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2024/08/24

246)一日4合はアリですか?

  一日に4合のお酒なら、今の私は残念ながら首を横に振らざるをえません。もしそれがお米であれば4合はおおアリ、おおいに結構。1日に玄米4合と味噌と少しの野菜。ご存じ「雨ニモマケズ」に描かれた宮沢賢治の質素な食事です。4合は十分な量に見えますが副食はないに等しく、しかも彼は当時35才の青年でした。といっても既に彼の晩年です。ああ、もっとご馳走を食べ身体をいたわってくれたらよかったのに。

 私たちが宮沢賢治の足跡をたずね岩手各地をめぐったのは夏の盛りのことでした。強い日差しの中、写真で何度も見た生家や住居、農学校、農場、川べり(イギリス海岸)、彼の設計した花壇などの現場を歩き、記念館では残部わずかの教え子たちの回想記「先生はほほ~っと宙に舞った」にめぐり会うなど二人に忘れがたい夏となったものですから、何年もめぐった同じ季節に賢治について少し書こうと思います。

 宮沢賢治の生涯と作品を考える時、彼が日蓮宗の熱心な信者であったことに留意すべきだと皆が言うし、私も浄土真宗を信じる父との相克にふれました(記事197「2冊の本」)。この「雨ニモマケズ」もまた、周囲から「デクノボー」と呼ばれる一人の人間を姿を具体的に列挙した上で「そういう者に私はなりたい」と締めくくられた短詩であり、彼の信仰宣言として読むことが可能です
(実際に発表を予定しない私的メモとして書かれました)

 それはその通りなのですが、法華経信者なら誰もが賢治のように、あらゆることを自分を勘定に入れず、よく見聞きして忘れず、簡素な小さい家に住み、西に病気の子どもがあれば行って看病し、東に疲れた母があれば代わりに稲束を背負い、日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、ほめられもせず、苦にもされず、、、という自己像を目ざすわけではありません。この詩には(結局はその全作品に)唯一無二の宮沢賢治という個性が息づいています。

 ぜひこの機会に「雨ニモマケズ」を再読して頂きたいのですが、「その人」は目立たず静かに暮らしているけれど孤立せず、むしろ社会に積極的な連帯感を示します。様々に苦しんでいる人々の所に出かけて助力を試み、人為を超えた干ばつや冷害の際には農民の「なすすべの無さ」を分け持ち、同時にそうした自分がどんな意味においても他人を煩わさないことを願うのです。社会における一人の人間の稀有の在り方。この詩はいつも胸に迫ります。

 花巻農学校の教え子に向け賢治は次のように書きました。「この四ケ年がわたくしにどんなに楽しかったか、わたくしは毎日を鳥のやうに教室でうたってくらした、誓って云ふがわたくしはこの仕事で疲れをおぼえたことはない」(『生徒諸君に寄せる』断章)。それから70年の歳月を経て冒頭に記した回想記が編まれました(『先生はほほ~っと宙に舞った』写真・塩原日出夫、文・鳥山敏子、1992年、自然食通信社)。

 その目次に15人の教え子(もちろん高齢)のインタビューから抜き出した一言がタイトルとして並んでいます。いくつか紹介します。「ひょっこり藪に入って、まともに歩かないんですよ、先生は」、「先生の精神はいっこうに心から抜けないで、ありがたいことだと」、「先生のいうとおりの百姓になんねえで今日まで来てしまった」、「百姓の生活をなんとかよくしたいという先生の決意は固かった」、「急に『泳がねすか』と言うんです。十月でしょう、季節が」、「自分はニセモノの教師。先生はもっとゆったりやったじゃないか」。

 この本は宮沢賢治の「直接体験者」の証言集として貴重ですが、同時に、「一人の人が他の人の中でいかに生き生きと生き得るか」を示す実例集でもあります。ページの中で生徒と賢治が笑っています。久しぶりにこれを読み、先日読んだ別の本の言葉を思い出しました。「人から人へ何かが真に影響するとき、受け取った相手は影響を与えた人を模倣するのではなく、よりその人らしくなっていくものだ」。若松英輔氏による遠藤周作論の中の一節です(読んだばかりなのに書名忘却)。伝達の神髄を表すこの言葉は、布教や伝道にも通じる気がします。

