越氏の挑戦記は毎回首をかしげる記述ばかりですが、申し上げた通り一つずつ論評していたらキリがありません。今回は6月14日の記事から。越氏は弁護士として企業の経営破綻をつぶさに見た経験にふれ次のように書いています。~破綻の背景に粉飾決算があることもあります。違法行為が会社を潰し、従業員の生活を変えてしまうことを知りました。市長になって市職員のコンプライアンス(法令順守)に力を入れましたが、背景にこの体験がありました。~
一体この人の頭の中はどうなっているんだろうと思います。お時間のある方はこのブログの過去の記事をご覧いただきたいのですが、越氏には市長としてふさわしくない数々の行為があります。公文書公開をめぐっては弁護士会照会の拒否、最高裁判決にそむく非公開、審議会への虚偽説明、係争中の公文書廃棄等があり、私の作成した公文書の回収・廃棄・データ破壊もありました。一部は時効としても明白な法令違反があり、法の精神に背く行為がありました。どのような理路で「コンプライアンスに力を入れた」となるのでしょう。
また、越氏はこう述べています。 ~しかし日本では、終身雇用、年功序列の雇用体系の中、通常は従業員が昇進して取締役になります。そうすると外部の提案には何でも反対となりがちです。市長になってこれを市に置き換え、市民が株主、市長は市民に対する義務を果たさなければならないと常に考えていました。~ 私はこれを読んで、「民間では考えられない」とか「文句があるなら次の選挙で落とせばいい」という越市長の決め台詞を思い出しました。いやはやまったく。
「市民」を「株主」とみなすことは、一見すると行政サービスの究極の姿勢であるように思われます。すなわち市役所は株式会社であり、市長をはじめとする社員一同、至上の目標である株主の利益のために全力で奉仕しなければならない。結果がダメならトップは次の選挙の審判を受けるまで。こうした物の考え方は、近年、国や地方政府の長をはじめ社会の中でかなり広まっています。しかし、少なくとも公務に携わる者はこうした分かりやすい例えを鵜呑みにせず、もう少し深く考えなければなりません。市長であればなおさらです。
株式会社の責任の限界は「株主の総出資金額」であり、それを超えることはありません。つまり株式会社は有限責任の組織体です(前にも書いたような。重複ならご容赦下さい)。実際には従業員の失業、法人税収の消失、地域経済の衰退など無視できない社会的影響がもたらされる場合がありますが、経営者はそこまでの責任を問われません。それゆえ原発事故で国土の一部を損壊し人命を奪った東京電力からは一人の逮捕者も出ておらず、株式会社という「法的擬制」ゆえに責任の追及を免れています。そして原発事故による緊急事態宣言はいまだに解除されず、メルトダウンした炉心から止まらぬ出血のように汚染水が流れ続けています。東電が仮に破産しても尻ぬぐいは全て税金。原発推進が国策であるとはいえ、こうした現実が許容されるのは株式会社が「有限責任」であるという約束事のもとに失敗のコストを外部転嫁できる組織であるためです。
さて、市(大きくは国家)の責任は有限でしょうか。市政運営や政策判断のミスがもたらす損害を外部化する(よそにツケを回す)ことが可能でしょうか。もちろんそれは無理な相談で、直接には政策判断に関与することのなかった全市民(国民)が損害を受忍せざるを得ません(国の場合は極端な事例として開戦の責任があります)。市や国家は、株式会社と異なって「無限責任」を負う組織です。大津市長の責任の範囲は、大津に住む住民の生命財産、将来世代の利益(端的には教育を通じて)、社会資産、環境などに及びます。越氏はこれらを幾らに見積もるでしょう。
また、すべての株主の利益は「株価の上昇」で一致しますが、全市民のニーズがはたして一点に合致することがあるでしょうか。活気と賑わいのあるまちづくりを求める人がいれば静かで落ち着いた雰囲気を守りたい人もいます。高齢者福祉の優先を主張する人がいれば何をおいても学校の先生を増やせという人もいます。このこと一つをとっても、株式会社を経営するように都市を運営することはできません。株式会社はトップダウンで組織化されていますが、それを担保するのは、社長決定の適否を審判する市場(マーケット)の「正しさ」に対する皆の信仰です。このように、売れたらすべてOK、株価が上がればすべてOKという単一目的の組織は民主的であることを必要としません。これに反して多様な価値観とニーズをもつ市民に対し行政サービスを提供する市役所は、それゆえにこそ民主的な組織であることを根源的に要求されています。
このように見てくると「市民は株主だ」とか「市役所も会社のようにトップダウンでスピーディーに経営されるべきだ」という考え方の愚かさが分かります。こうした主張をする人には政治家の資格はありません。チコちゃんなら「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と怒鳴るところです。しかしこうした人物が首長に選ばれるのです。民主主義的制度は今日の私たちの社会の到達点でしょうが、常に空洞化する契機を内に抱え持つ危うい制度でもあると言わざるを得ません。背景に「社会の市場化」という悪しき大きな潮流があります。
今回の記事は内田樹著「憲法の『空語』を充たすために」を参照しています。私は「市場至上主義」や「ポピュリズム政治」などの影響で「公」の存立がますます危うくなりつつあることを懸念する者ですが、内田氏は独自の視点からこうした状況を分かりやすく解説しています。若い市職員の方々がこのブログをご覧になり、この本に関心を持たれるとしたらまことに幸いです。
シコンノボタン
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