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2025/06/21

279)老人と山

 久しぶりに桐生の話題です。ここは私たちの庭でした(何度も恐縮です)。もう20年ほど前、山の斜面を横切っていくイノシシの親子に出会いました。ママが先頭、よちよち歩きの子どもが数匹の一列縦隊で、時おりピタリと立ち止まって周囲の様子をうかがいます。歩いたり止まったりをくり返し、舞台で見得を切る役者のように上手から下手に消えました。私たちは笑いをこらえながら小さな谷をはさんでその一部始終を見届けました。

 ああ、あれはどこであったか。およその見当はつくけれど木々がずいぶん成長して景色が変わり、記憶も薄れつつあるので、それらしき三つの地点から一つに絞ることができません。ここしばらく、その道を通るたびに、あれはここだったっけ、いやあこっちかな、やっぱりわからんねえとアヅマと会話します。人から見れば独り言をいいながら歩く少しおかしな老人です。

 遊歩道の奥に林野庁がたてた大きな丸木柱のモニュメントがあり「治山の森」と大書されています。これをアヅマは「治の森」と読んで笑っていました。昨今のこと、そのモニュメントに歩みよると、手前に張り出した紅葉の枝先が「山」の一文字を隠してアヅマの読み方どおりに見える絶妙ポイントがあると気づきました。モニュメントの下まで行き、丸木柱の根元をぽんと叩いて挨拶をおくることが習いとなりました。

 6月に入ってアブやハエがうるさいのです。また山ふかくのシダの生い茂る日陰には薄茶色の蛾が無数に潜んでいます。そこを通ると前後左右から湧きあがって私の周囲を無音で飛び回るのです。まるで慕うように取り囲んできます。鱗粉を吸いそうなので足早に通りすぎますがしばらく追われます。毎回きまってそうです。

 たしかファーブル昆虫記に、かごの中で飼われている一匹の蛾が森の奥の仲間の存在を感知してばたばた騒ぐという記述がありました。繁殖期におけるフェロモンの作用だと書かれていたように記憶しますが(不確か)、私の体から類似物質が出ているかと思うほどです。蝶にかこまれて微笑む少女なら絵になりますが、ときおり独り言ちて蛾の群れの中を急ぐ老人はいただけません。直言トークのO君なら「そら気色わるいで!」と言うでしょう。

 さて先日、駐車場までもどったところで保育園児の一団に会いました。お揃いの帽子をかぶって20人ほどがお散歩中、彼らにはよく出会うのです。地元のお寺が運営する桐生の保育園は、園庭が広い、プールも大きい、駐車場も広大、スピーカーは大音量、お花見も川遊びもし放題といいことづくめで、園児たちのごあいさつもバッチリです。おはようございます、こんにちは、と使い分けて叫んでくれます。こちらも笑顔で挨拶を返します。

 この日もひとしきり挨拶を交わし合ったところで最後尾の男の子から「おじいちゃん」と呼ばれました。「はあい」と答えてすれ違いましたが、待てよ。私の服装は長袖シャツ、長ズボン、帽子、メガネ、軽登山靴で露出が少なく、すたすた歩くので一見して年齢不詳のはずです。現に「であい広場」でブルドッグを連れていたおじさんは「ホラお兄ちゃん(私のこと)に撫でてもらい」と寝そべる犬に言ったほどです。でも保育園児は私の顔のしわを見て瞬時に識別したのでしょう。おそるべし幼児の目。

 帰宅途中に栗東の平和堂でストロングチューハイを買いました。この店で酒類を買うといつもレジで「年齢確認おねがいします」と言われます。私も「20歳以上ですか・はい・いいえ」という画面に機械的にタッチするのですが、この日ばかりは、見りゃ分かるだろ、これが未成年の顔か?と言いたくなりました。いやほんまに。

 今回の標題は「老人と山」としました。ヘミングウェイをもじるとは不届き千万とお怒りの声が聞こえそうです。名作「老人と海」が世に出た1952年はサンフランシスコ条約発効の年で、その6月21日(本日)が私の誕生日です。「成人」となって53年たちます。いやはや。

