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2024/01/22

226)佐藤健司市長へ

 選挙から一夜明けて今回は電光石火の記事更新です。佐藤健司市長ご当選おめでとうございます。コロナに阻まれた分も取り返すべく市政を前に進めたいとの訴えが実りました。新人の成田氏もよく健闘されたと思います。それにしても36.6%という投票率の低さはどうか。3人に2人が選挙権を放棄しました。これに得票率を掛けると「市長信任率」は19.7%に過ぎません。選挙全般における投票率の低下は1票の見返りを目の前に求めるコスパ思想の現れでしょうか(後日論じたいと思います)。
 
 前回選挙は、越直美氏のポピュリズム市政をどう評価するか、端的に言うと「個人的動機から市政を食い物にした人物」の「忠実な後継者」が市長となることを認めるか否かが争点であり、結果として大津市民の良識が示されました。今回は大津のまちの現状認識に大きな隔たりのない「普通人」(誉め言葉です)同士の争いとなったため、有権者にとって現職か新人かという以外に両者の違いが分かりにくかったかも知れません。

 一方、佐藤氏を自民、公明、維新(自民のスパイス)が、成田氏を立憲、社民、国民民主(これも微妙な野党)が支援しました。毎日のように裏金問題が報じられる中、自民系候補のクリーンさを疑う有権者もいたでしょう。国政と地方政治が同じでないとしても、今まさに問われているのは自民党そのものですから。この党の憲法観、国家・家族観、対米姿勢などはさておいて「長く政権与党であることによる骨がらみの利権体質」が根本問題です(原発推進にみる産業界との癒着のごとく)。

 さて、逆風順風の中で当選された佐藤氏への祝意をこめて一言申し上げます(私ごとき市外在住の引退老人の小声が届くことを願いつつ)。政策ではなく組織の話です。改めて言いますが市長にとって職員は市民からの「大切な預かりもの」であり、自分の手兵ではありません。また職員は、市の唯一の売り物である「公のサービス」の担い手として市役所の「業績」を左右します(トヨタが車を、エビスがビールを、日清がラーメンを売るごとく市役所は職員を「売って」います)。
 これら二つの理由により、市長には職員を大切にすると共にその資質向上に努める責務があります。良質でパワフルな公務集団を作り上げることが市民の利益に直結します。

 そのために第一に市長がなすべきことは職員の声に耳を傾けることです。市長がその必要性を感じる以上に職員はそれを必要としています。何かと忙しい中、市長には先が見えた(と往々にして感じられるであろう)話に時間をさくのは無駄だと思われるかも知れません。もしそうなら浅慮です。市長が職員の声を聞くことにより(それを必ず受け入れるべしと言っていません)忖度が減って議論が増え、個人と組織の活力が高まることは間違いありません。その姿をイメージすべきです。 

 第二に、公平な人事評価や人事異動と併せて職員研修の充実が求められます。公務の重要性は昔と変わりませんが、社会の変化により職員に求められるスキルが高度化しています。「縮小時代」のまちづくりにいかに貢献できるか。個別化し深化する市民の求めにいかに応えられるか。新たな「公」の構築を目ざしていかに良い仕事ができるか。私の時代と比べて職員の負担は確実に増しています。こうした中で職員が自分を見失うことなく happy に働き、公僕として活躍するための条件整備が重要です。他にもありますが必須2点を述べました。

 もちろん市長の政治信条やリーダーシップは尊重されるべきです。一方で職員は市長の補助機関であると地方自治法により定められています。そこで橋下徹、泉房穂、越直美といった人々にも何とか外形的に市長が務まりました。しかし私が言いたいのはもう一歩先です。「ああ、この市長のために働きたい」と職員が心から思い、こぞって担ぎ上げるお神輿に乗っかって仕事をすることが市政運営の王道であり、政治家たる自己を実現する早道だと思うのです。これぞ「三方よし」です。

 久しぶりに大津市政についてコメントしました。私には意見を述べるだけの情報量も意欲もないけれど4年に一回位は大目に見てください。佐藤氏も笑顔で受け止めてくださるでしょう。しかしもうこれが最後、次回はないと思います。大津市職員の皆さんと市長に心からのエールを送ります。





 










