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2025/04/23

272)かなかな話法はアリですか

 「月の石が見れたらいいかなと思って来ました」、「お昼はやっぱしご当地ラーメンが食べたいかな」、「少しでも安いお米をお売りしたいかなと考えています」、「はやく日本語を覚えて介護現場で活躍してほしいかなと思います」等々。近ごろニュースで聞いた「まちの声」です。自分の意志を疑問形で話す人が感染症のように増えています。歯に衣きせぬ友人O君なら「誰の話や自分のこっちゃろしっかり喋らんかい」と言いそうです(私はそこまでよう言いまへん)。

 この4例とも「かな」を抜いて十分に通じるどころか抜いた方が文法的に正しいでしょう。「かな」は助詞の「か」と「な」に分かれますが、問題は「か」です。漢字で「乎」と書くこの助詞は、広辞苑(第2版補訂版)に「自己の疑問をそのまま表現する。また自分の迷い・惑いをこめた感情を表現する意」とあります。いっぽう「な」は、「文節の切れ目、また文の終止した所へ接続して、軽く詠嘆し念を押す気持ちをあらわす」と説明されています(ネット辞書も大筋でこれに倣っています)。

 したがって(と言うまでもなく)先の文例で「かな」の所に念押しの「な」を入れることはアリですが、「か」や「かな」を入れると「自分の意志を述べながら自らそれに疑問を呈する」ことになってしまい普通はアリえません。理屈上は「自問自答」や「自己否定」があるけれど、これらの文脈に沿わないことは明らかです。なぜ「月の石を見たいと思って来ました」と言わないのでしょう。「どっちでもいいじゃん、言葉は生き物だし」という意見はもっともながら私は半分反対です。

 言葉は時をつなぎ人を結ぶものゆえ「通用してなんぼ」です。その基本条件が「変わらないこと」であるのは言うまでもありません。この条件が守られているからこそ私たちは古事記、日本書紀、万葉集、源氏物語などを(専門家の助けを借りれば)読むことができます。言葉が猫の目のように変わっては(最近は使われない言い方)、私たちの共有財産である日本語のアーカイブはすかすかになります。

 私たちが意思を通じ合うばかりでなく文化の恵みに浴するうえで言葉というツールが変わっては困ります。しかし一方で、私たちの祖先は舶来の事物や思想、すなわち新しい言葉を取り入れて世の中を進めてきたし、平安期の「今様」のように内から湧いてくる新たな表現スタイルもあるわけですから言葉は変わらざるを得ません。イエスも新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるものだと言いました(マタイ福音書9章14節)。

 「ほんならどっちやねん」とO君に突っ込まれそうですがここが難しいところです。抽象的な言い方になるけれど、言葉の変化は古い秩序(規範)と新たな息吹(逸脱)が衝突した結果としてもたらされる一種の「実り」であることが望ましいと私は思います。冒頭にとりあげた「かなかな話法」は言葉の「幹」や「枝」でなく「葉っぱ」の変化に過ぎませんが、その背後にある時代の空気は「逸脱」というより「萎縮」です。衝突の結果は「実り」ではありません。

 例によって私は調べたり考えたりせず思いつきのままに書いています。それにしても言葉は大事だと実感します。感情があってそれを言葉に表現するのではなく、言葉によって自分の感情を教えられるのだとエラい人が言っていましたが納得です。また、語彙の豊富さ(多いか少ないか)と犯罪行為の発生率(とくに若者)には明らかな相関関係があるとNHKのテレビ番組が指摘していました。一言でいうなら何でも「やばい」のひと言で済ませていると他人どころか自分の心さえ理解できなくなってしまうということ。私はこれを差別の発想だとは思いません。

 ともあれ。私は言葉に関して年ごとに保守的な感覚が増してきたと自覚しています。心は青年のまま(のつもり)ですが言葉に関しては頑固じいさんになってきたかも知れません。もちろん若い人との会話は内心の赤ペンをもたずに楽しんでいますし、そもそも自分自身が青臭い言葉を使っていた記憶も確かです。しかし個人レベルはさておき、社会の言葉の変容については私なりの感想を抱かざるをえません。どうあればよいか。言葉はほどほどに(ややゆっくりと)変わっていくのが好ましいかな。

 今回の写真は友人I君の撮ったヤマツツジです。先日、彼の要望に応えて桐生を一緒に歩きました(もちろん初心者コース)。カメラが趣味の彼は「なんでシャッターが下りひんにゃろ」とつぶやきながら一眼レフをのぞき込んでいましたが、その作品は私の目に beautiful です。ちなみにT君は対照的にカメラを持つと考え深そうな表情で言葉少なにシャッターを押します。T君の写真も美しいと思っています。映像について私の語彙が少ないことが残念です。