 話は変わります。このほど3つの大きな平和祈念式典がありました。戦後生まれが人口の9割を占め、戦争を自己の記憶として持つ人はこの世に僅かとなりました。テレビや新聞がその声を掬っています。「報道特集」(金平さんの番組)は、中国での三光作戦に従軍した元兵士のインタビューを報じました。概略は次のとおりです。

 ~ 村を焼き払ったあと部隊の後をどこまでもついてくる5、6歳の男の子がいた。家族を殺され家を焼かれて他にどうしようもなかったのだろう。上官がその子を「処分」せよと命じ、私(元兵士)はそれに従った。戦争が終わり元の生活に戻ったある日、乗っていた電車に幼稚園児の一団が乗りこんできた。私は突然パニックに襲われ次の駅で飛び降りた。似たことをくり返すうち電車やバスに乗れなくなった。やがて幼稚園児に成長した孫の姿を見るのが苦痛となり、来訪が分かったら家を空けるようになった ~

 別のテレビで澤地久枝さんが語っていました。~ 満州で敗戦を迎え命からがら帰国したあとも困難と屈辱が続いた。長く黙っていたが、朝鮮にいた叔父の一家は敗戦を知って自決した。戦争になったら国は自国民を見捨てると身をもって知った。何が何でも戦争は回避しなければならない。これだけは言っておきたい。語ることが自分の責務である  ~

 また別に、沖縄戦の生存者が、姿の見えぬ米軍より日本軍が恐ろしかったと語りました。
8月だけが「平和月間」であることの是非は別として語り伝える記憶は大切です。安倍・菅政権の「積極的平和主義」をさらに「積極化」させた岸田首相の次を担おうとする自民党議員が多数います(こんなに後ろが詰まっていたとは!)。まずはこれらの人々に上記のような話をじっくり聞き、その上で感想文を提出してほしいと切に思います。できれば新学期が始まる前に。

 宮沢賢治とアジア太平洋15年戦争の間に関りはありませんが、どちらも私の「8月の記憶」です。最後に1冊の本について書きます。近ごろ本は借りると決めていますが「情報の歴史」だけは手元に置きたくて注文しました。この本の帯には「古今東西の情報の『関係線』がまるまる見える」とあり、「アルタミラから鬼滅の刃まで、ソクラテスからマトリックスまで、フランス革命から三島由紀夫まで、カバラから iPS細胞まで、蒸気機関からゲノム編集まで、ジョイスからレディーガガまで」という言葉が並んでいます。
 この本が届いた日に編集者である松岡正剛氏の訃報を知りました。このブログでとりあげた「近江ARS」(記事232記事236)の中心人物でもあります。知の巨人がまた一人去りました。その仕事の価値が十分に理解できない私でさえ心から惜しいと思います。

 このところ毎週のように更新してきたけれどそろそろ息切れ、書きたいことは山ほどあるのに文字化がうまくいきません。残暑きびしい折からゆっくり歩いて行こうと思います。皆さまもどうぞご自愛くださいますよう。




 

 
 

 

2024/08/16

245)一日市長はアリですか?

 この表題はもちろん反語で「一日市長」などアリエマセン。さる8月2日、炎上商法の石丸伸二氏が彦根市の一日市長に就任しました。先の都知事選において彦根市長の和田裕行氏が石丸氏を応援したことがきっかけだそうです。話題になるなら何でもやってのけるご両人とお見受けしました。ささいなことに目くじらをたてるな、これはシャレだ、笑って見ておけ等と仰るなかれ、実は「公」という樽の中の一個の腐ったリンゴかもしれません。

 「大津通信」という名のブログながら公共に関する考察が本来の趣旨(はるかな目標)ですから、いつぞやの東近江市長の発言(フリースクール暴論)と同じく、今回の彦根市長の行動にも言及しないわけにいきません。と言っても過去の彦根市長であった井伊氏、獅山氏、大久保氏らは何となく「人となり」が知れるのですが、3年前に就任した和田氏はあまり知りません。

