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2023/06/21

208)魚の目は泪

 起きてから寝るまでの一日の時間の推移は身体感覚でつかめるし、何より時計が正確に教えてくれます。仕事はたいてい5日間を必死で泳ぎ土日にフーッと息をつく「週単位」、カレンダーをめくれば月が変わり、新しく買い替えると一年が過ぎます。誕生日は年ごとに訪れ、記念日も毎年ひとつずつ数を増します。しかし私たちが実感できる時の流れはこの辺りまで、せいぜい長くて百年を大きく超えることはありません。とすれば千年は想像を絶するほど長い歳月ではありませんか。

 単なる時間の「長さ」なら地球誕生は46億年前、日本列島の形成は2000万年前、古琵琶湖は400万年前と古い事象はいくつもありますが、これらは人間のあずかり知らぬ天然自然の話です。「時の流れ」は、人の営為と結びつくことによって私たちに訴えかけてきます。ツタンカーメンの棺に置かれた花束がなお色をとどめて発掘者の心を揺さぶったように。そこまでロマンチックではないけれど郊外に広がる「田んぼ」だって、数え切れない歳月を耕され続けて今そこにあります。
 
 さて、1165年の昔、智証大師円珍が唐から持ち帰った数々の文書がユネスコの「世界の記憶」に登録されました。おめでたいことですが、これは何よりもまず、長い歳月、幾たびもの兵火をくぐり抜け文書を守ってきた園城寺三井寺の代々の僧たちに捧げられた花束です。福家俊彦長吏は「多くの先人たちの努力に敬意を表する。こういう文化を伝えることの意味を再認識した。」と述べられたよし。篤い信仰とゆるぎない使命感。無信心の私さえ粛然たる気持ちになりました。(佐藤市長と三日月知事のコメントからも文化を重んじられる姿勢が伺えました。このお三方の意見交換がありました。さぞ有意義な場であったろうと思います。)

 しかるに! この名刹から西へわずか300mに位置する大津市役所では、かつて前市長越直美氏により公文書とデータの不法廃棄が行われました(今の市政と無縁の犯罪です)。さらに西へ80㎞行った神戸では、重要な裁判記録がむざむざ捨てられていたことが分かりました。東へ400㎞離れた霞が関では、自公政権のもとで数々の公文書が「隠滅」されています。法により、または社会の要請により保存すべき文書を、悪意をもって、または怠慢のために棄損したこれらの関係人は急いで三井寺に駆けつけて円珍関係文書を拝観し、文書を伝える意義を知るべきでしょう。7月4日からは大津市歴史博物館で展示されるのでそちらへ回ること。誘い合って15人以上で行くと団体料金が適用されます。

 私はいちはやく新緑したたる境内の文化財収蔵庫でお宝を見せていただきました。経典の数々は国宝指定、唐時代のパスポート「過所」の原本なども大変貴重な史料だとか。円珍の書は空海のような端正な手ではなく、子どもが書いたような不揃いの味があります。壁面には彼が辿った航路が図示されていました。当時の旅は困難を極めたに違いありません。たとえば難破の危機(実際に台風で台湾に漂着しています)、船酔い、通じない言葉、気の遠くなる徒歩行、肩に食い込む荷物、足にできた肉刺(まめ)、蚤やしらみ、食あたり、追いはぎの出没等々。一方で、高僧との対面、教義の伝授、経典の受領といった感動の場面もありました。

 さて、どんな偉人も、その人自身と比べると「平凡」な両親のもとに「普通」の赤ちゃんとして生まれ、育ちます。やがてその資質が明らかとなり、才能が開花し、あるいは努力が実り、もしくは至難の行いをなすことによって、人生の途上で(多くの場合は没後に)「偉人」に変身します。生まれてすぐにすたすた歩き「天上天下唯我独尊」と宣言したお方は別として、一般的には人は偉人に「なる」ものです。智証大師円珍も恐らくそうであったと思います。

 とここまで書いて円珍の母は弘法大師の姪であったことを思い出しました。そういえば洋の東西に「非凡の系譜」がありますから私の「説」もいい加減です。Anyway、円珍は15才で比叡山に入り12年におよぶ厳しい修行を続けました。三井寺のパンフレットには、「籠山修行中、大師一生の信仰を決定づける黄不動尊を感得されました。これこそ今日も秘仏として伝わる国宝・黄不動尊(金色不動明王)画像です。」とあります。つまり「黄不動尊の感得」が彼の入唐や天台寺門宗の開闢につながる重要この上ない契機であったことが分かります。あえて言うと「偉人化」の第一歩です。

 しかし、私は仏教にうといので「感得」と「画像」の関係が不明瞭であり、そもそも「感得」とはどういう体験なのか見当がつきません。三井寺にお尋ねするのが一番ですが、こんなことで電話してヒマ人と思われる(その通りですが)のは避けたいので、ある浄土真宗のお寺の住職(高校からの友人)に教えを乞うこととしました。彼はすぐに返事をくれましたが、その説明メールに成程と感心したのでざっとご紹介します。