 ところで先日の記事(ほんとうの会議)でオープン・ダイアローグ(OD)とネガティブ・ケイパビリティ(NC)について書きました。私はこれらの考え方(手法)に深く感銘を受けたのですが、友人はいったいどう思うか聞いてみました。私自身の勉強のため少し紹介させてください。

 Nさんいわく。OD、NCともエッセンスはシンプルだ。大切なことは昔も今も、どんな場面においても共通しているが時代や領域によって実践が難しい。とくにわが国では「名前」(それもカタカナ言葉)がつかないと注目されにくい。ODは発祥の地であるフィンランドにおいて精神科の長期入院や多剤処方(薬漬け)に一大変革をもたらした。日本ではまだまだであるが、精神科医の斎藤環氏などがその価値を積極的に発信している。

 NCをめぐる状況もよくはない。ネット検索ですぐに解決、うまくいかないとすぐにリセット、タイパ重視で即決が当然という環境で生まれ育つ若い人々には、「答えのない曖昧さに耐える力」が育まれにくい。私(Nさん)は、講演や相談の機会に親世代に対し「子どもに試行錯誤する経験を保証しましょう」と伝えている。ダイアローグについても、会話と対話が異なることを指摘した上で対話の大切さを強調している。(以上がNさんのコメント。斎藤環氏の名前がでて成程そうかと思いました。この人については過去の記事もご覧ください)

 T君いわく。うん、それもそうだが、金銭バラマキや減税を「物価高対策」と表現する与野党には心底落胆している。どう思う? 日本の物価は先進国レベルでは明らかに安い。もし一流国(?)への到達を求めるなら、目指すべき目標として 5キロ5,000円 のコメを普通に買える賃金上昇への施策こそ必要ではないか。

 農業政策等の不備あってのコメ価格上昇に拘泥して問題を矮小化することなく、今や力ずくの競争社会である世界に大きく後れを取った昨今の過程や現状をどう考えどう対応するのか。この国を構成している人々の今後の選択に私は安心できない。(以上がT君のコメント)

 バラマキについては私も怒っています。あまりに露骨な選挙対策です。「あんたらどうせあほや」と私たちは言われているようなものです。2万円はトヨタの会長にも麻生太郎にも渡るのでしょう。税収が上振れしたならば今後は下振れの可能性もあるはず。いっそそのまま残したほうがマシです。トランプとの関税交渉にしても選挙にらみの説明に終始しているものと想像します(用心深く行われている隠蔽、弥縫、変形、作話、言い換え、小出し等々)。

 T君に引っ張られ脱線しました。ネガティブ・ケイパビリティ等についてはNさんの指摘どおり今日的な重要な課題であると思うので改めて書きたいと思います。そもそも人間存在そのものが「答えのない宙ぶらりん」ではありませんか。カウンセラーで真宗のお寺の住職でもあるI君からたっぷり見解を聞きました。その質・量とも私にヘビーであったので再読のうえ記事にする予定です(このところ友人に頼りっぱなしです)。









2025/06/13

278)兵庫県はあかんたれ(?!)

 また梅雨がやって来ました。どこにも豪雨被害が出ないことを祈ります。豊かだけれど湿潤な東アジアモンスーン気候です。西洋にジューンブライドなる美しい言葉があるのは、かの地に梅雨がないことと関係しているでしょう。アヅマも私も同じ年の6月生まれですがこの時期ばかりは「西洋いいじゃないか」と思います。アヤハディオで「お花・苗木2割引き」のプレゼント券をもらいブルーサルビアを買いました。しばらく室内で楽しんで庭におろします。

 バンダナ教授・上脇博之氏が兵庫県知事らを刑事告発したので「桐生あれこれ」を延期します。告発は誰でもできることといえ、私なら目立つことのリスクや慣れない手間ひまを思うだけで気が萎えます。思い切って清水の舞台から飛びおりても一市民の告発などスルーされるかも知れません。というわけで私は上脇氏に心から敬意と謝意を表します。同氏については記事262・裏金講演会をご参照下さい。