 私は、以前からSNS上でよく見かける自己中心的でセンテンスの短い言葉が気になっており(遠慮なくいえば多くは不快)、大げさに言うとネット上で公私の区分が溶融しつつあるという危機感をもっています。SNSは本来的に「つぶやき」の共有・拡散サービスであり、私もブログやラインを使っていますからこれは言うのも空しい話ですけれど。ともかく今回、私は和田市長と石丸氏がネット上に発信している言葉を拾い読みしました。

 二人ともよく似ています。「愛する郷土のためにビジネスマンから市長になった」という経歴だけでなく、SNSを頼みの綱として社会に働きかけ一定の成功を収めている点が同じです。「恥を知れ」と議員を一喝する動画で名を上げた石丸氏は「悪名は無名にまさる」とうそぶき、石丸氏に市長のイスを貸した和田氏は「ユーチューブだけで市長になった男と言われている」と自己紹介しています。

 和田氏が石丸氏を城下町に招いた理由は「地元を盛り上げるため」であったそうです。私が想像するに和田氏は恐らく次のように考えたのでしょう。「石丸ちゃんは165万票とりよった、滋賀県は赤んぼ入れても140万人、これはえらいこっちゃ、ほんまにSNSで世直しが出来るど、これからも石丸を大事にせなあかん、そや一日市長かましたれ、何でも話題や、ネットにもばんばん流すでえ」

 和田・石丸氏と違って私はSNSが民主主義を劣化させる危険があると考えます。SNSのユーザーは和田氏が「オールドメディア」と呼ぶテレビや新聞を参照しません。どのメディアも手段に過ぎず、ことの真偽は私たち受け手側が判断しなければならない点では何を情報源としようが大差ないでしょう。でもこれまでも述べたようにネットは「私」をとめどなく肥大化させるツールでもあります。五輪選手に賞賛とバッシングの嵐が交互に吹き荒れたことや、石丸氏のやり玉にあがった安芸高田市の議員が殺害予告を受けたことはほんの一例です。

 自分と異なる価値観を認めることと対話することは、ともに難しいけれど社会という寄りあい所帯で共存していく合理的な手段であり、民主主義の基本的態度です。ところがSNSは政治参加への道を広げる一方でこうした民主主義マインドを蝕んでいます。これを問題と考えないどころか相手を打ち負かす格好の武器として使用しているのが石丸氏であり、それに倣おうとしているのが和田氏であるというのが私の意見です。

 彦根には陸上の桐生祥秀選手や水泳の大橋悠依選手などのスーパースターがいます。もし仮に一日市長なるイベントをやりたいなら彼らの方がふさわしいし、何より印象が爽やかです。あるいは夏休みの高校生の中から希望者をつのってもよい。彦根市の新採職員から選ぶのもありかも。石丸一日市長より百倍は良いはずです。

 しかしそもそも論から言えば、選挙で選ばれた市長という職名を市民の承諾なしに勝手に他人に貸すことは、たとえ一日の儀礼的イベントであっても適切ではありません。しかも和田市長はそれを自分の売名のために行ったと私は見ています。本人にその気がなくてもこれは公私混同です。ビジネスの論理に基づく「改革」を叫ぶ新自由主義的ポピュリスト市長(大津にもいました)がよく犯す過ちです。

 ちなみに石丸氏は本を出しています。議論術、思考、政治観を語った一冊だそうで、その名も「吾往かん」。お前は青年将校の亡霊か、お盆は済んだぞと私は心の中で言いました。恥を知れとはお前のことだと付け足しました。いやまったく、海ゆかば水づくカバネ、という軍歌が聞こえそうです。あるいはナメクジが100匹ほど這いまわっているバスタブに入ったような気持ちと言いましょうか(もちろん裸で)。

 書名はまことに雄弁です。この書名だけでも石丸氏が自分にうっとりするタイプ(臆面ない自己陶酔の人・自省のない人)であることがよく分かります。それは石丸氏の勝手だけれど、この言葉がネット上で受けると彼が判断したことが気がかりです。その判断だけは正確でしょう。こうした安手の言葉が共感を呼ぶ空間は平板でとても危なっかしいと思います。

