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2025/03/29

270)第三者委員会の報告について

 ビワマスにやさしく斎藤元彦にきびしい熱血漢のO君が、兵庫県の第三者委員会の会見動画を見るようにメールしてきました。あいかわらず深夜まで怒りながら動画を見ているらしく発信時刻は午前4時すぎです。「知事のパワハラが職員の意欲をそこなう。それが県政の停滞につながる。藤本委員長はそう言うてはった。大津通信でも書いてたなあ、思い出すわ。あれとおんなじや!」とありました。

 私は朝にメールに気づいて動画を見ました。及び腰だった百条委員会とは違い、第三者委員会は、知事のパワハラ・おねだり疑惑は一部真実であったことと、知事らが行った「告発者つぶし」は違法であることを明瞭に認定し、そのうえで県政運営に言及しています。藤本委員長の情理をつくした説明を聞いて、この人が知事ならよかったのにと私は思いました。

 「ほんまに無理がとおって道理がすたる世の中や!」と嘆くO君は、その憤懣を分かちたい思いとブログのネタを提供してやろうという親切心からメールをくれますが、斎藤問題は書いたばかりだし(記事267)、それをとうに先取りしていた越問題(拙劣市政運営)もすでに昔話です。そこでトンデモ首長の話はやめ、藤本委員長が語った組織論について少し述べます。

 第三者委員会の報告書によると、同委員会は所属事務所の異なる6人の弁護士で構成され、6か月にわたって兵庫県職員(元職員を含む)116人からの聞き取り、各部局から提供された120の資料、百条委員会との共通資料などに基づいて調査を行い、県庁の知事室・秘書課・保管庫などの視察を実施、12回の委員会を開催して216ページの報告書を作成しました。
 
 報告書は、元県民局長の通報内容には「真実」と「真実相当性のある事項」が複数あり、県政に対する重要な指摘を含むものであったと指摘した上で、「うそ八百」、「公務員失格」などと知事がコメントしたことは、通報者に精神的苦痛を負わせるばかりか職員一般を委縮させ勤務環境を悪化させるものでそれ自体がパワハラであると認定しました。また県職員がパソコン内の通報者の私的情報を流出させたことも重大視しています。

 なぜこんなことになったのか。報告書の一部を要約すると次のとおりです。~ 斎藤知事は、就任後に「新県政推進室」を新設して以前から面識のあった職員らを中心に若手を登用した。話をする相手は推進室メンバーばかりで、自分の施策や思いもメンバーを通じて庁内に発信した。職員からの報告や意向伺いも彼らを通じて受けた。同時に知事はこれらの側近に対して過酷、理不尽な要求を行ったが誰も反発せず忠実に従った。そこで知事と側近の同質化、一体化が進んだ。

 職員は知事と直接のやり取りができず、県庁内のコミュニケーション不全が進行した。その結果、知事協議の場で認識の違いが明らかになったり、知事の知らない報道がなされるという事態が頻発した。そんな時、知事はいらだって事情を聞かずに叱責し、机をたたき、協議を打ち切る等の行動に走った。このようなコミュニケーションの不足とギャップがパワハラの素地となった。

 一方で兵庫県の職員は総じて仕事熱心で、無理をしてでも上司の要求に応えようとする傾向が強い。しかし高すぎる要求や過剰な要求はすでにパワハラである。それに応えると次には更に高い要求がなされる。職員の無理な頑張りはパワハラの連鎖を生む。一人の問題ではなく周囲の職員まで委縮させ勤務環境を悪化させる。たとえ自分は我慢できてもパワハラは許すべきではない。この点で兵庫県職員の我慢の風土とパワハラ感覚の低さが問題を深刻にした。~

 以上は第三者委員会の指摘、以下は私の感想です。報告書に示された知事と職員の関係は真実に違いありません。20年続いた井戸県政を引き継いだ斎藤知事が、刷新を急ぐあまり従来の県庁の情報共有の手順や指揮命令の系統を無視し(うまく使えばよかったのに)、お気に入りの若手グループを重用し過ぎた結果、「知事・側近」と「一般職員」の間に乖離と相互不信が生じたのでしょう。これは原理的に知事が悪いのであって、しかも斎藤元彦という人間の資質が拍車をかけました。

