2024/12/03

257)ビワマスの通い路

 ~ 河川保護活動のなかでも「小さな自然再生」ゆうジャンルがあるねん。これは自由研究でいうと理科よりむしろ社会みたいなもんで、「たったそれだけの事してなんぼの効果がある?」と科学的な意義を問われたらそれまでのことを、わざわざやってる感じ。

 典型的な実例が野洲市の家棟川で、仮設の魚道を設置して野洲の町中までビワマスを上らせる活動を続けてきはってん。9年間。今年は野洲駅までビワマスが上りよってん。こんな産卵不向きの川に上らせるだけ気の毒やないかと思う反面、「あ、ビワマスおった」と橋の上で子供らが興奮してるのを見ると、やっぱりそれでも上ってくれなあかんなあという気持ちになるわ


 家棟川プロジェクトの事務局長でコーディネーターみたいな役割もやってる佐藤祐一さん(滋賀県琵琶湖環境科学研究センター)は、吉野川可動堰建設のとき、推進派・反対派のコンフリクト要因(「争いのネタ」やな)を数理学的に評価して論文書いた人。いまは県が進める琵琶湖版SDGsのMLGs(Mother Lake Goals)の案内人代表やってて、水質保全から生態系保全、プラスチックゴミ削減まで頑張ってはるねん。

 佐藤さんは、県民の心が琵琶湖や川におのずと向けられていく行動ちゅうことで小さな自然再生活動の広がりに期待をかけてはるようや。「琵琶湖の環境を守るために多様な主体とどのように協働していけばよいか」をいつも考えてる。「多様なステークスホルダーの協働」を大事にしてはるのがよう分かる(越直美のあかんかったとこ)。こういうことの値打ちは俺より茂呂のほうが理解できると思うわ。

 県立大学には瀧健太郎いう教授がいて、この人が「多自然川づくり」を、川石はこう並べますいうキホンから指導してはる。全国からお呼びがかかって飛び歩くほどの忙しさらしいわ。長浜の町の中に川が流れとるやろ。長浜市の職員さんに、胴長履いて川の中を歩いて通勤するよう提案しはったこともあった。歩いて川底を引っ掻き回したらアユが産卵しやすくなるとかちゃんと効果があるらしい。この前は長浜市の何とか課の人が、市街地の川にビワマスのぼらせたいいうことで愛知川の実地学習に来てはったわ。~

  以上は高校以来の友人のメールですが明治の文豪もびっくりの言文一致体です。彼から「メール丸出しかまへんで」と承諾を得ました。また個人のお名前については、活動を公開しておられる方々なのでそのまま載せました。友人は愛知川上流の魚道整備に熱心に関わっており(力仕事より撮影、記録、盛り上げに能力を発揮している模様)、先日会った際に現場の様子を語ってくれました。上記の引用は彼が帰宅後にくれた補足メールの一部です。

 「河川保護はやっぱり『公』やで。定義むつかしいけどな。ようけ話きいて落としどころ探らんならん」と彼は言います。確かに河川、さらに環境全般に関しては、民と官、住民と来訪者、当事者と部外者、非専門家と専門家、生産者と消費者、保全派と開発派、田園主義と都会主義など様々な立場がある上に各セクターの内部も一様ではありません。丁寧な利害調整なしに活動を継続できないし、ことは百年先に及びます。河川保護は「公」。私も友人の意見に同感です。

 ところで魚道整備の意義は分かるけれど目的は一体何でしょうか。ビワマスやアユの遡上を助けて産卵数・個体数を増やす「動物愛護」なのか、あちこちの川を魚が泳ぐ「自然ゆたかな町づくり」なのか、高齢化に悩む漁師さんの顔がほころぶ「漁獲量の増加」なのか、素人にも何やら有難く感じられる「生物多様性の保全」なのか、、、。そもそもビワマスはシンボルでしょうかツールでしょうか。

