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2025/08/24

285)「ボランティア」続報

 ボランティア活動は「よいこと」とされており私もそれに賛同しますが、活動の主体が自分自身である場合は少し話が変わります。なぜか「私もボランティアをしています」と言いにくい居心地の悪さがあるのです。そこでタイトルも括弧でくくりました。これは「公」と「私」の関係をめぐってブログのテーマにも関わる問題ですが説明が易しくありません。ボランティア初心者の私に力みがあるのでしょうか。

 とりあえず活動報告です。私は草津市社会福祉協議会の事業への協力を主目的とする2つのグループ(いずれも数人規模)および「フードバンク事業」に参加し、これらと別に草津川公園「であい広場」を管理する市民グループ「グラッシー」のメンバーになったので出かけ先が4つになりました。一見多忙ですが、それぞれの活動は月1回(たまに2回)なので出ずっぱりではありません。

 まだ2か月の活動で気づいたことを書きます。先日、フードバンクの食品の賞味期限の確認と数量カウントを手伝って寄付品が雑多なのに驚きました。缶詰、レトルト食品、乾物などはいいとして、「駄菓子」のたぐい(ミシン目で数珠つなぎになったお菓子で袋の数が減っているもの、「あてもの」の景品みたいなもの等)や1個ずつ包装された丸餅(大きな袋を破いてバラバラにしたもの)、その他いろいろあって「こんなものまで寄付するのか」と思いました。

 捨てるのがいやだから寄付しておこうと考える人があるのでしょう。貧者の一灯も混じっているかもしれません。そして社会福祉協議会はその性格上、市民の善意を取捨選択することができません。チリも積もれば山となって必要な人に分配されるし(これもボランティアが従事)、全体としてフードロスも減ります。「三方よし」だがそれにしても、、、と私は考えます。あまりに華がないのです。中にはキャビアやフォアグラの缶詰、伊勢海老のレトルトスープが混じっていてもいいではないか。

 そんな高級品を寄付したことのない自分を棚にあげて言いますが、私は、社会のさまざまな「福祉」の場面において「けち臭さ」や「みみっちさ」を感じることが少なくありません。「福祉」を受ける側の人々に対して「ありがたく思え」というその他大勢の集合的な意識(むしろ無意識)が存在しているかのようです。これは健康で文化的な最低限度の生活(憲法25条)とは何かという問いにつながります。ボランティアの意義を問うことでもあります。「私たちはどこまで分かち合えるか」という問いです。

 これに対し「ガザやウクライナを見ろ。そんな贅沢が言えるのは平和ボケの証拠だ」という意見も出るでしょう。戦争は止めるべきだし人は殺されてはなりませんが、それとこれとは話が違います。これは昨今の意見ではなく私が長く感じてきたことです。もちろん福祉の多様な担い手をけなすつもりはなく、むしろそうした人々に私は親愛の情をいだいています。しかし福祉にたずさわる人はこの問いを忘れてはならないと思います。「これってダサくない?」と自問することでもあります。

 「人はパンのみにて生くるものにあらず」と聞いて「そうですコメです。備蓄米や新米です!」と言うのはぶっ飛び農水大臣ぐらいのもので、ふつうの人は(私も)、これは精神の重要性を説く言葉であると了解しています。しかし人において肉体(物質)と精神は相互補完的ですから、草の根をかじって心の安寧を保つことは困難です。パンも食べたいし心の充足も得たい。胃袋と心を充たすために「福祉」はいかにあるべきか。このように問うこともできます。

 私たちは、アウシュビッツやラーゲリにおいてさえ崇高な行為や自由、不屈の精神が存在したことを知っています。しかし、それとこれとも話が違うと思うのです。極限状況を引き合いにして平時の社会システムや思想を論じたら何でもOKになってしまいます。

 また別の日、公園の草刈り作業でえらく腹を立てている人がいました。臨時の招集(ラインの案内)があって私が出かけると、その人はもう作業を始めていました。定刻になって事務所の前に集合すると彼は事務所の人に食ってかかりました。作業を呼びかけた人が来ていない、開始時間に会議が行われているのはおかしい、どこを作業するのかの説明がない、すべて無責任である等。実はこれらは主に彼の勘違いによるものだとわかり作業が始まりましたが、彼の怒りはしばらく収まりませんでした。

 その様子をみて、この人は現役の時もこの調子でやっていたんだろうと私は思いました。「俺がちゃんとやってるのになぜお前たちはちゃんとしないんだ」という姿勢です。正義は自分にあると信じる分だけ憤りが増します。これらはあくまで私の想像ですが、そんな「義憤パワー」を彼は発していました。もしボランティアで過去を引きずっているならみっともない話です。課長だの部長だのは組織内の暫定的役割(ごっこ遊びのようなもの)に過ぎません。

 またある日、私は、高齢者施設が地域に開放しているサロンにでかけてギターを弾きました。ここは毎月の出前先なのですが(ゲームやヨシ笛。お客さんも熱唱)、新メンバーの私が伴奏に加わることになったのです。曲目はポピュラーなものばかり(平和堂の歌を含む)でコードも単純なので何とかなると思ったけれど、ヨシ笛と音が合わないので慌てました。ヨシ笛の「ド」はピアノの「ミ」の音程なのです。