 職員にとって知事(首長)は選挙によって県民の信任を得た特別な存在です。社員にとっての社長よりずっと重い存在だろうと私は思います。地方自治法に職員は首長のために働くべしと書かれていますが、言われなくても知事のために働きたいというのが職員の基本的心性です。しかし兵庫県職員は、「知事が何を考えているのかよく分からない。せっかく協議の機会を得ても話が通じないし理由もなく急に怒り出す。これでは仕事にならない」と感じたでしょう。

 知事にとって職員はどのような存在だったでしょう。斎藤元彦には兵庫県庁が伏魔殿に見えていたと思います。「古池にすむ背中にコケの生えた亀みたいな職員が県民ではなく自分たちの都合いいよう仕事をしている。とくに幹部連中は井戸県政の残党で油断できない。比較的ましな若手グループを使って『維新』を進めるしかない。いまの主人は誰かを全職員に思い知らせてやる」と斎藤は思っていたはずです。

 本来なら副知事がパイプ役を務めるべきところですが、片山副知事にその意志は弱かったようです。そこで見かねて立ち上がったのが元県民局長でした。元局長にしてみれば知事は話して分かる相手ではないし手段は公益通報しかなかったでしょう。その心情は察するに余りあります。それを踏みにじったのが被通報者である知事本人ですから、O君のいうとおり無理が通って道理が引っ込む世の中です。

 知事の側近グループは職員から裏切り者とみなされているでしょう。白羽の矢を立てられて高揚し、必死で働き、害悪の拡散に手を貸すことになった彼らもまた大きくは被害者だと思います。第三者委員会は兵庫県職員の中にパワハラを容認する風土があったと指摘しますが、私の見方は少し違います。先述したとおり職員にとっては知事は「県民の代表者」であって、知事がふっかける無理難題は「県民のお叱り」に見えるのです。パワハラでなくカスハラです。だからよけいに我慢してしまうのです。

 報告書の最後の「まとめに代えて」はよい言葉です。「県当局の仕事は、住民の多様な願いを受け止め、複雑に絡み合う利害を調整し、光の当たらないところにも目を配り、取り残される者のない社会を実現していくことである。政治は、少数のエリートだけで行いうるものではない。現場の職員が献身的に働くことにより初めて実を結ぶものである。そのためには、職員がやりがいをもって職務に励むことのできる活力ある職場でなければならない。活力ある職場であるためにはパワハラはあってはならない。」

 全文を引用したいぐらいですが、私はこの意見に200パーセント賛成です。市役所職員として40年働いた実感そのものです。考えてみれば当たり前の言葉であって地方自治体に限らず中央官庁にも当てはまります。斎藤元彦はもちろんですが、兵庫県以外の公務につく全ての人に読み直してほしいと思います。

 先日、ひさしぶりに桐生の頂上まで行きました(いつもは山すそか中腹まで)。あちこちでウグイスが鳴き始めています。稜線に出て風に吹かれ湖南平野を見ていたら、「はい、こんにちは」と声をかけられました。ふりかえると中年の女性二人です。こちらも挨拶したら「お兄さん一人ですか?」と聞きます。はいと言うと「そっか、それは淋しいねえ」と言われてしまいました。やんぬるかな!

