2019/12/31

117)終了のご挨拶

<皆さま有難うございました!>
 長く休止していた本ブログ「大津通信」を再開したのは、越直美市長による公文書蹂躙や不祥事隠ぺいをこれ以上黙って見ていられないと思ったからです。「公益通報のつもり」と書いたことに偽りはありません。そして当初は、「陳述書」や「意見書」を公開したのち、11月19日の証人尋問を最後にブログを閉鎖するつもりでした。そこまでが自分の役目だと考えたからです。

 ところが、証人尋問における大津市証言が不明瞭、不正確、不真面目なものであったことに加え、被告である越直美市長から腹心の元人事課長に政権移譲が進められていることを知ってすぐに筆を措くわけにいかず、年末まで書き継いで来ました。そして幸いにも驚くほど多くの方々にご覧いただくこととなりました。

 しかしながら、そろそろ引き時です。大津市を自分の居住地より大切に思い、市職員の味方であると公言してきた私ですが、辞めて6年がたっており、越市政もようやく終わりを迎えます。スタンドからの声援もあまり長く続くと「はた迷惑」になりかねません。

 ブログ前半では様々な市政データを示すとともに、閲覧者のご意見をすべて掲載しました。後半は私に時間的余裕がなかったため一方通行とせざるを得ず、また公文書問題しか取り扱いませんでした。しかし今、全体を振り返ってみると、かなりの分量の市政記録となりえた気がします。ひとえにご覧いただいた皆様方のおかげです。電話やメールでも応援いただきました。皆さまに心からお礼申し上げます。

 私は、在職中の業務日誌(ビジネスダイアリー)など幾つかの書類を保管しています。また、人脈や派閥をつくることをしませんでしたが、今も信頼できる多くの仲間(内情をつぶさに見てきた人々)がいます。今後もし必要が生じれば、越市政8年間の検証を行うことが可能です。裁判でいうなら「書証」と「証人」は揃っていると認識しています。


<表現上の配慮>
 ネット社会もまた、公と私の線引きが課題となっています。私は、駅前広場で拡声器に向かって話すような気持ちでブログを書いてきました。わからないところは断定を避け、できる限り事実に基づき、節度を保って表現するよう心掛けました。また、私自身と公人を除きすべて実名を伏せました。越市長の後継者は新聞にも名前が載って活動も盛んに行っていますが、他の候補者も含め、ブログには書きませんでした。これらの結果、全体的にシャープさに欠ける文章となりました。


<公を考える> 
 いま、この時代に真に必要とされる「公」とはなにか。いかにしてそれをめざすのか。これが私にとって最も重要なテーマなのですが、とても一人で考え書く力はありません。そこで友人と話し合うように、あるいは知らない人の意見を聞いてみるために、「公をともに考えるブログ」をやってみたいと思っています。しかし、人頼みにしても多少の用意は必要であり、まだそれが整っていません。仕事の合間にぼつぼつと準備を進めたいと思っています。いつスタートできるやら分かりませんが。

 「公」を考えるとき、私はいつも内田樹の著書「憲法の『空語』を充たすために」を思い浮かべます。この本の中で、著者は「押しつけ憲法論議」を踏まえ次のように述べています。

~憲法というのはその国家の「あるべき形」を指示するものである。「あるべき形」である以上、それは「まだない」。でも方向性だけは明らかにしなければならない。その方向性についての国民的な合意さえもしばしばいまだ存在しない。あるのは「こちらに向かっていけば国民的合意が取り付けられるだろう」という見通し程度のものである。憲法制定時点ですでにその内容についての広範な国民的合意があったというケースは、歴史上ほとんどなかったのではないか。

 憲法のリアリティはその方向性についての国民的合意が「すでにあった」という事実によって基礎づけられるものではない。そうではなくて、憲法に示された国家像を身銭を切って実現しようとしている生身の人間がいるという原事実が憲法のリアリティを担保する。そういうことだと思う。

 アメリカの独立宣言は「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって生命、自由および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という堂々たる宣言から始まるが、奴隷制が廃されたのは南北戦争後で独立宣言から90年後であった。人種間平等が法的に実現するまでにはそれからさらに100年を要した。その意味ではアメリカ独立宣言もフランス革命の人権宣言も「空語」である。

 同じ意味で日本国憲法も「空語」である。問題はその空隙は事実の積み重ねによって充填しなければならないという強い責務の感覚がアメリカ人やフランス人にはあったが、日本人にはなかったということである。~

 長い引用になりました(原文は敬体。若干省略もしました)。憲法に関する考察として鋭く、また耳の痛い話ですが、こうした事情が「公」の構築についてもいえると私は考えます。いまだ実態として存在しておらず、およその方向性が明らかになっているように見える「公」の実現のため、社会の成員が「身銭」を切らなければならない。そのことによっていまだ「空語」である公のリアリティが僅かずつ充填されていく。

 納税は文字通り身銭を切って公を担保する行為ですが、それ以外に差し出すべきものは何か。差し出す一方で、私はどのようにして「公」を構成する一微塵のような主体となれるのか。それによっていかに次世代を支援するのか。市場原理とはどこで線を引くのか等々、考えると際限のないテーマです。

 また、こうした問題の立て方が全体主義的であるという批判も十分にあり得ます。私自身、若いときはもっと個人主義的でしたが、齢を重ねるにしたがって社会全体の利益(取り扱い注意の概念ですが)を思うようになりました。なんだか自分は「全体の中で結果的に生かされている」という感覚が強まったからかもしれません。いずれにしても「公」への道のりは無限に思われます。 


<写真のこと>
 大津通信のトップページや前半部分を飾ってくれた写真は、ブログ「棚田日誌」で印象深く田園風景を紹介している友人の手によるもの。本業は別なのですが、民間組織のトップである彼の仕事や職員に対する姿勢に私は学ぶところがありました。

 後半の「動物シリーズ」は別の友人の作です。学生時分に共通の親しい友人T君を介して遠方に住む彼と知り合い意気投合しました。程なく互いの人生が忙しくなって行き来が絶え、40年を経てT君の葬儀で再会しました。T君がその存在と不存在で我々を2回引き合わせてくれたこと、残った我々がT君の思い出を語っていることに何やら人の世の不思議を感じます。彼もまた本業は医師で写真は余技ですが私にとってプロ同然。ブログ再開時、頼み込んで画像データを送ってもらいました。文より写真がよいとの声もありましたが、そこはぐっとこらえ、二人の友人に心から謝意を表します。


<新しい市長となる方へ>
 言う資格も聞く義務もありませんが、ここまで書いてきた勢いで元職員として一言だけ言わせて頂きます。どうぞ職員の声に耳を傾けてください。もちろん何でも聞き届けるということではありません。市長退任の日までよく耳を傾けて集団の英知を生かしてください。よろしくお願いいたします。


<職員の皆さんへ>
 ブログでは広く世間に語りかけてきたつもりですが、いつも大津市職員の方々が念頭にありました。辞めてから強く思うことですが、私としては自分が公務員であって幸いでした。皆さんには「公」と「まち」と「市民」のためによいお仕事をされますようお祈りしています。どうぞお元気で。



(最後はストックホルムの友人Benkeの作品。クリスマスカードに添えられた写真のコピーです。)





0 件のコメント :

コメントを投稿

1月9日をもってコメント受付をすべて終了しました。貴重なご意見をお寄せ下さったことに心からお礼申し上げます。皆さまどうも有難うございました!なお下の(注)はシステム上の表示であり例外はございません。

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。