 打ち合わせの時にこれが分り、家に帰ってからヨシ笛の楽譜コードをすべて(正常に)書き変えました。しかしヨシ笛の中には「ファ」の音を「ド」とする別の流派があると知り、念のため二回目の音合わせをお願いして当日を迎えました。さて結果はどうであったか。ヨシ笛2本とお客さま(私と同年配か年長の女性達)の大合唱にかき消され、マイクなしのクラシックギターの音が聞こえたのは前奏部分だけ!という始末でした。いやはやまったく。

 別の日、ある町内会(夏の終わりの3世代交流会)に風船をふくらましに行ったら、世話役の人が市役所の先輩でした。採用3年目の私は社会福祉課保護係のケースワーカー、先輩は老人係(今はこの名前はないはず)の係長、何年か近くで仕事をさせていただきました。30年か40年ぶりの再会でしたが、先輩の元気よくテンポよい話し方が変わっていないことは何よりでした。

 風船(ペンシルバルーン)はふくらませてから口を結ぶのが大変です。私の役目はお手伝いにすぎないけれど前日に自宅で30本ほど作って会場に行きました(リーダーも同様)。これは大盛会のうちに終わりました。当初、私はこうした「出前」はせずにキラリエ(社協の入る複合施設)内での単純作業にだけ従事するつもりでしたが、2団体ともメンバーが少ないため、なかなかえり好みしにくい雰囲気なのです。

 また、月1回の定例会議の時に当てられたら発言もしますから、「いいですね。じゃあご当地クイズは茂呂さんやってください」といった具合になります。そこで9月は「にこにこカフェ」のクイズ担当になりました。こうして「深み」にはまってきましたが、個人活動として始めたことなので、今後どこまでグループとして動くかが問題です。ボランティアを募ったり招いたりする側はグループを相手にする方が都合がよいという現実もあります。

 続報は以上で、しばらくはこの話題からはなれます。いま記事を読み直すと、私もまた昔の経験をかざして若い人々に講釈を垂れています。しかも「公私論」はきわめて不十分です。しかし言いたい放題は隠居の特権とさせてください。始めると止まりにくいのです。ご当地クイズもすでに作ってしまいました。明日は臨時の草刈りヘルプ要請があったので朝から出かけることにします。






2025/08/14

284)「なめられてたまるか!」

 石破首相の啖呵はまだ記憶に新しいところです。7月10日、千葉県船橋市での参院選の街頭演説で彼は言い放ちました。「 いまトランプ関税で国益をかけた戦いをしている。たとえ同盟国であっても正々堂々と言うべきは言う。なめられてたまるか!」。私は、よくぞ言った、でも相手は太平洋の向こうだから少し惜しい、思いました。

 これは「なめられている」と実感しているゆえの発言であり、赤澤(格下)大臣はいざ知らず、米国政府と向き合う多くの政治家に共通する思いでしょう。一般人の私さえ不愉快です。しかし政治家たるもの、その思いは心に秘めて交渉力に転化させるべきでした。口に出した以上、相手が感情を害しても構わないというメッセージになります。相手は感情的でしたたかな独裁者です。これは短慮の発言であったと思います。

 「日本と米国はパートナーシップで結ばれた同盟国である」と政府は言いますが自己欺瞞はもうやめましょう。まるで序二段や三段目の力士が大関や横綱を友人扱いするようなものです。あるいは少年野球のエースが大谷翔平選手を「君づけ」で呼ぶようなものかも知れません(これは愛嬌があるけれど)。この80年の日米関係をふりかえると、どう見たってアメリカが親分で日本が子分でした。トランプは遠慮会釈がないだけです。

 対米依存は経済や軍事をテコに内政まで及びます。基地を経由して米国関係者はいくらでも密入国ができるし密出国できます(ふつうは成田経由だとしても)。スパイ天国です。いや米国はロシアや中国に対しては真剣に諜報活動を行っても、手のうちにある日本には本気モードにならないでしょう。まことに腹立たしいけれど日本は属国です。ふつうに考えてそのように思わざるを得ません。

 520人が亡くなった日航機墜落事故にしても原因者であるボーイング社の責任を追及できないまま40年が経過したではありませんか(米軍基地を原因とする数々の犯罪もしかり)。草の根の市民交流は大切だし私もアメリカの友人がいるけれど国家関係は対等ではありません。関税交渉の合意文書を作れなかった理由はこれにつきます。スピードを重視したという首相の言い訳は「ああ、アホらし!」のひと言です。

 案の定、8月1日に米国が日本製品に一律15%の関税を上乗せすると発表し、あわてた日本政府は「強く遺憾の意」を表明しました。この件は近いうちに何とかなりそうですが、NHKの世論調査の結果では「日本側もよくやった」と回答する人が目立ちました。まったくもって寛大な人が多い日本です(とくに自国の政権に対して)。自他の状況をもう少しリアルに見たほうが「国益にかなう」と思う次第です。