 私は「ジモティ」で不用品をもらいに来たベトナム青年から「おじいさん」と呼ばれ、訪問セールスの人から「お父さん」、桐生では「お兄さん」と呼ばれています。それはどうでもいいけれど、二人称の呼称が多様なのはいかにも日本的です。学校では「あなた」だと教わりますが、婉曲をよしとする世間の感覚に照らすと「あなた」は、指示・限定のニュアンスが強い(ストレートすぎる)と感じられます。主語がしばしば省略されることも関係するでしょう。

 ところで「はい、こんにちは」という挨拶はなんら不適切ではありません。しかし私には「どうしてか説明しにくいけれど何だか馴れ馴れしくて押しつけがましい感じがする」のです。といって私は山の上で行き会った女性に悪い印象を持ったわけではなく、むしろ元気でいいなと思いました。私が腰を上げかけたらその女性が「耳岩はどこですか?」と聞くので「あなたがいまご覧になっている岩ですよ」と返事したら、二人で手を叩いて笑い出しました。陽気な二人は白石峰へ、私は天狗岩にむかい「お気をつけて」と言い合って別れました。

 天狗岩でお茶を飲んでいたら今度は背後の絶壁から人が現れて驚きました。私は人の顔が覚えられませんが、さわやか、機敏、日焼けの3拍子そろったこの人は以前にも出会った岩登り名人のO氏であるとすぐ分かりました。今日は生徒を教えているとのこと、岩に打ち込まれたボルトにカラビナをひっかけあっという間に断崖に消えました。もし、仮に、この人を斎藤の代わりにすえたら兵庫県庁はきっとうまく行くはずです。

 一晩たって追記します。書くほどのことでもないけれど橋下徹が「斎藤元彦は知事の資質に欠ける」と評したそうです(ネットではこの手の短信を避けられません)。おまえはぬるぬるして気持ちわるいとナメクジがナメクジに言うがごとし。吉本新喜劇なら全員がずっこけるところです。普通はおらんかと思ってしまいます。





 
 
 

2025/03/19

269)漱石のこと

 今回は夏目漱石と私との個人的な関係(!)について書きますが、まず「商品券」、「公認」、「襲撃」についてふれます。どれもため息のでる話です。首相から新人議員に渡された10万円の商品券は「家族にハンカチでも買ってあげて」という趣旨だったとの説明がなされました(何枚買えるねん?!)。ブルータスよ、お前もかと嘆く支持者は多いでしょうが、こんなものは氷山の一角に違いありません。

 杉田水脈の公認は旧安倍派の議員の要望によるのだとか。ここに見る公正の感覚のまったき欠如、なりふり構わぬ選挙対策、あてにされている「岩盤支持層」の存在を思うとアンタンたる気持ちになります。地中ふかくの水脈は思想的に貧しいくせに大変しぶとく、自民党をうるおし続けています。所属議員はそろって「反省」の二文字を口にしますが、何を規範として反省するのか、その基準点をまず明らかにしてほしいものです。

 立花襲撃ですっとしたという人がいるかも知れません。しかし、いったん暴力を肯定したらとめどありません。いや立花の行為だって刃物をつかわない暴力だと反論する人もいるでしょうが、それなら彼の言動に賛同する不特定多数の責任も同時に問うべきです。立花が軽傷で済み、この事件を解釈する機会を持ちえたことはひとまず幸いでした。SNSのブーメランであると彼に理解できればよいけれど。

 杉田も立花も差別と憎悪の感情をあおることに長けています。ともに家でソファに寝そべりながらSNSの過激発信をおこない、その反響を力にしてリアルな表の世界で一定の自己実現を果たしています。しかし彼らをそこまで「育てあげた」大衆の顔は見えません。これが何とかならないものかと年甲斐なく憤慨する私であります。彼らをアイコンとして政治利用する人々も許せません。

 世の中の悪人をひとまとめにして島流しにしたいと思うことがあります。悪人全員が協力して狩猟採集を行えば食うには困らないような無人島に流すのです(外部との接触を絶つ仕掛けがいりますが)。なぜ司法に任せないかというと、悪人でも死刑にしてはならないと思うし、そもそも法の網に引っかからない極悪人が多数いるからです。そこで私が、悪人たちの公平性、公正性、倫理観、弱者に対する姿勢などを総合判定して処分を決めることになりますが、これは危険思想でしょうか。