 おさらいですが第三者委員会は、「知事らはパソコン内の元県民局長の私的情報をつかんだ」、「元総務部長はそれを議会筋に流せば内部通報の信用性が薄れると考えた」、「知事も同じ考えで元総務部長に根回しを指示した」、「ついで副知事も同じ指示を出した」、「そこで元総務部長は複数の議員に情報を伝えた」と認定し、知事一人が関与を否定しています。

 以下は私見です。元県民局長が公用パソコンで私的文書を作成したのは目的外使用であり、それが執務時間内に行われていたなら「職務専念義務」の違反です。本来なら知事はこの点を本人に確認し注意するべきでした(懲戒マターではありません)。しかし知事はこれを飛ばして保身に走りました。議会への「根回し」の後も当該情報について「わいせつな内容であった」との見解を公けにしました。

 第一に、知事が指示したのは間違いないでしょう。知事部局と県議会は、県民の幸いをめざすという高い目標で一致しますが、仕組み上は完全な別組織であり、またそうでなくては双方の職責が果たせません。もし両者が「なあなあ」、「ずぶずぶ」の関係にあっても、一職員が独断で知事サイドの重要情報をもらすことはありえません(根回しが成功するかどうかもその時点で不明だったはず)。これは公務員の常識だし部外者にも頷ける話でしょう。

 しかるに斎藤氏は「自分は指示したという認識はない」と言い続けています。彼がいちいち「認識」の言葉を使うのは、本件を事実でなく認識の問題にすり替えることが目的で、バレた時への備えです。彼は元官僚ですが、官僚という人種が自己保身のためにいかに驚くべき知恵を発揮するか、私は市役所時代の見聞により嫌というほど知っています。これは知事主導の組織犯罪(守秘義務違反)です。

 第二に議会のだらしなさに落胆します。上述のとおり知事を糺すのは議会の役目ですが、兵庫県議会はSNS世論にたじろいで責任を放棄しています。事態収束を図ろうとする知事の給与削減提案は何とか継続審議としましたが、姑息な時間かせぎをすることなく知事に辞職勧告を行うべきです。その際に議会全会派の総意として「SNSなどによる言論の暴力を断固として許さない」とのコメントを出すべきです。

 あきれたことに県は県で、内部情報が漏れたことについて容疑者不詳のまま刑事告発を行っています。知事らが内部通報者(元県民局長)を探し出した経過が週刊文春に漏れたことと、元県民局長のパソコンの中身がSNSで拡散されたことが許しがたいというわけです。しかし一つ目(情報漏洩)は、それ自体が「公益通報」です。二つ目(情報拡散)は、維新からNHK党にくら替えした二人の「恥知らず県議」の仕業であったはず。県の告発は斎藤知事の目くらまし戦法でしょう。

 ここまで書いたところで斎藤元彦に厳しくビワマスに優しいO君からメールが来ました。私が「おい今回の件どう思う?」と聞いたので、いつものべらんめえ口調で(しかし丁寧に)答えてくれました。彼の了解を得てその返事をのせます。どうみてもこれがメインディッシュです。

<O君のメール>
 ~ 斎藤元彦の悪徳性はとっくにもう確定済みやんか。あいつがどう悪いかはいろんな人がちゃんとしたこと言うてはる。俺がいまいちばん考えたいのは、なんで兵庫県はあんなにあかんたれやねん?ということ。
 
 82人の弁護士さんが違法と考えてはるわけで、それだけでめっちゃ違法やてわかるやんか。
そこまでの出来事、ほんまは自浄作用で乗り越えなあかんのに、情けない話や。上脇先生のおかげで県議会は楽できたやろと思うわ。むしろ地方自治体ってそんな程度の正義感か?と俺が茂呂から教わりたいくらいやで。
 
 ベランダ越しに、いや越しはあかんな、ベランダの向こうにしとこ。近所の屋根やら道路やら見てるわけや。雨は降っとるけど穏やかで安心できる光景や。理不尽発生を予測しようもない景色で、なんの心配もない。兵庫県のことがあって以来、この安心感は市政のおかげやと思い始めてん。草津市が法令遵守で公正に仕事してくれてるちゅうこと、べつにわざわざ思わんでも思うてるやんか。法が法の通りに実現されてこそのもんやで。法を法の通りに実現するのが行政の役割やと思うねん。
 
