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2025/02/21

266)金時鐘講演会(続き)

 金時鐘講演会「済州四・三事件犠牲者慰霊祭に思うこと」の続きですが、これがメインディッシュです。2月8日の東成区民センター6階ホール。大きな拍手に迎えられて登場した詩人は、客席に向かってずらりと並んだ若者の中央に着座し、一呼吸おいて静かに話し始めました。まず取り上げたのは時鐘さんが毎朝聞くというラジオ番組。1月14日の放送によると「66年前の今日」は南極犬タロ・ジロの生存が確認された日であったそうです。

 若い人はご存じないでしょう。かつて日本の南極観測隊は、犬ぞりに使役していたカラフト犬15頭を昭和基地に残したまま帰国したのです。カラフト犬は暑さに弱いので赤道を越えるには専用の冷蔵庫がいる、船にはそのスペースがない、氷が海面をおおう前に出航するには犬を安楽死させる時間がないといった理由があったようです(すべて予見可能なはずですが)。

 15頭は野犬化を防ぐために鎖でつながれ極寒のなか当分の餌と共に放置されました。一年が過ぎ昭和基地に戻った部隊が生き残っていたタロとジロを発見します。それが1959年1月14日のこと。そばに7頭の死体があり、首輪だけ残る6頭は脱出したのか仲間に喰われたのか不明のままです(時鐘さんは「共食いだった」と見ています)。衰弱していたタロとジロは隊員に「お手」をし、新聞は「かしこい犬」と書きたてました。この奇跡の生存劇に日本中が感動にわき、さなかにいた時鐘さんは「息が詰まった」と語りました。

 いともやすやすと感動になだれをうつ日本人よ、それでよいのか、犬を死地に追いこんだのはそもそも誰であったか。カラフトから極地に連れていかれ、重いそりを曳き、主人とあおぐ隊員に去られ、わけの分からぬまま鎖につながれ放置された『物を言わない』犬たちの『あがき』や『もがき』にどうして日本の人たちの思いは及ばないのか。自分の生理が反発するものをなぜ置き去りにするのか、と時鐘さんは言います。
 
 以下は私見ですが、時鐘さんが問う「日本あげての感動」は想像力の乏しさに由来し、「きずな」や「ふれあい」を留保なく受け入れる私たちの心性と地続きです。さらに言えば多数になびく個のありよう、弱い者に強く、強いものに弱い卑小な根性、よく考えずに賛同する軽薄さ等々。これらは私自身から敷衍した「日本人らしさ」です。もちろん私は日本人代表ではないし国民を一括りにもできません。しかしこのような「日本人らしさ」が存在しており、時鐘さんはそれに言及しているのだと思います(しかし私は惑星探査機が帰還したといって泣くタイプではありませんが)。

 その日本人が同胞(すなわち在日朝鮮人)に向ける眼差しは「差別」ではなく「蔑視」だと時鐘さんは指摘します。上下の区分である以上に蔑みであるとの意味です。そして「いまだに祖国の統一を果たしていない自分たちは責められるべき存在かもしれない。しかしそれを日本からどうこう言われることはない」と述べ、「それにしてもお互いに尊敬しあう関係を結べないものだろうか」と結びました。

 ついで時鐘さんは、1929年1月17日生まれの自分は、尊敬する李陸史(イ・ユクサ)先生の命日である1月16日を越えなければ自身の誕生日に行きつけない、これが毎年のことだと言います。抗日独立の運動家・詩人であった李陸史は、自分の囚人番号「264」の読みをペンネームとして活躍し、何度も逮捕されついに獄死しました。一か月後の2月16日は尹東柱(ユンドンジュ)の命日で、彼は朝鮮語で詩を書いたために逮捕され福岡刑務所で獄死しました(獄死が虐殺であったことは小林多喜二と同じです)。

 時鐘さんによると、尹東柱の家族が刑務所から受け取った通知には「期限までに引き取りに来なければ遺体は解剖用に九州大学に提供する」とあったそうです。自分の人生に重なる日付けの記憶によせて時鐘さんは二人の詩人にふれ(思わず絶句する場面もあった)、「私は日本が憎い。日本は大好きであるが憎い」と言葉をつぎました。日本人は折り目正しい、行きずりのことに優しい、深く交わらない、やすやすと感動する、日本軍の所業を知って知らないふりをする、とも言いました。

