭蕉を看病し、没後は水路(淀川を伏見まで)と陸路を使って翌日には義仲寺まで護り届けたのもこれらの人々でした。

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」

 さて、残念ながら門人達の中に先祖の名がありませんが、5代目「得能」の義父「窪田松琵」が芭蕉の高弟であった水田正秀に師事して蕉門に入り(孫弟子)、4代目「故葉」、6代目「松笙」とも俳諧興行を重ねていますから、その座衆はすべて、近しく仰ぎ見る芭蕉から大きな影響を受けていたと私は推測しています。これをもって俳聖と私の先祖の間に少なくとも「袖が近づく」程度のご縁があったと思うことにしました。

 ちなみに俳諧の記録には長句、短句ばかりでなく、参加者による前書き、献辞、説明なども書かれており、興行の趣旨(客人歓待、観月会、追善供養、出家を祝う等)、参加者の近況(新築、孫の髪置き、病の平癒等)、参加者の間柄といった背景が分かる場合があります。こうした記録にもとづく「近江俳人列伝」(西村燕々編・滋賀県地方史研究家連絡会刊)には、江戸時代に大津を中心に活動した83人の俳人の作品とその人生の一幕が生き生きと紹介されています。

 そこに茂呂故葉(永喜)、得能(長次郎)、永政(松笙)の3人が収録されていたため、私も先祖の日常を垣間見たような気がして親しみを感じました。このうち享保3年(1718)5月16日、故葉宅での興行に面白い句があります。

 蝸牛 話すうちには 角もなし(庸山)
 ぬらりくらりと ゆるき夏帯(故葉)
 夕嵐 輪にふきたばこ 燻らして(松琵)
 橋をすぐれば 楽な河船(杉候)
 ~あるじへことぶきて~ 世に響く 蝉の初音や まつの宿(杉候)
 ~興にじょうじて夜いたくなれば~ 長尻を 呼びに来るかと くいな啼く(松琵)
 ~亭主の身には夜のみじかきを恨みて~ あかぬ客 千もとにすだけ ほととぎす(故葉)

 「蝸牛」の観察を故葉は「ぬらりくらり」で受け「ゆるき夏帯」につなげました。ここから艶っぽい展開もありえますが、故葉の息子と松琵の娘が夫婦である関係か(?)、松琵は、夕べに煙草をふかす平穏な情景に切り替えます(煙草は故葉の家業)。「夕嵐」から湖水へと導かれて「河船」を詠んだのが杉候で、今も昔も瀬田の唐橋を過ぎると水の流れが急に速まります。続く3句はエールの交換。一杯飲みながらやっていたのでしょう(うらやましい)。なにやら先人の体温のようなものを感じつつ好き勝手な素人解釈を述べました。
 ちなみに故葉の孫である松笙は、芭蕉絵詞伝の作者である蝶夢(記事140)らと共に三上千那の追善俳諧興行に列し、「ちぢむれば ついこれほどの 日傘かな」の句を奉じています。

 芭蕉は江戸に家があり伊賀に墓もありましたが、人生の後半によく足を運んだ近江を愛し、その中でも膳所の義仲寺を永眠の地と定めました。湖水の青、比良比叡の緑、大津宮の記憶、三井や石山の名刹、歌枕の数々など理由はいくつもあったのでしょうが、それに加えて芭蕉を心から敬慕し大切に遇した(物心両面で)多くの門人の存在が大きかったのだと思います。

 また、近江蕉門は俳人としてのレベルも高かったようです。芭蕉は晩年に「不易、流行」の思索を重ねて「軽み」の実践を目ざしましたが、宗匠だけでなく連衆の力量に左右されるのが俳諧の特性です。伊賀の門人相手の「軽み」試みが不成功に終わり、近江(膳所)の門人との歌仙において芭蕉は初めてめざす境地に達したとされていますから、芭蕉の「大津愛」は浅からぬものがあったでしょう。

 これらの門人は芭蕉に教えられ文芸においても人としても陶冶されたでしょうが、彼らをその基盤で支えていたのは、大津の歴史、文化、経済力など「まちの力」であったと私は考えます。まさに「まちが人を育み、人がまちを育む」です。目片信市長の市政1期目に「ひとの力、まちの力、自然の力」をキーワードとする「まちづくり行動計画」を企画課の仲間とともに作ったことを思い出します。老化現象か近ごろ気持ちがイニシエに向きがちです。昔話はこのあたりにします。










 
 





 


 


 

