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2024/11/22

256)地球4大事件

 もし火星人が根気よく地球の観察日記をつけていたら人類史上の大事件として少なくとも次の4つを特記していることでしょう。以下、記載順に ① イエスと聖書の出現、② 核エネルギーの発見、③ 宇宙船の製作、④ コンピュータネットワークの創出です。何といっても火星人ですから善悪を超越して物事の大きさ(絶対値)だけを見ています。

 ① は長くなるので後に回して、② は、これ以上分割できない最小物質であると長く信じられて来た原子核を分裂させて桁外れの威力をもつ爆弾を製造し、それを同族の大量殺戮に適用したことと併せ、プルトニウムに代表される副産物の猛毒元素を貯めこんで人類滅亡のリスクをぐんと高めた点で大事件にランクインです。

 ③ の宇宙船は、いうまでもなく地球人が生息圏の外に出て活動する第一歩となる画期的な出来事です(その先に何歩まで進めるかは別にして)。「これで我らも真の宇宙人になった」と地球人が言い出したら多少は認めてやらざるを得ない、と火星人は思っているでしょう。

 ④ の「人工知能とその世界的ネットワークの創出」は、人類史の段階を一つ押し上げました。人類の知的進歩は文字の発明や印刷技術の開発によって加速したけれどAIの時代になって光速の進みようです。知のネットワークは空間的(ヨコ)に広がり、過去から未来へと時間的(タテ)にも広がっています。過去の一人の知識が人類の共有財産としてプールされ、それを利用した人が新しく獲得した知見をプールに戻す。この連鎖により知のネットワークは無限の拡大を続けています。

 ところで百年ほども昔、「ヌースフィア(精神圏)」という概念を提示して早々と地球規模の知的ネットワークの到来を予言した人物がいます。その名はテイヤール・ド・シャルダン(1881~1955)。カトリック司祭、宗教思想家、古生物学者、地質学者という難しい4足のわらじをはいた彼は北京原人の発掘調査で名をはせ、一方でアダムとイブの物語を否定してローマ教皇庁から異端者の烙印を押されました(生前は著書も出版禁止)。

 ~ ヒトの脳の容積は、アウストラピテクスの500cc、ホモエレクトスの900cc、ホモサピエンスの1300ccと200万年の間に飛躍的に増えて精神活動が質的転換(意識の爆発)をとげ、個体の進化だけでなく社会の進化が始まった。そして現代社会は全地球的に広がった相互依存的な知的活動のネットワークに包まれて存在し、その中で個人個人も生きている。~
 これが「精神圏」ですが、その先にシャルダンが見ていたものは、避けがたい地球の死と宇宙の終わりであって、そこで彼は神の存在を語っています(シャルダンについては立花隆著「サピエンスの未来」・講談社現代新書を参考にしました)。

 ここで① の「キリスト教」に戻ります。「仏陀と仏教」は人類の資産の一つに数えられる存在ですが、先に述べたとおりインパクト重視の火星人は「イエスと聖書」に軍配をあげるはずです。インドの王家に生まれた仏陀は45年間にわたり教化活動を行い80才で大往生しました。ユダヤの大工(石工とも)の子として生まれたイエスは、1年から3年ほど活動したのち30才余りで磔刑に処せられました。まことに対照的な人生です。

 仏陀は2500年前、イエスは2000年前に生き、歩き、話していた生身の人間(ホモ・サピエンスの一員)です。前者はインド人、後者はユダヤ人、いずれも傑出していたにせよ生前において仏でも神でもない只の人間でした。あれこれ本を読み、私は今頃になって「やっぱりそうだったか」と納得しています。とにかく古い話ですからその道の専門家らが現存する記録を残らず照合・分析し、論争も重ねて「これは間違いない」と大多数が一致したところが史実とされるようです。

 イエスについては、紀元1世紀のローマの歴史家タキトゥスが著した「年代記」に「ユダヤ総督ポンペオ・ピラトにより処刑されたキリスト」という記述があり、またユダヤの歴史家ヨセフスの「古代史」に「キリストと呼ばれたイエスの兄弟ヤコブ」への言及があり、さらにユダヤ経典「バビロニア・タルムード」に「イエスは過越の祭りの時に十字架にかけられた」と記されていて、これらが古くて客観的な記録とされています。

