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2023/07/18

210)読めなくしたのは誰?

 しばらく前のことです。ブログの閲覧回数が444,444回に迫った頃、私は、特に数字にこだわりはないのですが「その瞬間」を見たいと思いました。しかし、次にページを開いた時にはカウンターが100以上進んでおり、この記事を書いている今、累計44万6千回を越えています。有難いことです。ご覧くださっている方々に改めて心からお礼を申し上げます。内容にうそ偽りはありませんが、いつも文字で表現することの難しさを感じながら綴っています。昨今は「はるばる来ぬる旅をしぞ思う」というフレーズも心に浮かびます。

 こうした次第で今回はこのブログ(および私の現在地)について書く予定でしたが、作業の途中で「過去の記事が閲覧できない」という異常が発生していることが分かりました。以前からお気づきの方があったとしても、私の意図による操作だと思われたことでしょう。
 本日(2023年7月19日)の時点でこの異常は解消されていますが、ブログ全体のデザインにも及ぶこの問題については記事の後半に記します。

 2015年8月に開始した「大津通信」は、中断をはさんで足かけ8年が経過しました。当初は大津市長であった越直美氏の市政運営をメインテーマとし、広く読者のコメントもお受けして「まちづくりを共に考える場」となることを目ざしました。2020年1月、越氏は2期8年で市長を退任し、後継者も市長選に敗れたため越市政は終わりました。ご本人は「やるべきことは全てやった」と振り返っており、それが「やりたい放題を尽くした」という意味なら私も同感です。既に書いたとおり、事実に即して客観的に眺めると越市政は悪政であったとしか言いようがありません。

 越氏が市役所を去った後も、その市政に関連する裁判が大津地裁で続いていたため(私も原告側証人として出廷しました)ブログのテーマはそちらに移りましたが、この裁判も市側の実質敗訴で終了しました。それを機に「大津通信」を閉じる道もあったのですが、「越問題」の蔭に隠れていたより本質的なテーマ、すなわち現代における「公」のあるべき姿の模索は緒についたばかりです。そこで、自分におよぶ範囲でこの問題を考え続けて行こうとブログ継続を決めましたが背景に次のような事情があります。


 そもそも私にとって「越批評」(越批判ではありません)を書くことは、不愉快な責務のようなものでした。だったら止めればいいのにそれができません。このことをよく理解していた妻は、私が「責務」を一通り果たし終わったと認めた上で、早く「公」のテーマに移るようにと望んでいました。彼女は親切な批評家でもありました。どうも表現が大げさね、身ぶりが大きいというか。それがあなた流だから仕方ないけど。でもよく書けてるよ。
 そういう彼女の文章は、やさしい言葉で物事の中心をすくいとってテーブルの上にそっと載せるような趣がありました。

 また、ブログを続けるよう私に言った彼女は、書くという行為が私の救いになり得ること、ブログという手段が私の数少ない社会への窓口になることを予期していました。ちっぽけなブログの拙い文章に過ぎませんが、妻の判断は正しかったと最近くり返し思うのです。それは、かけがえのない対話の相手を失うこととなるであろう私に対する彼女の憂慮と配慮でもありました。これに限らず私は、自分が妻によってあらかじめ(先回りのように)庇護されていたと感じることが幾つもあるのです。

 私の手元に表示されるデータから推測すると「大津通信」を継続的に閲覧して下さっているのは80人から100人ほど、大半の方々が私をご存知であろうと思います。記事の中身が大津市政に及んだ時に閲覧数が急増するのは、大津市職員や議員の皆さんが興味をもってくださるからでしょう。本当は読者コメントの受付を再開するといいのですが今はその馬力がありません。何人かの友人・知人を除いて私から読者のお顔が見えませんが、こうして書き続けている内に見えるような気になるのは不思議な話です。「駅前広場で前を通り過ぎる人々に語りかける」ような気持ちで文章を綴っていることは当初と変わりません。

 さて、ここから本記事のタイトルに関わるお話です。今回、久しぶりに過去の記事を閲覧しようとしたところ、それが「ごっそり消えている」ではありませんか。いったん公開した記事を私が消すことはなく(そもそも長く触れていません)しばし我が目を疑いました。消えた記事は2015815日のブログ開始から同年125日までに公開したもの(最初の4か月分)であり詳細は以下の通りです。

    「ホーム」の第1回「はじめまして ~波まかせの心~」から第59回「大津のまちの歩み(その4)」までの59本の記事。
  ②    「大津市政」の第1回から第24回までの24本の記事(すべて)。
  ③    「関係資料」の第1回から第8回までの8本の記事(第9回のみ閲覧可能)。
 以上、3つのラベル(ブログ内の収納庫)に分けて掲載されていた「合計91本の記事だけ」がどうにも閲覧できないのです。

