2024/09/21

248)「もう苦しまなくてよい」

  池澤夏樹がこう書いています。~ 信仰は魂に属するが宗教は知識である。あるいは、自分の信仰は言うまでもなく自分の魂の問題だが、他人の信仰はそうでないと考えるべきか。魂は余りに個的であって、その内奥は推し量りがたい。(中略)若い時からずっと、ぼくは宗教に強い関心を持ってきたが、その関心はついに哲学の範囲にとどまって信仰に到達しなかった。ぼくの側に準備と努力が足りないのか、あるいは上天から声が掛かるのを待っている他ないものなのか。

 この問い方はすでにキリスト教の範疇に属する。上からの声とはいわゆる召命だろう。いくつもの宗教を覗いてきたが、それらは啓示宗教とそれ以外にはっきり分かれている。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が啓示の宗教であり、それ以外はそれ以外だ。この3つは歴然と他と異なっている。(この後、池澤は、フランスで暮らす間にキリスト教が「人が生きる現場」において機能する場面を多く見たことや自身の祖父母らが伝道師であったことにふれ、次のように続けます)。

 こういうことが重なって、ぼくをキリスト教の方へ促す。しかしことは今もって知識の範囲、知的・哲学的関心の範囲に留まっている。召命はまだない。ではその関心にそってもう少し探求を進めてみよう。(次いでユダヤ・キリスト・イスラム教について述べ)すべての源泉は聖書だ。旧約と新約。古い約束と新しい約束。神と人間の契約。こういうことについて一定の知識を得てはじめて、世界の正しき姿が見えるだろう。まずは知的関心に沿ってことを進めるべく、ぼくは碩学・秋吉輝雄の門を敲いた。 ~

 以上が池澤夏樹の著作(秋吉輝雄との対話集)「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」(小学館文庫)の前書き抜粋であり、私がキリスト教に抱いている気持ちを千倍ほど高く深くすると、不遜ながらこの前書きの趣旨に近づく気がします。秋吉輝雄は聖書(新共同訳)の執筆も分担した比較宗教学の研究者であり、池澤夏樹は「素人代表」を楽し気に演じながら案内上手の腕前を発揮しています。まことに面白い一冊(本体700円プラス税)。「これを読んで更によい説法をせよ」とある寺の住職をけしかけました。高校の友人なので遠慮いりません。

 ところで唯一絶対の存在の教えるところに基づく啓示宗教たるキリスト教と、「目覚めた人」である仏陀の教えに導かれ一般衆生も仏になりうると説く仏教はまことに好対照です。宗教の大本が「人の苦悩とそこからの脱却」であるなら、キリスト教と仏教は「登山ルート」が違うだけの話なのでしょうか。いやそんな単純な話ではないでしょう。神と神々の違い、契約と念仏の違い、審判と浄土の違いなどは異なる地平にあるかに見えます。ともあれ私は人生の終盤になってようやく宗教(仏教もさることながらキリスト教)に目が向くようになってきました。

 理由は幾つかあって、ある機会に若い友人が幼少期からクリスチャンであると知ったこともその一つです。その人に接していると「人となり」と信仰とが無関係であると思えない、しからばキリストの教えとはどのようなものだろうと思ったわけです。この友人は教会の説話の動画をみてごらん、色んな考えがあるよと言いました。その提案に従ってみると、語られる神と人との「距離の近さ」が私に新鮮です。

 この流れで遠藤周作を読みなおし、カトリシズムが彼の骨格であったことを改めて知りました。「沈黙」はもちろんですが随筆のたぐい、例えばキリスト教を身に合わない服に例えた「合わない洋服」も率直平明な述懐です。そしてどの著作であったか、ガリラヤ湖畔を訪れたイエスが、指から血がもれる病気に長年悩んでいた女性を救った挿話が印象に残りました。彼女は人混みにもまれ、逡巡しながらイエスの衣の端にふれます。イエスは振り返って彼女を見て言います。「もう苦しまなくてよい」。

 この話はマルコ伝、マタイ伝、ルカ伝にそれぞれ少しの差異をもって記されています。女性は12年もの長きにわたって出血の病気に悩み、治療に財産を使い果たし、最後の望みを抱いてイエスに近づきます。そして思わず背後から手を伸ばして衣にふれたものの恐ろしくなり、震えて地面にひれ伏しました。イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず元気に暮らしなさい。」と言いました。宿痾は本当に治ったのです。

 聖書(新共同訳)には「もう苦しまなくてよい。」と書かれていません。これは遠藤周作が親しんだであろうフランス語やラテン語の聖書からの翻訳でしょうか。あるいは遠藤の意訳でしょうか。私には不明ですが何やら「遠藤訳」のイエスの言葉の方がしっくりきます。イエスに病気を治してくれと頼んだ人は何人もいます。キリスト教では現世利益をどう評価するか知りませんが、イエスはそれらの望みを叶えました。病苦に限りません。「もう苦しまなくてよい。」という言葉は胸に迫ります。

 話は変わって、かくも無残な虐殺を続けるイスラエルに対し、欧米諸国があれほど弱腰なのはなぜか。どうやらアウシュビッツの記憶だけではありません。2000年を超えるユダヤへの排斥と、神に選ばれたイスラエルに対する畏怖の念がごっちゃになって諸政府の手足を縛っているようです(これまた付け焼刃の聖書の知識。内田樹「私家版・ユダヤ文化論」も齧じりました)。

 幸か不幸か日本はこうした事情に一切関係がありません。かつてアジア諸国に非道を働いた日本もユダヤに関してはイノセント(のはず)です。そしてNATOの一員でもありません(政府は「名誉会員」になりたがっているけれど)。誇るべき平和憲法もあります。こうした立場を生かし、日本が独自の仲介役を果たすことは十分に可能です。ロシアとの関係はもっと複雑であるにしても同じことが言えます。

 まっさかりの自民党総裁選。候補者たちはしょせん汚れた「いけす」の中の魚だ、私たちはもっと広い海に目を転じて有権者たる責務を果たそうではないかという趣旨を高橋純子氏が述べていました(8月24日朝日新聞「多事奏論」)。まったく同感です。しかし一方、みんなこんなに愛想のよい人々だったのか、と思わせるような「肉声」を各候補者があげています。財源なき夢物語はよして、わが国はイスラエルやロシアにどう働きかけるかについても語るべきであると思います。







 

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