2021/04/03

140)蝶の見た夢

  人生を夢と見なすことは、ある年数を生きた人間にとって何がしかの実感と共に受け入れ可能な見立てでしょう。「人生五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり」は幸若舞、「粟飯一焚之夢」は謡曲「邯鄲」、「処世若大夢 胡為労其生」は私の好きな李白の詩(春日酔起謂志)の冒頭。浦島太郎やリップ・ヴァン・ビンクルの異界体験(つかの間の不在のあと家郷に戻ったら何十年も過ぎていた)も同根だと思います。

 さらに古くは紀元前の荘子の夢。みずから蝶となりヒラヒラ舞い遊んだ夢から覚めた哲人は、「もしや今が夢の中ではないか。わが人生は蝶が見ている夢に過ぎないのではないか」と自問しました。この存在論には人を魅了する何かが含まれています。蝶の夢。これを俳号とする一人の僧が江戸後期に現れ、俳聖芭蕉の追慕、顕彰に尽力したことを大津市歴史博物館の展示で知りました。

 この間の日曜、開館30周年記念事業(おめでとうございます)の特別企画展「芭蕉翁絵詞伝と義仲寺」に出かけ、歴史博物館の名に相応しい見ごたえのある展示に時を忘れました。以下の記事はパンフレットからの抜き書きです。松尾芭蕉(1644~94)の葬儀には300人が弔問に訪れたそうですが、18世紀中葉には墓所義仲寺の荒廃が進み、世から忘れられた存在となり果てました。

 これを嘆き、生涯をかけてその復興に努めたのが文人僧の蝶夢(1732~96)。彼は芭蕉の百回忌に向けて義仲寺の復興整備に着手し、翁堂に安置された芭蕉像に奉納するため11年の歳月をかけ三十三段からなる松尾芭蕉伝を編集執筆、狩野至信による挿絵を加えて絵巻三巻(延長40m)に仕立て「芭蕉翁絵詞伝」を完成させました。この絵巻は義仲寺の門外不出の宝として長く守られてきましたが、近年、歴史博物館に寄託されました。

 「絵詞伝」を収めた木箱に俳人57人の名が墨書(今なお鮮やか)されていることが端的に示すように絵巻は芭蕉を蕉門俳諧の祖師と仰ぐ視点で編まれ、彼の俳文や紀行文を抜き出し時系列で並べて物語の中心としています。さらに当時の流行であった名所図会(旅行ガイドブック)の要素がふんだんに盛り込まれ、木版増刷の流布により俳諧文学に疎い庶民にも浸透しました。明治以降は活字翻刻本が出版され、幸田露伴も校訂、解題に関わります。かくして「芭蕉翁絵詞伝」は、今日の私たちの芭蕉理解に大きな影響を及ぼすこととなりました。

 その功労者である蝶夢は、義仲寺復興に際し全国をまわって募金活動を展開、集めた大金の管理は商人に委ねるなど精力的、合理的に事業推進に取り組みました。一方、自分の庵を俳諧の「交流センター」として提供しつつ各地からの序文、跋文、発句の依頼に応じて地方俳壇の活動支援を行いました。芭蕉の真筆の鑑定、保存活動にも取り組んでいます。

 以下は私の素人感想。蝶夢は、芭蕉の没後38年に現れた俳諧の守護神であったと言えるでしょう。彼の芭蕉に対する畏敬、追慕の念の深さは絵詞伝の文章からも察しられます。その芭蕉および俳諧のため、内奥から湧きあがる抑えがたい力につき動かされ、多事多難の中にも大きな喜びをもって彼は生涯を捧げたのであろうと想像します。江戸時代に一匹の蝶が見た大きな夢。その幻が豊穣なうつつとなって今の私たちの前に広がり、中で芭蕉がみずからの人生を生きている。芭蕉翁絵詞伝を見て私はそのように感じました。

 当日は企画展の隣で高校書道部の発表会が開かれていました。江戸の絵巻と今どきの若者の伸びやかな書。楽しさが倍になりました。こうした展示活動ばかりでなく、歴史博物館の役割は市内の有形無形の歴史的資産の保護など広く館外に及びます。その30年の歩みを見て、やはりこれは「公」の施設として維持すべき博物館であると強く思います。

 縮小のバイアスがかかる社会のなかで「公」を健全なものとして維持していくためには、私たち一人ひとりに幅広く柔軟な思考をする態度と、公私のより高次な調和をめざす志が求められます。こうした資質に欠ける新自由主義の信奉者や同調者が「公」を理解できないのは理の当然かもしれません。コ氏 VS 歴史博物館・図書館・公民館。維新橋下 VS 文楽・保健所。こうした蒙昧の人々に学びの機会を与えるため芭蕉展の招待券を送ることを博物館に提案します。

 この企画展はあと1週間、4月11日まで。招待券をもらえなかった方もお運びくださいますよう!

 



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