2023/01/19

198)命の船

  こんな小話がありました。~ある動物園に毎日かかさずやってくる熱心なお客がいる。いつも他の動物に目もくれずチンパンジー舎に直行して長い間あきもせず観察している。あまり度重なるのである日、職員が何かのご研究ですかとたずねた。するとお客が答えていうには、いやなに人間は猿から進化したっていうからね。チンパンジーがいつ人間になるかこの目で見届けてやろうと思ってさ。~

 ダーウィンを学んだ私たちは、何年たっても熱心なお客の望みがかなわないと知っています。サルとヒトは数百万年前に同じ霊長類から枝分かれし、それぞれ後戻りできない道を前へ前へと進んできました。もう兄弟に戻れません。長い時が流れてクロマニョン人など新人類が現れたのが20万年前のこと。これを私たち現生人類の祖先とみなし、世代のサイクルを仮に20年とすると、いまの地球上の私たち80億人は等しく「ヒト一家」の一万世代目の末裔にあたります(20万年÷20年=1万)。

  かたや日本列島に人が住み始めたのが3万年前ですから、同じ算式によると私たちは列島先住民の1,500世代目の子孫となります。滋賀県では井伊家が由緒ある古い家柄、京都で有名なのは冷泉家、大御所はもちろん天皇家とされていますが、こうした系譜もその長さにおいて人類の歴史の中で何ほどのこともありません(くだけていうと「それが一体なんぼのもんや」です)。これが家系や血統について云々する際の「額縁」であると私は思います。今さら言うほどのことでもないのですが。

  また関連して思うことは、親から親をたどって時をさかのぼると驚くほど多数の関係者が存在するという、これも当たり前の事実です。親は2人、祖父母は4人、曽祖父母は8人、、とネズミ算式に増えていきます(2のn乗)。さきほどの話で「列島住民1500世代目」にあたる私は、最小単位である自分の「家系」において「16代目」ですから先祖の人数は「2の15乗」、すなわち32,768人となります。長く続く3万をこえる血脈の末端に一人の私が存在しています。

 この計算は「同一人の複数回の婚姻」、「血族内婚姻の可能性」、「家をつなぐための養子」等を度外視していますから、正確には「人数」ではなく「人と人の出会いの延べ回数」と言うべきかもしれません。ともあれ一つの「家」にもこのような長く大きな命の連鎖があり、否応なくも有難くも、そこに位置づけられた自分がいます。昨年の暮れ、わが家の古文書の整理をようやく終えて息子夫婦に渡したばかりといういきさつもあり、恐縮ですが個人的な話をいたします。

 今から260年前に書かれた「伊恵能起(家の記)」と題する和綴じの由緒書きがわが家に伝わります。昨年、専門家に解読と現代語訳を依頼して私も初めて中身をよく理解しました。宝暦10年(1761)に4代目茂呂伝兵衛永喜が88才で書き始め、明和2年(1765)にその子茂次郎得能が完成させたもので、記述は詳細にわたり証文の写しなどが添付されています。一族の習俗や守るべき掟が書かれており、当時の町人の生活を知る史料として実物は十数年前に大津市歴史博物館に引き取っていただきました。

 この記録は、蛭が小島に流された源頼朝に仕えたという先祖の事跡から始まり、関ケ原の合戦以降、武士をやめて下小唐崎町(大津市中央2丁目)で酒を商い、ついで煙草商となった経緯が語られています。「治部少輔(石田三成)の謀叛の時に大津の民家が残らず焼き払われ、山家に移った」とか、「武摂(武蔵の徳川と摂津の豊臣)の天下争い(大阪冬の陣、夏の陣)で多くの軍兵が京を目ざして進んだ際は、上げ蔀をおろし門を閉ざして軒下に酒壺を置き酒を売った」などの記述もあります。
 なお「蛭が小島」云々は口伝に基づくもので逸話の数々は具体的ながら物証が不十分です。元亀元年(1570)に生まれ95才で没した長兵衛宗春が「初代」とされ、この人物は過去帳や遺品から存在が確認できます。

「家の記」は昔の話ばかりでなく、子孫に向けては先祖の物語を心にとどめて家を守るべしとして処世や商売の心構えを説いています。いわく、掛け売りをしてはならない、使用人は近郷から雇わない、買い物を妻に任せきりにしない、お祝いの返礼はこの程度にせよ、法事のお膳はこれこれにせよ等々、指示が一々具体的です。
そして後書き(跋文)は、「今後も掟を固くまもり、仁の心で人を使い、困っている者を助け、欲の深くない人を友として心の客月に楽しみ遊ぶならば、誰があざけることがあろうか」と締めくくられています。

