2024/12/26

259)「風土」を読む

 日本の神は、数え切れないほど存在しているという一事をもっても自らの絶対性を放棄しているようで、キリスト教やユダヤ教の唯一神「ヤハウェ」に比べて迫力や厳格性に乏しく感じられます。だから日本の神は有難味がないとは言いません。むしろ私はそこらじゅうにオワシマス神々に親しみを覚えるし、世界的にも複数の神が存在する地域が多いと聞きます。とすればパレスチナにおいては原始的なアニミズムの段階を経て神がただ一人に絞られて行き、遂にガチンコの「契約神」となったのでしょうか。

 「ところ変われば神変わる」とすれば「神が世界を創造した」という教義に抵触しますが一つお許しを頂くとして、自然と文明の間に深い関係があることを認めない人はいないでしょう。そこで和辻哲郎氏の登場です。彼は1935年に著した「風土」において風土と人間の関りを独自の視点で説明した上、それを「モンスーン」、「砂漠」、「牧場」の3類型に分類して鮮やかな風土論を展開しました。別の本でこれを知った私は先日「風土」を買いました。岩波文庫1,100円+税。

 「風土」の文章は格調高く中身は深遠ですが、およそ次のような話です。
<風土の定義>
・風土とは、その土地の気候、気象、地質、地形、景観などの総称で人間を取り巻く環境や自然全般をさす。
・ものごと(客体)は実体的に存在するのではなく、私(主体)との関係の中で生じる。人間にとっての「風土」もそうである。
・また私を取り巻くすべてのものは風土との関りにおいて生まれている。衣食住だけでなく工芸、美術、宗教、風習などあらゆるものの中に「風土」が見いだせる。

<モンスーン型(湿潤ワールド)>
・日本が属するモンスーン(季節風)地帯の特徴は「暑熱」と「湿潤」であり、動植物には好適な環境である(動植物資源は豊富)。
・しかし繰り返し襲う大雨、暴風、洪水、旱魃などの圧倒的な力の前に人間は受容的、忍従的にならざるをえない。

<砂漠型(乾燥ワールド)>
・西アジアを中心とする砂漠地帯の特徴は「乾燥」である。水は与えられるものではなく、自然の脅威と闘いつつ探し求めるものである。
・限られた草地や泉も争いの種となり人間同士の闘いも避けがたい。人と世界は闘争関係にあり、人は自然の中に生でなく死を見る。
・一方で人は団結しなければ生き伸びられず、社会集団への服従と忠誠が不可欠である。ゆえに人は、戦闘的かつ服従的であり、社会的、歴史的な存在でもある。

<牧場型(牧草ワールド)>
・ヨーロッパの緑ゆたかな風土は「牧草」に象徴される。夏は乾季、冬は雨季だが、砂漠やモンスーンよりずっと温和であり、大雨、洪水、暴風が少ない。
・夏の乾燥下では雑草が育たず、農作業の負担はモンスーン地帯より格段に少ない。土地が人間に従順である。
・そこで人は自然をコントロールする術を編み出し自然科学が発達することとなった(それがさらなる自然の馴化を促す)。

 以上が「風土」のごく一部の概要です。「だから日本は八百万の神でパレスチナは一人の神だ」とまで和辻哲郎は言っていませんが、私はそのように受け止めました。神ではないけれど砂漠の絶対的リーダーに預言者モーセがいます。彼はイスラエルの民を導き40年も荒野を旅して約束の地に達しました(出エジプト記)。

 この手の英雄は日本に見当たりません。アマテラス、スサノオ、ヤマトタケル等もタイプが違います。これも風土と結びつけて考えたくなります。仏教は多神的(というか多仏的)ですが、これまたインドモンスーンと無縁ではない気がするのです。もちろん宗教が風土のみにより決定されるものではないことは言うまでもありません。

 この「風土」を読む上で次のように注意を促している人があります。
重要なのは、和辻の風土に関する記述の真偽ではありません。これらはあくまでも、「人間存在の構造的契機」としての風土が、実際にどういう形で人間の形成に関わっているかの例示であり、和辻に学ぶべきはその内容(結果)ではなく、方法論(過程)です。そこを見落とすと、本書の重要性は半減するだけでなく、多くの誤解(悪しき決定論、全体主義の擁護など)を生むことになってしまいます。~

 これはインターネット上の「コテンto名著」というサイトの「管理人」氏の言葉です。私には「風土」が難解で、他の人の解釈を知りたくなり本サイトに行き当たりました。「ねながら学べる古典と名著のエッセンス」という副題にひかれて中を見たら何と豪華なラインナップ。古くはソクラテスからデカルトからカントまで、ダーウィンにマルクスにニーチェ、さてはフロム、サルトル、カミュ、フーコー、日本では西田幾多郎、鈴木大拙から柄谷行人まで。その他多数。

 お名前だけは私も存じております、というような人々の著作や思想が目白押しで「簡単バージョン」までついています。この管理人氏が大変な碩学であることは疑いありませんが、有難いことにその知識を広く共有しよう(先人の知を公共財として活用しよう)との考えをお持ちのようです。サイト末尾には、書かれた内容が原典からの抜き書きや抄訳ではなく管理人氏の解釈に基づいていることと、校正なしで投稿しているため誤りもあるとの断り書きがあります。私はさっそく「お気に入り」に登録させて頂きました。

 サイトからの引用は常識的な範囲で認める旨が記されていますが、念のため管理人氏にメールで了解をお願いしてこの記事を書きました。「コテンto名著」には「ビジネス」や「人生問題」という付録があり、コスパ・タイパ、親ガチャ、自己責任、オバケなど面白い話題が自在に語られています。

 ところでロジャー・パルバースが四方田犬彦との対談(「こんにちは、ユダヤ人です」河出ブックス)の中で、「日本には風土という言葉があるがユダヤ人には『風』しかない。『土』がないのだ。ユダヤ人は『風』にのって生きている民族だ」という趣旨の発言をしています。なるほどそうでしょう。でも乾ききった砂漠からさえ追い払われた民族が世界の歴史の中で特別の存在感を放っています(たとえばノーベル受賞者、優れた思想家や芸術家、成功した実業家などの「出現率」の圧倒的な高さ。あるいは周囲の非ユダヤ人の間に呼び起こす賛嘆と軽侮の混ざった複雑な感情)。それはなぜか。こんな事も考えていきたいと思っています。

 引用ばかりの記事となりました。今年の最終投稿です。ご覧いただきありがとうございました。留保なしに「よいお年を」と言いたいものですが、皆さまにはせめてお風邪など召されませぬよう。来年も細々と書いていきます。






 

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