 このあたりから話は四・三事件に移りますが、概要は不十分ながら前編のとおりです。事件のさなかに身を置いた時鐘さんは「強いられた死のむごさ」を具体的に語りました。それは身の毛がよだつほどの醜悪な腐乱死体である、蛆が日に映えて黄金のしっぽをくねらせている、臭気は耐えがたい、自分は日本に来て長いが今でも眠りにつくと惨殺体の映像にしばしば脅かされる。これらの死体は果たして犠牲者か。

 犠牲者とはもともと大義名分に殉じることを指す言葉であり、さもなくば人の力の遠く及ばない地震、津波、洪水など天災による死者たちに当てはまる言葉である。あの虐殺は人為そのものであった。そのどこに大義があったか。逃れることもできず恐怖のうちに殺された人は無念を抱えて蛆に喰われた。これらの人々を「犠牲者」と呼び敬虔な気持ちにひたることが私たちに許されるか。

 いま私は、当日のメモと配布資料(金時鐘・「敬虔に振り返るな」)を参照しており、「すべて時鐘さんの発言どおり」ではないけれど大体は再現できていると思います。犠牲者とは?との問いに私は宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」を思い出しました。飢饉を回避するには火山を噴火させ、噴煙で気候を変えるしかない。しかし噴火を仕掛ける最後の一人は島を脱出できない。その役目をブドリは買って出ました。時鐘さんのいう「犠牲」にふさわしいあり方です。思えば宮沢賢治自身も自己犠牲の人でした。

 時鐘さんは次のように締めくくりました。~ 記憶は薄らいでいく。四・三慰霊祭は済州でも日本でも行われ、年と共に死者への敬虔な気持ちだけがつのっていく。しかし、何によって死者は死ぬことになったか。どのように死んでいったか。その『実態像』を思い描くことを怠ってはならない。済州島5万の無辜の死者を、身ぎれいなかたちで、神聖なかたちで祭ってはならない。私たちが抱えている犠牲者は腐りに腐って、近づくこともできないほど醜い肉体を晒して息絶えた浮かばれない死者たちである。私にはその犠牲者たちを敬虔に祈ることができない。~

 休憩をはさんだ第2部は、若者と時鐘さんのトークイベントでした。若者は「済州四・三を考える会・大阪」のメンバー30人で、年に一度は済州島に出かけ、月に一度の学習会を開いています(もちろん「金時鐘」も読んでいる)。そのうち5人がそれぞれ選んだ時鐘さんの詩を朗読し、感想をのべ、ご本人に質問するというスタイルで私は引き込まれました。若い人々は、そこらの大学の先生のように自分を賢く見せようとする邪念がないし、何より言葉が新鮮です。

 残念ながら朗読された詩も詩人とのやりとりもここに書き切れません。質問のほんの一部ですが「作中人物が居場所をさがしているのは詩人が在日コリアンとして自らの居場所を探してきたことの反映か?」、「故郷を意味する言葉が何種類も出てくるが、その使い分けの意図は何か?」、「背後をふりかえれないとはどういう意味なのか?」などが印象に残りました。

 詩人の答えのうち、在日同胞のよって来たった年月への思い、一世に強く見られた回帰思想、在所の生活臭への執着、時鐘さん自身の少年期に染みついた済州島の言葉や食べ物、身体で受け継いでいる衣食住すなわち文化、などの言葉を私は記憶しています。全体をふりかえってみると、人はさておきまず自分が想像することの大切さを時鐘さんは説き、それは若者によく通じたし、そんな若者に共感する客席にもよく伝わったと思います。

 在日コリアンが済州四・三事件を語ることは、自分のアイデンティティにじかに触れることであろうし、長い歴史のなかで朝鮮(さらには中国)から文物の豊かな恵みを受け、近代に入って恩を仇で返した日本人にとっても他人事ではない話です。こうした物言いを自虐的だと批判する人も日本人の中にいますが、私はこれを客観的な見方であると思っています。