2024/01/11

225)闇に咲く花

 「わあサクラ満開。そこいらじゅう。めっちゃきれいですよ!」と呼びかけたのは見える人。「うん、でもその話は辛いわ。やめてほしいな。」と応じたのは見えない人。ロープを握って軽やかに走る二人の会話が、同じように伴走している私の耳に届きました。見える人は「ごめんごめん」と屈託なく謝り、二人は何事もなかったように走り続けます。もう20年前のこの小さな出来事をご本人たちも覚えていないでしょう。

 当時私は、視覚障害者のランニンググループの一員でした。盲学校の先生や卒業生などからなるこのサークルは、練習メニューから大会参加まで見えない人が中心になって企画し、それを晴眼者が手伝う形で運営されていました(今も存続。先の東京パラリンピックで入賞した女性もいます)。広大な県立公園での定期練習のほか各地のマラソン大会に出たり合宿や宴会をしたり。人交わりが不得意の私もここでは自由に息がつけました。妻も応援および「よろずお世話係」として参加していました。

 「見えない」といっても生まれた時から全盲の人、中途失明の人、光は感知できる人など様々ですが(当時は約20人が在籍)みんな走ることが大好きなツワモノぞろい、マラソン3時間30分の私がついていけない人が何人もいました。晴眼者も「走り屋」ばかりでしたが、二人で走ることの楽しさを全員が口にしていました。私にとって伴走は、目に見えるものを次々と言語化していくという「覚醒的な体験」でもありました。見えない人から多くを教わりました。

 ところで「桜の話はつらい」と言ったのは誕生時から全盲のAさん(と呼びます)。このグループではAさんが練習のペアを決める習わしでしたが、円陣を組んで20~30人の参加者が挨拶を終えると彼が即座に「誰と誰が一緒に走るか」を発表するのです。出席者は一定でなく、見えない人・見える人が同数と限らないので1対2の変則ペアも生じます。Aさんはそれをまるで原稿でも読み上げるようによどみなく伝え、最後に「名前を呼ばれなかった人はいますか」と念を押すのですが、洩れた人がいた試しはありません。

 Aさんは私と同い年、組んで走ると話が尽きませんでした。伴走者に対する彼のリクエストやアドバイスは的確でした。そのおかげで私は伴走が「重力の水先案内」であると知りました。伴走者は進路の状況ばかりでなく地形や周囲の景色なども説明します。例えば、左手に琵琶湖が見えてきました、天気がいいので青く見えます、右側は緑地で犬の散歩をする人がいます、クルマは混んでますね等と言うわけです。Aさんばかりでなく他の人たちも伴走者の「実況中継」を注意深くかつ肯定的に聞いてくれます。

 こうしたわけで私は冒頭の「サクラ満開発言」を無神経であると一概に非難することができません。Aさんも並んで走る仲間に他意がないことを十分に分かりつつ、しかしその話題は勘弁してほしいと率直に伝えたわけです。それでもこの一件は、視覚を有する人と有しない人が「見える事物」をどこまで共有できるかという問いと結びついて忘れることが出来ません。民主主義を口で語れても花の美しさを語りうるのかという疑問です。

 前に書いた通りわが家に花が絶えません。2階の寝室の一角はいつもバラ、ユリその他の花瓶が並んでいます。休もうと電気を消したとたん闇に紛れても美しい花がそこにあることは分かっています。仮に私が入院しても殺風景な病室で花の記憶をよみがえらせることは可能です。しかし生涯に花を見たことがない人にその美しさをなんと伝えたものか。リンゴもトマトも夕焼けも赤だと言って色彩を語ったことになるでしょうか。

 ここで奇跡の人ヘレン・ケラーに触れないわけにいきません。1才7か月で熱病により視力と聴力を失い結果として言葉も発しなくなった彼女は、ただ見守るしかない家族の中で小さな暴君として育ちました。7歳の時に家庭教師として住み込んだアン・サリヴァンとの出会いでその人生が一変します。二人にとって嵐のような1か月が過ぎたある日、サリヴァン先生が井戸の水をヘレンの手に注いで他方の掌にw-a-t-e-rと綴り、ヘレンが物事に名前があると悟った話は感動をさそいます。