 また紀元1~2世紀にギリシア語で書かれた「新約聖書」は、イエスの弟子たち(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ、パウロなど)が、イエスにより成就した神と人間との出会いについて語った文書(福音書、使徒言行録、手紙など27巻)であり、主にイエスの言動を描いています。為にする書物だから話半分だろうと考える人がいるかも知れませんが、これもイエス実在の「証拠」です。実際に聖書を読んでみると、対象となる人物(イエス)が確かに存在していなければとても表し得ない具体性と迫真性を備えていることが分かります。

 研究者は、イエスの言葉が古代パレスチナの風土と生活に深く根ざしていることを指摘します。例えば岩だらけの土地、肥沃な土地、ぶどう園、ワイン搾り機、塔、石のフェンス、オリーブの木、雀、羊、羊飼い、魚、漁師、荒れ狂う海等々。さらには網、ボート、剣、房飾りの衣服、外套、ベッド、わらぶき屋根などの事物。これらの事物のほとんどが発掘調査により確認されていることをジェイムス・チャールズワース(プリンストン神学校聖書学教授)が著書「史的イエス」に書いています。 

 ちなみに「旧約聖書」はイエスが出現する前、すなわちキリスト教が成立するよりずっと前に、神がモーセを通してイスラエル民族と交わした契約(キリスト教徒から見ると「旧約」)に基づいて著されたユダヤ教の唯一の聖書です。イエスをキリスト(メシア)と認めていないユダヤ教徒にとっては「旧約聖書」のみが「聖書」です。一方、キリスト教は「旧約」と「新約」の2つを合わせて「聖書」としています。両宗教とも神は「ヤハウェ」です(この唯一神については改めて考えたいと思います)。

 さて世の中には、「イエスが存在したことは間違いないとしても、彼が死者を蘇らせたとか、自身が処刑三日目に復活したという話まではとても信じられない」という人が多いかも知れません。現代の科学的知性からは認めがたいというわけです。一方でクリスチャンの科学者も少なくないし、無神論者の科学者が科学を追求した果てにキリスト教に「転向」した例も複数あります。イエスの磔刑と復活のテーマはキリスト教の根本に関わってとても重要です。

 ところが火星人はこれを重要視しません。彼らは単に「イエスと聖書」が2000年にわたって人類にきわめて大きな影響(隕石衝突級のショック)を与え続け、いまも地球人の3割がキリスト教徒であるという事実を見ています。異星人の眼は、キリスト教の諸相、すなわち磔刑と復活、使徒の布教、殉教者の数々、異端審問、十字軍、宗教戦争、魔女狩り、隠れキリシタン、自己犠牲、聖人列伝、公会議、宗教芸術、民衆の祈り、隣愛・愛神の心などの一切合切をひっくるめて概観しています。私の見方も火星人寄りです。

 今回もつたない宗教談義となりました。前回の「宗教について」の続編です。付け焼刃の知識、粗雑な書き方はご覧のとおりで、信仰を持たれる方のご気分を害したならお許し下さい。でも私はキリスト教に少し惹かれています(この点が火星人と違います)。

 何かの拍子でこの記事を読んだ人が「やっぱ火星人いたんやなー」とつぶやいたら、「知らなかった? 火星人ジョーシキ」、「北朝鮮にロケット技術を教えてるらしい」、「火星語の翻訳は簡単。AI連結で15分もかからん」、「トランプがUFO情報を解禁したら火星人の顔も分かるぞ」、「彼らはマジ3頭身ですw」などと書き込む人たちが現れそうです。やがて「マース教」が生まれるかも知れません。





2024/11/18

番外)スマホ民主主義の時代

 きのう更新したばかりですが兵庫県知事選の結果をうけて少し書きます。斎藤元彦氏のパワハラ体質は同氏による「公益通報つぶし」や、県職員9700人を対象とした百条委員会の調査結果から明白であり、更に一連の同氏の発言を聞くにつけても知事にふさわしい人物ではないと私は思っていました。稲村氏を応援した22人の市長(県内29市のうち)も同じ考えだったようです。しかし兵庫の有権者の意見は違いました。

