2025/02/18

265)金時鐘講演会(四・三事件をめぐって)

   2月8日、大阪の東成区民センターで開かれた金時鐘講演会「済州四・三事件犠牲者慰霊祭に思うこと」について書きます。これは、在日コリアンを中心とする大阪の若者ら約30人が、敬慕する先達である96才の詩人を書斎から担ぎ出し、自分たちも一緒にステージに上がって思うまま意見を述べる場でした。かたや孫のような若者に囲まれた詩人は、歴史の証人として、また類のない日本語の表現者として胸に蓄えてきた思いを若者と聴衆に語りかけた場でもありました。参加してよかったと私は思いました。

 済州島でなぜ同族間の大量虐殺が起きたか、40年も過ぎて「慰霊祭」が開始されたのはなぜか、それが日本でも行われる意味は何か等を考える上でも、まず「事件」の経過をふり返っておきます。ちなみに殺された人は政府見解では約3万とされ、研究者は5、6万人と推測しています。罹災者は10万人以上、被害地域は130の集落で島全体の3分の2におよび、親戚や知人を頼って日本(中でも大阪)に逃れた人が4万人ほどと言われます。

 1945年の日本敗戦後、朝鮮半島は38度線を境に米国とソ連に分割占領され、南の沖合に浮かぶ済州島は米軍統治下に入りました。米ソは「朝鮮全土を治める朝鮮人民臨時政府の樹立を認める。ただし5年間は英・中を加えた4大国が信託統治を行う」と合意しました。朝鮮人民は置いてけぼりの火事場泥棒みたいな決定です(ならば日本は放火犯ですが)。この合意はすぐに決裂して暫定的な分割占領が恒久的な南北分断に向かいます。

 1946年、ソ連支配下の北では金日成が「北朝鮮臨時人民委員会」を組織し「民主基地路線」の全土拡大に乗り出しました。すなわち社会主義による南北統一ですから米国や南部の民族主義者には容認できません。1948年、米国は南だけの総選挙の実施を企てますが、これは国土分断の固定化につながります。こうした米ソの思惑、人民勢力の争い、日本統治時代の下請け人(戦後に民族反逆者と指弾された旧軍、警察、右翼ら)の復権の動きが錯綜するなか、人々は「信託統治」と「単独選挙」の踏み絵の前に立たされました。

 信託統治は「解放」を待ちわびた人々の感情を逆なでするものであったはずですが、皮肉にもその間は祖国分断が回避(先のばし)されます。米ソ決裂によりその実現性が薄らいでいるところに単独選挙を行い南政府を作ってしまうと分断が決定的となります。一方で北は、金日成がソ連軍を後ろ盾に土地改革(小作農に土地をあたえる)を行うなど社会主義の国づくりを進めています。南の左派勢力の中に、米国や右派とは協力をせず、北の「民主基地」と呼応して統一をめざす動きが生じたと時鐘さんは指摘しています。

 38度線はかつて日本の関東軍と大本営の区分線であったため米ソの「折り合い線」に採用されました。国土の真ん中に線を引かれた朝鮮の人々には断絶であり、乗り越える希求の対象でもあった38度線。これを東にのばすと海を越えて新潟に達します。金時鐘さんは初期の長編詩集「新潟」の冒頭に「切り立つ緯度の崖よ わが証の錨をたぐれ!」と書きつけました。それはさておき。

 米軍政は統一と自由を求める民衆運動を力づくで押さえ込みます。モグラたたきのように鎮圧をくり返すうち、1947年の三・一記念節に参加した済州島民に警察が発砲して6人が死亡しました(これは日本統治下の1919年3月1日に行われた「三・一独立運動」の記念日。ここにも日本の爪あとが残っています)。これを機に米軍と島の左派勢力の対立が激化し、「赤狩り」に名をかりた警察や右翼による住民への暴力が苛烈をきわめました。

 ついに1948年4月3日、単独選挙に反対する済州島の住民の一部が武装蜂起しました。本土からは国防警備隊が「討伐」に駆けつけ、ついで韓国軍(第九連隊)が加わって村に火を放つ焦土化作戦を展開します。力の差は圧倒的ゆえ「蜂起側」には地の利を生かしたゲリラ作戦しかなかったでしょう。彼らは「山部隊」と称し、島の中央にそびえる漢拏山を本拠地として抵抗を続けました。ベトナム戦争を想起します。

 「討伐」は朝鮮戦争をまたいで6年にわたって続けられ、1954年、漢拏山の禁足令解除をもって終わりましたが、この間に多くの住民が文字どおり惨殺されました。討伐隊には誰が敵か判別しにくかったろうし、島じゅうが血縁と地縁で結ばれています。拷問、凌辱、なぶり殺し、公開処刑もありました。殺された人の9割は軍、警察、右翼によるものとされていますが、ゲリラ側による残虐行為もあったことが分かっています。

 金時鐘さんがじかに目撃した討伐隊の行為は、たとえば数人の手首を針金でつないで海につき落とす(つながれたまま岸辺に打ちあげられる)、首を括ってずらりと吊り下げておく(胴体は腐って落下し、宙づりの頭部の眼窩に尻尾の長いウジがわく)、耳や鼻をそぐ、腹をさく(時鐘さんの知る人は腸を引きずったまま生垣まで走った)、銃撃された人の脳が目の前のガラス戸に飛び散った(次に時鐘さんも撃たれるところだった)等々です。講演の内容や私が過去に伺った話をあえて記しました。

 これほどの殺りくを李承晩は「共産暴動」の鎮圧であったとして省みず、島民も多くを語らなかったので(生存者ゆえの罪悪感もあったでしょう)、四・三事件は長く闇の中に置かれました。民主化が進んだ1990年ごろから世間の関心が高まり、2003年には盧武鉉大統領が国家権力の誤りであったと公式に謝罪しました。ついで文在寅大統領も真相解明と犠牲者の名誉回復は後退させないと決意をのべました。こうした流れで韓国「慰霊祭」が行われ、いまは日本でも開催されています。

 済州島にルーツをもつ金石範は、四・三事件の場にいあわせなかったことの無念さを創作のバネとしてこの事件について書き続けてきました。南朝鮮労働党の一員としてこの蜂起に直接かかわった金時鐘(当時19才)は命からがら日本に逃れ、詩人として名を成してからも事件を語りませんでした。もちろん二人には長年の交流があって、1996年、時鐘さんは四・三慰霊祭の場ではじめて自身の体験を語りました。2001年には二人の対談が本になりました。書名は「金石範 なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか 金時鐘」・平凡社。今回の記事を書くにあたり主としてこの本を参考にしました。

 さて、講演会で時鐘さんは、何をもって「犠牲者」とするのか、「慰霊」とはどういうことかと問いかけ、さらには自分が日本にいだく愛と憎しみの感情や日本人について思うことを明瞭に述べました。公の場でここまで踏み込んだ発言をされるのは知るかぎり初めてです。ああ、これは若い人々に向けておっしゃっているなと私は思いました。ここからいよいよ本題ですが長くなりすぎたので区切りを入れます。後編はこれから考えますが、ぜひ両方ともお読みいただきたく思います。






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