2022/07/03

182)原発事故(最高裁判決)

 原子力発電は子々孫々にわたる禍根である、いやそれどころか、子々孫々までこの社会を引き継ぐことを危うくする危険物であると私は思っています。正確には「思う」というより、地球が丸いのと同じくシンプルな客観的事実であると認識しています。それゆえ、「原発推進政策」をあえて選択し、科学的な知見にもとづく懸念や批判を封じ、力と金にまかせてこれを進めてきた国は、原発に関する最大、最悪の責任者に他なりません。しかし、あろうことか最高裁は「国に責任はない」と判断しました。司法は国民ではなく政府の顔色を見ていることが明らかです。今後文科省は「三権分立」を説く社会の教科書を「事実認識に誤りがある」として不採択にするべきです。

 福島第一原発は津波対策の不備により大爆発し、国土の一部を損ない住民の命と故郷を奪いました。東京電力は重い腰をあげ賠償に応じかけていますが、なんといっても原発は「国策民営」であり安全を担保する「監督・規制庁」としての責務も重大です。そこで被害者は国に対して損害賠償を求めましたが、最高裁第二小法廷(菅野博之裁判長)は6月17日、国の責任を認めない判決を言い渡しました。私なりに要約すると「津波があまりに大きかったので、もし国が防潮堤を高くするよう指導し、東電がこれに従っていたと仮定しても同様の爆発事故が起きたはずである。つまり国が指導しても『爆発』、指導せずとも『爆発』、どのみち結果は同じ『爆発』だから国の責任はない!」という驚きの理屈です。

 事実をふりかえりましょう。事故当時の福島第一原発の防潮堤はわずか「5.7m」の津波を想定したものでしたが、実際の津波は「14~15m」で原発(1号機~4号機)は敷地ごと水没しました。その結果、電源が失われて原子炉はメルトダウン、建屋にたまった水素が爆発して史上最悪の事故となりました。いわゆる「想定外の地震と津波」ですが本当にそうであったのか。国は2002年(大震災の9年前)、「福島県沖をふくむ太平洋側の日本海溝沿いにマグニチュード8級の地震が30年以内に20%程度の確率で発生する」という長期予測を公表しています。これに基づき東電は2008年に、最大で「10.2m」(陸地を駆け上って到達する最高点である「遡上高」は「15.7m」)の津波がくると試算したものの実際には工事を行いませんでした。

 最高裁は、この東電の津波予測を「合理性を有する」と指摘し、国が対策を命じれば「試算された津波に対応する防潮堤が設置されたと考えられる」と認めました。しかし現実に発生した津波は「はるかに大規模」であったため、仮に防潮堤を設置させていても「海水の進入は防げず、実際の事故と同じ事故が起きた可能性が相当にある」と判断しました。つまり最高裁は、「14~15m」の津波が「5.7m」の防潮堤(現実のもの)を乗り越えた場合と「10.2m」の防潮堤(仮定のもの)を乗り越えた場合の「巨大な水塊の上陸後の挙動」がほぼ同一であるとさしたる根拠もなく推測しているわけです。
 一方、この2つの場合における「水塊の量とエネルギー」には無視できない差異が生ずるという見方も当然に成り立ちますから、これこそ専門知を集め、「富岳」を駆使して検証するべき事案です。最高裁は重大な判断を行うにあたって当然の手続き省きました。もし「国の責任あり」という逆の判決を下すのであれば最高裁の姿勢は必ず違っていたはずで、まさに馴れ合いの構図です。

 また仮に、福島原発を襲った津波が国の長期予測に基づく東電の試算どおり「10.2m」であったとしましょう。国がこれに対応する防潮堤の設置を命じていたら防潮堤は所期の目的を果たして原発を水没から守り、爆発を回避しえたでしょう。この場合において国の対策命令は「爆発」と「爆発回避」という2つの運命を左右したことになります。ところが実際には「5.7m」の防潮堤しかありませんから、「10.2m」の津波はやはり敷地を水没させ爆発事故を起こした可能性が大いにあります。今回の最高裁の理屈に従えば、この場合は「国に責任あり」という結論になります。現実には津波が「10.2m」を越えていたため国は免責されました。すなわち小さな津波では国に責任があり、大きな津波では国に責任はない。これは「危険度の高い災害ほど国は責任を問われない」というに等しく、国民の生命財産を守るという国の基本的責務に反する論理です。

 ここでまた「想定外」という言葉が浮上してきます。不可抗力ゆえ関係者は誰一人お咎めなしの免罪符です。しかし、そもそも「地震大国」日本の中でも東北沿岸は「津波の常襲地」と言われてきました。貞観地震(869年)では津波が内陸3~4キロまで達しており、明治三陸地震(1896年)では津波の遡上高が38.2mであったと報告されています。どちらの地震でも海岸沿いの原発は完全に水没したはず。2度あることは3度あるし、過去になくても何事にも1度目があります。そこで国も「長期予測」の試みを続けてきました。確かに2011年の津波は恐ろしい規模でしたが、とりわけ原発の安全運転を目ざす上でこれを「想定外」と呼ぶべきでしょうか。