 アヅマが「松明をうけとる」という言い方をよくしていました。直接には、むのたけじ氏の「たいまつ新聞」に喚起された言葉でしたが、彼女の社会を見る眼と心のありようをよく示していたと思います。バトンやタスキは渡した後に「手ぶら」になりますが、松明の火は先行走者も次の走者も共にかかげることができます。隣の人に分けることも可能です。この講演会において時鐘さんは、壇上の若い人々と客席の聴衆とに松明を渡されたのだろうと私は思いました。

<四日後の追記>

 記事を読んでくれた二人の友人のコメントをうけ少し追記します。二人とも長年、文学と共にある人で、女性史研究者のAさん(「裏金講演会」で一緒だった人)、時鐘さんにとても近い詩人Bさん(「金時鐘講演会」で一緒だった人)です。

 Aさんのメールには、『恩を仇で返した日本人』の一人という自覚とともに生きてきた、自分の小さな松明を誰かに受け取ってもらうべく努めているとありました(この人の松明は決して小さくありませんが)。また、在籍していた北海道大学の付属植物園でお散歩中のタロ(もしくはジロ)を何度か見た。初夏で、抜けた毛のかたまりが体にくっついていたとも書かれていました。ちょいといい話です。もう1頭もきっと安楽な余生を送ったのでしょう。

 Bさんとは電話で話しました。記事中の「アヅマ」の意味を問われたので私は、ヤマトタケルの妻恋の嘆きである「吾妻はや」を踏まえていると説明しました(大きく出ましたが)。分かる人には分かるだろうし、分からない人に分かるよう書くのは野暮ですからあえて注釈なしに使ってきた心深くからの言葉です。今その野暮なことを書きました。

 またBさんから、第2部の若い人々の言動をもっと書けばよかったのにという感想をもらいました。確かにそれをしっかり書いてこそ「松明」も輝くのですが、私の文章はとかく長くなるので端折ってしまいました。いま少し足しておこうと思います。

 若者はもう在日3世か4世ぐらいにあたるでしょう。韓国からの留学生もいたし、日本人も混じっていたと後で聞きました(四・三事件をメインテーマとする開かれた学習グループのようです)。詩の朗読には大きなスクリーンにハングルの字幕が映され、韓国語による朗読(美しい朗読でした)には日本語が添えられました。その他さまざまな資料も示され、心のこもった周到な準備によって充実したトークタイムとなりました。

 前回も書きましたが、若者らは時鐘さんの本をよく読んでおり、また時鐘さんにむける眼差しと言葉からその親愛の情がよく分かるのです。それが講演会をさらに忘れがたいものにしました。時鐘さんが若者に伝えたかったのは、朝鮮半島にルーツをもって日本で暮らしている事実を歴史の中でとらえること、とくに四・三事件や朝鮮戦争の実態を知ること、自分たちをとりまく(自分たちも共有しているかもしれない)集団的な感情を相対的に眺めてみることであったと私は思います。「慰霊祭についてもその上で考えてごらん」と先達は後輩に言っているかのようです。

 しかし、こうした視点はどこの国籍の所有者にも必要であろうと思います。その上で握手や抱擁をしたいものです。いやいや誠に言うは易し、行うは難しでありますが。やはり長い追記になりました。





 
 
 

 



に急かされ

の状況が張りかけ時間がなかった

昭和基地を引き上げる際に犬ぞり用のカラフト犬15頭を放置してきたのです。、船に積めないため

(そりを引かせていた)を鎖につないだまま置き去りに

2025/02/18

265)金時鐘講演会(四・三事件をめぐって)

   2月8日、大阪の東成区民センターで開かれた金時鐘講演会「済州四・三事件犠牲者慰霊祭に思うこと」について書きます。これは、在日コリアンを中心とする大阪の若者ら約30人が、敬慕する先達である96才の詩人を書斎から担ぎ出し、自分たちも一緒にステージに上がって思うまま意見を述べる場でした。かたや孫のような若者に囲まれた詩人は、歴史の証人として、また類のない日本語の表現者として胸に蓄えてきた思いを若者と聴衆に語りかけた場でもありました。参加してよかったと私は思いました。