 前回記事で地球4大事件を取り上げました。これらの「達成」が人類による環境と資源の「ぼったくりの成果」でもあったことを改めて言うまでもありません。産業革命を経て時代が進むにつれ「環境の天秤」は傾きを増すばかり。土、水、大気が汚され生物種も減って「もはやアウト状態」かも知れません。我々は船底をかじるネズミの群れのようであったと反省しても、国民国家という群れ同士の競合も働いて反省が行動に結実しません。

 こうした中、2015年、国連において持続可能な世界の開発目標「SDGs(Sustainable Development Goals)」が採択されました。「自分がつけた傷の出血に驚いて今ごろ包帯を巻く愚かな地球人よ」と火星人は言うでしょう。しかし私たちに大切な一歩です。これを琵琶湖に引き寄せて滋賀県民が取り組んでみようではないか、という呼びかけが「MLGs(Mother Lake Goals)」であり、その活動の中心に佐藤祐一氏がおられることを友人のメールで知りました。一県民として嬉しく思います。

 この「MLGs」は、水、水辺、湖底、魚、生物、森、流域、生業、つながり等をキーワードとする13の目標(合言葉といってもよいでしょう)を掲げています。私も銘記しなければなりません。まだご存じない向きはぜひ一度お確かめください。これは滋賀県が勝手に決めたお題目ではなく、1970年代の「石けん運動」を源流とする民、官の実践と協議を受け継いだ目標であると私は考えます。それと同時に「視点の提示」、「手法の提案」でもあります。

 私もかつて市の総合計画や部門別計画づくりに携わりました。熱中して取り組む一方で「どこまで現実を変えられるか」、「行政の自己満足ではないか」という疑問もありました。時を経て今は「その疑問にも一理ある。自省は常に必要だ。しかし理念や目標を文字にして掲示することの意味を軽視すべきではない」と思います。もちろん理念や目標の策定過程と中身が社会的妥当性を有していることと、それらが強制や統合の根拠とされないことが前提ですけれど。

 琵琶湖は滋賀県民のオアシス、近畿の水がめですから実に多数の利害関係者が存在し、行動目標の共通認識は重要です。「MLGs」の意義はまずこの点にあります。見わたせばこの世は「手段」と「目標」の連鎖です。手段は目的に奉仕し、目的はより高次の目的の手段となります。「魚道整備が手段、ビワマス遡上が目的」を第1フェーズとすると、次に「ビワマス遡上が手段、産卵が目的」、「産卵が手段、ビワマス増加が目的」、「増加は手段、生態系の回復が目的」と続きます。

 「MLGs」も手段なら本家の「SDGs」も手段です。遥か先に霞んで見える連鎖の終点は、やはり「人類の生存」でしょうか。しかし、何十億年だか前に現れたランソウ類が酸素を吐き出してくれたお蔭で地球が「命の星」になったことを引き合いに出すまでもなく、ホモ・サピエンスの一人勝ちはありません。あらゆる種の共存共栄が必須であって、言い方を変えれば動物愛護も環境保護も「我が身のため」です。

 ところで私は、「手段と目標を等価に見ること」と「百年先を見ること」が「公の作法」であると思っています。しかし残念なことに自治体の首長の一部による「作法やぶり」が後を絶ちません(新自由主義的ポピュリズム首長らに顕著)。「我々は先祖から土地を受け継ぐのではない。子どもたちから土地を借りるのだ」というアパッチ族の格言を彼らに贈らなければなりません。

 さて、家棟川には滋賀県によってコンクリート製の立派な魚道が整備されました。さすが三日月知事、やらはるなあ。これはもちろん佐藤祐一氏ほか多くの方々のご尽力の賜物でもありましょう。MLGsの風に乗りこうした動きが広まることを願います。友人は愛知川で頑張っています。私は桐生の川のゴミ拾いを(目についた範囲で時々)するとします。記事のタイトルを「こいの通い路」としたかったけれど、鯉は、岸辺で産卵するため魚道整備よりヨシ保全に期待を寄せているはず。「鯉の滝のぼり」は幻でしょうか。

 


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