 県議の内心は多かれ少なかれ斎藤元彦かもしれへん。職員の内心は多かれ少なかれ井ノ本千明(元総務部長)かもしれへん。そやし、元県民局長とか竹内県議とか、真っ直ぐな人の知事批判が命と引き換えにならざるを得んかった。そういう気がするわ。けど、兵庫県だけやないやろ。現に大津市がそうやったわけで、真っ直ぐな人は天職を捨てて戦わざるを得んかった。

 会社でもそうやった。支店長と所長が手を組んで伝票操作をして、実際以上の営業成績を作っとった。そんなん絶対にあかんと俺が言うたら、一発アウト。めっちゃイジメられたで。的確な叱責もあったけど。
 
 これな、言うたら叩かれるかもしれへんけど、兵庫県の場合、阪神淡路大震災の復興と無関係やろか? 道徳の尊重とともに結実した復興もあれば、道徳の乱れとともに実現した復興もあった、と思う。きれいごとだけでは復興が進まへんたやろし、大きなお金が動き続けたやろし、誰がどれだけ得できるかの競争もあったと思う。

 あっちを立てればこっちが立たずで、職員や県議は何が最善かわからんままに、理念をだいじにしながら仕事する余裕がなかったと思うわ。これが30年間続いて来た。どう言うたらええのか、花より団子というのか、マキャベリズムというのか、黒いネコでも白いネコでも鼠を捕るネコがいちばんええネコの処世訓が広がっていったかもしれへんなと思うねん。これが斎藤元彦誕生の胎教やったかもしれへんし、斎藤元彦続投の生育環境かもしれへんなあ。あんまりまとまりのない話やけど俺はこう思うなあ。~

 以上がO君のメールです。市役所OBの私にも耳の痛い話です。一見して草津市職員にマルが、兵庫県職員にバツがついているようですが、注意深く読むと、彼が両者を等分に眺めていることは明らかです。私は、公務員の「隠れた労苦」にも思いをはせようとするO君の親身なマナザシを感じます。阪神淡路大震災における公務員の殉職(警察、消防に限らず)も踏まえてのことでしょう。

 それにしても「ベランダ越し」には思わず苦笑しました。ギャンブル症者のミーティングにならって聞きっぱなしで終ります。





 

 
 


 
 
 

 

 

2025/06/09

277)「ほんとうの会議」その2

 李在明氏が大統領になりました。「日本は敵性国家だ」と述べた人ゆえ日韓関係の悪化を心配する人もいますが、それは二の次の問題です。韓国の有権者の8割が投票し、前大統領の発した戒厳令を強く批判した李氏が当選したという事実が重要であり、隣国のことながら良かったと私は思います。同氏は高潔な印象がなく刑事被告にもなっていますがトランプよりましでしょう。

 「敵性国家」発言について思うには、日本は、敗戦という「歴史の事実」と、昭和天皇の戦争責任を不問にした「国民の態度」によって、被侵略国から無期限で苦情を言われる可能性があります。こちらが済んだ話にしたくても先方は忘れません。これに反発することが愛国の心情であると勘違いする人が少なくないけれど、こうした「事実」と「態度」があったことを心にとめおき、現在の友好関係の構築に努めることが国益にかなうと思います。

 今回の韓国の選挙で若い女性が「革新」支持、若い男性が「保守」支持とくっきり分かれました。専門家が驚くほどですから私に分かるはずがありませんが、政策レベルの問題ではない気がします。足を踏まれてきた側に溜まった集団的記憶のフタが戒厳令によって持ち上げられ、若い女性世代に噴出したような印象です。若い男よしっかりせよと思います。とうの昔に「私は女性にしか期待しない」と松田道雄(「育児の百科」のお医者さま)が喝破していますけれど。
 
 さて今回のテーマは前回の続きです。「ほんとうの会議」の著者である帚木蓬生は、ギャンブル症者の自助グループによる「言いっぱなし、聞きっぱなし」のミーティングこそ本当の会議であると言いました。これに対し「それも分かるが世の中には『商品開発』や『不祥事対策』などさまざまな会議がある。全部を一律に論じられない」という意見も出るでしょう。もっともな話ですが著者はこの差異を説明していません。