 斎藤氏を当選させたのは本人も認める通りSNSの民意でしょう。400人のSNSスタッフを駆使した斎藤陣営の作戦勝ちです。ネット上では「パワハラ疑惑はでっち上げだった」、「既得権益を守ろうとする議員や県幹部の陰謀があった」、「稲村氏は外国人参政権を認める立場だ」などの意見が飛び交いました。これに力を得たのか斎藤氏も「メディアの報道は正しかったのか?」と言い出しました。

 また対立候補であるはずの立花孝志氏が「斎藤さん、疑ってごめんなさい」と謝り、「私でなく斎藤さんに投票してください」と演説しました。これでは団体戦です。こうした動きがツボにはまったのでしょう、投票日直前の斎藤氏の誕生日(そんなもん知らんけど)には「生誕祭」と称して県外からも多数の聴衆が応援に集まりました。付近が通行止めになる人だかりでした。異例づくめの選挙戦ですが先ごろ石丸氏という前例がありました。

 SNSの言論は「どっちつかずの曖昧さ」に耐えられず、白か黒か、右か左か、愛国か売国かの二分法で議論が進みがちであるし、バランスが傾くと一気に雪崩をうちます。斎藤、石丸のように波に乗ればアイドル誕生となります。しかし現実の世界は割り切れないことで満ちていますから、ここに乖離が生じるのは当然です。だから私はSNSを全面的には信用できません。

 SNSを主たる情報源としている人(やはり若い世代が多いでしょう)から見ると「年寄りが何を言うてんねん」となるでしょう。でも乗り合わせる船は一つ。スマホをいかに使いこなすか、ワタクシの情報の受信と発信のセンスをいかに磨くか、候補者の主張をいかに解釈して投票するか、地方と国の議会と政府をいかに注視していくか等が私たちに問われています。一定の法整備(公職選挙法など)も必要でしょう。もはや「スマホ民主主義」の時代です。

 斎藤氏は波風が立たないよう今度はもっとうまくやるでしょう(資質は変わらないどころか昂進するでしょうが)。SNS推進課を新設したり、SNSによる人気投票で政策の順番を決めたりするかも知れません。兵庫県民にはまったく余計なお世話ですが、斎藤氏がパフォーマンスに走らず長い射程で判断されるよう、県職員の方々があわてて希望退職されないよう熟慮をお祈り申し上げるものです。
 
 

2024/11/17

255)宗教について

 人生の岐路はその時それと分かることもあり、後に「あれが別れ道だった」と思うこともあります。私事ですが、父が病没し残された家族が名古屋から家屋敷のある草津に移った際は、当時5歳の私も運命の変転を感じたものです(汲み取り便所の「奈落の恐怖」も忘れられません)。一方、それから十数年が過ぎ高校の同級生として妻となる人に出会えたのは草津転居の帰結ですから、まさに禍福はあざなえる縄のごとしです。彼女は故郷へUターンする両親と共に大津に来て同じ高校に通い出したのです。のっけから昔話で恐縮です。

 歴史にはもっとダイナミックな岐路が無数に存在します。仮にその時、史実と異なる第二の道を進んでいたら(プランBが採用されていたら)日本はどうなったでしょうか。例えば、もし「白村江の戦いに勝利していたら」、「元寇に負けていたら」、「本能寺の変がなかったら」、「戊辰戦争で幕府軍が勝っていたら」等々。こうした問いは無意味ですが、私は「仏教や儒教が伝来していなかったらどうだったか」想像したくなります。きっとこの国の姿と私たちの精神は大きく違っていたはずです。

 仏教は中国で漢訳されて6世紀初頭に日本に渡り、在来の神と習合しつつ支配層から民衆までを染め上げました。少し先に伝わった儒教は幕府による家臣や民衆の制御、やがて国家が国民を統合する規範に利用されました。同時にその過程で新たな思想も誕生しました。仏儒は民に幸いばかりをもたらさなかったし今はかつての存在感もありませんが、1500年にわたり様々な形で日本人の心の奥に強く働きかけてきました。

