久しぶりに桐生の話題です。ここは私たちの庭でした(何度も恐縮です)。もう20年ほど前、山の斜面を横切っていくイノシシの親子に出会いました。ママが先頭、よちよち歩きの子どもが数匹の一列縦隊で、時おりピタリと立ち止まって周囲の様子をうかがいます。歩いたり止まったりをくり返し、舞台で見得を切る役者のように上手から下手に消えました。私たちは笑いをこらえながら小さな谷をはさんでその一部始終を見届けました。
ああ、あれはどこであったか。およその見当はつくけれど木々がずいぶん成長して景色が変わり、記憶も薄れつつあるので、それらしき三つの地点から一つに絞ることができません。ここしばらく、その道を通るたびに、あれはここだったっけ、いやあこっちかな、やっぱりわからんねえとアヅマと会話します。人から見れば独り言をいいながら歩く少しおかしな老人です。
遊歩道の奥に林野庁がたてた大きな丸木柱のモニュメントがあり「治山の森」と大書されています。これをアヅマは「治の森」と読んで笑っていました。昨今のこと、そのモニュメントに歩みよると、手前に張り出した紅葉の枝先が「山」の一文字を隠してアヅマの読み方どおりに見える絶妙ポイントがあると気づきました。モニュメントの下まで行き、丸木柱の根元をぽんと叩いて挨拶をおくることが習いとなりました。
6月に入ってアブやハエがうるさいのです。また山ふかくのシダの生い茂る日陰には薄茶色の蛾が無数に潜んでいます。そこを通ると前後左右から湧きあがって私の周囲を無音で飛び回るのです。まるで慕うように取り囲んできます。鱗粉を吸いそうなので足早に通りすぎますがしばらく追われます。毎回きまってそうです。
たしかファーブル昆虫記に、かごの中で飼われている一匹の蛾が森の奥の仲間の存在を感知してばたばた騒ぐという記述がありました。繁殖期におけるフェロモンの作用だと書かれていたように記憶しますが(不確か)、私の体から類似物質が出ているかと思うほどです。蝶にかこまれて微笑む少女なら絵になりますが、ときおり独り言ちて蛾の群れの中を急ぐ老人はいただけません。直言トークのO君なら「そら気色わるいで!」と言うでしょう。
さて先日、駐車場までもどったところで保育園児の一団に会いました。お揃いの帽子をかぶって20人ほどがお散歩中、彼らにはよく出会うのです。地元のお寺が運営する桐生の保育園は、園庭が広い、プールも大きい、駐車場も広大、スピーカーは大音量、お花見も川遊びもし放題といいことづくめで、園児たちのごあいさつもバッチリです。おはようございます、こんにちは、と使い分けて叫んでくれます。こちらも笑顔で挨拶を返します。
この日もひとしきり挨拶を交わし合ったところで最後尾の男の子から「おじいちゃん」と呼ばれました。「はあい」と答えてすれ違いましたが、待てよ。私の服装は長袖シャツ、長ズボン、帽子、メガネ、軽登山靴で露出が少なく、すたすた歩くので一見して年齢不詳のはずです。現に「であい広場」でブルドッグを連れていたおじさんは「ホラお兄ちゃん(私のこと)に撫でてもらい」と寝そべる犬に言ったほどです。でも保育園児は私の顔のしわを見て瞬時に識別したのでしょう。おそるべし幼児の目。
帰宅途中に栗東の平和堂でストロングチューハイを買いました。この店で酒類を買うといつもレジで「年齢確認おねがいします」と言われます。私も「20歳以上ですか・はい・いいえ」という画面に機械的にタッチするのですが、この日ばかりは、見りゃ分かるだろ、これが未成年の顔か?と言いたくなりました。いやほんまに。
今回の標題は「老人と山」としました。ヘミングウェイをもじるとは不届き千万とお怒りの声が聞こえそうです。名作「老人と海」が世に出た1952年はサンフランシスコ条約発効の年で、その6月21日(本日)が私の誕生日です。「成人」となって53年たちます。いやはや。
ところで先日の記事(ほんとうの会議)でオープン・ダイアローグ(OD)とネガティブ・ケイパビリティ(NC)について書きました。私はこれらの考え方(手法)に深く感銘を受けたのですが、友人はいったいどう思うか聞いてみました。私自身の勉強のため少し紹介させてください。
Nさんいわく。OD、NCともエッセンスはシンプルだ。大切なことは昔も今も、どんな場面においても共通しているが時代や領域によって実践が難しい。とくにわが国では「名前」(それもカタカナ言葉)がつかないと注目されにくい。ODは発祥の地であるフィンランドにおいて精神科の長期入院や多剤処方(薬漬け)に一大変革をもたらした。日本ではまだまだであるが、精神科医の斎藤環氏などがその価値を積極的に発信している。
NCをめぐる状況もよくはない。ネット検索ですぐに解決、うまくいかないとすぐにリセット、タイパ重視で即決が当然という環境で生まれ育つ若い人々には、「答えのない曖昧さに耐える力」が育まれにくい。私(Nさん)は、講演や相談の機会に親世代に対し「子どもに試行錯誤する経験を保証しましょう」と伝えている。ダイアローグについても、会話と対話が異なることを指摘した上で対話の大切さを強調している。(以上がNさんのコメント。斎藤環氏の名前がでて成程そうかと思いました。この人については過去の記事もご覧ください)
T君いわく。うん、それもそうだが、金銭バラマキや減税を「物価高対策」 と表現する与野党には心底落胆している。どう思う? 日本の物価は先進国レベルでは明らかに安い。もし一流国(?)への到達を求めるなら、目指すべき目標として 5キロ5,000円 のコメを普通に買える賃金上昇への施策こそ必要ではないか。
農業政策等の不備あってのコメ価格上昇に拘泥して問題を矮小化する ことなく、 今や力ずくの競争社会である世界に大きく後れを取った昨今の過程 や現状をどう考えどう対応するのか。 この国を構成している人々の今後の選択に私は安心できない。(以上がT君のコメント)
バラマキについては私も怒っています。あまりに露骨な選挙対策です。「あんたらどうせあほや」と私たちは言われているようなものです。2万円はトヨタの会長にも麻生太郎にも渡るのでしょう。税収が上振れしたならば今後は下振れの可能性もあるはず。いっそそのまま残したほうがマシです。トランプとの関税交渉にしても選挙にらみの説明に終始しているものと想像します(用心深く行われている隠蔽、弥縫、変形、作話、言い換え、小出し等々)。
T君に引っ張られ脱線しました。ネガティブ・ケイパビリティ等についてはNさんの指摘どおり今日的な重要な課題であると思うので改めて書きたいと思います。そもそも人間存在そのものが「答えのない宙ぶらりん」ではありませんか。カウンセラーで真宗のお寺の住職でもあるI君からたっぷり見解を聞きました。その質・量とも私にヘビーであったので再読のうえ記事にする予定です(このところ友人に頼りっぱなしです)。
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