 冗談はおいて本題に入ります。漱石、鴎外が近代文学の双璧であるという評価はいまも健在でしょう。私もそうですが特にアヅマは漱石が好きで学生時分に箱入りの漱石全集を揃えていました(うらやましかったものです)。彼女は「門」の主人公である宗助と御米が「崖下の家」にひっそり暮らすそのありように憧れ、私もそれに大いに影響されましたが、これは私たちの若き日のロマンチシズムです。

 漱石は明治29(1896)年、熊本第五高等学校の英語教師になってほどなく鏡子と結婚しました。学問に忙しいのでお前のことに構っていられないことを承知してくれ、と新妻に宣言したといいます。一方、友人であり俳句の師であった正岡子規への手紙に「衣更へて 京より嫁を 貰ひけり」の句を添えています。

 3年後に長女筆子が誕生しますが、この時には「安々と 海鼠の如き 子を生めり」の句を詠んでいます。わが子をナマコに例えたことに拍手をおくる人もありますが、漱石の母子に対する観察者のまなざしが私は気に入りません。しかしさすがに文豪はよい句をたくさん残しています。「叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな」など佳い味わいです。

 筆子誕生の前に鏡子夫人は第一子を流産しました(プライバシーゼロ)。その頃だったでしょうか、彼女はつわりに悩まされ一時的に精神に変調をきたして川へ身を投げたことが知られています。当時、私の曽祖父は漱石の同僚教員だったのですが、急に家から姿を消した鏡子の行方を漱石とともに探し回りました。これは後年、曽祖父が長女である祖母に語った話です。

 祖母は私に「夏目さんの奥さんが行方知れずになった時、岩田の父(曽祖父)もいっしょに探したそうよ。奥さんは無事だったけどね」と言っていました。曽祖父の姓は岩田、佐賀の生まれで、その長女である私の祖母は、「むすめ時代に鍋島のお殿さまの前でお琴をひいた」とも言っていました。お琴は100年前のエピソードです。

 この記事を書くにあたり証拠があればと熊本県立図書館にメール照会したところ、「熊本第五高校の職員名簿は国会図書館デジタルコレクション『五高五十年史』(1939年)で公開されている、その504ページをご覧あれ、その他の資料はどこそこにある」と返信をいただきました。たしかに夏目金之助が明治29年から36年まで英語教師として、岩田静夫(巌次郎)が明治31年から32年まで独逸語教師として在籍していたことがわかります。

 そういえば思い出せなかった曽祖父の名は「静雄」でした。だから祖母の名は「静枝」です。私の断片的な問い合わせ対して打てばひびくように応じて頂いた熊本県立図書館のレファレンスサービスには感謝の言葉しかありません。県外からの問合せですから念のため電話で補足説明を行ったところ、こみあっているけれどちゃんと順番に処理しますという回答を得ていました。さすがに「公」のサービスです(熊本図書館の方、ありがとうございました)。

 漱石と私の縁といっても実はこれだけのことなのです(どうも済みません)。しかし時空のゆがみが生じて私が漱石に出会ったなら、「その節は曽祖父がお世話になりまして」というぐらいの挨拶はできるのです。漱石は、「いやあ世話になったのはこちらの方さ」と言ってくれるかも知れません。「では恐れ入りますがこの全集にサインをお願いいたします」と私は言いましょう。

 「三四郎」は明治38(1905)年から朝日新聞で連載されました。その中で「広田先生」は日清、日露の戦勝に沸き立つ日本を「滅びるね」と評して三四郎を驚かせます。欧米を深く知る漱石の実感だったのでしょうが、この予言は40年後に的中しました(その後に復興した日本はいま間氷期にあります。また滅びないようしなければなりません)。

 同じ小説で与次郎が、「Pity is akin to love 」 を「可哀そうだた惚れたってことよ」と訳したのを、広田先生が「いかん、下劣の極だ」と 苦笑まじりに退けたシーンも印象的です。与次郎を通して漱石は「この訳もありだぜ」と言い、「憐憫は愛に似ている」という直訳から洩れているニュアンスを提示しています。こうした細部も漱石の魅力です。