 赤澤(格下)大臣が「ベッちゃん、ラトちゃん」と書いたらしいけれど、恥ずかしいのひと言です。政権担当者の役割は国民に対して率直に事実を伝えることであるはずです。一緒に夢にひたってはいけません。こう考えると、広島と長崎の大切な式典において、原爆投下がまるで「自然災害」のように語られることにも疑問を感じないではいられません。これは未曽有の災いではありましたが、多数の実行者、協力者、因果関係者が引き起こした人災ではありませんか。

 いま、石破氏は仲間に「なめられてたまるか」と頑張っています。リーダーが弱りだすと群れの餌食になります。このあたりは政治家はとてもリアルな感覚を発揮します。「共食い」を見かねたのか内閣支持率が上がりつつありますが一寸先は闇。とにかく政治家諸氏には国民のために頑張ってほしいと思います。
 若い友人Nさんが「地域デビュー読んだよ。えらいね。続きを待ってるよ」と(丁寧な言葉で)励ましてくれました。私は私益しか背負っていないけれど頑張らねばなりません。










いまこの言葉を蒸し返すのは意地が悪いじゃないかと思う「愛国者」もおられるでしょうが、私は自民党の有力者の中で石破氏はよい部類に入ると思っています(旧安倍派の人々と比べると明瞭)。

2025/08/03

283)選挙結果について

 参院選の結果について少し書きます(書きかけては中断していました)。自民敗北は自然の流れであったと思います。もともと有権者の多数は政治権力に対してあまりに寛容(もしくは従順)でしたが、さすがに近年の自公政治に愛想が尽きたのでしょう。モリ、カケ、サクラ、裏金、物価高、米騒動、米追従など罪科はいくらもあります。私は原発推進こそ最大の過ちであると考えていますが、これは選挙の争点にもなりませんでした。

 ともかく「自民票」が新しい保守勢力である参政党と国民民主党に流れ、「新規票」のオマケまでつきました。老舗の共産党は振るわず、社民党はもはや絶滅危惧種です。多党化というより右傾化です。私はとくに「左」に肩入れするわけではないけれど、これは日本の民主主義にとってよくない状況だと思います。参政党はSNSを駆使して伸びたと言われますが、実は彼らの主張に共感する人が多かったのが勝因でしょう。

 参政党は「占領下で生まれた憲法は認められない」として憲法を一から作り直す「創憲」を主張しています。改憲論者の好む理屈ですが、これは過去に書いたのでここでは繰り返しません(記事117「終了のご挨拶」をご覧くださると幸いです)。
 参政党の憲法草案が彼らの政治的嗜好をもっともよく表現していると見て差し支えないでしょう。それは教育勅語のゾンビのような前文から始まり、第1条で「日本は天皇のしらす君民一体の国である」と宣言します。2条も3条も天皇条項です。

 第4条は「国は主権を有し、独立して自ら決定する権限を有する」、第5条は「国民の要件は父または母が日本人であり、日本語を母国語とし、日本を大切にする心を有することを基準として法律で定める」となっています。私はこれらをまともに論じる気になりません。いっそ面白いぐらいの内容ですが、参政党の人々は2年をかけて真面目に議論してきたのだそうです。

 日本国憲法で定められた法の下の平等、思想・良心の自由、信教の自由、表現の自由、裁判を受ける権利などはあっさり捨てられました。それで大丈夫ですか?とテレビ番組の司会者から聞かれ、草案作りの責任者は「これまでの判例もあるので問題ありません」と答えました(先日の「羽鳥慎一モーニングショー」)。しかし、憲法が変われば前憲法のもとで蓄積された判例は規範力を失うはずではありませんか。まことに言いたい放題です。

 この党は日本人ファーストを標榜し、「父母のどちらかが日本人であること」を日本人の要件としています。小池都知事の都民ファースト(なんと下劣な言葉!)に対しては「ああそう、わしら滋賀県人だもんね」と返せますが、日本人ファーストとなると、この国で暮らしている人のうちに行き場を失う人が出ます。有名どころでは孫正義、ラモス瑠偉、白鵬、ボビーオロゴン、リーチマイケルなど。参政党は彼らの日本国籍を認めません。力のある人々は不快感を感じるだけで済むでしょうが(それでも申し訳ない!)、生活の不安を実感する人々もいるはずです。

 書くだに馬鹿らしい話だし、怒りと怖れも感じます。選挙の翌日、若い衆が「こんな結果になってうちの子ども(自らの幼い子ら)に済まない気持ちだ」とラインを寄こしました。絶望するのは早いぞよと返事しましたが、それは私自身にも言ったつもりです。本来は各党の主張と獲得票数の推移を見比べて全体を俯瞰する必要がありますが、それは誰かがやるでしょう。この記事は一党にしぼって感想を書いており「切取印象」にすぎません。コメント受付をやめて久しいので読者の教えやお叱りを受ける機会が減りました。今回はこれで終ります。