 これを契機にヘレンは指文字や触覚(相手の唇や喉にふれる)、浮き出し印刷、点字などにより言葉を自分のものとし、発声・発語訓練の結果、口頭で話せるようにもなりました(流暢ではなかったらしいけれど)。そして生まれ持っての才能が開花し、英語はもちろんドイツ語、フランス語、ラテン語、ギリシア語を習得してハーバード大学(ラドクリフ校)を卒業。著作や講演をはじめ貧困問題、女性の参政権、障害者の人権、平和問題(帝国主義批判)等にも積極的に取り組みました。

 1937年から1955年にわたり3度の来日。奈良の唐招提寺では鑑真和上像に手で触れ(もちろん観賞のため)、大津の琵琶湖ホテルでは桜の記念植樹を行いました(この桜はホテルの移転先でよみがりました)。私は、この人がごく若い頃に書いた自伝を読みましたが叙述力も稀有です。特に描かれている人や事象や自然があまりに視覚的である(彩りと動きにあふれている)ことに驚きました。語弊を恐れずいえば「見えない人が見ている世界の豊饒さ」に打たれたのです。

 もっとも私たちは言葉により外界を解釈していますから、目が見えない(インプットに一定の制限がある)ことは、ヘレン・ケラーはもとよりランニングクラブの仲間たちに見るように大きな困難はあっても克服可能な課題であるのかも知れません。また世の中の多くの大切な物は、愛、友情、信義、信仰のように目に見えない抽象物であり、私たちが物を「見る」ことも「目より脳の作用」であることが明らかとなっています。この世界は9割がた言葉で成り立っているといってよいでしょう(当てずっぽう)。

 それでは花の美しさの意味は何か。それをどのように言葉にして人に伝えることができるのか。独立自尊、自由闊達の人物である盲目のAさんは、満開の桜の話が辛いと言いました。その心中は私にも想像が及ぶ気がします。三重苦の聖女と称されたヘレン・ケラーは、琵琶湖畔で桜を植えた時に何を思ったでしょう。もし「9割がたが言葉である」と仮定するなら、花の美しさは「残りの1割ほどの言葉外領域」に存在するのでしょうか。

 「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」という本があります(川内有緒・集英社インターナショナル)。著者は前書きにこう書いています。 ~ 白鳥建二さん、51才、全盲。年に何十回も美術館に通う。「白鳥さんと作品を見るとほんとに楽しいよ!」という友人マイティの一言でアートを巡る旅が始まった。絵画や仏像、現代美術を前にして会話をしていると新しい世界の扉がどんどん開き、それまで見えていなかったことが見えてきた。アートの意味、生きること、障害を持つこと、一緒に笑うこと。白鳥さんとアートを旅して見えてきたことの物語。~ 

 白鳥さんのアート鑑賞の方法は、触ったり体験できるもの以外は同行者の自由な感想に時おり合いの手を入れつつ耳を傾けることにより「言葉による個々人の解釈」を楽しみながら自分の内に作品を再構築する操作であると思われます。白鳥さんの同伴者が「言語化」によって覚醒的体験をする点は伴走と似ています。共同鑑賞のためのワークショップも開かれており、そこでは晴眼者から「色の説明をしてもいいのか」という質問も出るとか。それはもちろんOKのようですが、仮に私が白鳥さんに「このバラは牛乳の鍋に赤い液を数滴おとしてかき混ぜたような色です」と説明したとして、いったい何を伝え得ているでしょう。

 ところでヘレン・ケラーは1900年代前半(第2次大戦をはさむ時代)における米国の代表的な社会活動家として活躍しました。いま私は書物に収録された写真で知るのですが、彼女が出会い、その口や喉や手にふれて意思疎通した相手はグラハム・ベル(聴覚障害者用の補聴器の製作をきっかけに電話を発明)、バーナード・ショー、マーク・トウェイン、ダグラス・フェアバンクス、チャーリー・チャップリン、大統領クーリッジやルーズベルトなど錚々たる顔ぶれです。インドのネールや西ドイツのアデナウアーとの写真もあります。