 済州島でなぜ同族間の大量虐殺が起きたか、40年も過ぎて「慰霊祭」が開始されたのはなぜか、それが日本でも行われる意味は何か等を考える上でも、まず「事件」の経過をふり返っておきます。ちなみに殺された人は政府見解では約3万とされ、研究者は5、6万人と推定しています。罹災者は10万人以上、被害地域は130の集落で島全体の3分の2におよび、親戚や知人を頼って日本(中でも大阪)に逃れた人が4万人ほどと言われます。

 1945年の日本敗戦後、朝鮮半島は38度線を境に米国とソ連に分割占領され、南の沖合に浮かぶ済州島は米軍統治下に入りました。米ソは「朝鮮全土を治める朝鮮人民臨時政府の樹立を認める。ただし5年間は英・中を加えた4大国が信託統治を行う」と合意しました。朝鮮人民は置いてけぼりの火事場泥棒みたいな決定です(ならば日本は放火犯ですが)。この合意はすぐに決裂して暫定的な分割占領が恒久的な南北分断に向かいます。

 1946年、ソ連支配下の北では金日成が「北朝鮮臨時人民委員会」を組織し「民主基地路線」の全土拡大に乗り出しました。すなわち社会主義による南北統一ですから米国や南部の民族主義者には容認できません。1948年、米国は南だけの総選挙の実施を企てますが、これは国土分断の固定化につながります。こうした米ソの思惑、人民勢力の争い、日本統治時代の下請け人(戦後に民族反逆者と指弾された旧軍、警察、右翼ら)の復権の動きが錯綜するなか、人々は「信託統治」と「単独選挙」の踏み絵の前に立たされました。

 信託統治は「解放」を待ちわびた人々の感情を逆なでするものであったはずですが、皮肉にもその間は祖国分断が回避(先のばし)されます。米ソ決裂によりその実現性が薄らいでいるところに単独選挙を行い南政府を作ってしまうと分断が決定的となります。一方で北は、金日成がソ連軍を後ろ盾に土地改革(小作農に土地をあたえる)を行うなど社会主義の国づくりを進めています。南の左派勢力の中に、米国や右派とは協力をせず、北の「民主基地」と呼応して統一をめざす動きが生じたと時鐘さんは指摘しています。

 38度線はかつて日本の関東軍と大本営の区分線であったため米ソの「折り合い線」に採用されました。国土の真ん中に線を引かれた朝鮮の人々には断絶であり、乗り越える希求の対象でもあった38度線。これを東にのばすと海を越えて新潟に達します。金時鐘さんは初期の長編詩集「新潟」の冒頭に「切り立つ緯度の崖よ わが証の錨をたぐれ!」と書きつけました。それはさておき。

 米軍政は統一と自由を求める民衆運動を力づくで押さえ込みます。モグラたたきのように鎮圧をくり返すうち、1947年の三・一記念節に参加した済州島民に警察が発砲して6人が死亡しました(これは日本統治下の1919年3月1日に行われた「三・一独立運動」の記念日。ここにも日本の爪あとが残っています)。これを機に米軍と島の左派勢力の対立が激化し、「赤狩り」に名をかりた警察や右翼による住民への暴力が苛烈をきわめました。

 ついに1948年4月3日、単独選挙に反対する済州島の住民の一部が武装蜂起しました。本土からは国防警備隊が「討伐」に駆けつけ、ついで韓国軍(第九連隊)が加わって村に火を放つ焦土化作戦を展開します。力の差は圧倒的ゆえ「蜂起側」には地の利を生かしたゲリラ作戦しかなかったでしょう。彼らは「山部隊」と称し、島の中央にそびえる漢拏山を本拠地として抵抗を続けました。ベトナム戦争を想起します。

 「討伐」は朝鮮戦争をまたいで6年にわたって続けられ、1954年、漢拏山の禁足令解除をもって終わりましたが、この間に多くの住民が文字どおり惨殺されました。討伐隊には誰が敵か判別しにくかったろうし、島じゅうが血縁と地縁で結ばれています。拷問、凌辱、なぶり殺し、公開処刑もありました。殺された人の9割は軍、警察、右翼によるものとされていますが、ゲリラ側による残虐行為もあったことが分かっています。