 先日読んだ「日本習合論」において著者の内田樹(また出た)がこの二つの挿話を取り上げているのに驚きました。彼は、漱石の日本語の素地、すなわち二松学舎で学んだ漢籍、子規に指導された俳句、少年期に親しんだ落語や俗謡、長じて学んだ謡曲などを列挙し、こうした豊かなアーカイブがあったから英文学を中心とする欧米の学知を母語で受け止めることができたと指摘しています。「鋭く、尖った学知を、柔らかく、穏やかで、深い教養で受け止め」たとも評しています。

 さらに武道の「小拍子・大拍子」にふれ、柳生宗矩の兵法家伝書中「拍子があえば敵の太刀が使いやすくなる。こちらの太刀は敵の太刀が使いにくいように使うのがよい。すなわち無拍子に打つことだ」という箇所を紹介します。そして、きりきり音を立てて飛んでくるヨーロッパの学問芸術という「小拍子」の太刀を外して、漱石はゆったり悠然と「大拍子」に太刀を使っていると言っています。

 さすがに内田さん。明治期の社会や文化の状況をおさえつつ漱石の骨法を手のひらにのせて見せてくれます。内田樹もまた日本語の豊かなアーカイブを有し、レヴィナスを始めとするフランス思想に通じ、人間の身体と精神の関わりを考察し、ものごとの習合を深く論じる人であって、彼自身が漱石のような「知」のありかたを目ざしていることは間違いありません。この人のユダヤ文化論を手引きにして私もユダヤ人について書こうとしていますが、いまだ手がつけられず見当もつかないのは仕方ありません。







 

 

 

の中で広田先生が「日本は亡びるね」と言って三四郎を驚かせます。

 

2025/03/11

268)「私利道」を行く

 海の向こうでドナルド・トランプが、こちらで斎藤元彦が「公の毀損」に精を出しています。二人が有している権力と迫力は月とすっぽんですが、共に同じ砂利道ならぬ「私利道」を突き進む義兄弟、濃い顔と薄い顔が交代でニュースに出ない日はありません。かくも多くの不適格者が集団のリーダー(首相、首長、社長など)となっているのを見ると、きっと不適格者ほどリーダーに選ばれやすい「民主的メカニズム」があるはずです。

 トランプ暴言が止まりません。パナマ運河の奪還、グリーンランドの領有、カナダの併合、ガザ住民の追放、ウクライナの採掘、諸国の防衛費増額など言いたい放題。ひょっとしたら石破首相にも「51番目の州にならないか」と持ちかけたかもしれません。悪いことに暴言はリアリティがあります。関税もふくめ米国が「私利道」を進んで孤立主義に戻ったら日本はもちろん多くの国々が困るでしょう(米国自身もいずれ困るだろうけれど)。

 イーロン・マスク率いる政府効率化省(維新が好きな名前)は、連邦職員に「大統領への忠誠と激務の受入れ」を求める宣誓書を書かせ、拒否したら解雇すると発表しました。彼はツイッター(現「X」)でも同様の脅しをかけて8割のクビを切った「実績」があり、それを国家公務員にも適用しようというわけです。浮いたカネは法人税の減税に回すと見られていますがまことに露骨な「私利道」です。

 それにしてもトランプ・ゼレンスキーの喧嘩別れには驚きました。この二人を私は報道の範囲で知っている(つまりほとんど知らない)けれど、「人としてのまともさ」はどう見てもゼレンスキーが上でしょう。それにしても相手が悪かった。トランプは「礼儀知らずの恩知らずだ」と怒りました。ゼレンスキーは「進むべき道を進まなかった」という反省の弁をSNSで述べました。たしかに彼は失敗したのでしょう。

 こんなとき日本人だったらどうかと私はつい想像します。まず日本の首相ならふだん着で海外訪問を行いません。非常時であろうと、いや非常時ならなおさらのこと、礼を失しないようにとスーツを着るはずです。そしてホワイトハウスに着くやいなや、「おおきに、すんまへん、おおきに、すんまへん」と繰り返すでしょう(関西出身なら)。会談でもホメ殺しから始めます。「おかげさんで私ら生きさしてもろてます。いよっ、大統領!」