 逆に言えば「想定内」なら事故は起こらないはず。もし本気で安全を追及するなら「想定外」にこそ備えるべきであり、不断の努力で「想定外」を「想定内」に取り込まなくてはなりません。そのうえで「想定外」と胸をはって(?)言えるのは隕石の直撃くらいしかありません。そして、それですら原発をやめる理由の一つになると私は考えています。「想定外」と「安全神話」は歴代政権が電力会社やゼネコンと結託し国民を欺くためにでっち上げた二題話であり、やすやすとこれに騙される国民は底抜けのお人好しです。以前、日本人は御しやすいと外国の友人から言われて無念な思いをしましたが、指摘自体は当たっています。

 「自分は騙されていた」という人のうちに小泉純一郎元首相がいます。あなたは騙す側の人間でしょうと尋ねたいところですが、彼によれば、「この数十年、原発推進は日本の国策であり続けてきた。研究者やジャーナリスト、市民団体などから疑問の声が投げかけられていたが、時々の政権は原発が国全体の利益になると考え、それを支持し続けてきた。2001年から2006年まで総理大臣を務めた自分自身も例外ではなかった。日本の原発は安全だという推進派の説明を信じ、原発推進は正しいと思い込んでいた。いまから振り返ればそんな自分に強い憤りを感じる。勉強不足のせいで騙されていたことが残念でならない。その憤りと悔しさが、原発ゼロを訴える私の原動力になっている」のだそうです(著作「原発ゼロ、やればできる」より)。

 おそらく小泉氏は本音を語っているのでしょうが、私は、彼が「騙されていた」ことに二つの感想をもちます。一つは、やすやすと騙される「政治家としての知性の低さ」あるいは「思考回路の単純さ」です。彼は反対意見があることを十分承知した上で経産省役人や一部研究者の説明を鵜吞みにしました。きわめて重大な判断を行うにあたって一方の意見しか聞かないというのは、まことに無責任な態度であり、権力者が「聞きたい意見しか聞かない」という例証でもあります。
 しかし小泉氏が総理のイスに座るまでの長い「政治家生活」の中で、原発という社会の重要な課題について、しがらみにとらわれずに自由に考える機会はいくらでもあったはずです。彼はそれをせず、イスに座ってからは「正規ルート」で流れてくる報告、説明にうなづくだけでした。こうした姿勢は、知性と倫理の欠如による職務怠慢であると私は思います。その後の総理も似たようなものでしょう。

 もう一つは、小泉氏の改心の軽さです。
「総理をやめフリーになってようやく気づいたが、原発はめちゃくちゃ危険なものだった。福島の事故が何よりの証拠だ。その後しばらく原発がすべて止まったが日本の国は問題なく回った。原発は必要悪ではなく不要悪だ。然らばさっさと止めるべし。」彼の論旨はこのようなもので、私もそれに異論はありません。しかし、そんなに簡単に気づいて180度判断を変えるくらいなら、それまで一体何をやっていたんだと私は言いたくなります。彼は著作の中で「あやまちを改むるに憚ることなかれ」と開き直っていますが、あまりに軽い。一国の政策がこのような軽いノリで決められていたのかと思うと不快です。こうしたことの背景には、政府、経産省を始めとする各省庁、自民党、公明党などが共有する原発推進の空気があったのでしょう。まさに「国策のバイアス」であり、それは今日さらに強化されていることでしょう。こうした中、小泉氏には彼ならではの立場で活躍いただきたいと思います。

 本題に戻ります。最高裁の判決でただ一人反対意見を述べたのは三浦守裁判官で、その意見はまことに正論であると思います。彼は、国の規制権限は原発事故が万が一にも起こらないようにするため行使されるべきものと強調し、信頼性が担保された長期評価をもとに事故は予見でき、浸水対策も講じていれば事故は防げた、国は東電と連帯して賠償義務を負うべきであると主張しました。これこそ「理の当然」です。こうした裁判官が一人でもいたことに多少は救われる思いです。しかし、この真っ当な少数意見の「最高裁にとっての意義」は、判決を不服とする世論に一定のカタルシスを与えつつ、「4人の裁判官が誰に忖度することもなく様々な観点から自由に議論を尽くした結果、やはり国に責任はないと判断するに至った」ことの証拠となりうるものです。うがった見方をすれば「4人のチームプレーの一環」です。三浦裁判官は信念と決意をもって正論を述べられましたが、最高裁は「国あってこその司法である」と思っているかもしれません。

 今度の参院選で、自民、維新、国民民主などは原発推進を明確に打ち出しています。彼らがかつての小泉氏のように不勉強なのか、どのみち自分は責任を問われないから原発の危険性を承知で目先の票を取りに行くのか、いずれにせよ許しがたい国民への背信です。ウクライナの便乗軍拡もしかり。政治家の無責任、無知性、無倫理を多少なりとも正しうる機会が迫っています。投票に行きましょう。
 今回はここで終ります。国がなぜここまで原発に固執するのかという理由については次回に述べたいと思います。











 



 

地震は繰り返すものと分かっており、



  
 





 


土を損ない住民の命と故郷を奪った福島第一原発事故で被害を受けた6月17日、最高裁は

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