 金時鐘さんがじかに目撃した討伐隊の行為は、たとえば数人の手首を針金でつないで海につき落とす(つながれたまま岸辺に打ちあげられる)、首を括ってずらりと吊り下げておく(胴体は腐って落下し、宙づりの頭部の眼窩に尻尾の長いウジがわく)、耳や鼻をそぐ、腹をさく(時鐘さんの知る人は腸を引きずったまま生垣まで走った)、銃撃された人の脳が目の前のガラス戸に飛び散った(次に時鐘さんも撃たれるところだった)等々です。講演の内容や私が過去に伺った話をあえて記しました。

 これほどの殺りくを李承晩は「共産暴動」の鎮圧であったとして省みず、島民も多くを語らなかったので(生存者ゆえの罪悪感もあったでしょう)、四・三事件は長く闇の中に置かれました。民主化が進んだ1990年ごろから世間の関心が高まり、2003年には盧武鉉大統領が国家権力の誤りであったと公式に謝罪しました。ついで文在寅大統領も真相解明と犠牲者の名誉回復は後退させないと決意をのべました。こうした流れで韓国「慰霊祭」が行われ、いまは日本でも開催されています。

 済州島にルーツをもつ金石範は、四・三事件の場にいあわせなかったことの無念さを創作のバネとしてこの事件について書き続けてきました。南朝鮮労働党の一員としてこの蜂起に直接かかわった金時鐘(当時19才)は命からがら日本に逃れ、詩人として名を成してからも事件を語りませんでした。もちろん二人には長年の交流があって、1996年、時鐘さんは四・三慰霊祭の場ではじめて自身の体験を語りました。2001年には二人の対談が本になりました。書名は「金石範 なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか 金時鐘」・平凡社。今回の記事を書くにあたり主としてこの本を参考にしました。

 さて、講演会で時鐘さんは、何をもって「犠牲者」とするのか、「慰霊」とはどういうことかと問いかけ、さらには自分が日本にいだく愛と憎しみの感情や日本人について思うことを明瞭に述べました。公の場でここまで踏み込んだ発言をされるのは知るかぎり初めてです。ああ、これは若い人々に向けておっしゃっているなと私は思いました。ここからいよいよ本題ですが長くなりすぎたので区切りを入れます。後編はこれから考えますが、ぜひ両方ともお読みいただきたく思います。






2025/02/07

番外)明け方にトイレに起きる方へ

 「21世紀日本の『公』を考えます」と大見得を切っておきながらこんな記事を書くのはさすがにアウトだろう、しかしこれまでから脱線すれすれだ、そういえば「笑って許して」という歌があったな、和田アキ子だったか(昔はよかったがもう身を引けばいいのに)、今回は一つ「許して路線」で行くか等と考えながら番外編を書くことにしました。私くらいの年齢の方のお役に立つことが万一あれば幸いです。

 私はもとはアヅマもうらやむ「安眠人間」でしたが今は睡眠薬が欠かせません。山歩きも晩酌増量も効果がないけれど、お風呂で温まり「ゾルビデム」を一錠のんで布団に入ると何とか眠りにつけます。ところが朝まで寝ることはまず無理で大抵トイレに起きるのです(トイレを必死に探しまわる夢もよく見ます)。時計を見ると3時とか4時。後はもう眠れません。これも齢だ、仕方ないと諦めていた私です。ところがある日のこと。

 身体のある部位の筋力をきたえることによって過敏な尿意を抑制できるという記事を見ました(私がよくやり玉にあげるネット情報です)。その記事をマイルドに表現すると ~ 人には大小二つの「出口」があるが、その周囲に出口の開閉に関与している括約筋がある。これを収縮させる(あたかも門を鎖すように力をこめる)、ついで緩めるという筋トレを行う。くり返すことにより筋力が増し結果として尿意が軽減される ~との説明です。「筋力」と「尿量」は関係がないけれど「蛇口を固くする」ことが決め手のようです。