 これらの古い記事はブログ開始の動機ともなった「越市政に対する論評」をメインテーマとしており、それに対する読者の貴重な多数のコメントも添付されています。この「当初4か月分」がブログ内の収納庫である「ホーム」、「大津市政」、「関連記事」から消滅し、見出しである「記事一覧」から消え、その記事タイトルをGoogle検索してもヒットしないという異常事態です。

 ネットに詳しい友人が、こんな消え方は見たことがなく理屈にも合わないと首をひねりながらあれこれ調べてくれた結果、「消えた記事」は私のパソコン内にデータ保存されており、またインターネット上にもそっくり残っていることが分かりました。要するに「完全抹消」ではなかったわけです。したがってブログに表示されている記事の末尾にある「前の記事」というインデックスをクリックして一つ前の記事を見ることも可能です。しかし、これを60回繰り返さないと最初の記事にたどり着けませんが。

ともかく、過去には可能であった通常の操作では閲覧できないわけですから実質的には「消えた」も同じです。もし、この異常がブログ(Google Bloggerのシステムエラーや事故によるものなら「一部の記事に限ってアクセス性が極端に悪化している」ことの説明がつきません。フィッシングサイト等はGoogleが警告を繰り返したうえ消去するようですが、私は何のお願いもお知らせも受け取っていません(憚りながら大津市政を考える地味で穏かなブログが公序良俗に反するとしたら、世の中のブログやSNSもほとんどアウトでしょう)。

友人の意見も聞いたうえで、何らかの人為的な操作が行われた可能性が高いと私は考えています。記事自体は残しつつ人目に晒しにくくするという手の込んだ操作です。ではいったい誰が、何のためにこんなことをしたのか、或いはさせたのか。私には心当たりがありますが、確証を得るまではそれを申し上げるわけにいきません。

 また、いつからこの異常が起きていたかは不明です。「No60」より前の記事の見出しが消えていることに気づいたのはずっと以前であり、まさかこんなこととは思わず放置してきたので、かなり長期にわたり閲覧不可能であったと思われます。これは表現の自由にかかわる問題であると考えます。

 さて今回はこうした経緯があって「消された記事」を「復元」します。ただし、過去の記事を呼び戻すという作業が不可能であり、かといって新規投稿にすると時系列が混乱します。
そこで今回あらたに「古い記事」というラベルを設け、その中にブログ開始後4か月分の記事を入れることとします。
また、「大津市政」および「関係資料」のラベルは元のままですが、やはり中身の復元が出来なかったため新しくリンクを張りなおす作業をしています。

過去にとらわれない方が良い、前を見るべきだという考え方もありましょうが、私にとっては「大津通信」を本来の形に戻すだけの話です。これらの記事はフィクションではなく事実ですから、「当時の大津市政の記録」という点で無価値ではないと考えています。今見るか見ないかという話は別として、記録はまず保存することに意味があります。「円珍文書」も「大津通信」も一緒だとまでは言いませんけれど。















2023/07/05

209)実用解体新書

 この半年をかけて母が遺した家の整理を進めてきました。220坪の敷地に4つの建物(母屋、プレハブ2棟、物置き)があり、すべてにモノがつまっていましたから、当初はエベレストの麓に一人立ちつくし雲のかなたの頂上を見上げる気持だったのです。今やっと9合目あたりまで来て「始末記」を書くゆとりができました。公を考えるブログのテーマと無縁ですが「身辺整理」や「断捨離」が心に兆し始めた方のお役に少しは立つかも知れません。私としては「捨てることの難しさ」と「ジモティーの繋ぐ力」を実感する体験となりました。

 さて、家の整理とかけて「沼地をうまく渡る方法」と解く。その心は一歩ごとに沈まないよう足早に歩くことが大切です。「整理」は過ぎた日々と向き合う作業ゆえしばしば手が止まり視線が宙に浮きます。しかし取りかかったら前進あるのみ、迷わず捨てる。そう決意してちょうど良い加減です。しかしこれは今になって思うことで、実際には一歩進んでは次の手段を考えるという手さぐりの行程でした。
 まず母の個人的な物や思い出の品は、「私が受け継ぐ」、「親戚知人への形見分け」、「わが家の薪ストーブで焼却」の3通りで整理し、その後に残った大量の書類、衣類、布団類は半透明のポリ袋(数十個)につめて草津市処分センターへ持ち込みました。

