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2025/01/21

263)縄文人になった人

 復元されたその石斧をみて私はすぐにオカシイと思いました。木の枝に穴を開け、そこに磨いた二等辺三角形の石を頂点から突っ込んだだけの細工です。これでは勢いよく斧を振り上げた際、石の自重で刃の部分がすっぽ抜けるに違いありません(慣性の法則で)。ところがT君は「いやこれで合ってるよ。たしか本で読んだ」と言います。彼は博識ですが、なぜそんな事まで知っているのか。昨年11月、琵琶湖博物館での出来事です。

 T君はこのブログの写真の提供者でもある古い友人です。彼との出会いは前に書いたけれど、私が高校で親しくなったM君(他県からやって来たとても生意気な転校生)の前住地における友人がT君であった縁によります。「友人の友人はアルカイダ」なのは鳩山元法相だけでT君は紳士です。浜名湖の大ウナギ(白焼き・かば焼きの2種)と銘酒を持って静岡から泊まりに来てくれるとても良い人なのです。この時には白猫ブランにマタタビのお土産までくれました。

 折から天声人語(鷲田清一)が「小田嶋隆の友達論」の一節を取り上げていました。「友だちは友だちだ。でも、友だちの友だちは友だちではない。そこに線を引かなければいけない」。確かにこれも真理ですがそれはさておき。T君と私は初日に桐生を散策し、翌日に彼の提案で琵琶湖博物館に出かけました。入り口に「65歳以上の県内居住者は無料」と掲示があり、その恩恵に初めて浴することとなった私は、数年間ここに来ていないと気づきました。

 受付の女性に免許証を見せ、友人も同い年ですが静岡県民は有料ですか、と余計なことを尋ねてみたら、「はい、遠くからありがとうございます」と軽くいなされました。うまいこと言わはる。ロケーションも展示もよいこの博物館が私は好きです(水槽の修理は終わっていなかったけれど)。博物館、動物園などに一家言をもつT君も満足そうでした。そんな中で冒頭のやりとりがありました。

 草津駅で握手して別れて数日たって、「ぼくは縄文大工 ~石斧でつくる丸木舟と小屋~ 」(雨宮国広著・平凡社)という本がT君から送られてきました。読み飛ばした後は御地でのルールに従い廃棄されるもよし、と周到なメモが入っていたけれどもちろん保存版です。著者は1969年生まれ。丸太の皮むきのアルバイトをきっかけに大工となり、古民家や社寺の修復に従事して先人の手仕事に感銘をうけて人生が変わった人です。

 雨宮氏はやがて石斧と出会い、深く魅せられて研究・製作・使用を重ねてとうとう「石斧の達人」になりました。すると考古学者がほうっておきません。大学や博物館から次々にお呼びがかかり、能登の真脇遺跡の縄文住居の復元(資材、道具、工法など当時のままに行う実証実験)や、日本人のルーツをたどる「3万年前の航海 ~ 徹底再現プロジェクト」での丸木舟の製作などに腕をふるいました(丸木舟は台湾から与那国島への渡航にみごと成功。バルサ材の筏で8000キロの海を漂ったコンティキ号を思い出します)。

 でもこの人の凄いところはそれからです。雨宮氏はこうした経験を通して古代人が持っていた「人間本来の能力」の高さに驚く一方、現代の私たちがその能力をほとんど失っていることに危機感を覚えました。しかしそれは文明進歩の道理です。ではどうするか。とりあえず自分が「縄文人」になろうと彼は決意しました。自然に抱かれてつつましく暮らしていた1万年前の生活をガチンコで実践しよう、そこから見えてくる大切なものがあるはずだし、人に伝えることもできるだろうというわけです。

 雨宮氏は自宅の庭に3畳ほどの縄文小屋を建てて家族との「敷地内別居」を開始、靴を捨て毛皮をまとい、クルミやどんぐりを蒸し、車にひかれたタヌキやイノシシの皮を黒曜石のナイフではいで肉を食べるという生活を始めます。室内に風呂もトイレもなく、土間に広げた新聞紙の上で用を足して長さをヒモで計測し、あとは小屋の周りに埋めます(計測は食べ物による変化を観察するため。最長記録は一本が65㎝だそうです)。歯磨きには囲炉裏の灰を使用、髪の毛とひげは伸ばし放題の徹底ぶり。