 さっそく私はこの筋トレをやりました。失敗して損はありません。腕立て伏せやスクワットと勝手が違うけれど、トイレで温水シャワーを使用している時や無念無想でベッドで横たわっている時に相手の「存在」は感知できます。こちらが欲すれば随意筋のサガで素直に応えてくれます。いったんコツを飲み込んだら歩いてもよし座ってもよし。強弱、長短、緩急も自在です(変化をつけた方が目的に合いそう)。音楽に合わせるならウィーンフィルのニューイヤーコンサートでよく演奏されるラデツキー行進曲がお勧めというのは冗談ですが。

 これをひと月ほど続けるうち、私はトイレに起きなくなりました。不思議だが本当です。原因は筋トレ以外に考えられません。そこで昨年11月、うなぎを食べながらT君に意見を求めました(うまい具合に彼はお医者さんです)。T君は、「うーん、それもそうだねえ、、」と思慮深そうに答えましたが、にこやかな表情の下に一瞬、驚嘆の色が浮かんだのを私は見逃しませんでした。彼がこの新事実に心を動かされたことは明らかです。これで筋トレはお墨付きを得たと私は思いました。

 見解を聞きたいお医者さんがもう一人いますが、その人は上品で繊細な女性なので私も括約筋の話など気安くできません(T君が下品で粗野だというわけではないけれど)。そこで今のところセカンドオピニオンは得られていませんが、少なくとも私において顕著な効果がありました。似た悩みをお持ちの方には試される価値があるかもしれません。また、トイレの回数を控えるのも手だそうです。膀胱を膨張させるとその柔軟性が多少は回復するのだとか(これも筋トレのようなもの)。もちろんやりすぎはいけません。

 勢いにまかせてあと二つ。
 アヤハディオのトイレに「従業員もトイレを使わせていただきます。なおトイレでのご挨拶は遠慮させていただきます」というプレートが貼ってあるのを私は前から面白く見ていました。内容はもっともです。そんな場で「まいど有難うございます」とは言うのも聞くのもお笑いです。でもそこまでお客に気を使わなければならないのか。アヤハの従業員も平和堂で買い物するときは威張るのでしょうか。私はこうした貼り紙の裏に潜んでいる事情にいつも腹を立てています。

 話は変わって人間ドックを受ける際、「前もって二日分の検体を採取・格納してある緑色の樹脂製の小袋」を提出するのは、私の年齢になっても微かな緊張を伴う行為です。先方は仕事だから平気だとしても、こちらは少し申し訳ないような恥ずかしいような気分で、こんな時に気の利いた言葉の一つも添えたいものだとかねて思っていました。すると1月のドック受検の前日、「つまらないものですが」というセリフが浮かんだのです。うるわしく伝統的な言葉です。これはいいかも。

 相手が冗談の好きな人なら「わーありがとうございます。お昼にみんなで頂きまーす」などと調子をあわせてくれ笑顔のうちにことが運ぶ。しかし人によっては本物の「差し入れ」と勘違いするかもしれない。万一に備えて「たぶんお口に合わないと思います」と釘をさしておいた方が無難か、などと様々な想念が巡ります。しかし空振りに終わりました。一夜あけた病院の受付で係の人は瞬時に「つまらないもの」を回収し、開いている手のひらで待合スペースを示しました。名前を聞かれて答えただけの私は脱力してソファに座りました。

 コースの最後に控えている胃カメラで今年も七転八倒しました。看護師さんはすぐに「ああこの人はあかんな」と思ったのでしょう。ずっと私に声をかけ、背中を優しくさすってくれました。私は涙とよだれにまみれながら心の中で手を合わせました。受付も検査室もプロの仕事は頼りになるものです。とすると、上品で繊細な彼女も括約筋の話などへいちゃらだろうか。これは慎重な検討を要する事項です。次回は身を清めて金時鐘さんの講演会の報告を行います。

<追記>
 記事をアップした後、二人の友人に「あなたのことがブログに書かれているよ」と通報しておきました。Nさんからの返事に「自分は残念ながら上品でも繊細でもない」と前置きがあり(それが上品繊細の証拠なのですが)、「過活動膀胱の原因の一つに骨盤底筋の筋力低下があり、筋トレは理にかなっているようだ」と書かれていました。心強いセカンドオピニオンです。