 アン・サリヴァンがヘレンの家庭教師となったのは1887年のことで当時20歳の若い先生でした。2度にわたって目の手術をうけ何とか視力を回復したというアン自身の体験がヘレンの教育に大きく役立ったことは間違いありません。彼女の愛情深さ、忍耐強さ、誠実さ、意志の強さについて、その恩恵を一身に受けたヘレンが繰り返し語っています。サリヴァン先生も稀有な人でありました。類いまれな二人の人間の出会いと、その二人が築いた類まれな関係。これを人類のひとつの達成であるというのは大げさでしょうか。

 私は植物が一番、動物が二番、人間はずっと離れた三番であると主張しています。この「種」としての評価は私において今後も変わりません。一方、「同一種内の個体差」という点で植物や動物が均一であるのに対し、言葉を有する人間はきわめて多様でばらばら、まちまちです。その結果というべきか、この種にはヘレン・ケラーやアン・サリヴァンのような人がおり私が好きな宮沢賢治もいます。高貴な人、瞠目すべき人は他にもたくさんいますから、その点では人間も捨てたものではないと思うのです。もちろん自分は棚に上げての発言です。 

 ところで私は小さい時から眼鏡をかけており(「増税」ではなく「近視・乱視」メガネ)、網膜のレーザー治療(光凝固)を経験し、今はイールズ病と白内障の経過観察中です。日常生活に不便はありませんが、こうした経過もあって「自分は今たまたま見えている」という感覚が人より強いと思います。桐生の山を下りた後、人気のない道を目を閉じて何歩ほど歩けるか試すことも癖になっています(怖くて20歩が限界)。今回は「花と美と言葉」を論じるつもりでしたが例によって感想の断片を書くことしかできませんでした。エニウェイ、今の私にとってバラやユリの存在は一つの僥倖であると感じられます。


 桐生から ~ 同行二人 ~
 桐生に日参する私は、こうして歩くことで何やら魂が救われる気がします。「えらく安い魂だな」と言われると返す言葉がありません。しかし、一定の負荷をともなう単純な反復動作である歩行は人を内省的にします(回峰行や巡礼に見るように)。120年前、経典を求めて鎖国下のチベットに潜入した河口慧海は五体投地をしつつ進みました。こんな苦行では内省どころでなかったでしょうけれど。四国遍路には弘法大師空海が寄り添って下さるとか。同行二人(どうぎょうににん)です。私の桐生彷徨もまた大切な人との同行二人です。

 とはいえ実際問題として我が身の始末は自分でつける必要がありますから、とにかく転倒しないよう慎重に足を運びます(特に桐生は滑りやすいのです)。また、急いで下山する必要に迫られた場合、その地点から進むのと戻るのとどちらが早いかをいつも意識しながら歩いています。救急セットと懐中電灯は常備。クマやイノシシ用の唐辛子スプレーも遅まきながら12月から携行しています。

 それでも万事休すの場合は119番に電話するつもりですが(お忙しい中すみません)、大津と栗東にまたがる桐生山中の管轄が大津市消防か湖南消防か定かでありません。もし前者なら、私の苗字は珍しいので「この人、役所のOBと違うか?」となるかも知れません。かつて職場で2回も大津救急のお世話になった私としては(1回目は守衛室前の階段を駆け下り最後にジャンプして額に裂傷、2回目は同じ階段を駆け上って心房細動)、もう3回目は避けたいところ、慎重歩行にならざるを得ません。

 脳天気なことを連ねましたが、大津市消防は滋賀県と連携して1月1日から能登の救援に駆けつけています。企業局も給水支援を行っています。保健所も動くかも知れません。栗東市はじめ全国の自治体も支援に力を入れています。地域住民に尽くすのが自治体職員の本務でしょうが、時に所管エリアが市境、県境をまたいで広域に及ぶのが公務の公務たるゆえんであると思います。関係の方々には難事業ですがご自身の安全確保のうえ良いお仕事をしてくださるよう一市民(一県民)として謹んでお願い申し上げます。




2024/01/04

224)能登地震と羽田事故

 岸田政権が原発の再稼働どころか新増設まで言い出したのは昨年のこと。年が改まった初日に能登で大地震がありました。亡くなった方の数が時間の経過とともに増えています。阪神大震災の直後に「高齢者が垂れ下がった電線で感電した(とりあえず被害者は1名)」と報じられたことを思い出します。被害が大きいほど初期情報が不足することを改めて痛感します。ともかく早く救助が進むよう祈るものです。