2025/04/13

271)羽柴秀吉のこと

 いまや乗っ取られたジャンボ機のような世界です。たった一人の犯人が震えあがる乗客にいくら出せるか尋ねています。彼は粗雑な米国人ゆえ「呉越同舟」の故事を知りません。奇しくも呉だか越の末裔と思しき一人の乗客が立ち上がって犯人に文句を言いました。何を、とすごむ犯人。どちらも腕力に自信がありそうですが果たしてどうなる。旅客機は飛行を続けられるか。恐ろしい上に不愉快きわまりない事態です。世界の関節がはずれたと誰かが書いていました。

 こんな非常時にのんきな昔話をしてよいのかと思いながら、さきの「漱石」につづいて「羽柴秀吉」とのエニシを書きます。わが家に伝わってきた羽柴秀吉の感状(であると代々の先祖がかたく信じ、かくいう私もつい一獲千金を夢みたことのある古い掛け軸)がいま大津市歴史博物館に展示されているという事情があります。

 秀吉が西国合戦のおり近江長浜城にやって来ました(たぶん1582年)。いまを時めく武将に多くの鷹が献上されました。ところが中の一羽が小鳥のむれをめがけて不意に飛び立ち行方知れずになったのです。従者らが必死に捜しまわり少し離れた寺の境内のケヤキの高枝に足ヒモを絡めてもがく鷹を見つけました。誰かあの鷹を救うものはおらぬかと秀吉が問います。

 そこで居あわせた先祖(茂呂宋春)が秀吉に「ご挨拶申しあげ」たうえ半弓で狙いを定め足ヒモを射切ったのです。矢はケヤキの枝に残り、鷹は鷹匠の手元にもどりました。秀吉は大いに喜んで当座の褒美として宋春に黄金五枚を与え「木下姓」を名乗ることを許しました。また後日、秀吉は摂津の城(大坂城)で引見する際に宋春を「弓矢の名人」とたたえ、宋春は「粟津八郷」を安堵されました。

 この次第を宋春は慶安元年(1648)に紙片に書き留め、その曽孫が1761年から1766年にかけ作成した冊子「家の記」に紙片を「貼り紙」として貼付しました。そして先祖はちゃっかり何代かにわたって木下姓を名乗り家紋も改めたのです。「粟津八郷」は松本、馬場、西の庄、木の下、鳥居川など足利尊氏から1350年ごろに「下賜」された村であり、宋春はその領主としての地位を秀吉に確認してもらったわけです。(『家の記』は「命の船」にも書きました)

 関ヶ原の合戦で徳川の世になって木下姓が「はばかられる」ようになり姓と家紋を元に戻したことや世の転変のなかで「粟津八郷」を失った顛末が「家の記」に書かれていますが、それと合わせて伝えられてきたのが秀吉の感状でした。そこには「弓」、「感心不斜(感心斜めならず)」の文字や「十月三日」の日付が見えますが、鑑定してもらうまで慶長5年(1600)の作であると私に判りませんでした。

 秀吉は1598年に没していますから感状が本物であるはずがありません。歴史博物館の説明パネルには「偽文書ではあるが家の由緒を語る上で作成された点で興味深い」とありました。ニセモノだが他の一連の資料とあわせ史料的価値があるという意味でしょう。学芸員さんの広いお心に感謝しなければなりません。同館には数回にわたって古い資料などを引き取って頂いており、今回の展示は近年の寄付品の「おひろめ」でした。

 「感状」とともに展示されている肖像画の一枚は7代目勝吉を描いたもので、いったん古美術商の手に渡ってネットオークションにかけられました。驚いた学芸員の方が購入手続きを始めた時にオークションが閉じていたため、私が買い戻して「追加寄付」させていただいた経緯があります。愚か者、何をしておるかと天から声がしそうです。

 博物館では数多い資料の整理、解読などの対象にわが家の献上品(?)も加えていただいている模様で(整理作業にはボランティアも活躍)、私はありがたいと思っています。もちろん個人的な事情がありますが、そればかりでなく、博物館の表に出にくい重要な業務が地道にきちんと進められていることを嬉しく思うのです。

 図書館もそうです。科学館もそうです。これらの公共施設を5年10年のそろばん勘定だけでジャッジしたら、愚か者、何をしておるかと天から怒られます。一方で大津市では4月から新しい部署がスタートしたようです。人にもお金にも限りがある中でウィングを広げ今のニーズに応えられる仕事をするのは大変だろうと思いますが、諸般うまく進むよう祈らずにはいられません。

 先日は博物館のあとで三井寺に行きました。円珍や紫式部や芭蕉が愛でたであろう桜は年々歳々変わりません。古いお寺の落ち着いた佇まいと淡い花々。煎茶の会場で昔の仕事仲間に出会いました。人もまた変わらず。このブログの写真はいつもT君の作品で、先日も「春シリーズ」を送ってくれました。ただ今回は私の写真です。更新をぐずぐずしているうちに展示は今日(4月13日)で終了となりました。