 キリスト教の伝来は安土桃山時代とされ(もっと前に景教が伝わった?)キリシタン大名も現れましたが禁令もあって広がらず、明治維新の際に再登場しました。私はこのあいだ内村鑑三を読み、武士の子であった彼がクラーク博士の教えた札幌農学校でクリスチャンとなり、「新生日本」の人材育成に大きく貢献したことに改めて感銘を受けました。「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」が米国に向け英文で書かれたことにもびっくり。私たちが読んでいるのは和訳なのです。

 日本がキリスト教国になる機会が安土桃山、明治維新、太平洋戦争敗戦時(マッカーサーの選択肢)の3回あったとされます。結局そうはならなかったしアジアにおいても日本のクリスチャンの割合は少ないけれど、それでもキリスト教が日本と日本人に与えている影響は決して小さくありません。ちなみに少数派であるためか教義によるのか分かりませんが、キリスト教の信者は仏教の信者より信仰への自覚が明瞭である気がします。

 これら外来の宗教に対する在来の神の存在も無視できません。古くからある神道は仏教と習合しながら深化しました。明治政府がこれを天皇と結びつけ国家神道に変質させたため(神道サイドもこれを歓迎したのでしょう)、敗戦でチャラになったはずの今も靖国神社の閣僚参拝にみるように過去の影を引きずっています。一方で鎮守の森は多くの人の「ふるさとの景観」であり続けお宮参りや地鎮祭も健在です。

 ここで私は「日本住民」について大雑把に話していますが、結局私たちは、良くも悪くも宗教と無縁ではあり得ないと思います。「信仰は魂に属するが、宗教は知識である。」とは池澤夏樹が「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」の冒頭に記した言葉です。確かに心と頭は別でしょう。しかしこの本を読むと、「自分にはまだ召命がない」という池澤氏自身がすでに魂のレベルでキリスト教に接していると思われます。心と頭は完全に別物ではありません。

 池澤氏の事情を全般に当てはめるのは無理があるけれど、私たちは自分で思っているほど無宗教でも無信心でもないはずです。そもそも人間に不安や苦悩はつきものだし、誰もがその軽減・解消(つまり救済)を求めるの当然であって、私たちは生まれながらに宗教と隣り合わせの存在ではないか。「宗教はアヘンだ」という非難はこれを否定的に追認した言葉だと思います。

 そういう私も若い頃は、宗教を信じるのは「自分が乗っ取られることだ」と感じていました。うちは浄土宗ですが私は今だに教義を知ろうとせず、住職さんとの交流も長く絶えています(護持料は欠かしません)。お墓は守るけれど私がその中に入るつもりもありません。しかし人生の終盤にさしかかって未来より過去の比重が大きくなったせいか、近頃は「自分がたまさか生かされている」という気持ちが強まってきました。心に受け止めてきたモノやコトの重みが閾値を超えた気もします。思えば心もとない我が身ではあります。

 一方でこれまで少数ですが信仰を持つ人を見てきました。ずっと以前、あるきっかけで京都サンガにいたブラジルのサッカー選手と親しくなりました。母国で名声を得た後の来日でしたがチームの中心選手です。敬虔なクリスチャンである彼は、病をえた身重の妻のベッドの横のパイプ椅子に大きな体を折り曲げて座り、来る日も来る日も神に祈り続けました。お腹の子も危ない状況でしたが「すべては神の思し召しだ。そのまま受け入れる」と彼は言いました。このことが記憶を去りません(この話はハッピーエンド、一家はブラジルに戻りました)。

 また最近、たまに会う若い友人がクリスチャンであると知りました。立ち入った話はしないけれど信仰がその人を支えている(よき力となっている)と私は見ています。また、高校以来の友人は真宗の僧侶です。私も昔は「やあ大僧正、景気はどうかな」などと軽口をたたいていましたが、いま彼が住職として誠実に勤めているのを見ると自然に頭が下がります。宗教と向き合っている人、信仰を持っている人が何やら床しく感じられるのです。文化プロジェクト「近江ARS」の仏教を一つの糸口とする活動にも刺激を受けています。