 そこで私見ですが、会社や役所で行われている一般的な会議は「組織の課題や目標について参加者が知恵を出し合うこと」が目的であり(伝達だけの会議も多いけれど)、自助グループの会議は「参加者個人の回復」が目的であって、そもそも出発点が違います。両者を「公的な会議」と「私的な会議」に分けてもよいでしょう。スタイルも「きっちり」対「ゆるゆる」です。水と油です。

 しかし問題の次元を繰り上げてみるとどうでしょうか。一般の会議はその母体である組織(会社や役所)の維持・発展をより高次の目標としており、ギャンブル症者の会議もまた参加者一人ひとりの回復を支える唯一の場である組織(自助グループ)の維持・発展を目ざしているはずです。ともに組織が衰退・消滅したら会議も参加者もあったものではありません。この点で両者は共通しています。

 こう考えると「会議はどれだけ参加者を成長させうるか」という問いが立てられます。何といっても人あっての組織です。この尺度ではかるとどちらが「ほんとうの会議」であるか自明でしょう。帚木蓬生が言いたいのは第一にこれだろうと思います。SNSの隆盛で相手をやりこめる議論に拍手する人が多いけれど、この世はしょせん寄り合い所帯ですから議論や対話は「共なる成熟」を頭の隅に置いて行われるべきだと思うのです。

 以上は私の感想ですが、帚木蓬生は精神科医として次のように指摘しています。すなわち、ギャンブラーズ・アノニマスの自助グループ会議は「オープン・ダイアローグ」の一種であるというのです(開かれた対話とでもいうのでしょうか)。彼によるとこれは1980年代にフィンランドの無医地区で始められた精神医療の取組みであり、「SOSが入ったら直ちに看護師、臨床心理士、ソーシャルワーカーなどが患者・家族の自宅に駆けつけてひたすら話を聞く」というものです。

 当時この地域は失業率が高く、精神の不調を訴える人が多いのに専門病院がないことが大きな課題でした。しかし、投薬や入院などは後回しにして「とにかく話を聞くだけ」で大きな効果が現れ、これに行政が着目してシステム化が図られました。患者・家族の話を聞く、時間は決めない、強制はしない、医療スタッフは二人以上が関わり個人として意見を言う、医師が加わる場合も診断を下さず参加者の一人として発言するというルールです。

 スタッフの身になるとしんどい気もするし、ある意味で専門性の棚上げなのですが、こうした取組みは1995年以降に「オープン・ダイアローグ」と命名され、いまでは教育や就労の場にも応用されているのだそうです。オープン・ダイアローグは参加者全員の発言(多声性:ポリフォニー)によるミーティングであり、どの発言も平等に扱われる場であって、自助グループの会議もこれだと帚木蓬生は言います。

 今ではオープン・ダイアローグは7本の柱に整理され、「今すぐの援助」、「社会とのネットワーク構築」、「柔軟な対応と流動性」、「チーム全体で責任をもつ」、「心の流れを断ち切らない」、「あくまで対話が中心」、「ネガティブ・ケイパビリティの視点」が重要であるとされています。このうち最後の項目に著者は注意を促しています。

 カタカナばかり続きますが「ネガティブ・ケイパビリティ」は英国の詩人キーツが初めて用いた概念で「不確実さや神秘さ、疑いの中に、事実や理屈に早急に頼ることなく居続けられる能力」のことであり、20世紀になって精神分析家のW・ビオンがこれに注目し、深化させたことにより医療をこえて一般的に広まったと著者は説明しています。

 帚木蓬生は、「何の結論もないけれど何やら心地よい会議に参加している自助グループのメンバー全員がネガティブ・ケイパビリティを発揮している、知らず知らずのうちに答えのない事態に耐える力を高めている」と指摘しています。さらに彼は「評価を行わないこと」の意義や「答えは質問の不幸である」という言葉にふれて論を進めていきますが、ここでは追いきれません。

