歴史にはもっとダイナミックな岐路が無数に存在します。仮にその時、史実と異なる第二の道を進んでいたら(プランBが採用されていたら)日本はどうなったでしょうか。例えば、もし「白村江の戦いに勝利していたら」、「元寇に負けていたら」、「本能寺の変がなかったら」、「戊辰戦争で幕府軍が勝っていたら」等々。こうした問いは無意味ですが、私は「仏教や儒教が伝来していなかったらどうだったか」想像したくなります。きっとこの国の姿と私たちの精神は大きく違っていたはずです。
仏教は中国で漢訳されて6世紀初頭に日本に渡り、在来の神と習合しつつ支配層から民衆までを染め上げました。少し先に伝わった儒教は幕府による家臣や民衆の制御、やがて国家が国民を統合する規範に利用されました。同時にその過程で新たな思想も誕生しました。仏儒は民に幸いばかりをもたらさなかったし今はかつての存在感もありませんが、1500年にわたり様々な形で日本人の心の奥に強く働きかけてきました。
キリスト教の伝来は安土桃山時代とされ(もっと前に景教が伝わった?)キリシタン大名も現れましたが禁令もあって広がらず、明治維新の際に再登場しました。私はこのあいだ内村鑑三を読み、武士の子であった彼がクラーク博士の教えた札幌農学校でクリスチャンとなり、「新生日本」の人材育成に大きく貢献したことに改めて感銘を受けました。「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」が米国に向け英文で書かれたことにもびっくり。私たちが読んでいるのは和訳なのです。
日本がキリスト教国になる機会が安土桃山、明治維新、太平洋戦争敗戦時(マッカーサーの選択肢)の3回あったとされます。結局そうはならなかったしアジアにおいても日本のクリスチャンの割合は少ないけれど、それでもキリスト教が日本と日本人に与えている影響は決して小さくありません。ちなみに少数派であるためか教義によるのか分かりませんが、キリスト教の信者は仏教の信者より信仰への自覚が明瞭である気がします。
これら外来の宗教に対する在来の神の存在も無視できません。古くからある神道は仏教と習合しながら深化しました。明治政府がこれを天皇と結びつけ国家神道に変質させたため(神道サイドもこれを歓迎したのでしょう)、敗戦でチャラになったはずの今も靖国神社の閣僚参拝にみるように過去の影を引きずっています。一方で鎮守の森は多くの人の「ふるさとの景観」であり続けお宮参りや地鎮祭も健在です。
ここで私は「日本住民」について大雑把に話していますが、結局私たちは、良くも悪くも宗教と無縁ではあり得ないと思います。「信仰は魂に属するが、宗教は知識である。」とは池澤夏樹が「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」の冒頭に記した言葉です。確かに心と頭は別でしょう。しかしこの本を読むと、「自分にはまだ召命がない」という池澤氏自身がすでに魂のレベルでキリスト教に接していると思われます。心と頭は完全に別物ではありません。
池澤氏の事情を全般に当てはめるのは無理があるけれど、私たちは自分で思っているほど無宗教でも無信心でもないはずです。そもそも人間に不安や苦悩はつきものだし、誰もがその軽減・解消(つまり救済)を求めるの当然であって、私たちは生まれながらに宗教と隣り合わせの存在ではないか。「宗教はアヘンだ」という非難はこれを否定的に追認した言葉だと思います。
そういう私も若い頃は、宗教を信じるのは「自分が乗っ取られることだ」と感じていました。うちは浄土宗ですが私は今だに教義を知ろうとせず、住職さんとの交流も長く絶えています(護持料は欠かしません)。お墓は守るけれど私がその中に入るつもりもありません。しかし人生の終盤にさしかかって未来より過去の比重が大きくなったせいか、近頃は「自分がたまさか生かされている」という気持ちが強まってきました。心に受け止めてきたモノやコトの重みが閾値を超えた気もします。思えば心もとない我が身ではあります。
一方でこれまで少数ですが信仰を持つ人を見てきました。ずっと以前、あるきっかけで京都サンガにいたブラジルのサッカー選手と親しくなりました。母国で名声を得た後の来日でしたがチームの中心選手です。敬虔なクリスチャンである彼は、病をえた身重の妻のベッドの横のパイプ椅子に大きな体を折り曲げて座り、来る日も来る日も神に祈り続けました。お腹の子も危ない状況でしたが「すべては神の思し召しだ。そのまま受け入れる」と彼は言いました。このことが記憶を去りません(この話はハッピーエンド、一家はブラジルに戻りました)。
また最近、たまに会う若い友人がクリスチャンであると知りました。立ち入った話はしないけれど信仰がその人を支えている(よき力となっている)と私は見ています。また、高校以来の友人は真宗の僧侶です。私も昔は「やあ大僧正、景気はどうかな」などと軽口をたたいていましたが、いま彼が住職として誠実に勤めているのを見ると自然に頭が下がります。宗教と向き合っている人、信仰を持っている人が何やら床しく感じられるのです。文化プロジェクト「近江ARS」の仏教を一つの糸口とする活動にも刺激を受けています。
こうした事情で私は宗教について以前より思いをめぐらせるようになりました。かといって救いを得たい、信仰を持ちたいと積極的に願うほどではありません。ただ、これまで思想や哲学のジャンルに入れて遠望してきた宗教について、少し近寄って個人の足場から眺めてみようという気になったのです。いま念頭にあるのは多少とも縁のある仏教とキリスト教ですが、昨年から本を読みだしたばかりで分からないことだらけです。
そんな状態で宗教を云々することは神をも畏れぬフルマイですが、頭の混乱を整理するのに何年もかかりそうなので思い切って中途半端でも書く、と決めました(すでに「三井寺のこと」、「別日本でいい」、「もう苦しまなくてよい」等も書いています)。こうした次第で今後も時おり宗教をテーマに取り上げます。これはひどい、ひとつ注意してやらなければ、と思われる読者も多いはず。アドレスをご存知の向きは是非ともメールでご叱正いただきたく存じます。
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