 T君からは返事なし。というのもつい先日、彼が送ってくれた「肉とすっぽん ~日本ソウルミート紀行~」(平松洋子・文春文庫)についてメールのやりとりをしたばかりです(これは自治体職員OBとしても心惹かれる肉と地域と人々のドラマ)。彼はヒマ人の私より多読で「縄文人」や「暗闇ハイキング」のことまで知っています。無類のエッセイスト伊藤礼(伊藤整の子息)を教えてくれたのも彼です。まあいずれにしてもファーストオピニオンはゲット済みです。





 
 

 





2025/02/02

264)紙について

 子どもの頃に読んだ本の中で「よく分からないけれど不思議に心ひかれる言葉」に出会ったことがある方は多いでしょう。私の場合は、干し草のベッド、山羊のミルク(どちらも「アルプスの少女」)、レモネード、徒競走(同じく「あしながおじさん」)、りんごの圧搾機(「車輪の下」)、浩然の気を養う(「吾輩は猫である」)などが思い出されます。こんな点もアヅマと私は話が合いました。「羊皮紙」もその一つで宝の地図や呪いの呪文が記されているのが常でした。

 子ども時代の興味や疑問はやがて消えてしまうけれど「この人」は違います。十分な大人になってから(就職や結婚を経て)カルチャーセンターのアラビア書道講座に通うこととなり、そこに提出する作品に本物の羊皮紙を使おうと考えました。課題は「コーランの一節をアラビア語で書くこと」でしたが、普通紙の使用が言わずもがなの大前提です。しかし、この人は本物らしさを求めて羊皮紙を選び、それを契機に少年時代の「羊皮紙愛」を復活させます。そして彼の人生は激変しました。

 こうした経緯は彼の著書(八木健治「羊皮紙をめぐる冒険」・本の雑誌社)から引用しています。八木氏は専門店で羊皮紙を買うことに飽き足らず、オランダのウェブサイトで「中世ヨーロッパの羊皮紙づくり」を見つけて実行に移します。北海道の牧場から取り寄せた羊の毛皮を自宅の風呂場で洗い、石灰水に1週間ほど漬けこんで毛を抜き、木枠で引っ張って乾燥させ、ナイフで削り、サンドペーパーでこするという生々しい手作業です。かつて羊皮紙職人の妻に離婚申し出の権利が認められていたのはこの悪臭ゆえだろうと八木氏は書いています。

 前回記事の雨宮氏(縄文人)と同じように八木氏もぶっ飛んだ人です。彼は風呂場で大変な苦労と工夫と失敗を重ね(ドタバタ喜劇の観があります)、ネットオークションで中世の写本を買い集め、海外の皮職人にメール質問をぶつけ、羊皮紙のメッカであるシリアやイスラエルへの視察旅行に出かけます。ハイライトの一つは「死海文書館」の訪問。半世紀近く前、死海のほとりの洞窟で偶然に発見され世界に衝撃を与えた古代ユダヤの死海文書(羊皮紙に手書きされたヘブライ語聖書)を目の当たりにした感激を八木氏は熱く語っています。

 彼は現在、羊皮紙の輸入・販売、羊皮紙写本のコレクション展示、羊皮紙や写本に関する執筆・講演などを中心に活動しています。その本(新刊)の一冊をたまたま私が読んだわけです。ちなみに八木氏はヤギ皮で作った名刺を持ち、相手に「そのまんまですね」と言わせることを秘かな喜びとしているそうです。子ども時代に出会った言葉が、ひょんなことから蘇ってその人の人生に実りをもたらした実例であると私は八木氏について思います。

 ところでアルタミラの壁画に見るように、人類史においては、まず地面や岩肌に「描く」という行為があり、その次に粘土版やパピルスが発明されたという順序でしょう。羊皮紙はパピルスの代用品として中東で発明されたとローマの歴史書にあります。砂漠と遊牧の地域で羊皮紙が生まれ、草木の生い茂る日本で和紙が生まれたという事情は和辻哲郎の「風土」を思い起こさせます。いや紙の発明は漢の蔡倫でしたか。いずれにせよアジアのモンスーン地域です。

 動物の皮にしても水草や樹皮にしても大きさに限度がありますから、そこからできる紙のサイズも一定の大きさを超えられません。聖書のように大きな書物をつくるには大量の紙を繋げるか束ねる必要があります。とすれば本はそもそも「巻物」であったのか、蛇腹のような「折り畳み式」であったのか、片方を綴じた「冊子」であったのか。 興味深い謎です。時代はかなり下るけれど三蔵法師がインドから唐に持ち帰った経典はどのスタイルだったか? 日本に到来した最初の本はどんな形だったか?

