友人O君は思いこんだら一直線の熱い男です。高校時代から今にいたるも変わりませんが、それを私はなかば呆れつつ賞賛しています。愛知川流域のビワマスやイワナも彼をほめたたえていることでしょう(記事「ビワマスの通い路」)。彼は「斎藤元彦には腹立ってしゃあない。立花もひどい。維新もあかん。もう危ないで」と怒っています。先日わが家で食卓を囲んだ友人たちも私もまったく同意見です。
そのO君が電話してきて、「兵庫県政を正常に戻す会」で内田タツキさんが講演してはる、斎藤元彦は組織マネジメント原理主義者やと斬りすてた、よう分かる、賢いなあ、すっきりした、ニコニコ動画のURL送ったし見てみ、そこ押すだけ、人のコメントが流れてうるさいけど画像がましやねん、と言いました。私は、ああ内田タツルさん、確かにすごい知性だねと紳士的に応じました。
O君は、斎藤も越直美も一緒、ひどい奴っちゃ、職員は浮かばれん、公共を踏みにじっとる、選挙違反せんかっただけ越のがマシかもしれんけどなと畳みかけ、これを「大津通信」に書けと言うのです。しかし斎藤氏のことは前に少し書いたし、越氏は表も裏も書いてウンザリです(邪悪、愚昧な点で稀有の人)。私はO君にとにかく内田樹さんの講演だけは見ると返事しました。内田樹ならおもしろいと思ったのです。
内田氏がずっと以前、武道における身体操法について書いた短い文章を新聞で読み、私は、武道という特殊な領域を一般社会に「通訳」して見せるその手際にびっくりして、以後この人を読むようになりました。知れば納得でフランス文学者、思想家、合気道師範(居合道にも通じている)など多彩な顔でばりばり活躍している人です。「憲法の『空語』を充たすために」(かもがわ出版・2014年)はいつかの記事にも書きました。
アヅマは私ほど「内田ファン」になりませんでした。どこか右翼チックで信用できないというのです。確かに内田樹は「わが国において現にうまく機能している二重構造の一極である」との理由から天皇制をよしとする意見を表明し、辺見庸が小さな失意をこめそれを批判したことがあります。私も「内田さんそれは少し違うでしょ」と感じましたがアヅマの感想はそれより前のこと、やはり鋭敏であったと思います。とはいえ私は今も内田樹の読者のかなり熱心な一人です。
本題にもどってさる2月24日、「兵庫県政を正常に戻す会」が県民集会をひらき(900人満席)、話者の一人として内田樹が最初に登壇し30分ほど話しました。私はその部分だけ動画で見ましたが画面の右から左へ視聴者の文字コメントがひっきりなしに流れます。「これは反斎藤の集会?」、「偏った人たちを見るのは面白いけどね」、「老人会だっけ」、「日本人ではないんか」、「黒幕協賛・共産党」、「アカ」、「カルト集会だな」等々。
私は主催団体について知りませんが、団体の名称はもっともだし、そもそも集会の自由は憲法で保障されています。前出の内田氏の本によって立つなら、集会を行うことによって私たちは、憲法に書かれた「そらごと」(いまだ実現されていない言葉)の中身を充填する行為の一端を担っていることになります。一方で自由な意見の表明も憲法は保障していますからコメントも制限されてはなりません。しかるになぜSNSは、多様な意見を総和・調整するより二極化・先鋭化する方向に働くのでしょうか。
私がこの動画で見たコメントに、「日本人ではない」、「共産党である」などの古典的な決めゼリフがあり、かつて安倍晋三に強く現れていた復古的なタマシイがいまも根強く残っていることを実感しました。いやまったく馬鹿ばかしいと私は思っています。もとに戻ります。
内田氏は神戸に合気道道場「凱風館」を構えており兵庫県の縁者でもあります。その主張をざっと紹介します。かなり大幅に意訳、補足をしていますから正確には動画をご覧ください。
~ 斎藤氏の1期目の実績に良くも悪くも目だつものはなかった。県政の基本方向は長年のうちに大筋で合意されているし、そもそも自治体の施策は「悪」でありえない。ゆえに斎藤氏にも大きな失政はなかった。そうした県政の流れに乗っかって斎藤氏が注力したのは、兵庫県庁を自分流にカスタマイズすることだった。
