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2023/03/26

203)処理水のヒラメ

 福島第一原発の汚染水は今も1日におよそ100トン発生しています。東電はこれを多核種除去設備(ALPS)で処理しタンクに保管しており中身は132万トンを超えました。それを海水で400倍ほど薄めて海に捨てる計画を彼らは進めています。この処理水の中で飼われているヒラメの映像をみて本当に人間は罪深いと思いました。ヒラメは処理水が安全だと証明するため内臓や肉をすりつぶして検査機にかけられます。しかし実際の海中では食物連鎖により有害物質が濃縮されますからこの検査は科学的に無意味です。かつて料理人が生きた魚をさばいた後に水槽で泳がせ客に見せる「残酷ショー」がありましたが、私はそれを想起しました。

 私はヒラメもブリも好んで食べるし実験用モルモットの恩恵もどこかで受けているはずです。こうした社会全般で行われている動物の「利用」と処理水ヒラメの「実験」の間に本質的な差異はありません。どちらも動物は自然の摂理によらず、圧政者たる人間の利己的な行為の犠牲となって死に至ります。今年の冬も鳥インフルエンザ対策として全国で1500万羽のニワトリが処分されました。こうした「種的収奪」が人間の生存の基盤であることは今更いうまでもありません。

 しかし「動物利用」は、人間社会のために有用である(少なくとも有害ではない)という認識をせめてもの免罪符にしているのではないでしょうか。それは生態系の保全や命の教育など実用目的のためばかりでなく、人間が自らの行き過ぎを自ら制御するような心性です。しょせん「盗人にも三分の理」ですが、たとえそうであっても動物の命を奪うことについて「抑制的である方がよい」との社会的な合意が存在していると思います。動物愛護管理法の基本原則(動物をみだりに殺したり苦しめたりしてはならない)にみるとおりです。

 ただ、この法律の条文は「愛護すべき動物」として哺乳類、鳥類、爬虫類をあげ、魚類を含めていません(海洋国として当然でしょうが)。したがって処理水ヒラメは明確な法令違反ではありませんがそれは細かい話。私が問いたいのは、科学的根拠のない安全イメージをふりまいて処理水放出容認、さらには原発推進容認に社会を誘導していこうとする東電や政府の悪しき意図です。「三分の理」さえ踏みにじっています。これではヒラメは幾重にも浮かばれません。

 こんな話をすると、「それなら汚染水対策の代案を示せ」とか「お前だって原発の電気を使っているだろう」という声が出ます。こうした意見は冷静、客観的であるように見えて実は「知らず知らずに押し込められた地点においてその場その時の対応だけを考える発想」でしかありません。この考え方を為政者は歓迎するでしょう。しかし私は、「そもそもこの事態を招来したのは何か。本来はどうあるべきであったか」と真摯に問い直すところから始めるべきだと思うのです。それが「公と私の一つの分岐点」かも知れません。

 今回は処理水を切り口に「原発回帰」の動向について書くつもりでしたが、過去の記事と重複するため見送ります(原発シリーズ182186をご覧いただけると幸いです)。ここでは、原発や防衛などの政策、すなわち生命・社会・自然の存続に関わるような事項課題に関する国民の意識調査結果において、一貫して女性と男性の間に有意な差があるのはなぜか。この疑問について勝手な推測を書きます。手元のデータが見当たらないので数字は省きますが、いつも男性にくらべ女性の方が原発推進や防衛力増強について抑制的な態度を示しています。男性の私は「どうしたご同輩」と思っています。

 いま仮に日本の人口1億2千万を2等分するとします。「どちらかと言えば社会にうまく適応し、かつ、その結果として現実肯定的で権威主義的な傾向を有する人」をグループAとして合致度の高い人から順に6千万人を選びます。残りの6千万人は「その他の人」すなわちグループBです。どっちつかずの人も無理に左右に振り分け真ん中で線を引くと、グループAの6~7割を男性が占め、グループBの6~7割を女性が占めるであろうと私は推測します。そして意識調査の「性差」はその反映であろうと考えています。

 これは「今の社会の動向と一個人の距離の感覚の差異」を示すものです。距離感が大きいほど良いわけではありませんが、社会と自分との一体化はほどほどがよろしいかと思うのです。兵士に男性が圧倒的に多いことの理由の一つに、この感覚が預かっているでしょう。いささか短絡的ですが私は与謝野晶子の歌(君死にたまふことなかれ)や、松田道雄の著作「私は女性にしか期待しない」を思い浮かべます。念のため、グループA=男性、グループB=女性ではありません。高市早苗、稲田朋美、片山さつき、小池百合子氏らはAグループの悪い代表格です。

 ならばLGBTはどうかと問う人もあるでしょう。私は「性差」を論じているわけではありませんが、あえていうなら「LGBT」と自認している人は社会的少数者としての感覚の鋭敏性がありますからグループBに区分される人が多いかもしれません。私自身はAかBかはさておいて、この世の末長い安寧を願う立場から繰り返し述べているとおり原発反対です。庭のダンゴ虫とナメクジは例外として動植物に対する傲慢な態度にも反対です。