  ~  密教の世界はよく知らないが、円珍は不動明王の姿を直感的に体得した、簡単に言えば、心の中で見えたという体験をしたのだと思う。見えたというより出会ったという方が近いかも知れない。円珍はそれを絵師に描かせた。それが三井寺に伝わる黄不動明王だと伝えられている。黄色というのは表面が金色であったことによるが、色自体に特段の深い意味はない。ご存じのとおり、真理そのものである「如来」(仏)、それを衆生に伝えて救おうとする「菩薩」、菩薩の教化も敵わない衆生を怒りの形相で仏道に導こうとするのが「明王」。このうち真言密教の最高仏である大日如来が明王と化したのが「不動明王」である。

 円珍が不動明王の姿を直感的に体得したこと、これが「感得」だろう。それはおそらく視覚的に見た、出会えたというだけではなく、その精神・本質も一挙に体得する、真理と一体化するという神秘的な体験であったと思う。こうした体験は宗教者にとって魅力的であり、それを目ざすことが宗教的実践の目的とされる節がないでもない。しかしそれは一部の修行者にしか叶わない難事であり、しかも実際になし得たかどうか不確かである。さらに言うとすべての衆生の救済を説く仏教の教えにもそぐわない。法然や親鸞が天台の修行を捨てた理由もここにある。

 ちなみに「阿弥陀仏像」はガンダーラで発見された仏像の台座に刻銘されていたらしいから起源は2世紀ごろか。いずれにせよ言語化できない真理(言語道断)を言語化したものが経文、視覚化したものが仏像だが、そうした仏様(ほとけさま)が西方浄土におられると実体化して今に至っている。それを言語の限界を意識しつつ言語化し、実体化の誤りを是正してなおかつ今を生きる「生」に焦点を当てた仏説を唱えたのが親鸞である。~

 友人の話は仕事がら次第に熱をおびて「実体化の瑕疵によって人を惑わせる一部宗派」への懸念に及ぶのですが引用はここらで終了します。要するに円珍が修行により高い精神的境地に達して仏様の姿をありありと感じとり、それを細かく絵師に伝えて描かせた肖像画が今につたわる黄不動尊である、ということです。この絵もそうだし、唐から持ち帰られた各種文書にしても、本当にモノは長生きです。和紙と墨書の長寿も驚異的です。これらに比べて人の命のはかないこと。坂本龍一さんが芸術は長い、人生は短いと言ったことを思います。

 ところで円珍は草鞋(わらじ)を履いていたはずです。江戸末期に歩き回った伊能忠敬も草鞋履きでしたからそれより古い時代に別の履物があったと思えません。足袋はあったのか素足だったのか。いずれにしても草鞋で何百キロ、何千キロを歩いたら足がどんなに傷むでしょう。昔の人の身体能力は私たちを遥かに上回っていたと想像されますが(乳幼児期そのものがサバイバル、日々の生活は過酷なトレーニング、三食すべてオーガニック)、それにしたって足にマメくらいできるでしょう。

 私は桐生を歩きすぎて「魚の目」ができました。足裏の皮膚が筋状に角質化して痛みが増すため皮膚科で切り取ってもらおうと思っていたある日、深部に円いカタマリがあることに気づき単なる魚の目だと分かりました。そこで「80年以上にわたり日本人の足のトラブルに向き合ってきたニチバンのスピール膏」を貼ったのですが、一時は普通に歩けませんでした。厚手の靴下と軽登山靴をはいていてもこの有り様ですから遠路の草鞋履きはいかばかりか。

 私が魚の目と闘っていたのは今年の早春から晩春にかけてのこと、山はうぐいすの声に満ちていました。行く春や、鳥啼き、魚の目は泪。その頃この句がくりかえし頭に浮かび、芭蕉は「魚の目」に二つの意味を持たせたのではと半ば本気で思ったほどです。いまこれを書くにあたって確かめると、元禄2年3月、奥の細道への出発前に詠まれた句ですから、芭蕉は魚の目に悩まされていたわけではありません。改めて思うに、水中でまじまじと目を瞠っている魚の目を涙で潤ませるとはさすがに芭蕉です。

 今回は友人のメールに寄りかかった「他人のふんどし記事」となってしまいました。ジモティーがらみのエピソードが溜まったので別にまとめて書きたいと思います。最後に草鞋ばきの偉人に奉る一句。 ~ ニチバンで み足の痛み ぬぐわばや ~




