杉田水脈の公認は旧安倍派の議員の要望によるのだとか。ここに見る公正の感覚のまったき欠如、なりふり構わぬ選挙対策、あてにされている「岩盤支持層」の存在を思うとアンタンたる気持ちになります。地中ふかくの水脈は思想的に貧しいくせに大変しぶとく、自民党をうるおし続けています。所属議員はそろって「反省」の二文字を口にしますが、何を規範として反省するのか、その基準点をまず明らかにしてほしいものです。
立花襲撃ですっとしたという人がいるかも知れません。しかし、いったん暴力を肯定したらとめどありません。いや立花の行為だって刃物をつかわない暴力だと反論する人もいるでしょうが、それなら彼の言動に賛同する不特定多数の責任も同時に問うべきです。立花が軽傷で済み、この事件を解釈する機会を持ちえたことはひとまず幸いでした。SNSのブーメランであると彼に理解できればよいけれど。
杉田も立花も差別と憎悪の感情をあおることに長けています。ともに家でソファに寝そべりながらSNSの過激発信をおこない、その反響を力にしてリアルな表の世界で一定の自己実現を果たしています。しかし彼らをそこまで「育てあげた」大衆の顔は見えません。これが何とかならないものかと年甲斐なく憤慨する私であります。彼らをアイコンとして政治利用する人々も許せません。
世の中の悪人をひとまとめにして島流しにしたいと思うことがあります。悪人全員が協力して狩猟採集を行えば食うには困らないような無人島に流すのです(外部との接触を絶つ仕掛けがいりますが)。なぜ司法に任せないかというと、悪人でも死刑にしてはならないと思うし、そもそも法の網に引っかからない極悪人が多数いるからです。そこで私が、悪人たちの公平性、公正性、倫理観、弱者に対する姿勢などを総合判定して処分を決めることになりますが、これは危険思想でしょうか。
冗談はおいて本題に入ります。漱石、鴎外が近代文学の双璧であるという評価はいまも健在でしょう。私もそうですが特にアヅマは漱石が好きで学生時分に箱入りの漱石全集を揃えていました(うらやましかったものです)。彼女は「門」の主人公である宗助と御米が「崖下の家」にひっそり暮らすそのありように憧れ、私もそれに大いに影響されましたが、これは私たちの若き日のロマンチシズムです。
漱石は明治29(1896)年、熊本第五高等学校の英語教師になってほどなく鏡子と結婚しました。学問に忙しいのでお前のことに構っていられないことを承知してくれ、と新妻に宣言したといいます。一方、友人であり俳句の師であった正岡子規への手紙に「衣更へて 京より嫁を 貰ひけり」の句を添えています。
3年後に長女筆子が誕生しますが、この時には「安々と 海鼠の如き 子を生めり」の句を詠んでいます。わが子をナマコに例えたことに拍手をおくる人もありますが、漱石の母子に対する観察者のまなざしが私は気に入りません。しかしさすがに文豪はよい句をたくさん残しています。「叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな」など佳い味わいです。
筆子誕生の前に鏡子夫人は第一子を流産しました(プライバシーゼロ)。その頃だったでしょうか、彼女はつわりに悩まされ一時的に精神に変調をきたして川へ身を投げたことが知られています。当時、私の曽祖父は漱石の同僚教員だったのですが、急に家から姿を消した鏡子の行方を漱石とともに探し回りました。これは後年、曽祖父が長女である祖母に語った話です。
祖母は私に「夏目さんの奥さんが行方知れずになった時、岩田の父(曽祖父)もいっしょに探したそうよ。奥さんは無事だったけどね」と言っていました。曽祖父の姓は岩田、佐賀の生まれで、その長女である私の祖母は、「むすめ時代に鍋島のお殿さまの前でお琴をひいた」とも言っていました。お琴は100年前のエピソードです。