 もともと私は、「世の中にいろんなエニシがあるけれど自分は自分である。血縁、地縁、職場などに搦めとられるのは真っ平ごめん」という意識がつよく、ご先祖さまもいいけれど結局は昔話に過ぎないと思っていました。そしてこの上ない伴侶を得て子どもを授かりましたから、まずは「家族という単位」で支えあって自分たちの幸福をめざすことが一番で、そのことを通して周囲の人々の幸福に資するよう努めたいと考えていました。根っこの部分は今も変わりません。

その一方で近年は、子であった者が親になるという数しれぬ繰り返しの一コマとして自分が生まれたという自覚、連綿と続く長尺の織物の一つの「織り目」として自分が存在しているという感覚もあるのです。個が集団に包摂されるのとは少し異なって、自分は自分の意志で生きていると同時に、大きな生命の流れの中でたまたま(奇跡のように)生かされているという思いです。これは年配の人の多く、すなわち長く生きて出会いと別れを繰り返してきた人々に共通する心情ではないでしょうか。

 こうして私は「家の記」を読みましたが、書かれている中身以上に、先祖が子孫にメッセージを伝えようと意図し2代にわたって書き継いだという事実に感じるものがありました。この記録は「家」意識の現れに他なりませんが、「家訓」にとどまらない何物かがあるのです。書き手が、まだ見ぬ子孫をリアルに想定していることは明らかで、それが文章に訴求力をもたらしています。酸いも甘いもかみ分けた老人が、居並ぶ子や孫を前に滔々と昔語りをするような風情があります。これを息子たちに渡そうと数年前に妻が言い出し私も同意したのですが実行に移せず、昨年末にようやく資料一式を3冊のファイルにして息子夫婦に託した次第です。

私の好きな山下達郎に「REBORN(リボーン)」という歌があります。彼のコンサートには何度も行きましたが、あるステージで「依頼されていた『再生』を主題とする作曲がようやく完成した」と彼は語りました。映画「なみや雑貨店の奇跡」のテーマ音楽であったと後に分かりましたが、それがこの曲です。愛する人との痛切な別れを近景とし、連綿と続く生命の連鎖を遠景とする命の抒情詩です。すべてご紹介したいけれど一節だけ掲げます。

~わたしたちはみんな
 どこから来たのだろう
 命の船に乗り
 どこへと行くのだろう
 あなたからわたしへと
 わたしは誰かへと
 想いをつなぐために~

達郎氏の心が私にひびきます。また、曲の終わりに「たましいは決して滅びることはない」というフレーズがあります。たましいは記憶と言い換えることが可能です。時代の記憶は大河のように流れ次の世代に受け継がれていきますが、その流れのひとしずくである名もない一つの家に紡がれた記憶を、私は妻の後押しと古い書物とのお蔭で次の世代につなぎ得た気持ちになりました。それがなんぼのもんやと言われると返す言葉がありませんけれど。



 

2023/01/10

197)2冊の本

 12月と1月に本をもらいました。いずれもよき友人からのギフト、今回はこれらについて書きたいと思います。1冊目は日本敗戦の翌年(1946)に日本書院から発行された「宮沢賢治歌集」です。校注者の森壮已池(もりそういち)は賢治と深い親交があったよし、この人の前書きを私は証人陳述のように読みました。それにしても賢治歌集がこんな早い時期に編まれていたと知りませんでした。生前に刊行されたのは「春と修羅」、「注文の多い料理店」の2点に過ぎませんでした。

 宮沢賢治が短歌を始めたのは、明治43年、14才の時とされ、歌集も同年から始まっています。その前年、彼は父に伴われ盛岡中学校の寄宿舎に入りました。
 冒頭の一首「中の字の 徽章を買ふと つれだちて なまあたたかき 風に出でたり」は、青春の入り口に立った少年の昂揚を感じさせます。
次の一首「父よ父よ などて舎監の前にして かのとき銀の 時計を巻きし」は、高価な懐中時計をさりげなく相手に見せる父への直截な問いかけで、後年の父子相克を予感をはらんでいます。