 最後に、彦根はとてもよい町で私は好きです。何でもありの大津(これを言い出すと長くなる)と違って個性がキラリと光る城下町です。なんといっても彦根藩35万石は近江の顔、明治初期においても彦根が県内最大の町でした。県域南端の大津町に県庁が置かれなければ彦根が県庁所在地になったでしょう。明治と昭和に2回にわたり県庁移転運動もありました(1回目の時は県会がもめて内務大臣が裁定に入ったとか)。いまはひこにゃんが大活躍しています。ひこにゃんなら「1年市長」でも構いません。




 

 



2024/08/11

244)老人ノ外出ヲ禁ズ  

 赤道直下のような日本です。「不要不急の外出をするな。特に高齢者は用心せよ」とテレビに脅されながら日々桐生をさまよう私であります。それ以外の用事、例えば買い物は最小回数で済ませるし、飲食店に久しく入らず、図書館は月に2回ほど、雨あがりの増水した川を見に出かけることもありませんが桐生だけは別なのです。こんな自己都合の炎天散歩で救急隊のお世話になるわけにいきません。

 すると、私が足のマメに悩んでいた時(これも桐生がらみ)に尿素配合クリームが効くと教えてくれた若い友人が、今度は「塩飴をもって行きなさい」と言いました。なるほど。私はザックに雨具、着替え、救急セット、懐中電灯、十徳ナイフ、呼子を入れていますが、すぐ塩飴を7つ道具に加えました。汗をかきかき食べるとおいしいのです。高熱作業のような尾根歩きもこれで安心、しかも美味。

 しばらくするうち塩分補給を一歩進めたくなって、家を出る前、土俵で仕切りをする力士のように塩をなめることにしました。数日続けたあと、これはきつい、小分けにすべきだと考え、ペットボトルのお茶に塩を入れることを思いついて即実行。ボトルの小さな口からスプーンの塩を入れている時(コツがいります)、ここまでやるかと我ながら思ったら「君はゆくのか、そんなにしてまで」という歌詞が浮かびました。「君はゆくのか、あてもないのに」と続きます。

 ご存じの方もおられるでしょう、「若者たち」という歌です。桐生彷徨者への問いかけのようでもありますが、これは全体として、やむにやまれず突き進もうとする若者に対する賛歌であって、最後には「君のゆく道は希望へと続く」と予祝されます。まったく同感です。若者の未来は希望に輝いてほしいと思います。一方で私の桐生の道はどこへと続くのか。もはや問わないことが私の「老人の知恵」です。

 桐生から帰宅したある日、ポストに二つ折りの事務封筒が入っていました。その前に電話があった新聞の購読延長の書類だと思って机の上に投げおいて用事を済ませ、夕方に中を見ると敬老会の案内状でした。コミュニティセンターでの落語と音楽とお弁当。Oh my God ! 私が健康長寿課長であった時、各学区の敬老会にずいぶんご挨拶に伺いました。挨拶文は人任せにせず私なりの言葉で人生の先達への敬意と感謝を申し上げました。時はめぐります。ともかく私は欠席にマルをつけた葉書を投函しました。

 8月6日広島、9日長崎の平和祈念式典の両市長と岸田首相のスピーチを読みました。市長の言葉がまっとうであったことと、岸田氏の言葉が例によって貧弱であったことが対照的でした。公的スピーチには原稿がありますからこれは「原稿合戦」でもあります。政府は一自治体より大きなものを背負っているのだと粗末な原稿の作者および首相は思っているでしょう。ならば一層まっとうな言葉を連ねることが被爆国の政府の役割(欲せず抱えた使命)であろうと考えます。





 




早速それにいくと


す(よく効くので毎日せっせと手にもすり込んでいたら指の皮膚がふやけてしまったけれどこれは私の責任)。

 

 

2024/08/04

243)オリンピック

 宇宙に知的存在があって地球を眺めたなら、地表にハビコっている人類がさぞ不可解に見えることでしょう。異なる種を亡ぼしたり保護したり、同種内で殺しあったり助けあったり、エネルギー蕩尽のカラ騒ぎを繰り返しながら、全体では自分たちの生存環境の悪化を着実に進めつつある「不合理な生物集団」というわけです。異常気象や戦争のかたわら開かれたオリンピックについて書きますが高所からの意見ではなくささやかな不満です。