 こうした事情で私は宗教について以前より思いをめぐらせるようになりました。かといって救いを得たい、信仰を持ちたいと積極的に願うほどではありません。ただ、これまで思想や哲学のジャンルに入れて遠望してきた宗教について、少し近寄って個人の足場から眺めてみようという気になったのです。いま念頭にあるのは多少とも縁のある仏教とキリスト教ですが、昨年から本を読みだしたばかりで分からないことだらけです。

 そんな状態で宗教を云々することは神をも畏れぬフルマイですが、頭の混乱を整理するのに何年もかかりそうなので思い切って中途半端でも書く、と決めました(すでに「三井寺のこと」「別日本でいい」「もう苦しまなくてよい」等も書いています)。こうした次第で今後も時おり宗教をテーマに取り上げます。これはひどい、ひとつ注意してやらなければ、と思われる読者も多いはず。アドレスをご存知の向きは是非ともメールでご叱正いただきたく存じます。






 

 

 

 

 

2024/11/11

254)トランプ当選

 倫理と良識のアマルガムが服を着て二足歩行しているような人でも心の奥底に不逞な考えや破廉恥な願いを宿すことは大いにあるだろうし、人間とはそんなものでしょう。聖書はそれさえ許容しませんが(マタイ福音書5-27)、ちょっぴり大目に見てほしいと私などは思います。むしろそれより重要なのはその想念を「胸にとどめ置く」か「口に出す」かを適切に判断することであって、社会のプレーヤーの一員たる私たちのセンスが問われます。

 もちろん私はダーウィンやマルクスやフロイトのごとく時代を揺るがせるような思想の発表について語っているのではありません。人の内部で鍛えられていない考えの断片、勝手気ままな妄想、明滅する感情、制御しきれない欲望など「低次元の想念」について話しています。こうした自己表出のコントロールは何らかのストレスを伴いますから「物言わぬは腹ふくるるわざ」ともなります。忖度なし、仁義なし、遠慮なしの言いたい放題が人の喝采をうけるのもこうした事情によるでしょう。

 さてトランプが大勝しました。私はガッカリです。友人のメールを引きます。~ アメリカ大統領選には感慨深いものがあります。いわゆるリベラルは世界のマジョリティではない、リベラルを賛じていたのはその世界でこそ自己肯定も日々の生活もベターとしていた実はマイノリティであって、自身もそれに属していたとすれば、この先トランプ以前(プーチン以前、習以前)には戻らない世界でどう考えどう生きていくか難題だなあ、まあ「識者」の発言も聞きながら考えるか、死ぬまでくらいは世界は危うくとも持つだろうと、次世代への責任の考察まで思い及ばない今日の私です。~

 友人は「いわゆるリベラルが実は世界のマイノリティであった」と指摘しますが、確かにトランプの桁外れの内心表出(リベラル的価値観の否定)を多数のアメリカ人が受け入れたように見えます。すなわち公的な立場にある人間が目的意識をもって、また時に感情の爆発として、あからさまな差別的言辞、侮蔑、中傷、誹謗、虚言を吐き出すことに対する容認です。背景に貧困、宗教、移民など多様な事情があるにしても「社会が一線を踏み越えてしまった」気がします。

 そのような飛んでもない規格外の人物に「いかにして気に入ってもらうか」が石破首相の喫緊の課題であることを政府は隠そうとしません。ドラえもんの助けを借りず一人でジャイアンに立ち向かうのび太のようです。それでも石破氏は内心に抱え込んだ想念が一杯あるでしょう。それを思い切りトランプにぶちまけてはどうか。首相と大統領の権力の差は大きいけれど、虚勢でもいいから少しは勇ましいところを見せてほしいと思います。

 トランプを真似て内心を吐露してみせたのが「子宮摘出発言」の百田直樹です。騒がれてなんぼの人物ゆえ受けを狙ったはずですが程なく謝罪会見に追い込まれました。この騒動を見て「百田の『該当箇所』を切除すべきだ」とか「百田の頭に向けバキュームカーのホースを逆噴射させるべきだ」という思いを秘かに抱いた人がいたとしても私は驚きません。一方で百田と河村たかしの「へらへらコンビ」が無視できない力を持っていることも軽視できないと思います。