 この二人は、大正10年(1921)、比叡山延暦寺を訪れました。父政次郎は浄土真宗の篤信家でしたが、賢治は歎異抄や漢和対照妙法蓮華経を通じて日蓮宗を深く信仰するにいたり、父に強く改宗を迫って対立を深めます。そしてこの年の1月に無断で家を飛び出し上京、国柱会(純正日蓮主義を信奉する在家教団で今も存続)を訪ね、街頭布教や奉仕活動に明け暮れます。小切手を送り返してくる息子の心身を案じた父が4月に旅行にさそい、そろって伊勢、大津(!)、奈良を訪れたのです。

 根本中堂での一首。「ねがわくは 妙法如来 正徧知 大師のみ旨 ならしめたまへ」

 「妙法如来」は根本中堂の本尊である薬師如来をさし、仏陀を意味する正徧知もここでは同じく如来をさす。「大師のみ旨」は最澄が19歳で入山する際の「願文」の中の「回施して悉く皆無上菩提を得しめん」という部分をさす、と解説されています。この歌には、父に対する時のような他宗派への非妥協的な姿勢が感じられません。父と子は、親鸞と日蓮が同じ延暦寺で修行を行った歴史をそれぞれの思いで振り返ったでしょう(根本中堂横手に歌碑があります)。

 「大講堂」と題された一首。
「いつくしき 五色の幡に つつまれて 大講堂ぞ ことにわびしき」
 琵琶湖を望んで一首。
「みづうみは 夢の中なる 碧孔雀 まひるながらに 寂しかりけり」

 賢治はこの年25才。父と分かれて東京へ戻りますが、ほどなく妹トシの病気の知らせを受け、トランク一杯の童話原稿を携え帰郷しました。歌集も大正10年で終っていますが、巻末には昭和8年9月の絶筆二首が掲げられています。享年37才。
「病(いたつき)の ゆえにもくちん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし」
「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭り三日 そらはれわたる」

 父は遺言により法華経1000部を印刷し知人に配りました。そして昭和26年(1951)、宮沢家は日蓮宗に改宗しました。

 この歌集をくれたのは、戦後民主教育の熱の中で(もちろん賛辞)まっすぐに成長したような心優しき洞察の人です。いまや学校教育にも市場原理が及んでいるように思われますし、先生たちも疲れている様子です。前回記事で私は「人がもって生まれる(DNAレベルの)性格」があると書きましたが、教育の意義を軽視するものではありません。プーチンが子どもに機関銃を持たせようとするのも成算があってのはず。教育は大事であるし恐ろしいものでもありますが、ここは先へ進みます。

 2冊目は「いろいろずきん」という絵本。カナダの著名な精神科医で精神医学史家でもあるエランベルジェの原作をもとに、日本が誇る精神科医 中井久夫(といっても昨年まで私はこの人を知りませんでした)が文と絵をかいて素晴らしい1冊に仕上げています。二人の関係は医学史的には先達と後継ということになるのでしょうか。 しかしこの絵本において中井久夫が翻訳者にとどまらず創作者でもあることは明らかですから、まさに2大スターの競演です。この本はみすず書房から刊行されすでに絶版となっています。

 扉には「かわいいまごたちへ」という献辞があります。
~きみたちに赤ずきんの話をしたら、「赤ずきんしかいないの? 青ずきんがいないのはおかしい、もっといろいろな色のずきんがあるはずだ」といったね。そりゃそうだ。どうして気がつかなかったのだろう。そこで、いろいろな色のずきんの話をさがした。どこにあったかって?  それよりも、まず、読んでくれたまえ。~

 大人も心をそそられる導入です。そして黄色、白、ばら色、青、緑の5色のずきんの女の子の物語がつづられます。その詩情の豊かさに私はアンデルセンを連想しましたが、よりメタファーに富んでいるかも知れません。友人が「前思春期の子どもの成長が描かれている」とひと言で説明するとおり、これは10才から14才までの5人の子どもの冒険譚でもあります。最後に付された中井久夫の「あとがき」はそれ自体が一つの批評です。私は本文とあとがきを何度も言ったり来たりしながら絵本を味わいました。

 どことなく安野光雅に通じるような絵がまたいいのです。専門家のスキルとアマチュアの無心を兼備した筆使いというべきでしょうか。昨年、私は記事194(ケアをめぐって7)で中井久夫について感動をもって述べましたが、友人は以前からよくよく知っており、中井先生にはこんな作品もあるよ、とこの絵本を私に送ってくれました。

 中井久夫のあとがきも本文と同じく示唆に満ちていますが、こういう一節があります。
~このごろ生命の大切さを教えようとしていますが、自分以外の人間に心があることの発見(心の直感)のほうがもっと大切です。自分は「自分と同じおおぜいの中の一人」であり、同時に「自分以外の人間とおきかえられないかけがえのないいのちと心を持った人間」です。この二つの「人間の条件」を実感する体験が子どものときにぜったいに必要です。~