 この生活を続けるうち(本書出版は3年目)、雨宮氏のひどい冷え症がなおって視力も回復し、全身の細胞がよみがえったような感覚が生じたそうです。また主食の木の実が「腹持ち」も良いうえ優れたエネルギー源であることが分かったとか(もちろんスーパーで買ったものも食べている)。なんともぶっ飛んだお方ですが、雨宮氏の主張は自然破壊のうえに成り立つ文明生活の根本的な見直しであって、まさに正論です。

 ところでもう2年あまり前、母の在宅介護にあたって訪問介護・看護のサービスを受けたことがあります(193・ケアをめぐって6)。その時に大変お世話になった看護師さんは制度のワクを超えて思う存分に仕事をしたいと考え(親切で真っ直ぐな人ゆえ)、ついに自分で事業所「一緒におでかけナースレンジャー」を作ってしまいました。その人が「縄文人」を絶賛したのです。私も話した甲斐があったけれど、彼女は「志を持つ実践者」として共感を抱いたのでしょう。T君の手元を離れた1冊の本はすでに私を含め2人の賛同者を得ました。

 この話には前段があって、昨年、映画「拳と祈り」を見た際、朝日会館の中にお洒落な海外調味料店を見つけました。スーパーハズイを主戦場とする私が尊敬をいだくようなお店。アヅマなら笑顔になる場所。思わずイチジクのバルサミコ酢を買いました(ミツカン酢なら10本のお値段)。鴨ロースにあうと説明書にあったので鴨を探してレシピどおり低温調理しました。マッチングはいかに。私は客観的な声を求めて「ナースレンジャー」さんに試食をお願いしました。その時に「縄文人」の話をしたのです。彼女の評価は鴨ロース100点、縄文人200点。

 これを知ったT君から「次回はその『縄文女性』にイノシシの蒸し肉のドングリまぶしをご馳走してさし上げるのがよかろう。」とメールがありました。言うは簡単、行うは困難な提案です。食材が桐生にいることは知っていますが、じっとしていません。私の武器は唐辛子スプレー1本。目的達成にはよほどの時間と幸運を味方につけなければなりません。そこでとりあえず私は足跡の探索を始めることにしました。年内の捕獲を目ざします。

 話を戻します。石斧には幾つもの種類があって、冒頭のような簡素なタイプも実際にあったことをこの本で知りました。柄となる木の「ねばり」が石の刃をがっちりホールドするようです。加えて、石斧はとてもゆったりした動作で使用されたものと思われます(時計のない時代です)。雨宮氏は「石斧は人間と同様に疲れるから回復させながら使うことが大切だ」と言っています。まさに人間と自然との交感です。これはチェーンソーに当てはまりません。

 雨宮氏の言うとおり便利さは人間をスポイルします。いまクラッチのある車を運転できる人は少ないでしょう。ライト、ワイパーどころかブレーキやハンドルさえ自動です。スマホがなければ通信も買い物も移動もできません。しかもこれらの「元締め」は少数の巨大な営利企業です。怖い話です。そのサービス(外部化された私的領域)がダウンした時にどうなるか、資源と環境をどこまで持続させることができるかという2点において、この便利さは大きなリスクと背中あわせです。

 私も手足がひどく冷えて困ります。若い頃、熱いお風呂と冷水シャワーの「温冷健康法」を実践したことがあり、その時は真冬でも半袖Tシャツ一枚で平気でした(初めて出会った金時鐘さんから「あなたは何か願かけでもしているのか?」と聞かれたほど)。今それをやったらそれこそ年寄りの冷や水です。「個人の身体性の回復」と「社会の自然性の回復」は深い所でつながっているとは思いつつ、私は足温器に頼っています。

 米国で大統領が就任しました。「表現と選択の自由」の結果が大きなブーメランとなりアメリカ大陸と世界に戻ってきました。何といえばよいか、「お互いさま」の社会を維持していくために一般の人が心の中に育てている「遠慮」をかなぐり捨て、醜い自我をさらけ出すことが「正しさ」であり「力」であるとトランプが示しました(個人レベルでも国家レベルでも)。縄文時代と現代とどちらが真っ当な世の中であるか考えざるを得ません。

 2晩寝て2つ追記します。
 新たに聞いたT君の話では、7300年前に一部の縄文人(先進的な九州のグループ)は絶滅したそうです。鹿児島の喜界カルデラで史上最大級の噴火(火山灰の色から「アカホヤ噴火」と呼ばれる)が起きたためとか。1000年たって暮らしがよみがえった時には、縄文土器の様式が5000年ほど古くなっていた(退行し先祖返りしていた)ことが明らかになっています。恐ろしくも切ない話です。