すなわち知事を頂点とする強固なピラミッドをつくり、上意下達を徹底させること。自治体がとかく非効率なのは細かい法令にしばられ、職員が既得権益に守られているためである。だから行政改革が進まない。全国の自治体はすべて社長の指一本で動く株式会社のようであるべきだ。組織が何をするかよりも組織がいかに動くかこそ重要である。こうした考えをもつ斎藤氏のような人物は「組織マネジメント原理主義者」と呼ぶべきだ。~
以上が内田氏の主張の骨子であり、斎藤氏が模範としたのは卒業式で君が代を歌わない公立高校の先生を「業務命令違反」の理由で処分した橋下徹元市長(知事)であったろうと推測します。そして斎藤氏は予測のつかない幼児のような行動によって周囲を混乱させ(トランプのように)、職員に理不尽な要求をくり返すことによって(20メートル歩行事件、エレベータ押しボタン事件など)自らの権威を強化していったと指摘しました。
引用はここまでです。私も内田氏の見解に賛同するもので、斎藤氏は「新自由主義的な考え方を至上のものと考え、かつ、その資質に欠陥のある近視眼的・利己的なポピュリスト政治屋」であると考えます。これは私の「越直美評価」と同一であることを本ブログの古い読者はご存知でしょう。まったくO君の言うとおり公共の危機です。
なぜこうした人物が票を集めるのでしょう。それが投票の自由だし、十人十色だと言ってしまえばそれまでですが、こうした斎藤人気(あるいは石丸人気)の背景にはやはり今どきの事情があると思います。マイケル・サンデルが「それをお金で買いますか」と問うとおり世界は資本主義にすみずみまで浸され、消費者が市場の最高審判者であると擬制され、ほとんどの人の最初の社会的行動体験が買い物(消費行動)であり、会社が代表的な組織モデルと認知されている現代において「公共的感覚」は縁遠くなるように見えます。前も同じことを書きました(記事「市役所と株式会社は同じ?」)。こわれたレコードで恐縮です。
結局O君の勧めどおりに書いてしまいました。実は昨年から内田樹著「私家版・ユダヤ文化論」の感想を書こうとして果たせません。とても鮮やかで面白く難しい本です。難しいならよせばいいのですが、聖書の周辺を眺めるうちにユダヤ人が古く特異な歴史のもとにあると分かったし、ホロコーストを経由して今のイスラエルの侵略があります。
また、かつて高校で歴史を教えていた友人I君が「大きい声で言えないが今もユダヤ人のことが分からない」と言っていました。逆説的ですが知識が豊かであるほど「ユダヤ人とは何か」について明瞭に述べることが難しいようです。私のにわか勉強ではまだ玄関の前にも立っていませんけれど(中でもロジャー・パルバースと四方田犬彦の対談は興味深かったけれどすべて忘却のかなたです)。
前回記事で「日本人らしさ」について書いた時、私は「ユダヤ人らしさ」を念頭に置いていました。乱暴な対比ですが両者は明らかに異なっており、並べてみると双方が分かるような気がします(そういえば「日本人とユダヤ人」という本があったような)。今後、公共はもちろんですが、宗教について、ユダヤ人あるいはユダヤ文化についても手のとどく範囲で書きたいけれど先の長い話です。
話は変わって、わが家のキッチンに小麦粉の容器があります。中に入っている樹脂製のスプーンに細かい穴が開いていることに気がついて胸に迫ったのがもう3年前でしょうか(前に書いたかも)。なるほど小麦粉をふりかけるために穴があいている、でもそんなことを自分は知らなかった、今はじめて知った、そんな生活の細部をアヅマがにこやかに担い、彩りとうるおいをもたらしてくれていたと改めて知った。そんな思いです。
それから私も生活の細部を大切にするよう(多少は)心がけています。花をかざるのはもともと欠かしたことがないし、掃除、洗濯はひんぱん(ビールは毎日)で時にアイロンもかけます。そして最近、洗濯物を干すときハンガーを5つ6つまとめて使えば乾きが早いと気づきました。洗濯物が少ないかハンガーが多ければぜひお試しください。洗濯は人まかせの方はそこから是正しなければなりません。番外編(括約筋トレーニング)に続くお役立ち情報です。
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