 以上が帚木蓬生著「ほんとうの会議」の要約と読後感です。この本の値打ちの十分の一も書けませんでした、ああ残念。私は仕事の関係で何人もの精神科医と親しくなり内輪話も聞かせてもらいました。そして、メンタルヘルスの領域では「対話こそツール」であると理解していましたが、この本に示された対話はツールの域をはるかに超えています。

 前記のW・ビオンは弟子たちに「精神分析の理論、知見は邪魔になる。患者をこう治したいという欲望を捨てるべきだ。答えのない世界で徒手空拳で患者と向き合いなさい。対話を通して見えてくる世界があるはずだ」と指導したそうです。常識的には「治療の初期の段階における患者と治療者の相互理解を深め信頼関係を醸成するための手段」と解されますが、それにとどまらない話です。帚木蓬生は、「人の薬は人である」という言葉も引いています。

 私は後学のため、といっても先は短いけれど「ネガティブ・ケイパビリティで生きる」という本を読みました(谷川嘉浩ら哲学者3人の著作・さくら舎)。高度な統治、圧倒的な企業パワー、無法なネット空間が共存している現代社会に人間味のある視点を提示しています。小見出しのいくつかを書くと雰囲気が伝わるでしょうか。「陰謀論」、「SNSの告発」、「一問一答の習慣」、「業界人にならない」、「共感の時代と共感の危険性」、「アルゴリズム民主主義の落とし穴」等々。これも一読に値する本です。

 「平安の祈り」について書き忘れました。「神様、私にお与えください。自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。変えられるものは変えていく勇気を。そして二つのものを見わける賢さを」という短い祈りです。ギャンブラーズ・アノニマスは米国発祥でキリスト教の影響を深く受けており、「神と対峙する卑小な私」という認識が治癒プログラムの随所に現れています。それが「自助」の原動力となっていることは私にも想像がつきます。

 では日本のギャンブル症者はどうか、無神論者はどうかという話になりますが、「平安の祈り」に示された理知的で謙虚な態度は普遍性を有しています。そこで呼びかけられる「神様」は日本古来の神にも仏にも置き替え可能でしょうし、浄土真宗の他力本願(念仏によってのみ救われる)の思想とも相性がいいでしょう。現に日本でギャンブラーズ・アノニマスが定着していることが何よりの証拠です。

 友人I君はカウンセリングの資格をもつ真宗の住職ですから一度意見を聞かなければなりません。T君とNさんはそれぞれ総合内科と児童精神科が専門であったし(たぶん)、先日久しぶりに電話で話したSさんは「越時代」に苦労を共にした戦友でかつ教育の専門家ですから、「ほんとうの会議」についてこれらの人々の意見を聞いてみたいところです。

 前回記事を見たRさんから、大谷選手の通訳を思い出したとメールをもらいました。私も水原一平氏のことが頭にありました。彼はサラリーマンの生涯賃金の何十人分かを盗んでつかまりました。今はおそらく本場のギャンブラーズ・アノニマス(GA)に入っているでしょう。しかし罪は消えません。大谷選手のとるべき態度について私は考えます。

 まず大谷氏は、安易に水原氏を許してはなりません。できる範囲でよいから一生かけて償いを続けるよう弁護士同席の上で伝えるべきです。水原氏が20数億円を返すには宝くじを買わない限り(それはあきまへん)数百年かかるでしょうから、いま完済を論じてもしかたありません。そして大谷氏は別途、アメリカのギャンブラーズ・アノニマス(GA)に寄付をするのです。10億円ほどがよいでしょう。

 勝手ながらその際の大谷選手のコメントを用意しました。
~  今回の出来事で私はギャンブル症が病気であることを学びました。これは決してミスターミズハラの免罪を意味するものではありません。犯罪は犯罪として扱われるべきあり、彼は自らの罪と向かい合わなければなりません。しかし私の国には「罪を憎んで人憎まず」という格言があります。私は彼を憎んでおらず、その病気の回復を願っています。そして同じ病気と闘っておられる多くのアメリカの友人の皆さまにも心からのエールを送ります。私のささやかな気持ちがギャンブラーズ・アノニマスの活動のお役に立つなら、こんな大きな幸いはありません。~(ショウヘイオオタニ)