 岸田氏の「電撃訪問」や「侍ジャパン」なる言葉(無恥で自己陶酔的な表現)など書きたいことが多いけれど手が追いつきません。そうこうしている内に春まっさかり。大津市でも異動内示が出されたようです(職員の皆さんのご健闘をお祈りします)。世の中はどんどん回っていきます。

 一晩寝て2つ追記します。
 「A」と「B」の分類指標は「意識調査の男女差」の原因について帰納的(?)に推測したもので多分に感覚的な尺度です。女性が産む性であることに理由を求める見方もあるでしょうが、社会と個人の関係において考える方が正解に近いと思います。政治家の個人名をあげましたがAにはBより悪人が多いというわけでは全くありません。

 処理水に多量に含まれるトリチウムは「水」であり膜や吸着で除去できないため希釈して放流しようという計画です(サリンでもヒ素でも薄めれば許容基準を下回るでしょう)。またタンク内の処理水には他の核種も含まれており、告示濃度以下のものはわずか3割に過ぎません。これらと別に建屋内の滞留汚染水が11,000トン、ALPSの前処理による処理水が12,000トン、濃縮廃液が9,000トン存在しています。

 海中放出用のトンネル(延長1キロ)などの工事費は当初4年間で430億円、放出期間は30年以上と見込まれています。溶け落ちた原子炉本体の処理は、ロボットさえ壊れる強烈な放射線に阻まれ、いまだに「原状把握」の段階です。
(処理水の量は「立方メートル」で公表されていますが「トン」に変え、数字も端数を切っています。「原子力資料情報室通信」を参考にしています。)
 





 

2023/03/14

202)春は来たのか

 数日まえ桐生の森でウグイスの声を聞いて思わず足を止めました。去りゆく冬を惜しむものではありませんが、何やら一人で山中をさまよっているうちに季節に取り残されてしまった気分です。私に限らず社会全般も明らかに「滞っている」と見えますが、こうした人為に一切お構いなく、見えざる大きな手は着実に季節を押し進めていきます。人間が自然に置いてけぼりを食わされているように感じるのです。ほどなく「マスクなしの花見」に国中が賑わうことでしょうけれど。

 もう9年前ですが、2014年7月、安倍内閣は憲法9条を無視して「集団的自衛権」の閣議決定を行いました。2022年12月、今度は岸田内閣はウクライナ戦争を奇貨として「敵基地攻撃能力」(安保3文書)を閣議決定しました。曲がり角を2回曲がって「もと来た道」です。これが国民注視の中、国会において憲法、外交、経済等の各方面から真摯な議論が重ねられた上の議決、承認であればまだ致し方ないところですが、両内閣ともその責務を放棄しました。これを忘れないでおこうと思います。

 くわえて防衛予算倍増計画です。対米従属のはてに「好戦的」なイメージを近隣国に与えるのは国益に反します。万一の台湾有事の際、米国が安全圏に身を置いて日本を中国の正面に押し出すことは目に見えています(いまのウクライナに見るように)。核の傘の抑止力は幻想にすぎません。そもそも、このように原発をずらりと沿岸に並べていては、全面戦争に至らなくても、国破れて「山河なし」になること必定です。春の憂鬱ではありませんが、右を向いても左を見ても、眉をひらくような出来事が見当たりません。

 戦争はウクライナばかりでなく世界各地で続いています。食品廃棄や肥満が社会問題化する一方で世界人口の1割が飢えに苦しんでいます。感染症は今後とも課題であり続けるでしょう。80億人を見渡して「人類はどこで間違えたのか?」と山極寿一氏は問いかけ、「人類は進化の勝者であるという考え方がそもそも間違っている。その思想の裏に間違えた道筋をたどった歴史が隠されている」と指摘しました(本年2月の「第3回人文知応援大会」基調講演において)。

 ここで氏の見方を紹介するものではありませんが(私には及びません)、たとえば宮沢賢治の希求した「世界全体の幸福」も、人類のボタンの掛け違えによって成就されない構造となっているのかも知れません。ともあれ山極氏の示す「解」の手掛かりについて考えたいと思いました。今回の記事は「薄めりゃいいってもんじゃない処理水」について書こうと思っていました。しかし例によって筆がはかどらず、ウグイスの声を聞いてもう半月以上がたってしまいました。

 この間にガーシーやら高市早苗やら、本人より見聞きする他人の方が羞恥心を催す出来事があり、これらと並べて書けないことですが大江健三郎の訃報にも接しました。ショックでした。大江氏の逝去は日本の「戦後」の終わりを象徴し、同時に次の「戦前」を示唆するかのようです。そうであってはならないと思います。今回はこれでリリースします。内容のない話で済みませんがきれいな写真を貼りつけます。