 内心吐露派で忘れてはならないのは麻生太郎であり、かつて彼がとても肯定的に言及したナチスが、民主的なワイマール憲法のもとで選挙によって合法的に選ばれたという歴史についても同様に忘れてはならないと思います。しかし、私たちが選挙に際して、未来の社会、私たちと次世代に資する社会の姿をどれほどイメージして投票できるかと考えると、なかなか難しいことだと思わざるをえません。

 話は変わって、たまに来る友人とお茶や食事をすることが我が生活の「句読点」で、先週はあいついで二人の訪問を受けました。まず浄土真宗の住職、次に静岡在住の医師。彼らは運動不足の現役組ですから、桐生の「お子さまコース」を完歩しただけでニコニコ満足顔でした。天狗岩を枕とする私に目には「ういやつじゃ」と映りましたが、その思いは内心に留めました。夜は持参の銘酒とおしゃべり。語り口の中に彼らの仕事と生活の堆積が感じられ、宗教談義も人生談義も聞き飽きません。お互い年をとったけれど関係は年をとらず(心は青年?)、楽しい一夜となりました。

 添付写真は二人目の友人の作(従来からそうです)で、これから数回は桐生の景色が出てきます。

 <補足>
 この記事をアップして三日たって舌足らずを反省しました(よくありますが)。これではトランプや百田の許し難い言説を「失言」のカテゴリーに括っているように見えます。より大きな問題は、彼らの粗末な頭が生み出した「思想の名に値しない社会思想が反民主主義的である」ことと、多数の人がそれを「誤りなく理解したうえで賛意を示している」ことであると私は考えます。トランプや百田には天誅を加えてやりたいけれど、言葉によって立つしかありません。

 石丸伸二が新党を立ち上げるそうです。インフルエンサーとして自信を深めているのでしょう。私には不快なニュースですが彼もまた言葉によって立とうとしているわけです。私たちが考え判断していくしかありません。今回は友人の来訪を除いて楽しくない記事となりました(人名の敬称も省略しました)。次回は宗教について書きます。



2024/11/02

253)そこまで高くていいですか

 高かろうが低かろうが本人の勝手であり他人がとやかく口を挟む問題ではない、と言われれば全くその通りですが、それでもいらざるお節介を焼きたくなります。テレビやラジオから聞こえてくる女性の声が不自然に高いのです。ニュースを読むアナウンサー、実況中継のレポーター、トーク番組のタレント、街角でマイクを向けられた若い女性その他いろいろ。

 一般的に若い女性は、不特定多数の聞き手を想定して話す場合、日常会話の声(地声)よりもずっと高い声を出すことが多いと見受けます。誰でも改まって話す時は声の調子が高くなりますがその極端な例だと言いましょうか。中には高い声が定着してしまったような女性もいます。聞きづらいねと私たちはよく話していました。ちなみに彼女は中音域の柔らかい声であったし、ふだん私が話す女性は(数少ないけれど)みんな「普通」の声の持ち主です。

 桐生の行き帰りによくNHK・FMから流れてくる「ミュージックライン」という番組で先日こんなやり取りがありました。「そこで印象に残った事なんてあったりしますかあ?」、「前に出させて頂いた時い、ナンバさんがあんまり可愛くてえ、こんな人いるんだあって思わさせて頂いてえ、もう私感激しちゃいましたあ」、「わあどうも有難うございますう」。二人とも倍速再生みたいな声の高さ。私などは「普通の声で普通に話せばいいのにい」と思います。

 そんなところに「日本人女性の声は『世界一高い』?」という記事を読みました(朝日新聞「論の芽」)。~ 海外の映画やニュースを見ていつも思うのは、女性の声の低さです。翻って日本では、細く高い声の人が多い印象です。「世界一高い」という専門家もいます。「声は社会の産物」と指摘する音声認知の専門家、山﨑広子さんにその意味を聞きました。 ~と前置きにあります。