 次回は久しぶりに桐生の話を書きたいと思います。






 
 

2025/06/03

276)「ほんとうの会議」

 「ほんとうの会議」は本の名前です。世の中の会議は全部ニセモノだと言わんばかり。実際、本の帯に次のとおりの言葉が並んでいます。~ 討論なし。批判なし。結論なし。「言いっ放し、聞きっ放し」の会議が、なぜこれほど人生を豊かにするのか? 私たちが囚われている「不毛な会議」観を根底からひっくり返す! ~ 

 ジュンク堂でこの本を見つけ、新書版ゆえ断捨離を気にせず買いました。著者は帚木蓬生、講談社現代新書、2025年3月刊です。多くの人と同じく私は何百回、何千回と会議に参加したし、ふりかえって思うところは色々あります(もう会議はないけれど)。この本を一読し、再読して、ううん、そうかあと教えられたことを書きます。

 帚木蓬生(ははきぎほうせい)は作家ですが、経験豊富な精神科医でもあると知りませんでした(現在は福岡でメンタルクリニックを開業)。彼は長年ギャンブル症の治療にもあたり当事者による自助グループのミーティングに関わっているうちに、「ほんとうの会議とはこれだ」と気づきました。まずギャンブル症とはどんなものか、著者はおよそ以下のように語っています。

 ~ ギャンブル症は、なるのはいとも簡単、そこからの回復はとても困難な病気である。患者は例外なく、自分の病気が見えない、人の助言を聞かない、自分の考えを言わないの三ザル状態であり、さらに自分だけ、金だけ、今だけよければいいという三だけ主義になっている。だから犯罪がつきもので、妻の財布から札をぬく、子どもの貯金を盗む、家財を売るは序の口で同僚からの借金、職場での横領、詐欺、闇バイトでの強盗などに手を染める。

 もっとも顕著な症状は、嘘と借金で、お金を手に入れるために朝から晩まで嘘をつく。嘘八百どころか八千、八万、いや八十万で、本人にも嘘と事実の境目があやふやになっている。また妄想じみた思考が特徴的で、「手元の1万円を賭ければ10万円、20万円になる」と思う。また「ギャンブルでこしらえた借金はギャンブルで勝って返さなければならない」と考える。これがギャンブル脳である。

 アルコールや薬物の過剰摂取によっても脳は変質するが、ギャンブル行為の反復によって意思決定や報酬に関する脳の回路(ドーパミン性の放射経路)が変質する「ギャンブル脳」の方が脳へのダメージが大きい。特定の経路が蓄積し固定すると元に戻らない。ピクルスはきゅうりに戻らないと表現する脳科学者もいる。要するにギャンブル症は治ることはない。治療によって回復(改善)が望めるだけである。

 現在ではうつ病、統合失調症、認知症、パニック症、不安症など多くの疾患に対して有効な薬があるがギャンブル症の薬はない。できるとしたらカウンセリング(認知行動療法や森田療法)くらいだが、三ザル・三だけ主義のギャンブル症者は受けつけようとしない。そもそもギャンブル症者には家族が何百回も説得を試みており、私(筆者)が知るかぎりこの説得が成功した例は一つもない。

 熟練した精神療法家の働きかけも効果がない。要するに聞く耳を持っていないので何を言っても無駄である。そうしたお手上げ状態の中で唯一ギャンブル症者を救うことができるのが自助グループである。自助グループのミーティングこそギャンブル症者をギャンブル地獄から救い上げるクモの糸である。~

 いったん引用を中断します。ギャンブル症がとても厄介で治りにくい病気であるという事実が「ほんとうの会議」の有効性を裏書きしているようなものですから長く引用しました。肝心の中身はこれからなのですが、この調子では先が見えないので以下はポイントのみ記します。

~・代表的な自助グループは米国発祥の「ギャンブラーズ・アノニマス(GA)」であり、いま日本では230のグループが活動している(厚労省調査によるとギャンブル症の有病者数は全国で196万人)。医療従事者の中には「素人が集まってガヤガヤ語り合って何ができるのか?」と考える人も少なくないが、実際に見学すると誰もが目からウロコである。