2023/06/02

207)政権の大罪

 資質と能力に欠ける息子を誰はばかることなく総理秘書官に取り立て、失態を重ねさせたあげくポンと放り捨てた岸田氏は、総理はおろか父親としても失格です。彼は自分に任命責任があると認め、一方で息子は苦い挫折を味わいましたが、これが彼らの「肥し」になるかどうか大いに疑問です。たいていの政治家たちの感覚(特に廉恥心)は、多数の国民と大きく異なりますから。

 しかしこの件はまだ些事です。財源確保のめどが全くないのに「異次元」の少子化対策をぶち上げるのはもっと悪質で詐欺商法と変わりません。「歳出を削減する」と言いますが、防衛費以外は乾いたタオルのようにいくら絞っても水は出ないはず。社会保障費を削るのは弱い者いじめだし、国債をさらに増やすなら子どもの首をしめるのと同じです。国会での説明と議論を避け、空虚な言葉で煙幕をはる岸田政権も歴代同様に無責任です。

 今日の少子化の主因は一世代前の出生数の減少ですから政府にとって「既定路線」であり、それに対し長らく有効な施策が行われなかったことは今に見るとおりです。岸田首相は支持率めあての言葉遊びをやめ、若い世代が安心して子どもを産み育てられる環境の整備に全力をあげるべきです。ちなみに「次世代の育成」は「今の世代」の重要な責務ではありますが、それが「自分の子どもを産み育てる」ことに限らないのは言うまでもありません。

 さて、これらを上回る岸田政権の大罪は、なんと言っても「原発回帰」と「敵基地攻撃能力の獲得」の2つ(今のところ)でしょう。これらについては既に述べたとおりですが(記事182186202)、さる5月31日、老朽原発の延長を60年を超えて認める束ね法案(束ねること自体が悪質)が成立したことに少し触れます。自民、公明、維新、国民民主の各党は「脱炭素社会」と「電力安定供給」の字面の良さに惹かれて賛成に回りました。彼らは長期にわたる国民の利益を軽視する「今だけ族」です。

 福島第一原発の事故後、従来40年間であった原発の運転期間を原子力規制委員会がOKすれば最長20年延長することが認められ「安全規制の柱」とされました。どこが安全かと私は思いますが、今回の法律変更により、60年の年限から「審査や点検で運転を止めていた期間を除いてよい」ことになりました。しかも運転停止の理由や期間が明示されていません。危険でずさんな基準です。電力会社は意図的に運転停止の状況をつくり出して管内の原発を計画的に1基ずつ「骨休め」させ、全体の収益を減らすことなく100年でも原発を延命させることが可能となります。

 原発の炉心を覆う圧力容器は部厚い特殊鋼で出来ていますが、燃料の核分裂により発生する中性子にさらされて原子レベルの粗密がうまれ(中性子脆化)、やがて生じたクラックが常時かかっている強い引っ張り力に抗しきれずぱかっと割れる可能性があります(特に緊急注水の際など)。内部は高温・高圧・高汚染の熱湯で満たされていますから(およそ沸騰水型で280度・70気圧・300トン、加圧水型で320度・160気圧・350トン)、容器の破損は破局を意味します。

 原発がそれに余裕をもって耐えるように設計、製造されていることは当然ですが「実稼働60年」の原発がいまだ存在しないので「論より証拠」がありません。そこで電力会社などは試験片への中性子の照射量を増やす代わりに照射年数を減らし(掛け算の答えは一緒)データとしていますがあくまで机上の計算であり、運転停止中の経年変化も正確につかめていません。そもそも世界でも60年を超える原発の審査の例はないと聞きます。

 圧力容器は格納容器に収められ、さらに厚さ1メートルほどの鉄筋コンクリートの建屋に覆われていますが、この「多重防護」がいかに頼りないかを私たちは福島第一原発の事故で目の当たりにしました。原発は原子炉のほかに制御棒、タービン、発電機、復水器、給水管、ベント管等からなる複雑、巨大なプラントですが、運転期間の延長によりこれらすべてを健全な状態に維持することの困難さが大いに増します。

 地震、津波、人為的なミス、事故、テロなどの危険ばかりでなく、核廃棄物の処理という未解決の問題が山積する原発ですが、これを長く使い回そうとするのは本当に危険だと思います。西村経産相は滋賀県で計画されている大規模風力発電事業に待ったをかけました。イヌワシやクマタカの生息地であるとの理由です。それはそれで結構ですが、人が故郷を追われ、国土が損なわれるのが原発です。野鳥も大切なら人間も大切でしょう。原発再生に舵を切りながら生態系の保全を唱えるのは大いなる矛盾です。

 今回は円珍関係文書の記憶遺産選定というおめでたい話を書く予定でしたが、原発の延命法案が成立したのでひとこと言わずにいられませんでした。口直しに桐生の山すそに咲いていたあざみの写真を載せます。スコットランドの国花で花言葉は「愛国心」や「勇気」。岸田氏にしっかと握りしめてほしい花です。