 山﨑広子さんの論旨は以下の通りです。
 ~ 日本人女性の話す声は確かに世界で最も高音の部類だ。身長160㎝ほどの成人女性なら地声は220~260ヘルツ(ピアノの真ん中のラ~ドあたり)が自然だが、多くの日本人女性は300~350ヘルツ、場合により1オクターブ上の声を出している。これはほぼ裏声だ。本来もっと低いはずの人まで何故そんなに甲高い、喉をしぼった発声をするのか。それは社会が、もっとはっきり言えば男性が、それを暗黙裡に求めているからだ。

 高い声は生物の共通認識として「体が小さい」ことを表す。子どもにみる通りだ。つまり高い声は未熟、弱い、可愛い、保護対象などのイメージと結びつく。日本の女性は、そう自分を見せねばと無意識に刷り込まれてきたといえる。ジェンダーギャップの小さい国の女性の声は明らかに低い。日本でも「キャリアウーマン」の語がはやったバブル期に女性の声がぐっと下がった。声は、心身の状態だけでなく価値観や生き方まで映す「その人そのもの」といってよい存在だ。~

 この意見を別の角度から見ると「日本は甲高い声が女性の魅力として通用する国である」ことになります。同感せざるを得ません。多くの女性にとって不愉快、少数の男性にとっても無念の指摘であろうと思います。ついでながら若い女性がよく見せる身のこなし、例えばセーターの袖の中に手を引っ込めて「ダブダブ感」を表すこと、両手をひらひらさせて友人に親愛の情を示すこと、長い髪を捌くように頭を振ること等も同種の「サイン」であると意地悪ジイサンの私は思います。

 昔といってもつい20世紀まで、中国には纏足(てんそく)という奇習がありました。私はじかに知りませんが金子光晴がリアルに文字にしています。少女の足を包帯でぐるぐる巻きにして成長を止め、歩行能力を著しく制限された女性とその小さな足とを男たちが性的に愛でたという胸の悪くなる風習です。日本女性の不自然な声の高さは、目に見えないスマートな纏足であるとは言い過ぎでしょうか。

 もともと日本には可愛いものや小さなものを愛でる文化があります。清少納言は、瓜に書いた稚児の顔、雀の子、ゴミをつまんで大人に見せる幼児、ひな人形、小さな蓮の葉や葵などを列挙したうえ「何も何も小さきものはみなうつくし」と断じました。「うつくし」とは「可愛らしい」の意です。利休は四畳半の茶室を三畳、二畳と縮めてついに1畳半の空間に籠りました。一寸法師、盆栽、トランジスタラジオもその系譜にあると言えます。

 こうした伏流が新たなニュアンスを帯びて前面に出てきたのがここ30~40年程の「可愛い」という誉め言葉の隆盛であると思います。その「担い手」は男性から動物や無生物にまで及びますが主役はやはり「若い女性」です。そしてその内かなり多数が、意識的にか無意識的にか「甲高い声」によって可愛らしさを演じているというのが現状ではないでしょうか。

 「おんなこども」という失礼千万な呼称を発明した男は愚かです。天に唾を吐くようなものです。女と男は天秤の左右二つの皿です。ここは丁寧に書かなければなりません。セクシャリティが女性と男性の二分法でなく、事実としてもっと多様であるし、理念としてもっと自由であるべきだというのが今日の社会の共通理解です(現に私の息子夫婦も授かった子らの命名に際し、将来その子が異なる性を自認する場合も考慮して名前の文字と音を選びました)。

 ですから男女というより「性的な区別によって比較・対置される複数群」と言うべきですが、ここは私(女性である伴侶を得た男性の一人)の実感に引きつけて書たいと思います。日本は「女性差別国」として国連から注意されるほどの国ぶりで、これは女性ばかりでなく男性(女性以外の性)にも不幸なことだと思います。女性が生き生きと輝いていなければ男性もそのように存在できません。両者は見合った存在です。

 「甲高い声を絞る女性」と「それを可愛らしいと思う男性」の「相思相愛」は、長期にわたって当人である女性と男性に幸いをもたらし続けると思えません。「無理をする側」と「無理を強いる側」の関係はいずれ破綻します。これは社会構造的な問題ですが、考える手がかりは個人の内部にもあるはずです。纏足の包帯を女性も男性も引きちぎるべきだと思います。少なくともテレビの甲高い声はやめて欲しいところです。