・GAのミーティングはふつう週に何度か開かれる(多いところは週6回)。著者の患者には、ギャンブルを「やめ始めて」から毎日どこかのミーティングに出ている人もいる(そうでないとボートやパチスロに行ってしまう)。ギャンブル症者を入院させている病院では3か月の入院中に毎日ミーティングを開いている。

・机はロの字型に並べ、和室なら円く坐って上座も下座もなし。ミーティングは1時間から2時間までで進行役は回り持ち。順番に自己紹介するが各自が「アノニマス・ネーム」を名乗る。それにより属性が消えみんな対等になる。

・まずテキストの読み合わせを行う。テキストは「GAの成り立ちと歩み」、「回復のためのプログラム」(12のステップからなる)、「20の質問」(ギャンブル症の判定項目でもある)、「新しいメンバーへの提案」(該当者がいる場合)の4つである。

・ついで「回復のためのプログラム」からその日のテーマを選んでみんなで体験談を語り合う。例えばステップ1ではギャンブルに対する自己の無力性、同2は自己を超えた大きな力の存在、同3は自己の生き方を大きな力にゆだねる決心、というように認識の段階が示される。それぞれにいくつかの話し合いの項目(視点)が例示されており、参加者は自分の選んだ項目に関して思ったことや体験談を語る。

・発言(3分~5分程度)が終わると全員が拍手し、次の人が自分の選んだ項目について発言する。その際に決して他の人の発言に言及しないルールになっている。あくまで「自分はこう思う。こうしている。こんなことがあった」と語る。

・一巡すると進行役は「まとめ」や「むすび」の言葉を言わず、次回の日時を確認し、進行役の希望者をつのる。手が上がらなければ指名して閉会となる。閉会のまえに全員で「平安の祈り」を読み上げる(たいていの人は暗唱する)。その祈りは次の通りである。

・「平安の祈り」
神さま、私にお与えください。
自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを。
変えられるものは変えていく勇気を。
そして二つのものを見分ける賢さを。

・こうした言いっぱなし、聞きっぱなしの会議がギャンブル症者の「三ザル状態」、「三だけ主義」を跡かたなく消し去る。他人の話は身につまされることばかりである。軽症者の話は自分の過去を、重症者の話は自分の未来を思わせる。やっぱり自分は病気だと納得する。一方で横領で刑務所に入った人が今はギャンブルをやめて10年たつ等の例も耳にする。

・発言しなくても拍手をもらい、何を言っても批判されない経験をするうちに貝のようだった人に発言しようという気持ちが芽ばえる。うそをつく必要がないので本音を語るようになり、本音トークが快いと知る。やがて他のグループから依頼されてスピーチに行くような人も出てくる。

・ミーティングは「今だけ」でなくずっと継続することが前提となっている。自分以外のメンバーは「断ギャンブル」に向かってともに進む仲間であると意識される。かつて自分が周囲から浮いていた分だけこの意識は強まる。またGAに加わった時、すでに金銭管理は親族に任せているので「金さえあれば」という状況と縁が切れている。

・GAの全国大会の際に著者(帚木蓬生)が「あなたにとって自助グループとは何か?」というアンケートを行ったところ「心の家族」、「孤独からの脱出」、「仲間の力」などの答えが最多であり、次が「自分の性格の欠点の確認」、「自分をふりかえる場所」、「生き方を見つめ直す場所」などであった。

・その他には「人間回復の場」、「自分が真実の姿でいられる場」、「自己肯定の場」、「永遠のワクチン」、「予防自覚薬」、「自分の体の一部」などの答えがあった。こうした感想が出てくる会議など例が少ないのではないか。また自助グループが掲げる最終目標は単にギャンブルをやめることではなく「思いやり」、「寛容」、「正直」、「謙虚」という徳目である。このことに私(著者)は感銘を受けている。~

 「ほんとうの会議」の第1章の要旨は以上のとおりです。えらい分量になってしまいました。著者がさらに言いたかった「ネガティブ・ケイパビリティ」や、私自身の感想については次回に書くこととします。ご覧のとおり「読みっぱなし」ですが、それもアリだと思わせる本でした。