 「ナースレンジャー」のMさんの了解を得て同事業所のホームページに飛べるようにしました。中身は看護師による「福祉車両+同行支援+生活支援」等々であり、地域包括ケアの推進に役立つと私は期待しています。「下町商店街育ちのおせっかい」を焼きたいとMさんは書いており、開業は2月1日だそうです。

 



 


2025/01/13

262)裏金講演会(参加報告)

  前回記事の続きで自民党の裏金を告発した上脇博之教授の講演会の感想を少し書きます。フェリエ南草津の会場は130人の定員に220人が入って立ち見がでる盛況でした。しかし、と続けると語弊があるけれど、ほぼ全員が私と同年配か年長と思しき人々。若者にとっては休日も忙しく、そもそも講演会などまどろっこしいかも知れません。新たな問題が次々とが起こる中で裏金問題が後景に退いた感覚もあるでしょう。自らがかくあるべしと考えることのために体を張っている人の肉声を聞くチャンスであったのに、、、

 いつもと同じバンダナ姿の上脇博之氏は温かい拍手で迎えられ、開口一番、教壇に立っても拍手はこない、これだけでもう自分は満足だが講演料をもらうまで帰れない、と皆を笑わせてから詳細な資料にもとづいて大きな声で話を始めました。すでに報道された事柄がメインですが、やはり「当事者の語り」には熱と力があります。ごく一部をご紹介します(私流に要約しています)。

・裏金事件の解明はひとえに「しんぶん赤旗」の努力に負うものだ。全国に58000の政治団体がある。総務省のホームページと各地域の選挙管理委員会の公表データを照合し、これらの中から「記載されていない数字をあぶりだす」作業は恐るべき根気と粘り強さがいる。「赤旗」の記者魂に敬意を表したい。しかし「分かった範囲でこれだけ」という面もある。

・「赤旗」のスクープと上脇氏による刑事告発(清和政策研究会の政治資金規正法違反容疑)が2022年11月に行われたが、一年後(2023年12月)の朝日新聞の報道をきっかけとして国民が広く知る大事件となった。私(上脇氏)も民主主義にとって情報がいかに大切であるかを痛感した。

・自民各会派は一斉に収支報告書(2020年~2022年分)を訂正したが、訂正額が当初記載額を上回るところが多かった。すなわち「裏金」の方が多いということ。その大半は議員にキックバックされていたが裏金プールに残る金銭もある。またこれらの「訂正」がどこまで正確かどうかは問題が残る。なお2023年分は今後明らかとなる。

・個人の収支を偽っていた「裏金議員」は自民党自身の調査で85人(馳浩石川県知事など5名を含まず)いるが誰も責任をとっていない。直接の法的責任を負うのは会計責任者だが、形式論で済む話ではない。特に「起訴猶予」となったケースは「不起訴」と異なり犯罪事実が明らかであり、関係議員らが知らぬ顔であるのは許しがたい(世耕、萩生田、三谷えり子、宏池会、志帥会等々)。

・自民党の受け取る政党交付金は160億~170億円ほどで収入全体の7割である。原資は税金だから、まるで「国営政党」だ。しかも同党は毎年のように政党交付金を上まわる金額を翌年に繰り越している。カネに色はつかないけれど当該年度の政党交付金は手つかずの状態、すなわち不要であったとも言える。

・内閣官房報償費(機密費)は会計検査院すら領収書のチェックができない公金(税金)であり、年間12億のうち9割は官房長官が自由に使用している(最高裁2018年判決による一部開示の結果で判明)。これは政治資金とは別の「政府のカネ」だが、自民党のために使用されている疑惑がある。

・調査研究広報滞在費(旧文通費)は事実上第2の議員報酬となっているが、年間1200万の使途の報告義務がない点が問題である。

・国民のための真の政治改革が必要。政治資金パーティーの禁止(企業献金は贈収賄に他ならない)、高額のオンライン講演会の禁止、政党が行う公職の候補者への寄付の禁止、機密費の透明化(機密度に応じ将来の使途報告を義務化する)、旧文通費の使途基準を定め報告を義務化する。あわせて衆院小選挙区選挙、参院選挙区選挙の改革により民意を歪めずに反映させることが重要である。

 以上は講演からの抜粋で以下は私の感想です。
 上脇氏は昨年の 「car of the year」ならぬ「person of the year」だと思います。ひょっとして自分の偏りをパワーに変えるタイプの人かと想像していましたが、それとまったく異なる「普通人」であると知りました。それどころか学問と実践を切り分ける研究者が多い中、生活の場においてその統合を目ざす人でもあります。

