2023/10/24

219)小椋市長の発言

 滋賀県の不登校対策「しがの学びの保障プラン(骨子案)」を議論する首長会議の席上、東近江市の小椋正清市長が「フリースクール亡国論」をぶって各方面の批判を浴びています。確かに程度の低いお粗末な発言です。ウチの市長でなくてよかったと他市町の職員各位は安堵しているでしょう。複数の報道から察するにこれは小椋氏の持論であり周囲に賛同者もあってこの発言に至ったのでしょう。桐生の話は次に回して感想を書きます。ご存じのとおりフリースクールは不登校の子どもに対し学習活動、教育相談、体験活動などを行う民間施設です。

 発言の要旨は次の通りです。「文科省がフリースクールを容認するのは間違いだ。その姿勢は国の基本的体質のおかしさに通じる」、「大半の善良な市民は嫌がる子どもを無理にでも学校に行かせ義務教育を受けさせようと努力している」、「落ちこぼれの少数者が通うフリースクールに費用支援するのはその存在を是認することだ。その結果、無理してでも登校している子どもがフリースクールになだれ込む危険がある」

 また、会議後の報道陣の質問に対し、「教育の義務を果たそうとしない者を甘やかしてはならない」、「フリースクールは子ども食堂と同じく親の安易性が露骨に見えている」、「不登校になるのはほとんど親の責任だ」、「今は、いじめがないのに30日休んだら『重大事案』になる。いじめに近いことがあればすぐ『報告』だ、『第3者委員会』だとなる。こうした制度にも問題がある」と述べました。

 これらの言葉は小椋氏の考え方を疑問の余地なく明瞭に示しています。かつて「不登校」の子どもは「学校嫌い」や「登校拒否」と呼ばれ、その子自身の資質(弱さ、甘え、協調性の不足等)と親の姿勢(甘やかし、義務観念の欠如等)が原因であり、「立ち直って復学する」ことが目標とされました。登校を強いられ拒食症になった子どもが精神科に入院させられた例もあるようです。小椋氏の発言は当時(40~50年前)なら問題にならなかったでしょう。

 学校に行けない・行かない子ども(病気等以外の理由による年30日以上の欠席)は1970年台から全国的に増加の一途をたどり、2022年度には小中学生あわせて24万5千人に達しました。コロナ禍もあり、ここ10年で小学生は3.6倍、中学生は1.7倍の増加です(いじめ認知件数も増加)。大津市の担当課でも不登校やいじめに関する相談が激増しています。先生も疲弊していますから学校と子どもを取り巻く状況は大変きびしいものがあります。

 不登校が増え続けているのは多様な社会的要因によるでしょうが、そもそも公教育には良くも悪くも、集団の中で個人をこね上げて社会に押し込むという「鋳型機能」があります。それになじめない生徒がいるのは自然な話です。私も学校は嫌いでした。当時は表現する言葉を持ちませんでしたが、今、振り返って言うなら、子ども集団はたいてい粗野であり、無謬であるべき先生がしばしば誤りを犯しました。60年前の話ですが、現在にも通じるところがあるのではないでしょうか。

 今回調べて知りましたが、フリースクールは1980年代に不登校の子どもの親たちによって作られ、運営者の努力と子どもの行き場を求める人々に支えられ広がっていきました。こうした動きに促され、1992年に文部省が「不登校は親の育て方によらず誰にも起こりうること」であると認識を転換させます。そしてフリースクール利用を校長判断により学校への出席日に認めうるとしました。1993年にはフリースクールへの通学に際し「学割」が適用されるようになり、2001年にはフリースクール全国ネットワークができました。

 2017年に施行された教育機会均等法は、不登校の児童生徒が教育の機会を失わないようにすることを目的とし、子どもと親への情報提供など各種支援、ICTの活用、家庭訪問、別室登校、保健室登校、夜間学校の設置、専門家との連携、学校とフリースクールの連携促進などをうたいました。これらの根底には子どもの多様性を重視する姿勢があります。小椋氏の考え方はこれと根本的に対立するものです。
 もっとも教育機会均等法には、「公教育の落ちこぼれの受け皿」を確保することにより現行の体制を維持しようとする目論見もあるのでしょうが。
 
 小椋氏は、自分が「世間の多数者の間に安住している」という自覚を欠いているように見えます。世間の少数者の意見を聞くことが民主主義の基本ですから、それが即座に実現できるかどうかはさておき、その姿勢を堅持することが市長には求められます。小椋氏は、例えば在日外国人、LGBT、難病の人、障害をもつ人など比較的少数の人々の声にどのように向き合うのでしょうか。

 私が思うに小椋氏は、「すべての国民は多少の我慢をしてでも現体制を維持するべきである。少数者に理解を示してつけ上がらせると既存の秩序が壊れる。みんなが各々の義務を果たして国家を支えるべきである。義務があって初めて権利がある。フリースクールの容認は蟻の一穴になりかねない」と考えています。日本会議の発想と非常によく似ています。政府、与党の腹の底にも通じるところがありそうです。ですから小椋発言をまな板に載せるべきだと思うのです。

 東近江市教育委員会が、小椋市長の発言は誤りであるという見解を出しました。もちろんその見解は正しいのですが、教委が小椋氏と相談済みであることは明らかです。小椋氏は、市としての正当性を教委に担保させつつ、事態収拾の地ならしを企てています。ごまかしはいけません。いやしくも市長ですから自分の「思想」をあらためて明確に示すことによって責任をとるべきです。配慮が不足していた、舌足らずであった等の言い訳に逃げ込むことは許されません。
 
 県フリースクール等連絡協議会が小椋氏に面談を申し込んでいますが、「社会全体でこの問題を考える一歩としたい」というその趣旨に深く賛同するものです。小椋氏も吊るしあげられることなく意見表明ができます。小椋氏には、正々堂々(?)と自分の持論を述べて頂きたい。話し合いの結果、自分が悪かったと思えば発言を撤回、謝罪をすべきだし、そうでなければその後も、ことあるごとに自説の説明を重ねていくしかありません。最後に判断するのは市民です。

 余談ながら公教育が重要であることは言うまでもありません。大人になって周囲を見回すと良心的な先生は多いし、自分の時間を削って生徒のために尽力し健康を損なう先生も少なくありません。子どもは、学校に通って勉強することが大切だと子どもなりに理解しています。親は教育費を稼ぐために頑張っています。フリースクールにも学校にも子どもの笑顔はあります。たちまち責任を問われるべき人が見当たりません。一方で海外には、戦火や圧政のため学校に行けない多くの子どもがいます。こうした中の小椋市長の発言にいろいろ考えさせられました。






 
 

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