 「おおぜいの一人」であると同時に「唯一無二の一人」であるということは、いやおうない事実であり、万人がめざすべき理想でもあると思います。中井久夫は「智」と「情」においてこのことを知悉した人であったと改めて思います。

 また彼は、5人の子どもについてこう語っています。~どれも出発点は、大人の目から見ての「いい子」ですが、思い切った行動、けなげな行動、迷った行動、迷い入った世界での行動、そういった体験をつうじて自分を知り、大人を知って、大人になっていきます。どのずきんも、話の終わりには「いい子」にもどったように見えますが、精神的には一まわり大きくなり、自立し成長しています。~
 
 そして、あとがきの最後を次のように締めくくっています。
~挿絵は、主に主人公の目から見たように描こうとしました。精神科医が相手の身になろうとつとめるのと同じでしょうか。~

 本文中「ばらいろずきん」の末尾に「やさしい心とやり通す強い力があれば、時に奇跡が起こる」という原作者の言葉が記されています。これを読んで私は絵本を送ってくれた人と私の妻とを想起しました。年齢も経歴も違う二人でしたが、「無私にいたる大きな優しさ」と「それを源とする穏かな力」を共に持っていると私は感じていました。
 ブレーキを踏む人が傍にいないのでとどまりません。友人たちに関する話は事実にまったく相違ありませんが、内向きの見方は身びいきが過ぎるかもしれません。お笑いください。しかし、家族、友人等々少なからぬ人に支えられてきたわが身を思います。  




 


 

 

 

 

2023/01/04

196)こころ

 いつも記事を書いてからタイトルを考えますが、今回は「こころ」という題を先に決めました。これまで数回にわたり「ケア」を論じ、ケアという依存・被依存の関係において当事者はもちろん周囲の人々の「こころ」が大きくものを言うと感じました。そもそも人は、友情、恋愛、仕事、親戚や近所との付き合い等々、何によらず「こころ」に差配される部分が小さくありません。かように「こころ」は大切です。夏目漱石も「こころ」を書きました。

 この話は、多義的で曖昧な「こころ」の意味を明らかにしないと前へ進みませんが、これが難事業です。ここでは「利害損得と少し距離をおいて発動する喜怒哀楽の情」というほどの意味を込めています。「勘定」ではなく「感情」です。おなじく漱石の「草枕」の冒頭にこうあります。~山路を登りながらこう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかく人の世は住みにくい。~「こころ」は漱石のいう「情」に近いと思います。

 それにしても「こころ」はどこにあるのでしょうか。心は脳の活動だからあえて場所を問われれば頭の中にある、というのが科学の立場でしょう。しかし私は、「こころ」は胸の中にあるように思えてなりません。「理知」は頭の中にあり、一方で私の中に居すわり、また去来する制御不能な「こころ」は心臓のあたりにあるという実感です。日々私は息をするように悲しいのですが、頭ではなく文字どおり胸が痛みます。

 桐生の山道を歩くと、いのししが地面を掘ってミミズを探したあとをよく見かけます。時にはアスファルトやコンクリートの上に堆積した落ち葉の層が丹念に掘り返されていることもあって、鼻先を冷やし傷つけて餌を得られなかったいのししの徒労を私は気の毒に思います。これも胸に感じる極小の痛みです。ミミズに感情移入しないのは手前勝手な話ですが。

 えらく情緒的なことを書きましたが人には勇猛な心もあります。12世紀のイングランド王リチャード1世は戦いの中で一生を過ごし「獅子王(獅子心王)」と称されました。私たちが高校で英語を習ったK先生は、いつも部厚い英英辞典を抱えて美しい風のように登場されました。私は怠惰な生徒でしたが、先生が黒板に「Richard the lionhearted」と書き、リチャード獅子王であると説明されたことだけを不思議に記憶しています。語尾に「ed」をつけず「リチャード・ライオンハート」とも言うようです。

 ついでながら(は失礼ですが)、高校で忘れがたいのは民主主義を熱く語られた私たちのクラス担任のO先生のこと。最初の日に「このクラスでは民主主義と言論の自由を保証します」と宣言されました。「保証」という言葉は何やらしっくりこないけれど先生の意図されるところはよく分かる、高校生の私はそのように受け止めました。O先生ご夫妻にはその8年後、頼み込んで媒酌人を引き受けて頂きました。妻と私が出会った3年9組の担任がO先生でありました。