 ついで骨董・古物商に何社か来てもらいましたが、買い取り・引き取りの可否はこちらの価値判断とまったく無縁で「いくら上積みして転売できるか」という一点にかかっており、私の予測はすべて外れました。ちなみに昨今は中国産の古物全般が高値で取引され、かの国の富裕層がこぞって買い求めるのだとか。それは他国への流出品を取り戻そうとする彼らの愛国的心情なのか、あるいは毛沢東以前の古い中国への郷愁なのか、単なる金儲けの手段なのかと私は考えてしまいました。また、鉄瓶、中でも滋賀県産の品が高く売れると聞きました(母宅にはありませんでしたが)。

 さて、こうして様々な家財が引き取られていきましたが、家電製品や収納家具、食器類、新品・未開封の日用品などがまだ手つかずの状態です。ネットや電話で寄贈先を探したものの、どこも引取条件が難しいうえ輸送が面倒なので諦めました。ここでやっと社会福祉協議会の存在を思い出し、事務局に事情を説明して新品の介護用品等を引き取ってもらったほか、その紹介で子ども食堂を運営するNPO法人の代表者にお越し頂き、調理器具や家電品を持ち帰っていただきました。上等、古い、かさばると三拍子そろった座布団もたくさん貰っていただきました。

 ついで、何でも引き取ると宣言している業者にお願いし、家じゅうの食器を全て無料回収してもらうことに成功。分量は空の衣装ケースにぎっしり詰めて10箱以上あり、どこの事業者からも敬遠された中での救いの神でした。作業はコマ切れに3日にわたったのでスタッフの若い人と会話がうまれ、鉄やアルミ製品は金属を扱う事業所に持ち込むとよいと教えてもらいました。ちなみに大量の食器をどうするのか聞いたところ、東南アジアにマーケットがある、フィリピン行きのコンテナに空きがあったので引き取ることができた、との話でした。

 しかしこの「何でも屋さん」もリサイクル法があるのでテレビ、冷蔵庫、洗濯機などは引き取ってくれません。これらの品は、私が郵便局で家電リサイクル券を買って市のセンターに引き取りをお願いしました。エアコンは6台ありました。買い替えではないため家電ショップが対応してくれず、近くの電気店に依頼しました。取り外す前に室外機にガスを集める必要があるらしく、私がリモコンを捨てていたため作業が大変面倒になりました(この手のミスがいくつもありました)。

 それから本。家のあちこちに全集、文庫本、雑誌などが並んでおり、1か所に集めたら6畳間が天井まで埋りそうな分量でした。面白そうな本もあったけれど、私自身が身辺整理に舵を切っているので貰うわけにいきません。中古本買い取りの「ブックオフ」に電話したところ、コロナのため出張買取はやめていると分かり、何回も店頭に持ち込むこととなりました。引取価格は1冊0円から100円程度で、私が受け取ったお金の総額は数千円だったと思います。幸い母の家とブックオフ、さらに雑誌や段ボール回収基地をもつ「イオン」がすぐ近くなので助かりました。

 こうした作業に3、4か月かかりましたが、並行して市の定期収集の集積所にも抜かりなくゴミを出しました(破砕ごみ・陶器ガラス類・プラスチックなど)。この結果、家の中はかなりスッキリしたのですが、まだほとんどの家具(ソファ、ベッド、ダイニングセット、本棚、タンス、ボックス類など)、建具(アコーディオンドア・カーテン、システムキッチン、吊戸棚、作り付け収納庫など)が残っています。これらは家と共に壊さざるを得ないと思っていたのですが、しかし、、、

 それは無理。家は空っぽにしておかなければならない、と建設業を営む親しい知人が言うのです。「 何でも一緒くたに重機でつぶしてダンプに乗せる解体は昔の話で、今はまずアスベストの検査をする。次に畳、カーテン、ガラス等を分けて搬出する。ドアのノブや蝶番(金属製)は外す。コンセントやスイッチ(樹脂製)も外す。壁紙もはがす。木材とベニヤまで分けるという具合に分別が徹底されている。そこまでしないと処分場が引き受けてくれない。」

 考えてみればこれらは当然のことで、分別・リサイクルを進めなければ処分場も地球ももちません。分かったが困ったという私にそこの若い衆が言うには、一度ジモティーをやってごらん、どんなものでも必要とする人が一人はいる、物も生きる。お金も入るかも、、。
 教わった手順どおりにまず食器棚を出品してみたら、もの5分も経たないうちに「もらいます」の返事があり、その後多数の申し込みが殺到しました。こうして私はジモティーの達人の道を歩みだしたわけです。