 これに比べてゼレンスキーは堂々としています。外国の軍事支援は当然だと思わないにしても、自分たちが西側の最前線で身体をはってロシアを食い止めているという思いが強いでしょう。米国にしてもロシアの版図が広がることは防ぎたいし、「黙認は譲歩だ」と考えているはずです。兵器を実戦消費して軍事産業の活力を維持する狙いもあるでしょう。そもそも純粋に理念のための他国支援などあるはずがありません。

 したがって米国・ウクライナの関係は非対称ではあるものの日米関係より対等に近いと思います。それでも(鉱物資源の決裂もあり)トランプとバンスは立腹しました。ゼレンスキーの立場で考えると、すなわち外国を訪問して自国の運命にかかわる会談にのぞむ政治家の身になると、「自分の背後にいる自国民をより強く意識する」か、「目の前の相手国の首脳をより強く意識する」かという二方向に心が動きます。

 どちらも大事なことは言うまでもないけれど、ゼレンスキーは前者に流れました。日本の首相なら逆であったと思います。仮定と推測で書いていますが、これは自他意識の差によるものでしょう。いまウクライナは修復に努めていますが国民は大統領を責めてはいないようです。それにしてもどこの国のリーダーもSNSの政治利用が当たり前になっています。これが「今どき」なのでしょうが私には公私溶融に見えます。

 さて兵庫県知事です。百条委員会の見解、すなわち内部告発者への対応、通報者の公表と処分、その個人情報の暴露、パワハラ等におおいに問題ありとする報告書は、事実にもとづく客観的な判断であったと思います(もっとしっかり断定せよと言いたいけれど)。一連の出来事のなかで県職員2人、県議1人の3人が亡くなっています。痛ましい怖ろしいことです。職員の「公僕パワー」はだだ下がりに違いありません。

 斎藤氏は報告書を「一つの見解」だと矮小化し、「最終的には司法の判断」だと繰り返しています。こういう人物のメンタルはいったいどうなっているんだろうと思います。「蛙の顔になんとやら」ですが蛙は邪悪さと無縁です。友人O君の怒りは沸点に達していることでしょう。あとは司法が頑張るしかないとすれば、地方自治はもうアウトです。今後も注視です。

 前回記事をアップした後にO君に「書いたぞ」とメールしたら「おっきに。おもろかったわ。ユダヤ人のことが分からんて I が言いよったのがおかしい。O先生ならどう言わはるやろ」と返事がありました。一方で I 君からは「O先生に申し訳ないほど世界史が悪かったのに自分が人を教えてたんやからな、、。それにしてもOとのやりとりは面白かった」とラインがありました。

 内輪の昔話で恐縮ですがO君とI君とは高校以来の友人です。二人とも前回記事にちょっぴり登場しましたが、それを読んでお互いに相手のことを可笑しがっていることを、私は面白く思いました。クラス担任であったO先生は世界史を教え、生意気ざかりの生徒たちから尊敬されていました。ユダヤ人とはいかなるものかについてO先生のご意見を聞いてみたいとO君は言っているわけで、それは私も同じです。







2025/03/02

267)斎藤知事を内田樹氏が論評したこと

 友人O君は思いこんだら一直線の熱い男です。高校時代から今にいたるも変わりませんが、それを私はなかば呆れつつ賞賛しています。愛知川流域のビワマスやイワナも彼をほめたたえていることでしょう(記事「ビワマスの通い路」)。彼は「斎藤元彦には腹立ってしゃあない。立花もひどい。維新もあかん。もう危ないで」と怒っています。先日わが家で食卓を囲んだ友人たちも私もまったく同意見です。