 「出る杭は打たれるというけれど何らかの妨害はありましたか?」という会場からの率直な質問に答え、「弁護士からの注意に基づきホームの先頭で電車を待たないようにしているが、これまで特に圧力を受けるようなことは無かった」とのこと。おそらくそれは話半分で、不愉快な思いも多くあるはずだと私は思いましたが、深刻な様子ではなかったことは幸いでした。

 好きな著書を問われ、「あえていえば椎名鱗三の『生きる意味』です」との答えでした。私の知らない本ですが、著者は共産党からの「転向」を余儀なくされた人で戦後から1960年代にかけて輝いていました。クリスチャンにもなりました。人生の経験を重ねて信仰に至る人とそうでない人の違いはどこで生まれるのかというのが私の疑問ですがこれは余談です。

 私はこのような場でよく質問をします。この日も「上脇さんを動かしているものは何ですか?」という質問が浮かんだのですが控えました。それを聞いてどうする、結局は自分の問題だろうと思い直したわけです。質問のための質問はだめよとアヅマに言われていたことも頭をよぎりました。

 パネルディスカッションには立憲民主、共産党、社民党の県連代表者が加わりましたが、話の内容(情勢分析と運動方針)はもっともながら、「話し方」に魅力がありませんでした。前も似たことを書きましたが(131「届く声を持つということ」)、言葉が身体から出ていないためどこか空疎なのです。私は十年一日という言葉を思い出しました。時間の制約もありパネラー相互のやりとりがなかったことも残念(そんな例はほとんどありませんが)。

 偉そうな言い方をしましたが、しかし全体として悪くないディスカッションでした。立民関係者から「嘉田さんと斎藤さんが維新に行き、皆さんの支援を裏切ることとなって申し訳なかった」との謝罪の弁も出ました。票が第一という立民の姿勢が問題だけれど何といっても相手が悪い。嘉田さんは名うての「泳ぎ上手」です。ビワマスの友人なら「嘉田には魚道がいらん。滝でも登りよる」と言うでしょう。議員もいいけれどイトマンのスイミングコーチの方が向いていると私は思います。

 最後にひと言を求められて上脇教授いわく。~ まだ裏金問題は終わっていません。これからも告発を続けます。告発は誰にでもできます。無理をする必要はないがあきらめてはならない。いまより良くなるんだと信じて自分に可能なことをする。それが明るい未来につながる。それを信じることが大切だと思う。主権者として発言すること。ともにやりましょう。~

 私がさそった友人と2年ぶりに講演会場で会いました。彼女は「あざみ日和」というブログを書いており、おたがいブログを通して相手の健在を確認するような状況でした。顔をみて安心しました。私にとって「おまけ付き」の講演会の報告は以上です。

 一晩ねて思い出したことを追加します。
 講演会の最後に主催者挨拶があり、まだその後に若い男性(会場できびきび動いていた人)が司会の紹介をうけマイクを握りました。「政治が大企業に誘導され弱者に光が当たらない。一方で何十億何百億の税金がムダになっている。その分を授業料の無償化や若者の就職支援、こども医療などに回してくれたらどんなに助かるか。」という趣旨のことを彼は言い、ひときわ大きな拍手が起こりました。







 

 




 

2025/01/12

261)裏金講演会(本日開催)

 自民党の研修会ではありません。昨年、バンダナの鉢巻をキリリと締めて金権政治の沼に大石を放り込んだ神戸学院大学教授・上脇博之氏の講演会が本日(1月12日)14時から「フェリエ南草津」で開催されます。演題は「自民党『裏金』事件 民主主義をあきらめないで」、立民県連代表らとのシンポジウムあり。主催は市民団体「平和・民主・革新の日本をめざす滋賀の会」、入場無料、参加申し込み不要。

 あまりに直前ですがいま思いついてのご案内です。私は桐生散策をよしてこれを聞きに行こうと思います。感想はあとで書くとしていったん記事をアップします。





2025/01/06

260)おめでたくない?