 これまで私は63回の出品(投稿)を行いました。どこにどんなボールを投げても必ずキャッチされるのが面白く、おいでおいでと誘われるように回数が増えたのです。引取者の希望に応じて他の品々も譲渡したので(私をおじいさんと呼んでくれたベトナム青年の「トイレ」のように)、貰われていった物品の数は100を超えます。家具、建具、灯具は当たり前で、少し変わったところで障子に襖、畳、仏壇、風呂桶、太陽熱温水器、散水栓、電気コンセント、トタン板、庭石、庭木などがあり、プレハブハウスまで引き取り手が現れました。

 ところで仏壇は父が生前に購入したもので、父母ともお寺での永代供養の道を選んだため「無住」となっていました。私も身辺の整理が課題ですから(一向に進みませんが)、わが家に持ち帰れず、壊してセンターに運ぶのも躊躇されるためジモティーに出した次第です(いまは「伝統工芸品」であると注記しました)。すぐに取り引きが成立したのですが、引き渡し前日に「妻に怒られました」と断りのメールが入り、2番手の方に貰われていきました。

 こうした経緯で母屋はがらんどうとなり、付属建物は3棟ともなくなりました。プレハブ2棟はジモティー譲渡、木造トタン葺の物置き1棟はプレハブを引き取りに来られた方が解体のプロで、まるで子どもをあやすように静かに寝かしつけ分解してくれました。これくらいやりましょう、ハウスを頂いたのだからとニッコリされ、私は恐縮、感謝の極みでした。枇杷の木は大きすぎ、庭石は多すぎてまだ残っていますが、それ以外は跡形がありません。ジモティー恐るべし。

 この3カ月、母の家でモノのやり取りを通じて数十人の見知らぬ人と出会いました。家具を渡すなら2~3分、取り外しなら2~3時間、ハウス解体でも1~2日ですから、出会ったというより「すれ違った」という方が正確でしょう。お金のやり取りがないのでさっぱりしたものです。お互いにハンドルネームしか知らず、氏名や連絡先を告げあったのは2人だけです(連絡はしませんが)。しかし私は物を活かせたことが嬉しく、先方は「無償入手」を喜んでくださいました。取り引き終了後、こうして使っていますと写真つきメールを下さった方も数人あります。太陽熱温水器の方はエネルギーを考えるSNS(インスタグラム?)をやっており、「雨ですべる屋根の上で作業を手伝ってくれたのは初老の紳士(※私のこと)だった」と綴っていました。

 この記事を書くにあたって調べると、ジモティーは「株式会社ジモティー」によって運営されており、私が利用した「売ります・あげます」のサイトのほかに「助け合い」、「メンバー募集」、「イベント参加者募集」など様々な需要と供給をネット上で仲介しています。地域の今を可視化して人と人の未来をつなぐというのが企業理念だとか。株主総会報告書では2022年度の売り上げが18億円、営業利益が4.6億円(取引の一部に課金しているほか広告収入がある)とありました。サイトの悪用を防ぐ取り組みもよく実施されていると感じました。

 若い人に限らずネットを介して人同士が出会うのが普通の光景になってきました。私にはついていけないと思っていましたが、今回はしっかりジモティーのお世話になりました。外交も戦争もインターネットに頼る時代です。もう元に戻れません。ところで以前から「AI」と「公」について書きたいと思っていましたが一筋縄でいきません(しばらく勉強します)。生成AIは人の能力の延長線上になく新しい「知的生物」であるとつとに指摘されているようです。そうかも知れない、下手をすると火星人の来襲になると私も思います。

 そこで思い出したのが、テレビの天気予報のあまりに過剰な注意喚起(お節介)です。天気の変化を予測するのはいいけれど、なにゆえ「折り畳み傘をカバンに入れろ」、「ジャケットを持て」、「袖をまくれ」、「頑丈な建物に入れ」、「水を飲め」とまで言う必要があるのか、「てるてる坊主」や「塩アメ」の巨大模型を示すのか、地球人なら分かるだろ、と思うのです。ひょっとして、これは目立たないよう活動を始めた火星人に向けたメッセージか? そういえばNHKニュースの終わりにAI音声で再びおなじ内容を繰り返すにも隠された意味があるのかも知れないと、初老の紳士の妄想は膨らむのです。

 家の解体にそなえて私にできることを一通り終えたので「実用解体新書」というタイトルにしましたが、解体のスケジュールはまったく未定です。50年前に建てられ、結婚前に妻を足しげく訪ねた家、結婚後はみんなが楽しく集った家、晩年の母の様子を見るためを毎日のように妻が通った家でもあります。人も物も常ならざるものはありません。