2024/06/12

236)「別日本で、いい。」

  ~ 自分が住んでいるこの町が好きだし長い歴史や文化にも誇りを感じる。自然も豊かだ。そんじょそこいらの都市に負けはしない。しかし、この町の正体は何だろう、この町は自分にとっていったい何なのか、それを改めて自前の言葉で語ることは難しい。そこに新しい光を当てて潜んでいるはずの「更なる魅力」を引き出すことはもっと難しい。でもそれが出来たらどんなに良いだろう。きっと町の力は増し、今を生きる私たちの人生の充実にもつながるはずだ。~ 

 このように強く願った人があり、その願いが松岡正剛氏と福家俊彦氏の出会いをもたらし、輪が広がって遠近から多彩な人々が近江の地に集まりました。そして地域の歴史、文化、経済などの価値を再発見しつつ、それを梃子として日本全体を捉えなおそうという気宇壮大な文化プロジェクト「近江ARS」が始動しました(記事232「三井寺のこと」)。今回この取組がエキサイティングな本「別日本で、いい。」(松岡正剛編著、春秋社)にまとめられたのを機に少し書き足します。これはオモテ表紙からウラ表紙まで心憎い本です。

 ところで地元行政機関である大津市や滋賀県(さらに県内各市町)は、「近江ARS」の動きを大歓迎してよいと思います。これは行政が推奨してやまない「歴史・文化の活用」であり、「愛郷心の醸成」、「多様な担い手によるまちづくり」、「生涯学習の推進」、「広域交流の促進」です。現に大津市の将来都市像は「ひと、自然、歴史の線で織りなす住み続けたいまち " 大津再生 "」であり、滋賀県の都市像の一つは「歴史、文化、風土に根ざして地域の資源が保全、継承、活用され、自然共生する文化が育まれる社会」ではありませんか。

 これらは「近江ARS」が近江とふれあう接面においてもたらされる「成果」ですが、当の「ARS」はもう少し先を見ています。この本の帯にいわく、~ 近江には縄文期から続く万事万端が潜んでいます。建築、仏教美術、大津絵、信楽焼、数々の歌枕などハイカルチャーからサブカルチャーまで、いま見えなくなっている別様の日本を掘り起こし、「日本という方法」を重ねて近江の可能性を再編集していきます。(中略)近江ARSは、母なる琵琶湖の湖畔から、日本のもうひとつのスタイル「別日本」を追求します。~ 

 ついでながら、そのトップが共に「ARS」に参画しておられる園城寺(三井寺)と石山寺は、お寺の名前がそのまま周辺の町名となっています。また、大津市役所がある御陵町の名は壬申の乱に敗れた弘文天皇の陵墓がこの地にあることに因んだものだ(ろう)し、市役所前の「別所」という駅名は、ここに三井寺の別所(中心的なお寺の周辺に配置された別院)の一つがあったことによります。聖と俗、表と裏の汽水域である別所をこの本は西洋のアジールと並べて論じていますが、ともかく地名は歴史だと思います。

 さて、冒頭の人物は大津在住の企業経営者・中山雅文氏。この本の紹介文には「松岡正剛主宰のハイパーコーポレートユニバーシティ、イシス編集学校に学んだ」ことと、「乾坤一擲の人。資金もトラックも走らせる近江ARSの原動力」であることが記されています。今回はご本人のお許しを得てお名前を書きました。元市職員として「いやあ、こういう市民がおられて良かった」と嬉しく思ったことが理由です。ただし同氏の「願い」は私の推測半分ゆえ文責茂呂です(本ブログでは「有名人」や公的領域で主に活動する人を除いて個人名を出しません)。

 私には松岡正剛氏の「編集工学」をうまく説明できません。そして、古今東西の人物と書籍がひしめく豊穣、混沌の海に「編集工学」の底引き網を入れ、人類の歴史を苦もなく手繰り寄せてくる同氏の手際にただ目を瞠るばかりです。網の中で跳ねている魚のなかで、日本の思想と文化がひときわ光を放っています。この人の多数の著作の一つである「日本文化の核心」(講談社現代新書)を、私は図書館で借りたあと書店で買い直しました。松岡氏は前述の「別日本で、いい。」の中で次のように福家俊彦氏について述べています。

 ~ 福家さんはその連載エッセイ(広報誌「三井寺」:茂呂註)のなかで、本格と破格の両方(たとえばシェイクスピアと田口ランディ)を、「遠くのもの」と「呼びさまされるもの」の両方(たとえばプルーストと川久保玲)を、伝統と前衛の両方(たとえば河竹黙阿弥とベケット)を、「はちきれるもの」と「沈みこむもの」の両方(たとえばロバート・パーカーと石原吉郎)を、みごとに選び切っていた。福家さん、やるなあである。こんな坊さんがいただろうか。いや、きっと各地にいろいろいらっしゃるのだろうけれど、それが三井寺の長吏であることが、私を近江ARSの起動に走らせたのだ。~

 「ARS」の魅力的な取組の一つに仏教学者・末木文美士氏が加わる「還生(げんしょう)の会」があります。私の家は浄土宗のお寺の古い檀家ですが、私自身は仏教への理解も信仰もなく、今日まで特に不足を感じることなく生きてきました(信仰を持つ人を尊敬してしまうけれど)。そしてもしやってくれるなら私の葬儀も無宗教でお願いするつもりです。そうした事情をいったん横へおいて私は以下のように考えるのです。

 この世を見わたして頼りになりそうな宗教は差し当たり仏教かキリスト教でしょう。しかるに、キリスト教はいざ知らず、1500年にわたり日本に「住み続けて」きた仏教の現状はどうか? 「葬式仏教」という言葉が非難のように自嘲のように飛び交っています。多くの人がそれ以上を求めず、お寺の側からも教義を説く熱意が感じられません。私は仏教興隆を特に願う者ではありませんが、こうした状況は社会として「宝の持ち腐れ」だと思います。

 なぜなら仏教はわが国の政治、社会に大きな影響を与えてきたし、今なお、文芸、美術、食、建築、行事など実に多様な分野に刻印を残しています。そして現代は、紫式部が石山寺に籠ったりその父や兄が三井寺で出家した頃からとんでもなく様変わりして、私たちは産むか産まないか、リアルで行くかバーチャルで行くか、生き続けるかやめるか、人間でいるのか機械となるのかという選択を迫られる時代です。道長のように経筒を埋めたりお寺を建てて安心(?)することができません。社会において生死をめぐる思想が試され、強く求められています。だから仏教しっかりせよと言いたいのです。

 こうしたわけで私は「還生の会」に注目しています。しかし、特に行政関係の方々に申し上げるのですが、「近江ARS」や「還生の会」は宗教を論じるけれど、宗教活動とは異なる文化プロジェクトです。そして行政がこの上なく大切に考える「まちづくり」の根っ子を励起させるため、民間が自腹を切って動かしています。これを多として、三日月知事も佐藤市長も「別日本で、いい。」にエールを寄せておられます。しかし、市役所、県庁の皆さんはご存知でない方が多いでしょう。ぜひ「近江ARS」を検索してください。そこから一歩が始まるかどうかはもちろんその方次第ですけれど。

 私は、頭の下がるような市民、市民団体の存在を他にも知っています。そのうち今回はいま私に最も面白く感じられる「近江ARS」について書きました。至らない紹介ですが、こんな次第で例になく早い記事更新となりました。





 

 


 


 
 

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