 そのO君が電話してきて、「兵庫県政を正常に戻す会」で内田タツキさんが講演してはる、斎藤元彦は組織マネジメント原理主義者やと斬りすてた、よう分かる、賢いなあ、すっきりした、ニコニコ動画のURL送ったし見てみ、そこ押すだけ、人のコメントが流れてうるさいけど画像がましやねん、と言いました。私は、ああ内田タツルさん、確かにすごい知性だねと紳士的に応じました。

 O君は、斎藤も越直美も一緒、ひどい奴っちゃ、職員は浮かばれん、公共を踏みにじっとる、選挙違反せんかっただけ越のがマシかもしれんけどなと畳みかけ、これを「大津通信」に書けと言うのです。しかし斎藤氏のことは前に少し書いたし、越氏は表も裏も書いてウンザリです(邪悪、愚昧な点で稀有の人)。私はO君にとにかく内田樹さんの講演だけは見ると返事しました。内田樹ならおもしろいと思ったのです。

 内田氏がずっと以前、武道における身体操法について書いた短い文章を新聞で読み、私は、武道という特殊な領域を一般社会に「通訳」して見せるその手際にびっくりして、以後この人を読むようになりました。知れば納得でフランス文学者、思想家、合気道師範(居合道にも通じている)など多彩な顔でばりばり活躍している人です。「憲法の『空語』を充たすために」(かもがわ出版・2014年)はいつかの記事にも書きました。

 アヅマは私ほど「内田ファン」になりませんでした。どこか右翼チックで信用できないというのです。確かに内田樹は「わが国において現にうまく機能している二重構造の一極である」との理由から天皇制をよしとする意見を表明し、辺見庸が小さな失意をこめそれを批判したことがあります。私も「内田さんそれは少し違うでしょ」と感じましたがアヅマの感想はそれより前のこと、やはり鋭敏であったと思います。とはいえ私は今も内田樹の読者のかなり熱心な一人です。

 本題にもどってさる2月24日、「兵庫県政を正常に戻す会」が県民集会をひらき(900人満席)、話者の一人として内田樹が最初に登壇し30分ほど話しました。私はその部分だけ動画で見ましたが画面の右から左へ視聴者の文字コメントがひっきりなしに流れます。「これは反斎藤の集会?」、「偏った人たちを見るのは面白いけどね」、「老人会だっけ」、「日本人ではないんか」、「黒幕協賛・共産党」、「アカ」、「カルト集会だな」等々。

 私は主催団体について知りませんが、団体の名称はもっともだし、そもそも集会の自由は憲法で保障されています。前出の内田氏の本によって立つなら、集会を行うことによって私たちは、憲法に書かれた「そらごと」(いまだ実現されていない言葉)の中身を充填する行為の一端を担っていることになります。一方で自由な意見の表明も憲法は保障していますからコメントも制限されてはなりません。しかるになぜSNSは、多様な意見を総和・調整するより二極化・先鋭化する方向に働くのでしょうか。

 私がこの動画で見たコメントに、「日本人ではない」、「共産党である」などの古典的な決めゼリフがあり、かつて安倍晋三に強く現れていた復古的なタマシイがいまも根強く残っていることを実感しました。いやまったく馬鹿ばかしいと私は思っています。もとに戻ります。
 内田氏は神戸に合気道道場「凱風館」を構えており兵庫県の縁者でもあります。その主張をざっと紹介します。かなり大幅に意訳、補足をしていますから正確には動画をご覧ください。

 ~ 斎藤氏の1期目の実績に良くも悪くも目だつものはなかった。県政の基本方向は長年のうちに大筋で合意されているし、そもそも自治体の施策は「悪」でありえない。ゆえに斎藤氏にも大きな失政はなかった。そうした県政の流れに乗っかって斎藤氏が注力したのは、兵庫県庁を自分流にカスタマイズすることだった。

 すなわち知事を頂点とする強固なピラミッドをつくり、上意下達を徹底させること。自治体がとかく非効率なのは細かい法令にしばられ、職員が既得権益に守られているためである。だから行政改革が進まない。全国の自治体はすべて社長の指一本で動く株式会社のようであるべきだ。組織が何をするかよりも組織がいかに動くかこそ重要である。こうした考えをもつ斎藤氏のような人物は「組織マネジメント原理主義者」と呼ぶべきだ。~