 おめでとう、と言っていられない人のために今年も頑張ると山本太郎氏が言いました。その言やよし。経団連の新年会場では政財界のお偉方が満面の笑みで祝杯を上げていますが、巷には年金支給日を指折り数えて待つ人、子どもの塾をやめさせる人、仮設住宅から出られない人などが大勢います。政権が自らを利する層すなわち社会の勝ち組を重視するのは世の習いであり、それを糺すところに野党の存在意義があります。その面で今は好機、各野党が本来業務に励まれることを期待します。

 昨年は能登の地震で始まりました。発生確率が低いと予測された地域で大地震が起きたこと、珠洲原発が建設に至らなかったこと、志賀原発が運転休止中であったこと等を忘れてはなりません。1年が過ぎて被災地に日常が戻らないことは政府の責任も大きいけれど、「破壊の規模」と「復旧復興の能力」の差があまりに大きい現実があります。ここに核汚染が加わっていたらどうなったでしょう。それでも原発回帰を強める政府。「国を愛せ」という彼らの好きな言葉をそのまま返したいところです。

 昨年はSNSが社会の前面に躍り出た年でもありました。石丸伸二氏や斎藤元彦氏はどれほど好意的に考えても首長や政治家にふさわしい人物ではないけれど(完全不適格者)、SNSを駆使した選挙で驚くほどの支持を集めました。この現象を「オールドメディア対 SNS」の構図で捉える見方に頷きます。既存と新参、権威と自由、陰謀と真実の争いだとも言います。トランプ氏は二大政党の対立を梃子としてこれを最大限に利用しました。

 欧米や日本などの「民主主義社会」は、自由な個人が客観的な事実に基いて議論し行動することにより「公共空間」を形成することを目ざしてきたはずです。こうした原点を考えるとSNSはその社会の申し子のようなツールであり、特に「同時中継性」は戒厳令にすぐさま立ち上がった韓国の人々に見るように市民の武器となり得ます。それがどうして石丸、斎藤、トランプのような有害な人物を利することとなったのか。

 選挙を離れた日常生活にもSNSの黒い影は差しています。ネトウヨ、闇バイト、子どもの性被害、いじめ、被害者への中傷、人種差別、デジタルタトゥー等々。オーストラリアでは16才未満の子どものSNS使用を禁止する法案が可決されました。民主主義の原理の否定とも言えるこの措置を私は大いにアリだと受け止めました。飲酒制限と一緒です。それにしても何故ここまで来てしまったのでしょうか。

 SNSはカオスです。空間的に寝室やリビングが駅前広場とつながって更に海を越え、身体的には頭も心も下着の中も一緒くた、物事の真実と虚偽の見分けがつかず、しかも皆が競って拡大再生産に励んで情報量は爆発的に増加しています。加えてAIの跋扈。デジタルの地球とも言うべき情報プラットフォームが僅かな私企業に独占されていることも怖い話です。その無料サービスを利用している私の個人情報は筒抜けだろうし、「胴元」は広告宣伝を通じて文化への関与を強めています。社会と政治がSNSに引っ掻き回され「公」が溶融しています。

 私は過渡期の人間としてアナログとデジタルを併置して眺めざるを得ませんが、SNSワールドに生まれ育つ若い世代の見る景色はまったく違うでしょう。そんな人々が大多数を占めたら「社会」や「人間」に対する考え方も大きく変わるはずです。あまり良い方向に変わる気が私はしませんが、しかしこれは、個人の自由と幸福を追い求めてきた社会の進歩発展の果実でもあります。

 私たちの社会が求める価値が間違っていたのか、求める方法に妥当性を欠いたのか、いやこれでよい万事OKなのかよく分かりませんが、もはやSNSを抜きに「公」を考えることが出来なくなったことは確かです。ギリシャに直接民主制なるものがあったそうですが、私はそれにあてどない郷愁を覚えます。

 年賀状を一切やめて何年か過ぎましたが今も年賀状を下さる昔の仲間があり、その度に心の中で手をあわせてお詫びとお礼を申し上げています。60才を機に市役所をやめるという人が複数いました。ええ?若手だったのにと驚くけれど私が72才!ですから無理もありません。就職した頃、「なに茂呂くん昭和27年生まれか、何と若いなあ、わしらが年とるはずや」と言われたことを思い出します。何だか年寄りの繰り言めいてきました。

 前回記事の最後に今後「ユダヤ人」について考えたいと書きました。イエスキリストも彼を裁いたのも共にユダヤ人でした(実行者はローマ人)。キリスト教がユダヤ教のうちに胚胎した経緯もあります。ずっと以前には「日本人とユダヤ人」という本が売れました。先日、私の友人は「僕なあ、世界史を教えてたけど『ユダヤ人』て今も説明できん」と言いました。私もまったく一緒で、内田樹の「私家版・ユダヤ文化論」に目を瞠ったけれど本を閉じてわが身に残るものがありません。万事がこんな調子です。今年もボツボツ書いていきます。