この記事を書くにあたり証拠があればと熊本県立図書館にメール照会したところ、「熊本第五高校の職員名簿は国会図書館デジタルコレクション『五高五十年史』(1939年)で公開されている、その504ページをご覧あれ、その他の資料はどこそこにある」と返信をいただきました。たしかに夏目金之助が明治29年から36年まで英語教師として、岩田静夫(巌次郎)が明治31年から32年まで独逸語教師として在籍していたことがわかります。
そういえば思い出せなかった曽祖父の名は「静雄」でした。だから祖母の名は「静枝」です。私の断片的な問い合わせ対して打てばひびくように応じて頂いた熊本県立図書館のレファレンスサービスには感謝の言葉しかありません。県外からの問合せですから念のため電話で補足説明を行ったところ、こみあっているけれどちゃんと順番に処理しますという回答を得ていました。さすがに「公」のサービスです(熊本図書館の方、ありがとうございました)。
漱石と私の縁といっても実はこれだけのことなのです(どうも済みません)。しかし時空のゆがみが生じて私が漱石に出会ったなら、「その節は曽祖父がお世話になりまして」というぐらいの挨拶はできるのです。漱石は、「いやあ世話になったのはこちらの方さ」と言ってくれるかも知れません。「では恐れ入りますがこの全集にサインをお願いいたします」と私は言いましょう。
「三四郎」は明治38(1905)年から朝日新聞で連載されました。その中で「広田先生」は日清、日露の戦勝に沸き立つ日本を「滅びるね」と評して三四郎を驚かせます。欧米を深く知る漱石の実感だったのでしょうが、この予言は40年後に的中しました(その後に復興した日本はいま間氷期にあります。また滅びないようしなければなりません)。
同じ小説で与次郎が、「Pity is akin to love 」 を「可哀そうだた惚れたってことよ」と訳したのを、広田先生が「いかん、下劣の極だ」と 苦笑まじりに退けたシーンも印象的です。与次郎を通して漱石は「この訳もありだぜ」と言い、「憐憫は愛に似ている」という直訳から洩れているニュアンスを提示しています。こうした細部も漱石の魅力です。
先日読んだ「日本習合論」において著者の内田樹(また出た)がこの二つの挿話を取り上げているのに驚きました。彼は、漱石の日本語の素地、すなわち二松学舎で学んだ漢籍、子規に指導された俳句、少年期に親しんだ落語や俗謡、長じて学んだ謡曲などを列挙し、こうした豊かなアーカイブがあったから英文学を中心とする欧米の学知を母語で受け止めることができたと指摘しています。「鋭く、尖った学知を、柔らかく、穏やかで、深い教養で受け止め」たとも評しています。
さらに武道の「小拍子・大拍子」にふれ、柳生宗矩の兵法家伝書中「拍子があえば敵の太刀が使いやすくなる。こちらの太刀は敵の太刀が使いにくいように使うのがよい。すなわち無拍子に打つことだ」という箇所を紹介します。そして、きりきり音を立てて飛んでくるヨーロッパの学問芸術という「小拍子」の太刀を外して、漱石はゆったり悠然と「大拍子」に太刀を使っていると言っています。
さすがに内田さん。明治期の社会や文化の状況をおさえつつ漱石の骨法を手のひらにのせて見せてくれます。内田樹もまた日本語の豊かなアーカイブを有し、レヴィナスを始めとするフランス思想に通じ、人間の身体と精神の関わりを考察し、ものごとの習合を深く論じる人であって、彼自身が漱石のような「知」のありかたを目ざしていることは間違いありません。この人のユダヤ文化論を手引きにして私もユダヤ人について書こうとしていますが、いまだ手がつけられず見当もつかないのは仕方ありません。
の中で広田先生が「日本は亡びるね」と言って三四郎を驚かせます。
0 件のコメント :
コメントを投稿
1月9日をもってコメント受付をすべて終了しました。貴重なご意見をお寄せ下さったことに心からお礼申し上げます。皆さまどうも有難うございました!なお下の(注)はシステム上の表示であり例外はございません。
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。