 「何か起こったらすぐ行政のせいにする」ことを私はしませんが、災害対応が一段落したら政府はじめ関係自治体は、これまでの減災対策の妥当性を真摯に検証する必要があります。「がんばろう」や「絆」の掛け声でごまかしてはなりません。少なくとも現段階で自明であることは、原発(原子炉、配管系統、燃料プール、再処理工場、中間貯蔵施設、最終処分場等々)は「豆腐のような日本の国土において特に危険きわまりない災厄の元でしかない」という事実です(記事218「10万年の決断」にも書きました。同じことばかり言いますが)。

 今回、北陸電力は、志賀原発に異常なしと発表したあと「冷却海水の水位が3メートル上昇していた」と訂正しました。危険水位ではないと最初は頬かむりするつもりだったはず。電力会社の安全情報はえてしてこんなものです。原発は電気をつくる装置でありながら外部から電気をもらって冷やし続けなければ爆発します。自家発電装置がうまく動いても(福島第一では水没)燃料パイプや炉心への電力供給ラインが切断されたらおしまいです。個々の原発も私たちの社会も、共に高い塀の上を今のところは落ちずに歩いているに過ぎません。

 気候対策のCOP28で原発の発電量を3倍に増やすという方針がまとまりました。あえて言いますが狂気の沙汰です。政府は国内需要以外に原発輸出で金儲けを企んでいます。フクシマの後でもなお! 顔に小便をかけられてもけろっとしている蛙のような岸田氏一人のせいではなく政権も社会もタガが外れたように見えます。自民党キックバックもその一環であり、能登地震では早くもSNSで偽情報を流す人々がいるようです。

 1月2日には羽田空港で飛行機同士が衝突しました。どうやら海上保安庁側のミスのようですが、ここでも人命が失われました。JAL機に乗っていたペットも助かりませんでした。この事故と直接関係ありませんが、羽田空港に隣接する「横田空域」のことを思わずにいられません。これは1都9県の上空にまたがる米軍占用エリア(高度2400~7000メートル)であり、羽田空港の離着陸機はこの空域を回避しなければなりません。安全面で明らかにマイナスです。

 オスプレイが日本の空を我が物顔に飛び回るのも、墜落したオスプレイを調べられないのも、米軍人が日本の民間人を殺しても罰せられないのもすべて根っこは同じ、日米地位協定や政府と米軍の定例会議(合同委員会)での協議に基づいています。辺野古の代執行も米国の利益代理人である今の政権にとっては当然の道筋なのでしょう。さきに「何でも行政のせいにしない」と書きましたが、しかし、政府の責任を問うべきことは実に沢山あります。それらは私たちと未来の世代にとって重要な問題ばかりです。今年もこれを念頭において記事を書きたいと思います。
 
 今回は花の美しさから発展して物を見るということを書くつもりでしたが、地震と事故にふれないわけにいきませんでした。次に回したいと思います。 最後に付録があります。


~ 桐生から ~
 昨年は3百日ほど桐生(金勝アルプス)に行ったでしょうか。最高峰の天狗岩でも509mという低山ですが町なかを歩くのと違って心が安らぎ空気は美味です。知らない道はもうありません。私の正道を極めること大谷選手のごとく裏街道を探索すること安倍派のごとし。ところが帰宅して「今日はこうだったよ」と話しかけても白猫はあまり関心を示しません。そこで駄文の追加になりますが時々こうした断片を書きたいと思います。「徘徊老人日記」というタイトルを思いついたのですが、趣味が良くないし不適切だよという声が心に聞こえて止めました。

 さて桐生の山道の特徴はアップダウンが多いこと。富士山や三上山(近江富士)のような円錐形の山は行きは登りだけ、帰りは下りだけとシンプルですが、桐生の地形は複雑で登り道に多くの下り坂があって稼いだ高度が度々目減りします(もちろん下山時は逆)。また前にも書きましたが、ずっと上の方まで石垣や階段などの人工物があり、山頭火なら「分け入っても分け入っても人の庭」と言うでしょう。しかし円熟の境地に達した私にはそれもまた好もしく思われるのです。