 一つの答えが池澤夏樹と秋吉輝雄の対談「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」(前掲)に示されています。秋吉氏によると、最初の聖書(旧約)は、2500年ほど前、イスラエル諸部族に口伝で伝わった物語やリストを広く集め、時代や地域の違いによる矛盾にこだわらず、すべて神の計画を明かす壮大な出来事として編纂された手書きの巻物(スクロール)だったそうです。

 面白いことに聖書に書かれたブライ文字には母音がなく(表音文字なのに珍しい)、説教者が一々母音を補って音声に変えたのだとか(そうでないと意味が伝わらない)。すなわち聖書は本来、黙読ではなく朗誦を前提としていたという話です。長い巻物ゆえ途中を飛ばすことなく、会衆は1年程の時間をかけて「モーセ五書を聞いた」わけです。この「巻物化」により聖書は「朗誦のもつ聖性」を獲得し、今日まで伝えられて来たというのが秋吉氏の指摘です。

 池澤氏が言うには、永続性のあるテクストには、長いヒモのような構造をもつ形式(聖書のような巻物)と、平面に行と列があって文字が記されている表のような形式(帳簿のような冊子)の二つの異なる形式がある。これらは「聖性」と「実用」という文字の起源にも深く関係している。巻物は扱いが不便なため次第に冊子(コデックス)にとって変わられるが、中世になると冊子にページ番号や小見出しがつき、インデックスが付されるようになった。

 つまり、初めは一本のヒモだったものが折り畳まれ、ページに収められて次第にカード化していく。それにつれ人は音読から黙読に移り、読書という行為の中身がすっかり変わった。別に言うと、中世から近世にかけて「祈り的なもの」が帳簿化され、巻物に残っていた朗誦の聖性も失われた。その変化の最終形が「ウィキペディア」だろう。完全に無関係のバラバラの短い文章が標題のアルファベット配列以外の何の秩序もなくそこにある。冊子が「表」にまで解体されてしまった。以上が池澤氏の指摘の概略です。

 言えてるなあと頷きながら長々と引用してしまいました。この本は私にとって昨年の「book of the year」です。巻物(スクロール)が書物の本来の姿であったらしいことは私も納得します。しかし水は低きに、人は便利に流れますから巻物の復活はあり得ません。キリスト教会の説教をネットで覗くと、牧師さんが「ダニエル書1節の6、教会備え付け旧約聖書1379ページ」などと聴衆に案内しています。聞く人はページ手早くめくって該当箇所を見るのですが巻物ではこうは行きません。

 ついでながら霧隠才蔵はたしか忍術の巻物をくわえ両手で印を結んでいました。くわえているのが冊子だったらパロディです。土遁の術は何ページに書いてあったか?なんてよして欲しい。原本が見つかっていない「五輪の書」も巻物であったはずです。

 冊子化は知識の普及に大きく貢献してきましたが、それと同じくらいの程度で人間の思考を深めることは出来ていません(と思います)。音楽好きがよく言うところの「デジタル化により失われるアナログの良さ」にも通じる話です。こうした文明的なギャップ(広さと深さの二律背反)を小さくすることに社会的に取り組むことはできないものかと思わずにいられません。

 冊子もネット記事も知識のつまみ食いにとても便利ですが、私は自分がつまみ食いをしている自覚を持っておこうと思っています。コスパ・タイパが此岸ならスクロールは彼岸です。私は彼岸が慕わしく感じられます。これは年齢のせいか、他の人に共通するものか分かりません。羊皮紙から入り和紙の素晴らしさについて書くつもりでしたが話がどんどんそれました。2月8日に詩人・金時鐘の講演会を聞きに行きますが、次回はそれについて書く予定です。





はないし、冊子はつまみ食いに便利だし、