12月と1月に本をもらいました。いずれもよき友人からのギフト、今回はこれらについて書きたいと思います。1冊目は日本敗戦の翌年(1946)に日本書院から発行された「宮沢賢治歌集」です。校注者の森壮已池(もりそういち)は賢治と深い親交があったよし、この人の前書きを私は証人陳述のように読みました。それにしても賢治歌集がこんな早い時期に編まれていたと知りませんでした。生前に刊行されたのは「春と修羅」、「注文の多い料理店」の2点に過ぎませんでした。
宮沢賢治が短歌を始めたのは、明治43年、14才の時とされ、歌集も同年から始まっています。その前年、彼は父に伴われ盛岡中学校の寄宿舎に入りました。
冒頭の一首「中の字の 徽章を買ふと つれだちて なまあたたかき 風に出でたり」は、青春の入り口に立った少年の昂揚を感じさせます。
次の一首「父よ父よ などて舎監の前にして かのとき銀の 時計を巻きし」は、高価な懐中時計をさりげなく相手に見せる父への直截な問いかけで、後年の父子相克を予感をはらんでいます。
この二人は、大正10年(1921)、比叡山延暦寺を訪れました。父政次郎は浄土真宗の篤信家でしたが、賢治は歎異抄や漢和対照妙法蓮華経を通じて日蓮宗を深く信仰するにいたり、父に強く改宗を迫って対立を深めます。そしてこの年の1月に無断で家を飛び出し上京、国柱会(純正日蓮主義を信奉する在家教団で今も存続)を訪ね、街頭布教や奉仕活動に明け暮れます。小切手を送り返してくる息子の心身を案じた父が4月に旅行にさそい、そろって伊勢、大津(!)、奈良を訪れたのです。
根本中堂での一首。「ねがわくは 妙法如来 正徧知 大師のみ旨 ならしめたまへ」
「妙法如来」は根本中堂の本尊である薬師如来をさし、仏陀を意味する正徧知もここでは同じく如来をさす。「大師のみ旨」は最澄が19歳で入山する際の「願文」の中の「回施して悉く皆無上菩提を得しめん」という部分をさす、と解説されています。この歌には、父に対する時のような他宗派への非妥協的な姿勢が感じられません。父と子は、親鸞と日蓮が同じ延暦寺で修行を行った歴史をそれぞれの思いで振り返ったでしょう(根本中堂横手に歌碑があります)。
「大講堂」と題された一首。
「いつくしき 五色の幡に つつまれて 大講堂ぞ ことにわびしき」
琵琶湖を望んで一首。
「みづうみは 夢の中なる 碧孔雀 まひるながらに 寂しかりけり」
賢治はこの年25才。父と分かれて東京へ戻りますが、ほどなく妹トシの病気の知らせを受け、トランク一杯の童話原稿を携え帰郷しました。歌集も大正10年で終っていますが、巻末には昭和8年9月の絶筆二首が掲げられています。享年37才。
「病(いたつき)の ゆえにもくちん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし」
「方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭り三日 そらはれわたる」
父は遺言により法華経1000部を印刷し知人に配りました。そして昭和26年(1951)、宮沢家は日蓮宗に改宗しました。
この歌集をくれたのは、戦後民主教育の熱の中で(もちろん賛辞)まっすぐに成長したような心優しき洞察の人です。いまや学校教育にも市場原理が及んでいるように思われますし、先生たちも疲れている様子です。前回記事で私は「人がもって生まれる(DNAレベルの)性格」があると書きましたが、教育の意義を軽視するものではありません。プーチンが子どもに機関銃を持たせようとするのも成算があってのはず。教育は大事であるし恐ろしいものでもありますが、ここは先へ進みます。
2冊目は「いろいろずきん」という絵本。カナダの著名な精神科医で精神医学史家でもあるエランベルジェの原作をもとに、日本が誇る精神科医 中井久夫(といっても昨年まで私はこの人を知りませんでした)が文と絵をかいて素晴らしい1冊に仕上げています。二人の関係は医学史的には先達と後継ということになるのでしょうか。 しかしこの絵本において中井久夫が翻訳者にとどまらず創作者でもあることは明らかですから、まさに2大スターの競演です。この本はみすず書房から刊行されすでに絶版となっています。
扉には「かわいいまごたちへ」という献辞があります。
~きみたちに赤ずきんの話をしたら、「赤ずきんしかいないの? 青ずきんがいないのはおかしい、もっといろいろな色のずきんがあるはずだ」といったね。そりゃそうだ。どうして気がつかなかったのだろう。そこで、いろいろな色のずきんの話をさがした。どこにあったかって? それよりも、まず、読んでくれたまえ。~
大人も心をそそられる導入です。そして黄色、白、ばら色、青、緑の5色のずきんの女の子の物語がつづられます。その詩情の豊かさに私はアンデルセンを連想しましたが、よりメタファーに富んでいるかも知れません。友人が「前思春期の子どもの成長が描かれている」とひと言で説明するとおり、これは10才から14才までの5人の子どもの冒険譚でもあります。最後に付された中井久夫の「あとがき」はそれ自体が一つの批評です。私は本文とあとがきを何度も言ったり来たりしながら絵本を味わいました。
どことなく安野光雅に通じるような絵がまたいいのです。専門家のスキルとアマチュアの無心を兼備した筆使いというべきでしょうか。昨年、私は記事194(ケアをめぐって7)で中井久夫について感動をもって述べましたが、友人は以前からよくよく知っており、中井先生にはこんな作品もあるよ、とこの絵本を私に送ってくれました。
中井久夫のあとがきも本文と同じく示唆に満ちていますが、こういう一節があります。
~このごろ生命の大切さを教えようとしていますが、自分以外の人間に心があることの発見(心の直感)のほうがもっと大切です。自分は「自分と同じおおぜいの中の一人」であり、同時に「自分以外の人間とおきかえられないかけがえのないいのちと心を持った人間」です。この二つの「人間の条件」を実感する体験が子どものときにぜったいに必要です。~
「おおぜいの一人」であると同時に「唯一無二の一人」であるということは、いやおうない事実であり、万人がめざすべき理想でもあると思います。中井久夫は「智」と「情」においてこのことを知悉した人であったと改めて思います。
また彼は、5人の子どもについてこう語っています。~どれも出発点は、大人の目から見ての「いい子」ですが、思い切った行動、けなげな行動、迷った行動、迷い入った世界での行動、そういった体験をつうじて自分を知り、大人を知って、大人になっていきます。どのずきんも、話の終わりには「いい子」にもどったように見えますが、精神的には一まわり大きくなり、自立し成長しています。~
そして、あとがきの最後を次のように締めくくっています。
~挿絵は、主に主人公の目から見たように描こうとしました。精神科医が相手の身になろうとつとめるのと同じでしょうか。~
本文中「ばらいろずきん」の末尾に「やさしい心とやり通す強い力があれば、時に奇跡が起こる」という原作者の言葉が記されています。これを読んで私は絵本を送ってくれた人と私の妻とを想起しました。年齢も経歴も違う二人でしたが、「無私にいたる大きな優しさ」と「それを源とする穏かな力」を共に持っていると私は感じていました。
ブレーキを踏む人が傍にいないのでとどまりません。友人たちに関する話は事実にまったく相違ありませんが、内向きの見方は身びいきが過ぎるかもしれません。お笑いください。しかし、家族、友人等々少なからぬ人に支えられてきたわが身を思います。
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