 以上が内田氏の主張の骨子であり、斎藤氏が模範としたのは卒業式で君が代を歌わない公立高校の先生を「業務命令違反」の理由で処分した橋下徹元市長(知事)であったろうと推測します。そして斎藤氏は予測のつかない幼児のような行動によって周囲を混乱させ(トランプのように)、職員に理不尽な要求をくり返すことによって(20メートル歩行事件、エレベータ押しボタン事件など)自らの権威を強化していったと指摘しました。

 引用はここまでです。私も内田氏の見解に賛同するもので、斎藤氏は「新自由主義的な考え方を至上のものと考え、かつ、その資質に欠陥のある近視眼的・利己的なポピュリスト政治屋」であると考えます。これは私の「越直美評価」と同一であることを本ブログの古い読者はご存知でしょう。まったくO君の言うとおり公共の危機です。

 なぜこうした人物が票を集めるのでしょう。それが投票の自由だし、十人十色だと言ってしまえばそれまでですが、こうした斎藤人気(あるいは石丸人気)の背景にはやはり今どきの事情があると思います。マイケル・サンデルが「それをお金で買いますか」と問うとおり世界は資本主義にすみずみまで浸され、消費者が市場の最高審判者であると擬制され、ほとんどの人の最初の社会的行動体験が買い物(消費行動)であり、会社が代表的な組織モデルと認知されている現代において「公共的感覚」は縁遠くなるように見えます。前も同じことを書きました(記事「市役所と株式会社は同じ?」)。こわれたレコードで恐縮です。

 結局O君の勧めどおりに書いてしまいました。実は昨年から内田樹著「私家版・ユダヤ文化論」の感想を書こうとして果たせません。とても鮮やかで面白く難しい本です。難しいならよせばいいのですが、聖書の周辺を眺めるうちにユダヤ人が古く特異な歴史のもとにあると分かったし、ホロコーストを経由して今のイスラエルの侵略があります。

 また、かつて高校で歴史を教えていた友人I君が「大きい声で言えないが今もユダヤ人のことが分からない」と言っていました。逆説的ですが知識が豊かであるほど「ユダヤ人とは何か」について明瞭に述べることが難しいようです。私のにわか勉強ではまだ玄関の前にも立っていませんけれど(中でもロジャー・パルバースと四方田犬彦の対談は興味深かったけれどすべて忘却のかなたです)。

 前回記事で「日本人らしさ」について書いた時、私は「ユダヤ人らしさ」を念頭に置いていました。乱暴な対比ですが両者は明らかに異なっており、並べてみると双方が分かるような気がします(そういえば「日本人とユダヤ人」という本があったような)。今後、公共はもちろんですが、宗教について、ユダヤ人あるいはユダヤ文化についても手のとどく範囲で書きたいけれど先の長い話です。

 話は変わって、わが家のキッチンに小麦粉の容器があります。中に入っている樹脂製のスプーンに細かい穴が開いていることに気がついて胸に迫ったのがもう3年前でしょうか(前に書いたかも)。なるほど小麦粉をふりかけるために穴があいている、でもそんなことを自分は知らなかった、今はじめて知った、そんな生活の細部をアヅマがにこやかに担い、彩りとうるおいをもたらしてくれていたと改めて知った。そんな思いです。

 それから私も生活の細部を大切にするよう(多少は)心がけています。花をかざるのはもともと欠かしたことがないし、掃除、洗濯はひんぱん(ビールは毎日)で時にアイロンもかけます。そして最近、洗濯物を干すときハンガーを5つ6つまとめて使えば乾きが早いと気づきました。洗濯物が少ないかハンガーが多ければぜひお試しください。洗濯は人まかせの方はそこから是正しなければなりません。番外編(括約筋トレーニング)に続くお役立ち情報です。