 私はかつてカール・ゴッチに心酔するプロレス少年であったし(布団の上でスープレックスを練習して首をねんざ)、その後テニス、サッカー、ラグビー観戦などを経て今は筋金入りの大相撲老人です。中年の頃はマラソンに飽き足らず70キロや100キロレースにも出ました。このとおり私はスポーツをするのも観るのも好きなのですがオリンピックだけは話が違います。この国別対抗戦が社会にもたらす「にわか愛国ムード」が気持ち悪いのです。

 先棒をかつぐのは例によってマスコミで、この時ばかりは偏向報道、感情移入、依怙贔屓、ほめ殺し、浪花節、涙の秘話、肉親情報など何でも許される(むしろ好感をもって迎え入れられる)と彼らは知っていますからアクセル全開です。この身も蓋もない演出と計算まじりの無邪気さが頂けません。先の戦争で「敗退」を「転戦」と報道したのは国家統制だったでしょうが今は主体的な確信犯です。彼らが好きな「サムライ」や「なでしこ」の言葉もセンスに欠けます。

 一方で日本の観客が日本選手を応援するのは自然だし、日本選手のパフォーマンスに一喜一憂するのも人情ですが、それにしても、頭髪にさす赤丸の小旗、手にかざす赤丸の扇、顔のペイント、殿様ちょんまげ(?)の被り物、息の合った手拍子、「ニッポン」の絶叫・連呼などは余りに過剰に思えます。もっともそれが選手の励みになっているようだし、他国も同様ですから私が文句をいうのは余計なお世話かも知れませんけれど。

 マスコミや観客の応援は、「同胞たる選手への共感」と「自国への愛着」の表現である、すなわち愛国心の発露であるとみんな言うでしょうが、私の「愛国」はもっと日常的なものです。すなわちゴミを捨てない、信号を守る、あおり運転をしない、道や席をゆずる、家族と友人を大切にする、投票する、原発について事実に即して考える、憲法を守るといった地味な事柄です。それはオリンピックと無縁です。

 ではオリンピックの応援は悪いのかと色をなして問われると、いえ祝祭に水をさす気はありません、言葉が足りませんでしたと私は気弱く謝ってしまいそうです。これは「取扱い注意」の話題ですが、熱狂はホドホドがよいと思うのです。とくに選手や関係者への賞賛と脅迫が並んでヒートアップするSNSの模様をみるとその感を深くします。これと関係してメダル競争にも疑問があります。

 子どもの幸福(よい学校を出てよい会社に入ること)は、親の経済力と愛情(子どもの運しだい)であることを「親ガチャ」と言うそうです。親にも子にも辛い言葉ですが、この伝で行くとオリンピックのメダルは「国ガチャ」であり、これは過去の国別メダル獲得数をみれば一目瞭然です。たとえばアンゴラ、コンゴ、ドミニカ、マダガスカル、バングラデシュ、パラオ、バヌアツなどの失礼ながら経済的に余り豊かでない国は出場しても表彰台に立ったことがありません。

 阿部兄妹だって「わたがしペア」だって、毎日数時間をかけて水汲みにいったり赤ちゃんや山羊の世話に追われていたらメダルを取れたはずがありません。まして現代の選手強化は金に糸目をつけず科学的知見を総動員して国家的プロジェクトとして行われます。ゆえにメダルが国力の威信となりますが、これも白ける話です。私は、とくに団体競技の場合、選手の練習環境があきらかに厳しい国を日本より応援したくなります。

 日本の選手たちは多くのものを犠牲にし人生をかけて挑んでいるだろうし、その陰に出場できなかった多くの選手がいるわけですから、そのことも忘れるわけにいきません。私は冷房のきいた部屋でテレビをみて好きなことを言っていますが、オリンピックはいつも但し書きつきです。この熱狂は日本が勝つこと、すなわち他国を打ち負かすことによって煽られます。まるで武器を持たない戦争に私たち国民が自発的に動員されているような気がするのです。

 最後に小咄をひとつ。
 大谷翔平選手が、調子のいい時はボールが止まって見えると言ったら、松山英樹選手が、それはスゴい、でもオレなんかいつでもそうだよ!と話したとか。おそまつでした。