 ところで私が十数年「ライオンハート」のオードトワレを愛用しているのは英語の授業とは関係なく、「ファッションアドバイザー」であった妻の助言によります。シャツもネクタイも靴もすべてそうでした。私は助言の「し甲斐のない素材」ではありましたが、言われたことには「なるほどそうか」と従ってきた次第で、無職のいまは香水1品だけ教えを守っています。そういえば、「管理職らしい人がカラーシャツを着ているけれど、市役所であれは許されるのですか」と新採職員が聞きに来たと人事課の人から教えられたことを思い出しました。

 頭と心は、「オズの魔法使い」(フランク・ボーム著)の主要なモチーフとなっています。ブリキのきこりは、魔女に呪いをかけられた斧で自分の手や足を切り落とし、次々にブリキのパーツに交換します。ついで胴体を切ってブリキにかえた時に心臓を入れてもらえず、恋人を愛する「こころ」を失ってしまい、なんとか心を取り戻そうとドロシーの一行に加わります。わら(藁)でできた案山子は「脳みそ」がほしい、臆病なライオンは「勇気」がほしい、竜巻で飛ばされてきたドロシーと愛犬トトはふるさとカンザスに帰りたい。オズの魔法使いならきっとみんなの願いをかなえてくれる。

 一行がエメラルドの宮殿をめざす道中、それぞれが自分に欠けているものがいかに重要であるかについて語りあいます。きこりは、「心があって人を愛していた時は、僕は世界で一番幸せな男だった。脳みそは人をしあわせにするわけではない」言います。かかしは、「心をもらっても脳みそがなければ、どうやってそれを使っていいか分からない。脳みそが一番大切だ」と応じます。

 ご存じのとおりこの物語はハッピーエンドを迎えます。オズ大王は魔法をつかう前日、ブリキのきこりに言いました。そもそも心を欲しがるというのが間違っている。心はむしろたいていの人を不幸にしてしまう。それさえ分かれば心がなくて良かったと思うはずだ。これに対しきこりは、そういう考え方もあるかもしれません。しかし僕としては心さえ貰えればあとの不幸はいっさい文句をいわず我慢します、と答えました。印象深いやり取りです。

 次の日、実は人間であったオズ大王は、かかしの頭に針やピンを混ぜた「小麦ふすま」を詰め、ブリキのきこりの左胸には、きれいなシルクにおがくずを詰め込んだ「ハート」を入れ、ライオンに美しいビンに入った不思議な液体を飲せます。オズ大王は物を通じて心に働きかけ、みんな自分に欠けていたものを手に入れて大きな自信と満足を得ました。ドロシーとトトは少し遅れ、本物のよい魔女の助けを借りてカンザスに帰ることができました。

 かつてカンザス州生まれの女性がわが家によく遊びにきていました。竜巻はよくあるのかと聞くと、なにもない広い草原を風がふきあれよく竜巻が起こる、民家には竜巻よけの地下室があると言っていました。何やら昔のことが思い出されます。いまは異常気象でわが国でも珍しくなくなりました。オズの魔法使いの記述は新潮文庫版(河野万里子訳)を参考にしました。

 「頭(智)」と「心(情)」を対比的に書いてきましたが、「智」と「情」は相互乗り入れしている複合体であり、この二分法はあくまで図式的、便宜的なものです。そのうえで私は自分を「智」より「情」の人間であると感じます(よしあしは別)。前回の記事にもつながりますが「持って生まれたもの」によるところがあるのでしょう。

 政治に「こころ」が欲しいと思います。すなわち、「政治家の倫理観(国民すべてと未来を見る眼)の向上」、「制度の結果的公平性(強者と弱者の差を小さくするもの)の担保」、「これらを通じて増進する社会福祉」です。昨今の政治には「こころ」どころか「智」もありません。子どもと高齢者と現役世代(ようするに国民すべて)にあてるべき財源を軍事(攻撃能力の向上)にふり向け、科学的に破綻している原発促進に舵を切りました。公務の担い手としてひそかに恃む省庁役人の「こころ」も執務ビルの外には出ないようです。

 いま、アマゾンの朗読サービス(オーディブル)を聞いています。漱石は読んでよし聞いてよし、特に耳で味わう漱石の文章はおいしいお酒です。図書館まるごと聞けるようですが、読むよりは時間がかかるので書架の一段分も寿命がもちそうにありません。